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雑記5.1 関ヶ原合戦について考える(個人的範疇) ~秀吉の遺言編~

 先の「雑記5」では、歴史ニワカが聞き齧った関ヶ原合戦研究のアレコレから学んで個人的に考察してみると述べた。そのため、関ヶ原合戦シリーズとして、「5.1、5.2・・・・・・」とナンバリングしていく。全く違う話題を取り扱う場合はナンバリングが異なる。


このアカウントにおける語りの方針

 前回長々と書いたのでここではざっと。

・近年における関ヶ原合戦研究をまとめて、私個人の見解を出してみる。

・そもそも筆者は西洋史の学士でしかないので、学術的意義は無い。「へぇ~こんな解釈もあり得るのかな~」くらいに認識して貰えたら助かる。

・新説も通説も目を通した。新説だけってのは余りにも擦られまくってるし、通説だけってのも流石に盲目的すぎる。


今回は、豊臣(羽柴)秀吉死後の状態について

 参考文献は最後にリストアップするが、当アカ「関ヶ原合戦シリーズ」では以下の文献を中心とする(予定である)。


・白峰旬『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』

→新説寄り。最近話題になっている内容は大体この書籍から。白峰氏は別府大学のリポジトリにて関ヶ原合戦研究の考察や研究ノートを掲載してくださっている(2026年現在)ので、関ヶ原合戦研究に興味があるのなら目を通すべき。


・笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』

→通説寄り。新説が有名になりつつある時期に出版されたもので、新説に対する疑義や「出鱈目」と思われがちな通説が本当に間違っているのかを検討する。ちなみに笠谷氏は関ヶ原合戦について他の書籍も出版されている。


・水野伍貴『関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争』
・同『関ヶ原合戦を復元する』

→主観的には通説も新説も混ざっているように見られる。中間に位置するのかな? 水野氏は二次史料との向き合い方についても言及しており、私のような素人がハマりがちな「一次史料信奉(造語)」に警鐘を鳴らしている。


私がこの立ち位置にいる理由

「絶対に正しい史観は誰にも構築できない」
「どの史料を選び、どう解釈するか」

 これを前提として、


「一次史料って、そんなに絶対視できるか?」


 と考えている。あ、いや。一次史料が重要なのは否定しない。できるわけ無い。だが、


当事者達が正確に事象を把握していたのか


 という問題がある。誤解もあるだろう。プロパガンダもあるだろう。認識のずれもあるだろう。書かれずに隠されていることもあるだろう。

 だが、世間では「一次史料がこのように記していた」だけで事実だと捉える向きが強い。強すぎる(あくまで個人の見方)。「一つの見方」としての前提があるのならそれで良いんだけど、このような認識が一般化してしまうのも支障を来しそうである。

 何なら二次史料といえども、当事者達からの情報を整理したものなど、ジャンルにもよるが、「あくまで二次」ではあるがまだ信頼できうる物もあるかもしれないと私は考える。要は向き合い方。

 よって、当アカは新説と通説を敢えて比べてみたり考えてみたりすることで、逆張りの私論を並べていくことにした。同じ話ばっかしてんな。

 ようやくだが本題に移ろう。今回は豊臣(羽柴)秀吉が逝去した直後からの政局、西暦なら1598年8月以降の日本を辿る。


新しい政権の形

 秀吉の後継者は豊臣(羽柴)秀頼だったが、当時まだまだ子供。年齢だけで見たら小学生男子に国の政治を任せるようなモンになる。当然、秀頼が成人するまでの期間限定で臨時の合議制が敷かれた。以下がメンツとなる。

徳川家康(秀吉の義弟。強い)
前田利家(秀吉が信頼していたとされる。強い)
毛利輝元(西の大大名)
上杉景勝(最近引っ越した)
宇喜多秀家

浅野長政(奉行衆筆頭?)
増田長盛
石田三成(立場は高くないけど信頼と実績アリ)
徳善院玄以
長束正家

 豊臣(羽柴)家に従っているだけの他家大名と、豊臣政権で活躍してきた官僚・・・・・・奉行衆から抜擢された面々となる。

 このメンバーをどう呼べば良いのか、というのも論争の議題となっている。一般的に言えば「五大老と五奉行」となる。教科書や資料集でも用いられているが、当時ではこのような呼び方はされていない。


「五人のしゆ(衆)」と「五人の物(者)」で良いんじゃね?


 この二つは、秀吉が記した遺言に載っているとされる用語である。家康や利家などが前者、長政や三成などが後者となる。ぶっちゃけこれが一番無難。下手に「五大老」「五奉行」なんて造語を用いるよりも正確な把握に近いと考える。

 ・・・・・・まぁ、教科書とかテレビ番組とかでそのまま使うのも分かりにくいだろう。それなら「臨時の合議制」で纏めてしまえば済む話・・・・・・のような気がする。

 ちなみに当事者10人は、自分達のことを「年寄」や「奉行」と自称したり呼称したりとごっちゃになっている。後述するが、これには「しゆ(衆)と物(者)、どちらが上の立場なの?」という問題にも繋がる。


秀吉の遺言って具体的に何があるんだよ!

 秀吉は自分の死期を悟っていたのか、死ぬ直前から口頭や文書などで死後の政権造りに努めてきた。特に、家臣や大名達に何度も起請文を提出させている。要は「ルール守るって誓った証拠出せよ」ってことやね。当時ではこの起請文が大事な証拠だったそうな。

 それら関連文書をまとめると、秀吉による遺言は大体以下の通り。間違っていたり不足があればごめんなさい。


・秀頼が政治を担うことができる年齢になるまで、臨時の合議制が敷かれる。

・秀頼が大人になるまで、今までの法律や領地(領知)は原則として変更しない。

・合議制メンバーにせよ他の大名にせよ、全員が伏見か大坂に残る。勝手に各々の領地(領知)に帰らないこと。

・もし争い事が起こったら、まずは両者の言い分を聞いて、そこから合議して判断する。争い事の際は、手を出さなかった方が有利。

・大名は勝手に他家と縁組してはならない。縁組して良いのは合議制メンバー間のみ。

・「五人のしゆ(衆)」のうち、家康は伏見にて政務を担当し、利家は大坂で秀頼の後見を努める。

・家康と利家の立場は重要なので、それぞれの息子(嫡男)がその立場を引き継ぐ。これは特例。

・平時のアレコレは「五人の物(者)」が担う。家康も参加して話し合う。「五人のしゆ(衆)」は基本としては公的文書にサインするくらい。

・北国は利家が、東国は家康が、西国は輝元が、畿内(首都圏)は「五人の物(者)」が概ねの面倒を見る。


 長い長い長い! 多い! 私なりにもっとまとめるなら、「秀頼が大人になるまで秩序はそのままで!」って感じにするだろう。


ま、そのままにはならないんですけどね

 リニューアル豊臣政権には問題点があった。


・合議制メンバーの序列が曖昧

 責任者が「五人のしゆ(衆)」、執行機関が「五人の物(者)」みたいに捉えられがちだが、秀吉はこの序列を明確にはしていない。そのため、一番強い家康の動向で逐一揺らいでしまうことになる。

他「内府(家康)殿、ちょっとやり過ぎちゃう?」

家康「こちとら大閤(太閤)殿下(=秀吉)の義弟ですよ? 授けられた権限の中で物事進めてるだけですが?」


 ・・・・・・これから上記みたいな諍いが頻発していくのだが、これは序列の曖昧さが一因である。


・豊臣(羽柴)家、親族少ない問題

 後継者を支えるのは同じ家の人間が担当することも多いのだが、豊臣(羽柴)家には親戚がいなかった。血筋の繋がっていない家康などが抜擢されたのもこれが理由。他の大名からすればいつまでも「あの子供、将来上司になるらしいけど関係は無いな!」ってことになる。


・豊臣(羽柴)家の家臣団で内ゲバ

 壬辰戦争・・・・・・通称「朝鮮出兵」を通して、秀吉の家臣達が歪み合い。特に前線組と後方組の間柄は酷い有様だった。ジリ貧の中、独断とはいえ戦域を削ったり停戦交渉したりと思惑が飛び交っていたのだが、意見の相違から関係修復は不可能になっていた。

 つまり、仕組みは曖昧だしそれぞれの都合があるしで、とても遺言の体制を持続できる状態では無かったのである。


家康に野心はあったのか?

 日本にカトリック布教を広げていたイエズス会の報告書では、秀吉の死についてこのように報じている。

・家康に「全土統治」を任せるが、秀頼が大人になれば権限を返す
・秀吉自身が諸大名の前で宣言し、家康も受諾


 「家康は最初から天下人だった!」という見向きもあるが、私はそうは思わない。あくまでも次期トップは秀頼であり、家康はその中で権限を付与された。他の合議制メンバーと共に政権を支える形である。

 また時折議論されるのが、家康の目的や意図についてである。ネタバレするならここから家康の独断専行が始まるのだが、何故ダーティープレイに手を染めたのかは我々にとっても興味深い。

 時代や人物にもよるが、普通は見知らぬ人間の内面など正確には分からない。だが研究者は多くの史料から解釈し、様々な推測を立てている。

 例えば渡邊大門氏は、「家康に野心は無い。あくまで政権内部で、その時々でできることをやっていた」としている。また、水野伍貴氏は、「家康には独自のプランがあった」としている。

 水野氏は、家康が欧州諸国との交流を経て、ルソンやヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を通した貿易構想を考えていたと指摘している。当時の宣教師による書状の一つには、「家康は俺らとの貿易を考えてたみたいで、私が一度捕まったのはその話し合いのため(超意訳)」と記されたものもある。ぶっちゃけ豊臣政権の枠組を超えている。


 私は、家康に野心は「あるにはあった」と考えている。


 家康の立場を勝手に考えてみよう。どう見ても足元が危うい政権の責任者になったは良いが、逆に言えば噴出する問題の対応に迫られることになる。それに合議制のメンバーも各々の事情があるし、話し合いで事が決まるとは限らない。戦乱が終わってまだ10年弱。また「解決するなら暴力しかない!」と有事になる可能性も捨てきれなかっただろう。

 そこから、家康は「徳川家が安泰であること」を重視したのかもしれない。面倒事は避けたいが、徳川家やその領地(領知)が脅かされないように、自らの立場が脅かされることがないように動く。当時の武士は、自らの生存と利益に繋がる土地と立場と名誉を最も重視していた。家康もまた同じだったのかもしれない。上記の貿易構想も、徳川家を強くするための手立ての一つと考えればまだ理解はして貰えるかと。

 特に徳川家は全国でもNo.2の国力なので、どう足掻いてもトラブルに巻き込まれやすいのである。

 つまり、家康は時に豊臣政権システムの守護よりも、徳川家の立場を優先した点において、野心はあったと解釈する。だが、それは通説のような「天下の簒奪」と必ずしもイコールにはならないとも考える。


今回私が言いたいこと+次回について

 長くなったので一旦ここまで。今回の私の主張としては、


・「五人のしゆ(衆)」「五人の物(者)」である程度呼び方は統一して良いと思う

・徳川家康にはやはり「一定の自立」が見られる


 ことである。本来ならもっと先の話もしたかったのだが、長すぎるのでここまでにさせていただきたい。

 次回は豊臣(羽柴)家臣団の対立が表面化した「七将」の決起について取り上げる予定。今回も見てくれた人ありがとう。間違いや誤記、不足点あれば指摘していただけると幸いです。


参考文献(目を通したもの一覧)

・渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582~1615』草思社、2021

・渡邊大門『関ヶ原合戦人名事典』東京堂出版、2021

・水野伍貴『関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争』東京堂出版、2021

・水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』星海社出版、2023

・白峰旬編『関ヶ原大乱、本当の勝者』朝日新書、2020

・白峰旬「関ヶ原の戦いにおける諸将の軍役人数(兵力数)の予想的考察」別府大学大学院史学・文化財専攻『国史簒集』27、2025、43-77頁

・白峰旬『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、2019

・山田邦明『日本の歴史8 戦国の活力』小学館、2008

・笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』新潮選書、2022

・外岡慎一郎『「関ヶ原」を読む 戦国武将の手紙』同成社、2018

・小池絵千花「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」『地方史研究』71、3、4-24頁、2021

・週刊朝日MOOK『歴史道 完全保存版 その漢、石田三成の真実』朝日新聞出版、2019

・大西泰正『中世から近世へ 前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説』平凡社、2019

・野村玄『新説 徳川家康 後半生の戦略と決断』光文社新書、2023

・大西泰正『中世から近世へ 宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性』平凡社、2020

・小川雄、柴裕之『図説 徳川家康と家臣団』戎光祥出版、2022


※適時追加していく予定。



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