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【寛政の改革と現代日本】「正しい改革」が閉塞感をもたらす


「寛政の改革」が行われた江戸時代

 江戸時代、幕府の再建をかけて行われた「寛政の改革(1787年〜1793年)」をご存じでしょうか。

 老中・松平定信によって主導されたこの改革は、「緩みきった社会を、武士の理想とする『正しい姿』に引き戻そうとした改革」でした。

 寛政の改革の前の日本は、天明の飢饉や浅間山の大噴火といった未曾有の災害に見舞われていました。

 一方で、前任者の田沼意次による政治は、経済を活性化させた反面、賄賂が横行し、道徳が廃れているという批判を浴びていました。

 こうした「濁った」世の中を清めるため、徳川吉宗の孫であり「名君」の誉れ高かった松平定信が、幕府の立て直しという大役を託されたのです。


「正しさ」がもたらした、息苦しい閉塞感

 松平定信は、儒教的な道徳観に基づき、極めて厳格な政策を次々と打ち出しました。

 その結果、幕府の財政を一時的に持ち直し、世の中の規律を引き締めるなど、寛政の改革は、一定の成果を上げることになりました。

 しかし、その裏で徹底した倹約や出版物等への検閲が行われた結果、田沼時代に花開いた華やかな町人文化は冷え込み、景気は低迷し、江戸の街からは活気が消え去ってしまいました。

 あまりに清廉すぎる定信の政治に、当時の人々は息苦しさを感じ、次のような狂歌で皮肉りました。

「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
 白河藩主出身の定信の政治は水が清すぎて、魚である民衆は住むことができない。少し濁っていた田沼時代の方が、まだ生きやすかった。

 さて、この状況は、現代の日本と酷似していないでしょうか。

 バブル経済の崩壊以前の日本は、地価や株価が実態を離れて膨らみ続ける中で、財テクに狂奔する企業や個人が溢れました。
 また、政治の世界では、リクルート事件や佐川急便事件に象徴されるような「金権政治」が横行していました。

  まるで田沼意次が政治を行っていた江戸時代のような様相でした。

 それが、バブル経済の崩壊以降、バブル時代の悪習を正す「改革」が断行されるようになりました。

 ただ、そうした「改革」を繰り返したにもかかわらず、景気は低迷し、人々の間では閉塞感が満ちてしまうことになっています。

 今の私たちは、まさに「現代の清きに 魚も 住みかねて もとの濁りの バブル恋しき」と言いたい気分ではないでしょうか。

 寛政の改革は、民衆の反発や幕府内部の対立によってわずか6年ほどで幕を閉じました。

 しかし、現代の「改革」は30年を経過してもなお継続しており、出口が見えないような状況です。


優等生な「サダノブ型リーダー」が陥る罠

 私たちが直視しなければならないのは、「正しい経営」をすることと「業績が向上すること」は、必ずしもリンクしていないという事実です。

 極端な話、魅力的な商品やサービスを提供できておれば、多少「ずさんな経営」をしていても商品は売れて、業績は向上します。

 一方で、時代に合わない陳腐な商品やサービスしか提供できていなければ、いくら「正しい経営」を積み重ねても、業績が上向くことはありません。

 こうしたことは、政治の世界でも同様です。

 どれほど論理的に「正しい政策」を打ち出しても、それが国民生活の向上に寄与するものでなければ、国民は幸せにならないのです。

 こうしたことは、真面目な頭のいい優等生タイプ、ちょうど松平定信のようなリーダーほど、この罠にはまってしまいます。

 彼らは「正しくさえあれば、うまくいくはずだ」と信じて疑いません。

 しかし、そこには「目的と手段」の致命的な履き違えという落とし穴が隠れているのです。


「目的と手段」が逆転した「改革」

 もし、会社の業績を良くするための「改革」を行うのであれば、優れた商品やサービスを生み出すことや、その仕組みづくりに注力すべきです。

 そして、国民を幸せにするための「改革」であれば、国民の生活を向上させる施策が最優先されるべきです。

 ところが、その「目的と手段」が逆転し、『こういう「手段」を講じれば、「目的」が達成されるはずだ』という発想になっているのです。

 つまり、

計画どおり進捗させるために、KPIを使用する
業務改善を行うために、PDCAサイクルを回す
業務効率を向上させるために、DXを導入する
社会を改善するために、共産主義を推し進める

ということではなく、

KPIを達成すれば、計画どおり進捗するはずだ
PDCAサイクルを回せば、業務改善されるはずだ
DXを導入すれば、業務効率が向上するはずだ
共産主義を導入すれば、社会は改善されはずだ

ということになっているのです。


「寛政の改革」の教訓

 寛政の改革で松平松平定信は、儒教的な道徳観に基づいた政治をすれば、秩序正しく清廉な理想国家になるはずだという政治思想を持っていました。

 田沼意次時代の金権的な風潮を激しく嫌い、武士としてのプライドと、身分に応じた質素な生活を美徳とする世の中を取り戻そうとしました。

 しかし、江戸時代に生活する人々の思いにこころを寄せることができなかったことから、6年で「寛政の改革」は潰えることにことになります。

 歴史的な教訓を学ぶとすれば、「改革が、どれほど論理的に誠実であっても、現場のリアリティや人間の感情を無視した押し付けであれば、社会を疲弊させてしまう」ということでしょう。

 現代社会も、この「目的と手段」の逆転、そして、「正しさ」の押し付けが、社会に閉塞感をもたらしているように思います。

 もちろん真面目に「正しさ」を求めることは尊いことであり、不真面目さや「悪」を推奨するものではありません。

 強調したいのは、「その手段で本当に目的が果たせているか」という視点なのです。

 「正しいことをやっていれば、いつかうまくいくはずだ」という思い込みを捨て、「うまくいくために、今、何をすべきか」というマインドに変えていくことが必要なのではないでしょうか。

 「正しい改革」を行うことにこだわるのではなく、人々の心が晴れ、納得感を持って一歩ずつ進んでいく、「確実に前に進む(確進)」という選択肢こそが、今、何よりも求められているのです。


「正しすぎて息苦しい」と感じる瞬間はありますか?かつてのバブル時代を知る方も、今の閉塞感に悩む方も、皆さんが感じる「現代の息苦しさ」の正体について、ぜひコメント欄で教えてください。

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