鏡の揺らぎの共犯者 09 |第八章 新たな共犯者

第八章 新たな共犯者
あなたは、誰かの夢を、
ことばひとつで閉じてしまったことがありますか。
720万円。
その数字を、私はしばらく眺めていた。
30万円だった年末の店販が
100万円になり
300万円になり
630万円を越え
とうとう、ここまで来た。
夕方の光が、 窓から斜めに差し込んでいた。
スタッフが、黙々と片付けをしていた。
誰も、何も、言わなかった。
ほうきの音だけが、 床を滑っていた。
その静けさが、 天井のように見えた。
閉店後、 コーヒーを二つ
カウンターに並べた。
今日も、来てくれた。
その人は、 シャンプーの価値を
私たちに教えてくれた人だった。
「何のために、やるんですか」
取り扱いを決めた日
そう問いかけてくれた人だった。
来るたびに、 商品の話より先に
スタッフの顔を見てくれた。
お客様の反応を
隣で一緒に聞いてくれた。
その人が、ある日、言った。
「ここまで来たんだから、もっと行けますよ」
私は、カップを両手で包んだまま
しばらく顔を上げられなかった。
それから、短く答えた。
「もう、十分です」
言い終えた瞬間
ふたりの間の空気が、
そっと変わった気がした。
その人が、少しだけ目を伏せた。
何かを、飲み込んだように見えた。
カップの温度だけが、手のひらに残っていた。
その夜、 子どもの頭を撫でながら
手が止まった。
伏せた、あの目。
どこかで、見たことがあった。
しばらくして、思い出した。
——もう、ついていけません。
以前、そう言われた時
あのスタッフも、目を伏せていた。
あの瞬間だった。
私はまた、誰かの目を伏せさせて
しまったのかも知れない。
それからも、 その人は何度も店に来てくれた。
ある日、帰り際に、 駐車場まで一緒に歩いた。
街灯が、 アスファルトに伸びていた。
少し間があった。
そしてこう、話してくれた。
「このお店で、一緒に夢を叶えたいです。
おこがましいのですが、私も一緒に見たいんです」
声が、少し、語尾で溶けていた。
車に乗り込む前に、 その人は、そう言った。
笑っていた。
でも、目は笑っていなかった。
夜風が、少し冷たかった。
私は、その背中を見送りながら、
はじめて気がついた。
この人には、
この人の夢があった。
うちの店は、
その人にとっても、まだ見たい景色だった。
「もう、十分です」
たった一言で、
私はその景色に、幕を下ろそうとしていた。
もしかしたらスタッフも、
同じだったのかもしれない。
「もっとやってみたい」という気持ちが、
スタッフの中にもあったのだとしたら。
私の「もう十分」が、その火を
消していたのかもしれない。
その人に、 もう一度、会いに行った。
最初は、他愛のない話をした。
業界の近況。 他のサロンの話。
最近のお客様の変化。
何でもない話を、 ひとつずつ重ねた。
ふと、間が空いた。
窓の外で、 車が一台、通り過ぎた。
その沈黙の中で、 ことばがこぼれた。
「1,000万円を、目指します」
言い終えた瞬間、
空気が変わった気がした。
言葉は、外に出ると
もう、戻れなかった。
どうすれば届くのか、分からない。
何が足りないのかも、分からない。
それでも、「目指します」と言ってしまった。
もう、なかったことにはできなかった。
私は、ようやく自分にも伝えた。
まだ見たことのない景色
自分も、見てみたいのだろうと。
その夜、 閉店後の店に残った。
エアコンは、切れていた。
店の匂いだけが、まだそこにあった。
シャンプーと、誰かの髪の、残り香。
自分の呼吸が、聞こえた。
椅子が並び、 鏡が、静かに光っていた。
鏡の中に、 自分が映っていた。
その奥に、もうひとり、いた。
こわがっている、自分だった。
こんな数字を掲げて、
スタッフを苦しめたら、どうする。
また昔のように、 数字が先に立ってしまったら。
その問いが、 鏡の向こうから、こちらを見ていた。
それでも、 撤回はしなかった。
今まで私は、
自分が見たい景色のために、走ってきた。
でも、これからは、
みんながまだ見たことのない景色を見せたい。
その人たちの顔に、
知らない光が灯る瞬間を、見てみたかった。
だから、「目指します」だった。
しばらく、そのまま立っていた。
私は鏡に背を向けて、電気を消した。
ある日、お客様が鏡の前で、迷っていた。
「やってみたいんだけど、
私なんかが、やっても、変じゃないかな」
声の端が、少しだけ細くなった。
「だけど、やってみたい気がするかも」
「だけど」の奥に、 小さな声があった。
きれいになりたい。
でも、自分には—— という声だった。
鏡に映る目が、 ほんの少し、揺れていた。
私たちが向き合う相手は、
商品ではなかった。
お客様の胸の奥にある、
小さな不安だった。
ひとりで越えられない不安を、
ひとりで越えさせてはいけない。
そう思ったとき、ことばが、灯った。
——共犯。
声に出す前に、 少し笑っていた。
探して見つけたのではなかった。
呼ばれて、来たことばだった。
美の共犯者。
そのことばが、
いちばん近い気がした。
そして、
みんなで、そのことばを選んだ。
「きれいになりたい」
その思いに
共感してくれる人のことを
私たちは共犯者と呼ぶことにした。
そうして、ひとつのイベントが始まった。
「共犯者って、何?」
「私も、共犯者?」
「なんか、面白そう」
お客様が、笑った。
困っているのではなく、 少し楽しそうに、笑った。
ことばが、 空気を変えていた。
スタッフのことばも、 少しずつ変わっていった。
「これ、あのお客様に話したら、喜びそう」
「〇〇様、共犯者になってくれそうな気がする」
売るための会話ではなかった。
お客様の少し先を、 一緒に想像する会話だった。
売上は、 あとからついてきた。
そして、もう一人の共犯者に、そっと伝えた。
ディーラーさんは、 しばらく黙っていた。
それから、 少しだけ目元を緩めた。
「やりましょう」
短いことばだった。
責めるのでも、 勝ち誇るのでもなかった。
ただ、もう一度、 同じ方を向いてくれる、
ことばだった。
「もう、十分です」と、私は言った。
「目指します」と、私は言った。
「やりましょう」と、その人は言った。
ことばで、閉じた扉を、
ことばで、また開けることができた。
傷つけてしまったことは、消えない。
でも、消えないまま、
もう一度、同じ方を向くことはできる。
向き合うとは、 たぶん、そういうことだった。
冬の夜、 電卓の前に座っていた。
窓の外で、 街灯が細く光っていた。
画面に、数字が出た。
1,000万円。
うれしい、はずなのに。
手が、少し、冷えていた。
ただ、息をしていた。
数字を手放したつもりだった。
でも、ほんとうは、
人を見ようとしていただけだった。
その先に、数字が、 置かれていた。
そして——
新しい共犯者が、 生まれていた。
お客様。 スタッフ。 そして、あの人。
たぶん、 ずっと、そうだった。
私が気づくのが、 少し遅かっただけで。
鏡の中に、 少しだけ笑っている顔があった。
〔共犯メモ〕 「ことば」は、返せる
・「もう十分」は、
誰かの小さな火を消してしまうことがある。
・ことばで閉じた扉は、
ことばで、もう一度ひらける。
実際にそこから生まれたイベントには、
こんなことばが添えられた。
あなたのキレイの運命を、
一緒に仕掛けよう。
それが、
私たちの「美の共犯」だった。
