国民も人間、家族もいる
「死屍累々」の向こう側
「候補者も人間であり、家族もいます……」
立憲民主党の小西洋之議員が放ったこの言葉は、一見すると至極真っ当な人権擁護の訴えに聞こえる。落選した同僚を「死屍累々」と称した週刊誌の無慈悲な見出しに対し、政治家という「公人」の皮肉な運命に、せめて人間としての温情を、というわけだ。
だが、この言葉を聞いて、思わずお茶を吹き出しそうになった国民は少なくないはずだ。なぜなら、多くの国民は心の中でこうツッコミを入れたからである。 「いや、それを言うなら『国民も人間であり、家族もいる』のだが?」と。
永田町の「人間」と、シャッター通りの「人間」
政治家の皆さんが「自分たちも人間だ」と権利を主張されるとき、その「人間」の定義には、おそらく高級料亭での会合や、旧文書通信交通滞在費(現・調査研究広報滞在費)という名の非課税の小遣い、そして何があっても揺るがない強固な身分保障が含まれているのだろう。
一方で、彼らが救済を説く対象である「国民」という名の人間はどうだろうか。 増税に次ぐ増税、上がる一方の社会保険料。スーパーのレジで鶏肉のグラム単価に眉をひそめ、電気代の請求書を見て「照明を一つ消そうか」と家族で相談する。これが、永田町の外側に生息する「人間」の日常である。
もし週刊誌が落選議員を「死屍累々」と呼ぶのが「見るに堪えない」ほどつらいことなのだとしたら、不況と重税の中で静かに息の根を止められつつある地方の商店街や、物価高に喘ぐ一般家庭の食卓こそ、本来の意味での「死屍累々」ではないか。
政治家の「家族」と、国民の「家族」
小西議員は「家族もいる」と訴えた。確かに、落選して浪人生活を送る夫や父を支える家族の心労は察するに余りある。 しかし、忘れてはならないのは、政治家が「人間らしい」議論を戦わせている間に、国民の家族は「人間らしい」生活を送る権利をじわじわと削り取られているという事実だ。
「少子化対策」と銘打たれた政策が、結局は現役世代の財布をさらに軽くする矛盾。子どもたちの未来のためにと称して、今この瞬間の親たちの生活を追い詰めるパラドックス。政治家の皆さんの「家族」が、落選という一時的な逆境に立たされる一方で、国民の「家族」は、構造的な貧困や将来不安という出口のない戦いを強いられている。
皮肉な鏡合わせ
政治家が「自分たちを記号や駒としてではなく、一人の人間として見てほしい」と願うなら、まず彼ら自身が国民を「票田」や「納税マシーン」という記号ではなく、血の通った人間として見るべきだろう。
落選して「死屍累々」と揶揄されるのが耐え難いのであれば、国民の暮らしが「死屍累々」にならないような政治をしていただきたい。それこそが、候補者が「人間」であることを証明する唯一の方法ではないか。
小西議員のツイートに込められた「優しさ」が、いつの日か永田町の身内だけではなく、スーパーの割引シールを待つ「人間」たちにも向けられることを切に願ってやまない。なぜなら、我々国民もまた、間違いなく人間であり、守るべき家族がいるのだから。
