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8/13 13:30 ノートルダムの鐘

※作品否定ではないですが結構ショッキングなことを書いているので閲覧注意です。

大阪初日と昨日と2回見て、私は当面この作品を見ないと決めました。
曲も俳優さんも素晴らしいのだけど、「そりゃ全員殺したら重い作品になるよね」と思ってしまったので。
みんな不幸で理不尽に死んだらそれはショックですよ。でももうそれはよくない?そんなのただの現実じゃない?って思ってしまった。
あと、人間は白黒で決められるものではなくて、どんな人にも醜いところがあり、誰が人で誰が怪物かということは一義的に決められるものではないというのもそのとおりなのですが、別に新鮮ではないというか、社会で生活していたら人間づきあいでそういうことって当たり前のこととして体感して、それでもなお自分や周りがよくあるためにもがいたり考えたりするのが人なんじゃないの?と思っているので、前提部分の「誰が人で誰が怪物か」で終わってしまうと、うん、それはそうなんだけど、その上でさあ、みたいな気持ちになってしまった。
そこ別にもうそんな鮮烈じゃないよ、みんな分かってそれでももがいてるよ、って。

これは作品や演者さんには何の責任もなくひとえに私自身の属性の問題です。
身バレ防止のためにふわふわ~っと書きますが、わたしはカジモトみたいな子を抱っこしたり、フロローのような存在すらいないカジモドのような子、あるいはエスメラルダのような目に遭った人をどうやって生かしていくか、育てていくか、みたいなことを仕事でやっているんですね。
また、故意にせよそうでないにせよ、人を殺してしまった人から話を聞いたり、殺されてしまった人の関係者から話を聞いたりもします。
私は当事者でないので、当事者のように語ることは当然許されませんし、あくまで仕事としてやっている、自分でそうすると決めてやっていることだからそのことを誇るわけでも卑下するわけでもないのですが、でもそれでも、結構な割合で絶望することが多くて、現実世界って厳しいよね、ってなることが多いんですね。お金をもらう手段なんだけど、そこにはやはり人格を懸ける部分もあるので。

でもね、それでもね、ひどい目に遭っても生きている人はそこにいて、殺された人がいてもその家族がいて、殺した人にもその人の家族にも残りの人生があって、そこにはたくさんの困難や絶望があるんだけど、でもそれでもその困難や絶望を構造と私自身のささやかな人格を懸けた仕事で助けたい、あきらめずにもがき続けて小さな希望を見出して、歴史の大きなうねりの中で少しずつよくなってほしいと願ってやり続けることこそが現代の大人の役目だろと思っているので、前段の、ほら醜い!ほら死んだ!の部分を見せつけられてそこで幕が下りてしまうと、もうそこは知ってますよ、っていうか改めて絶望フェーズに引き戻さないでください~、って感じになってしまいました。

少しぼかしつつエピソードトークをしますと(特定の事例ではありません。検索しても絶対に分からないようにしています。)、両親からいらないいらないと押し付け合われたあげく施設に入った子供をどうやって育てていこうか、みたいな話で右往左往して手を握って、何とか大人たちで生活を整えて、とかしているさなかに関係者のおっさんがその子供をレイプしていたことが判明し、子供は当然荒れまくるしせっかく整えた環境を一から立て直さないといけないしやらかした人には当然ながら厳正な対応をしなきゃいけないしで絶望しながらおっさんに事情を聞くと開き直ったのか何なのか認知の歪み全開で「いや、あの子喜んでましたよ?あんたは男にかまってもらえないから嫉妬してんの?www」とかののしられるのが私の仕事(のほんの一部)なんですね。
涙も出ねぇ~
それでもそんな中で、苛烈な被害に遭った子たちに、でも、生きていれば希望があるんだよ、血縁にはめぐまれなくても、生まれつき得られなかったものがあっても社会があなたを守るよ、大人があなたを守るよって言って、手を握ったり希望があることを示し続けることが私の務めだと思っているので、「はい死にました、無情~」みたいな夜警国家の話をされても、もうそこは超えていこうよ、理性と福祉で克服していこうよ、それが福祉国家でしょと思うし、あの結末だとそういう自分の決意に対して「どうせ全員死ぬのにね」って言われているような気持ちになるから(これは被害妄想なのはわかっています)、自分のためにあまり見ないほうがいいなって思いました。
あと全員死なせておいて最後に「美しい世界~」「この物語があなたの心に届け~」みたいなファミミュの締め方するのって潔くないと思った。
いや、全員死んでますけどって。最後取ってつけたようなきれいごとでバランスとろうとするんだったらあくまで本筋部分でディズニーアニメくらい振り切って希望を見せてほしかったYO!エスメラルダとフィーバスの人格だけちょっと現代的なモラリストにしといてそんなぁ~である。

カジモド的境遇で今を何とか生きている子がこれ見たときに「結局こうなるなら頑張ったり希望を見出しても意味がないね、早く自分の人生にけりをつけたほうがいいね」って私に言ってきたとしたら、私は「この物語を見る限りはそう感じるのも無理はないね。でも私はこの物語は間違っていると思うし、違う道があるよ。」と言って、その子の手を握ろうと思います。

話はずれて、コーラスラインのヴァルの「あたしはみなしご、育ての親は前科者で7つで犯された(レイプされた)」という歌について、「こんな突拍子もないことあるわけがないから、ヴァルはザックの気を引こうとして嘘の話を考えたんだ」と言っている意見を見たことがあります。
そういう考え方ももちろんあるんだろうけど、育ての親に小さい子供がレイプされることは突拍子もなくないですよ、むしろ子供の性被害の典型的なパターンの一つとして存在しますよ…とびっくりしたのですが、こういう事件は加害者のことを報道するとそれがそのまま被害者の特定につながってしまうので、そもそも報道自体一切されないことが多いんですよね。
報道されないこと自体は被害者保護の観点から完全にいいことなんですけど、世の中の人が、自分の世界でそんな悲惨なことは見たことも聞いたこともないから、これは嘘なんだ、というのはちょっと違うし、これに限らず、自分の経験や周りのことだけであるなしを判断するのって怖いなと思いました。
すみませんがそういう悲しいことは現実として存在します。
もちろん、そんなことをしない立派なステップファミリーの方がずっとずっと多いことも強調しておきます。
だからこのコーラスラインの解釈として、話の展開だったりヴァルの性格などを考えたらこれはフィクションでしょ、って考え方なら分かるんですど、義理の親が義理の娘を犯すわけないじゃん!っていうのは、いえ、あなたが知らないだけでそういうことは全然あります~何なら実親子でも全然あります〜前提の認識がちょっと違うな~と感じました。
でも仕事でもないのにこういうことをいちいち知って落ち込んでもしょうがないし、それぞれの人生でこういうことを当事者なり目撃者なりの形で経験した方がいいかと言ったら、ない方がいいに決まっているので、ありえないよそんなこと、と言える人生の方がそりゃいいよね、と思います。嫌味とかじゃなくて、本当に。
なお、私はみいちゃんと山田さんも全然楽しく見られない方の人です。
でもこういう創作物を創作物として楽しんだり鑑賞したりできる事自体は大切だし必要と思っているんですよ。本当に。そのために現実を頑張らないといけなくて、そっちの方に私の力点がかかっているんだろう。

鐘を2回見た中でなんとなく思い出したものを貼っておくけど、ちょっと閲覧注意かも。

たぶん青山で反対の声を上げた人たちは自分たちのことを善人と思っていると思うし、それを否定するつもりもない。そしてこの人たちは皆さん裕福なので、高いお金を払ってミュージカルを見に行くことも容易でしょう。
そういうことも考えたのでした。
私にできることはこころの劇場のために毎月粛々と寄付をすることだな。

などと考えつつ、ディティールは結構楽しんでいて、宮田さんのエスメラルダ、芝さんのフロローはやはりとても素晴らしかったし、寺本さん、山下さんの二人のカジモドを味わえたことも得難い経験だった。きららさんの気迫、菱山さんのクワイヤ、あとはまり役過ぎた白石さんのクロパンなどなど。白石さんってちょっと不憫な役が似合いませんか?とか、菱山さんの左肩がちょっとはだけているの、トーガみたいな着こなしだな~とか。

また、ここに書いたことはもう本当に、世の中の少数派であろう1人の1つの意見に過ぎず、そこに正しさも善もなくただただ1つの意見です。
この作品が幅広く支持されていること、商業的に成功していること、たくさんの人がこの作品を愛していろいろなことを考えたり話したりしていることが素晴らしいことなのは間違いなく、私と異なるあらゆる意見を否定する意図はありません。
末永く愛され、いろいろな人の心に残る作品であってほしいと心から思います。
Xだと何しろ短文ですし、断片的な情報だけがぽんとぶつかってきたりするのでこういう感想はとても書きにくかったのですが、noteにわざわざ足を運んでくださる方(本当にいつもありがとうございます…Big Love…)なら私のつたない文章もお許しいただけるのではないかとつらつら書いてみました。
もし、この作品において、当事者性を感じるな、私はカジモドのようだな、フロローのようだな…という方で、この作品をポジティブに楽しんでいる、こういう風に解釈している、という方がいれば、そのお考えはとても聞いてみたいな。
それではアディオスアミーゴ-♩

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