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鏡の揺らぎの共犯者 10|最終章 光と影の共犯者

鏡の表と裏の回

最終章 光と影の共犯者



二十年後のあなたへ




個別ミーティングがはじまる。
静かな午後だった。

窓から、やわらかい光が入っていた。
テーブルの木目を、光がゆっくりなぞっていた。

「お疲れさま」

私は、席へ誘導した。

少し間があった。

そのスタッフは入って、三年目になる子だった。

「最近どう」

話を、聞かせてもらう。

場の空気が、そのとき変わった気がした。

少し間があって、彼女が言った。




「二十年後、私はこのサロンで、働けていますか」




声は、いつもより揺れていた。

想像していた以上の問いかけだった。

窓の外で、風が一度、動いた。

「大丈夫」と言いかけて、
やめた。

今、それを言ってはいけない気がした。



カップを持つ指が、少しだけ冷たくなっていた。
湯気は、もう、上がっていなかった。

あのとき私は、彼女の問いから
少しだけ目を逸らした。

「忙しい時期だから、また落ち着いたら話そう」

確かに、そう言った。
彼女の顔を、ちゃんと見ないまま。


その問いは、それからずっと、
胸の奥に残った。

何もしなければ、傷つかずに済む。
そう思う自分が、確かにいた。



ある夜、最後のスイッチを落とした。
店の中が、ゆっくり暗くなった。

鏡に、私の顔が映っていた。
疲れた顔だった。

しばらく、その顔を見ていた。
鏡の中の私は、何も言わなかった。


帰り道を、歩いていた。

冬の入口の、少し乾いた風だった。
マフラーの中に、自分の息が、
白くこもっていた。

信号が、赤だった。

立ち止まって、ふと思った。

私には目の前の事しか
今しか、見られていないのかもしれない。

景色が、広がっていく。

ずっと、支える側でいるつもりだった。
でも、違った。


私は、支えられていた。



問いをくれた、あの子。

何度も鏡の前に座り続けてくれた、お客様。

迷いながら、それでも翌朝には、
扉を開けて入ってきてくれたスタッフたち。

何も言わずに、夕食を温め直して、
待っていてくれた家族。

私は、たくさんの支えで、立っていた。
ひとりで立っているつもりだった。


そのことに気づいたとき、
胸の奥で、何かがほどけた。

目元が、かすかに揺れた。

ただ、体が少しだけ軽くなって、
信号が青に変わるのを、
いつもより長く待った。


年末店販の売上が、
100万から、300万になった。

当時、私はその数字を、
うまく喜べなかった。

300万に向かう日々の中で、
誰も、つらいと言わなかった。

それが、不思議だった。不安だった。

数字は、前よりずっと大きくなっていた。
なのに、店の空気は、
前より少し、やわらく感じた。

数字が増えるたびに、
誰かが、何かを
黙って飲み込んでいる
そんな気がしていた。

息を、ひとつ吐いた。

朝、店に来るスタッフの顔が、
前より、少し明るかった。

声が、前より、少し柔らかかった。

ある朝、開店前の店に入ったとき、
ひとりのスタッフが、鏡を磨いていた。

布が鏡をなでる音だけが
静かな店の中にあった。

私に気づくと、その子は
少し照れたように笑った。

その笑顔を、私はそれまで知らなかった。

——数字が増えたから、
充実したのではなかった。

充実していたから、
数字がついてきたのだ。


私たちは、数字をスタッフの前に
立たせることをやめた。

ノルマも。
ランキングも。
今月の目標数字も。

数字の置き場所を、変えた。
前ではなく、後ろに置いた。

人の顔より前に、数字を出さない。
それだけの、小さな約束だった。



すると、彼女たちは、
売り子から、美容師に戻っていった。



お客様の髪に触れて、
お客様の話を聞いて、
お客様に似合うものに
一緒に寄り添う。

数字は、結果として、ついてきた。

でも、本当に届いたのは、
数字そのものではなかった。

笑顔だった。



「何のために、やるんですか」

ずっと、その問いを抱えていた。
答えられないまま、ここまで歩いてきた。
今、ようやく答えられる。



美容師が、美容師でいられる場所をつくること。
今を繋いで、先へ継いでいくこと。




それが、「何のために」への、今の私の答えだった。

お客様が、娘さんを連れて
きてくださった日があった。

「この子もここで、お願いしたくて」と。

娘さんは、はじめてのサロンで、
少し緊張していた。
ケープをかける前に、
お母様の袖を、きゅっと握った。

その小さな指を見ていたら、
胸の奥が、あたたかくなった。
このサロンに、
次の時間が、入ってきた。


過去から、今へ。
今から、未来へ。
受け取って、継いでいくこと。


その交わる場所に、
私たちのサロンがあると思う。


そしてもう一つ

もし、誰かに、
「いちばん大切にしていることは、何ですか」
と聞かれたら。

私は、迷わず、こう答える。


「場の空気です」


数字でもなく。
戦略でもなく。
立派なことばでもなく。

お客様とスタッフが笑顔で
会話している。

スタッフがコートを脱ぎ、
美容師の顔に戻るまでの、
ほんの数秒の静けさ。

お湯が沸くまでの間に、
スタッフ同士がアイコンタクトを
している瞬間。

誰かが「おはよう」と言う。
スタッフ同士のあいさつ。

その一連の、何でもない雰囲気。

お客様がアンケートで一番好きだと
言ってくれた、この雰囲気。

そこに、店のすべてがある気がする。


半信半疑だった私達の選択。

最初は、不安だった。
私も。スタッフも。
たぶん、お客様も。あの人も。

数字を追わなくて、
本当に売上は立つのか。

「やってみましょう」と言いながら、
心のどこかで、誰もが揺れていた。

その揺らぎを、無理に止めなかった。

止められなかった、
というほうが正しい。

ただ、毎朝、扉を開けた。
鏡の前に立った。
そして、「ありがとう」と言った。

確信から始まる物語なんて、
たぶん、ない。

迷いながら。
疑いながら。
それでも、明日もここで会おうと決めること。

——それが、共犯ということの、
いちばん近い形なのかもしれない。




「二十年後、私はこのサロンで、働けていますか」


個別ミーティングがはじまる。
静かな午後だった。

窓から、やわらかい光が入っていた。
テーブルの木目を、光がゆっくりなぞっていた。

私は、もう一度
そのスタッフと向き合っていた。

窓から、同じ光が入っていた。

入って、三年目になる子。
話をしようと思う。

以前は、話せなかった。
あのことばを、今度は伝えたい。

静かな時が流れる。
——今度は、逃げない。

そして、つたえる。

「大丈夫だよ。」



〔共犯メモ〕

・見る順番が変わると、場の空気が変わる。
場の空気が変わると、スタッフのことばが変わる。
スタッフのことばが変わると、お客様との関係が
変わる。その先に、数字がついてくる。

・確信は、いらない。
迷ったまま、はじめる。
怖かった。今も、少し怖い。
それでも、明日の朝、扉を開ける。



エピローグ あなたとの共犯


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