マチュピチュに愛された男 -自己紹介④-
これはマンガみたいなホンマの話
.
.
.
2020年、
新型コロナウイルスの影響で世界中の街から人が消えた。
その時、僕の目の前には
誰もいない世界遺産"マチュピチュ遺跡"が広がっていた。

「人類史上初めて、1人の為だけにマチュピチュ遺跡が開放されました」
このニュースは世界中で報道され、
気づけば僕は"マチュピチュ観光大使"になっていた。
運が良すぎた。
でも、その一言じゃ収まらへん。
それは、今まで自分がやってきたことが
ぜんぶ繋がった瞬間でもあった。
そして、この時の僕はまだ知らなかった。
マチュピチュ村には、
かつてこの村の発展に人生を捧げた1人の日本人がいたことを。
・再スタート
「中国で原因不明の肺炎が広がっています」
テレビからそんなニュースの声が聞こえたが、全く気にしていなかった。
世界一周中に"デング熱"で死にかけ、
日本に戻ってきていた。
帰国後、すぐに地元の総合病院へ
「あなたは病人です」と医者からハッキリ言われ、
・運動禁止
・お酒禁止
・絶対安静
を言い渡された。
でも、
「早く世界一周を再開せな!」と思ってたので、
"ボクシングトレーナー"と"バー"という、
この時、絶対やったらあかん2つのバイトをして
旅の資金をまた貯め始めた。
クラウドファウンディングで集まったお金は、
応援してくれた人たちの想いが詰まった大事な旅の資金。
だから、再出発するその日まで一切手をつけず、
自分で働いて準備をすることにした。
日本で年を越すのは3年ぶり。
次こそは無事に世界一周を終えられるよう、初詣で絵馬に願いを書いた。

次に向かうのは"アフリカ大陸"
そして最後の大陸は"南米"
大学生の頃は手の届かなかっためちゃめちゃ遠い世界。
自分の世界一周の夢がついに完結する。
「どんな旅になんねやろ」
ワクワクと、少しの不安を胸に
強制帰国から2ヶ月後の2020年1月3日、
アフリカ大陸最初の国、エジプトへ向かった。
・アフリカ縦断
「エジプトって思ってたより寒いねんな〜」
1月のエジプトは、昼はいつものNBAユニホームでいけるけど、夕方くらいからはダウンが必要なくらい寒かった。


でも、この寒暖差は旅してたらよくあること。
「この感じ、また世界一周に戻ってきたな〜!」
と思えて、なんとなく嬉しかった。
アフリカ大陸は
エジプトからエチオピアまでは飛行機に乗ったものの、
エチオピア→ケニア→タンザニア→ザンビア→ボツワナ→ナミビア→南アフリカと
約1ヶ月半間かけてバスや電車を乗り継ぎ、陸路で縦断した。

もちろん、旅の目的は2つ。
「ボクシングジムを道場破りする事」



「子ども達にボクシングを教えること」



各国でボクシングをしながら、アフリカのスケールのでかい大自然もしっかり味わった。



移動も食事も、できるだけ安く。
相変わらずの節約スタイルで旅を続けていたが、
アフリカ大陸の後半になると、なぜかカウチサーフィンの申請を断られることが増えてきた。
「アフリカの人には俺の顔ウケへんのかな〜?」
(アジアとかメキシコではウケ良かってんけどな...)
当時はそんな感じで軽く考えていた。
でもその頃、世界には少しずつ、
新型コロナウイルスの影が忍び寄っていた...
・世界3大凶悪都市で見つけた最高の笑顔
アフリカ大陸縦断の中で最も印象に残っているのが世界3大凶悪都市の1つと言われているケニアのナイロビ。

その中でもアフリカ最大級の貧困と治安問題を抱えたスラム街"キベラスラム"
ここで出会った子ども達の笑顔は
一生忘れることはないと思う。

スラム街といえば、
犯罪、強盗、薬物が多発、
ギャングが取り仕切っていて、衛生環境も最悪。
みんな暗い顔をした混沌とした場所。
勝手にそんなイメージを持っていた。
初めてスラム街に足を踏み入れた時は、
正直けっこうびびってた...笑
でも、イメージと違って
そこで会う子ども達はみんな目が輝いてた。

スラム街に小学校があったので、
ダメ元で「日本から来たんですけど、入ったりできます?」と先生に頼んでみたら、
「もちろん!」とニつ返事でOK。
日本人が珍しかったのか、子ども達も大騒ぎで、
みんな、めっちゃフレンドリーやん!ってなった。

「これ、もしかしていけるんちゃうか」
と思って、校長先生に
「明日、ボクシング教えにまた来ていいですか?」
って聞いてみたら、
「もちろん!来て来て!」(ノリ良すぎるやろ〜!)
「ほんまですかぁーーー!!」(めっちゃ嬉しい〜!)
こうしてこの旅でずっとやりたかった
"学校でボクシングを教える"ということが実現した。
翌日、グローブとミットを持って
また学校に戻ってきた。
すると、校庭にはたくさんの生徒が集まっていた。
位置付けは体育の授業なんか?
「まぁでも、そんなんなんでもええわ!」
みんなでシャドーボクシングをして、
1人ずつミット打ちをした。



ミット打ちなんてもうグローブの取り合い笑
みんな心の底からボクシングを楽しんでくれて、
本当に嬉しかったし、
たぶん僕の方が楽しんでたと思う笑
校庭で一通りボクシングが終わると、
次は「こっちも来て〜!」と教室へ。



「こんな大勢の子どもたちが、目を輝かせて楽しんでくれてる!」
そのことが僕も嬉しくて楽しくて、
ナイロビでは毎日キベラスラムや別のスラムの学校にお邪魔して、ボクシングを教えた。



最終日には、全校生徒1000人以上の大きな学校でも
「ぜひクラスをやってください」と言っていただき、
ナイロビにいた1週間で、500人以上の子ども達にボクシングを教えたと思う。




スラム街の子ども達はみんな終始笑顔で、
言葉は100%通じてなくても、ボクシングを通して心からコミュニケーションがとれた。
この1週間で、
僕の"スラム街"のイメージも変わった。
犯罪、強盗、ギャングのイメージやったスラム街。
でも実際そこには、目の前にあるものを全力で心から楽しめる子ども達と大人達がいた。
スラム街の人たちは金銭的には裕福ではないかもしれない。僕も同じく貧乏バックパッカーなので、金銭的な支援は申し訳ないけど何もできない。
でも、僕にはボクシングが教えられる。
ボクシングを通して、子ども達を笑顔にできる。
"自分には自分にしかできないやり方がある"ってことを教えてもらった、スラム街での日々だった。
やっぱり世界にはこの目で見ないと、この身体で感じないとわからないことがたくさんある。
だから旅はおもしろい!
・ずっと目指してた最後の大陸、南米
無事にアフリカ大陸を縦断。
南アフリカからブラジルへ飛んだ。
「南米きたぁーーーー!」
ついにきた。ここが最後の大陸。
旅の途中、
お金も尽きて、死にかけて、
数えきれないほどのトラブルを乗り越えてここまできた。
ブラジルに着いた瞬間は、
「もう少しで世界一周を達成できる!夢が叶う!」
っていう"高揚感"もあったけど、
「この旅もあと少しか」と、どこか"寂しさ"と"焦り"も一緒にあった気がする。
帰国したら大変なのもわかってたから。
ブラジルではリオのカーニバルへ
新型コロナウイルスのニュースはこの頃には日に日に大きくなっていってたが、カーニバルではそんなの全く関係なかった。


皆んなカーニバルに全身全霊を注いでた
ブラジルから
→パラグアイ→ボリビア→ペルー→エクアドル→コロンビア→
そして、この旅の最後に自身のルーツがあるトリニダード・トバゴに行く。

僕は典型的なA型で、几帳面なので
ちょうどキリの良い世界一周30ヶ国目をトリニダード・トバゴに設定していた笑
リオのカーニバル終わりでイグアスの滝へ
パラグアイに入ると、日本人バックパッカー達が集まる宿「民宿小林」へ、ボリビアでは鏡張りの絶景「ウユニ塩湖」へ行き、順調に南米旅を進めていた。



もちろん、南米でも道場破りは欠かさない。



僕はいつも、1つ前の国にいる時に
「次の国でどこ行こかな?」っていうのを調べてた。
ボリビアの次はペルー。
ペルーって何があんねやろ?って検索。
そこには"マチュピチュ遺跡"と書いてあった。
「へぇ〜、マチュピチュってペルーにあるんや」
もちろん名前は知っていたが、マチュピチュがペルーという国にあるのはその時知らなかった。
「マチュピチュは絶対行きたいな!」
そう思い、ペルーでの最初の目的地が決まった。
2020年3月14日
ボリビアのラパスからペルーのクスコへの向かう夜行バスのターミナルで事件は起きる。
直接話してはないが、その時日本人の女の子2人組がバスターミナルでたぶん僕と同じバスを待っていた。
すると、バスターミナルのスタッフから
「あなた達は乗れません」と言われているっぽい。
たぶんその時「アジア人は新型コロナウイルスを持っているかもしれない」という偏見が南米でも出始めたタイミングだったと思う。
(南米の人にとっては中国人も日本人も区別がつかない)
確かに南米に入ったあたりから、
新型コロナウイルスのニュースは度々聞くようになっていた。
最初は気にしてもいなかったが、
もう気にせざる得ないくらいに広がっていた。
ちなみに僕はというと、、、
何も言われへんかった笑
4分の1とはいえ、南米の血が入ってる。
おそらく現地の人やと思われてた笑
無事に夜行バスに乗り、"ペルー"へ向かった。
・27ヶ国目、ペルー
夜行バスに揺られ、ラパスからクスコへ。
窓の外には、アンデスの山々やチチカカ湖が広がっていた。

「いよいよ南米もあと4ヵ国かぁ〜」
この時の僕はまだ知らなかった。
この国で200日以上過ごすことになることを。
そして、人生を大きく変える場所になることを。

石畳の道、インカの名残が残る街並み、
早朝のクスコに到着した。

ペルー最初の目的地は、"マチュピチュ遺跡"
遺跡の山の麓にある、マチュピチュ村を目指す。
バックパッカーの定番ルート、
"スタンドバイミーロード”のチケットを購入した。
スタンドバイミーロードとは、クスコの街から乗り合いのバンで7時間、そこから線路の上を3時間歩いてマチュピチュ村に向かうコース。

似てるという理由で旅人の間でそう呼ばれている
線路の上を歩く距離は10km。
重たいバックパックを背負って、アンデスの山奥を歩くのはけっこうハード笑
クスコを出発してから10時間、
ようやくマチュピチュ村に到着した。

マチュピチュ村は山に囲まれた小さな村。
街の真ん中には川が流れていて、
レストラン、お土産屋さん、ホテルがたくさんある。
どこか日本の温泉街っぽい雰囲気もあって、懐かしい感じがした。(実際に温泉もある)
マチュピチュの年間観光客数は当時150万人以上。
この日はまだ、
普通に世界中からの観光客がめちゃめちゃいた。
「明日の朝、マチュピチュ遺跡に行こう!」
そう思い、早速入場チケットを買いにいった。

その日の夜、
宿に戻ると宿泊客がみんなテレビを見ている。
僕も見てみたら、
スペイン語でよく分からへんけど、
"コロナでペルーがロックダウンするらしい!?"
「明後日から2週間ロックダウン...マジか...」
しかもペルーのロックダウンはかなり厳しめのルール。
国際線も国内線も飛ばない。
バスも動かなくて、隣の街に行くことすら禁止。
明日の23:59までは移動可能なので、帰国する人や国内移動する人は直ちに動いて下さいとのことだった。
その時、思ったのは、
「良かったー!!!!ラッキー!!!!」だった笑
だって、明日の早朝なら、
ギリギリまだマチュピチュ遺跡に行けるやん!

朝イチでマチュピチュ遺跡を見て、
そのままクスコに戻って、リマかエクアドル(次の国)まで移動しよう!
念のため外務省のホームページを見てみた。
次に行くはずのエクアドルは、
すでに入国禁止になっていた。。
「あかんやん...」
ゴールのトリニダード・トバゴをちょうど30ヵ国目に設定していた計画が崩れた笑
(A型にとってはこれ以上ない屈辱)
「うわぁ〜、コロナほんまにええ加減にせぇよ」
ただ、その時はまだトリニダード・トバゴは入国禁止にはなっていなかった。
どうせどっかで監禁されるなら、
せめてトリニダード・トバゴでされたい。
「入国禁止になるまでもう少しだけ持っといてくれ〜」
本気でそう思ってた。
そして翌朝。
僕はマチュピチュ遺跡へ向かうため、
村から遺跡に向かって歩き始めた。
あれ?村の入り口に誰かいる。
あれは、、、警察や。
「今日ってまだ、マチュピチュ遺跡行けますよね...?」
.
.
.
「行かれへん、今日から閉鎖や」
はい、最悪...
マチュピチュ遺跡はすでに封鎖されていた。
今日の23:59までしか移動はできない。
さぁどうする俺!?
よく考えてみたけど、
トリニダード・トバゴまで行くのは
飛行機的に絶対間に合わない。
つまり、選択肢は2つ。
"クスコまで戻って2週間監禁"
or
"マチュピチュ村に残って2週間監禁"
他の観光客達はこの日の電車でみんなクスコへ戻った。

マチュピチュ村に残ったところで、
遺跡は封鎖されている。
そもそも、
「マチュピチュ村で2週間監禁って、何すんねん」
最初はそう思ったけど、少し考えてみた。
ここからまた10時間かけてクスコに戻ったところで、
どうせ2週間後にロックダウンが解除されたらマチュピチュ遺跡に来たくなるやんな?
また10時間かけてここまで来るのも面倒くさすぎるやんな?
しかも、
マチュピチュ村で2週間も過ごす人って絶対おらんよな?
「なんかおもろそうやん!ここ残ろ!」
またいつもの直感笑
(今となってはこの時この判断した自分を褒めちぎりたい)
しかし、問題は泊まる場所。
ロックダウンで
ホテルもレストランも全て営業停止命令がでてる。
「野宿か...?」
とりあえず、
昨日泊まった宿に行って泊まれるか聞いてみたが
もちろん断られた。
「大丈夫!絶対なんとかなる!」
と自分で自分に言い聞かせて、他の観光客が続々とクスコに戻る中、僕だけ村中の泊まれる場所を探し回った。
2軒目、断られる。
3軒目、断られる。
そして4軒目。
プライベートルームとして
マンションの1室を使っている部屋があるから、
そこならホテル扱いにならんから泊まってええよと言ってくれた。
そこが、
今も僕にとって本当の家族のような存在になる人たちのところだった。

こうして、
僕の2週間のマチュピチュ監禁生活が始まった。
まさかその生活が、
7ヶ月間になるとは知らずに...笑
・マチュピチュ監禁生活

ペルーのロックダウン中のルールは厳しかった。
最初はたしか、
月・水・金は女性のみ外出可能。
火・木・土は男性のみ外出可能。
そんな感じで、
外に出られる日も決まっていたし、
スーパーに食材を買いに行くたびに警察に止められて、理解できないスペイン語でずっと質問された。
時には、
警察署に連れて行かれたこともあった。
監禁生活の2週間、時間は有り余ってる。
僕はYouTubeを始めた。

「マチュピチュに監禁された日本人」
マチュピチュ村での監禁生活。
旅の持ち物紹介や、世界中のボクシングジムで戦ってきた映像などいろいろ作ってみた。
友達もみんなSNSでめっちゃ拡散してくれて、
チャンネル登録者1000人なんてすぐに超えて、収益化して監禁中の生活費にしようと思ってた。
そんな甘くはなかった笑
寝る間も惜しんで編集したYouTubeは、
結局チャンネル登録者数500人くらいからは伸びなかった。
自分で撮影、編集をやってみてYouTuberすげぇって思った笑
2週間後、
「よし、マチュピチュ遺跡に行ける!」
と思ったらロックダウンはまた2週間の延長。
その後も2週間単位で延長に次ぐ延長。
途中から、
「あれ?これほんまに日本帰られへんやつやん...」
そう思い、
ペルーにある日本大使館にメールで問い合わせた。
ちょうど同じタイミングでリマやクスコに閉じ込められてる日本人観光客は他にもいた。
そういった方達に向けて、臨時の移動バスや、特別国際便があるらしい。
(料金はとんでもなく高かったけど...)
でも、マチュピチュ村は例外だった。
山奥すぎて車では来れないし、
鉄道も止まっている。
つまり、どうにもならない笑
「マチュピチュ村はどうにもできませんね...」
日本政府でもどうにもできないならしゃーない。
帰国の線は諦め、考え方を切り替えた。
「この村で、できることをしよう」
時間だけは山ほどあった。
まず、資格の勉強をした。
帰国したらジムを作りたかったから、スポーツ系やダイエット系の資格の取得を試みた。
Kindleで資格試験の本を読み漁り、
Kindleにないものは、おかんにテキストを購入してもらい、1ページずつ写真を送ってもらった。
(おかんありがとう笑)
結果、
マチュピチュ村滞在中に資格勉強したもので、7つの資格を取得した。
(ただ、今は全く内容を覚えていない笑)
次に毎日10km走った。
これはロックダウンのルールが少し緩くなってからやけど、最初マチュピチュ村に来る時に歩いた線路の上を毎朝走った。

途中でマチュピチュ遺跡のある山の横も通るので、
毎日、山の下から米粒くらいに見えるマチュピチュ遺跡を眺めていた。

せっかくなら新しいこともしたい
そう思って、ヨガもスタート。
宿のオーナー、パズがヨガの先生をやっていたので、毎日夕方のヨガレッスンに参加させてもらっていた。

毎朝のランニング終わりには、
川の上でヨガして瞑想をするっていうのが、
僕のマチュピチュ監禁ルーティーン。
悟りを開いた仙人みたいな生活してた笑

そして、村の子ども達に毎日ボクシングを教えるようにもなった。
パズのヨガレッスンにはいつも生徒さんであるママと、その子どもたちが一緒について来てた。
「この子たちにボクシング教えたいな!」
そう思って、毎日ヨガレッスンの後は
ボクシングクラスを行った。

もちろん、お給料をもらっていたわけではない。
その代わりに、
ママさんたちがご飯を作ってくれたり、
バナナをくれたり、飲み物をくれたり。
物々交換のような生活をして、マチュピチュ村での生活費を極限まで抑えた。
ボクシングを教えることは今まで世界中でずっとやってきたことだから、僕にとっては新しいことではなかったけど、村の子ども達にとっては初めての体験。
子ども達が毎日楽しんでくれる姿を見て、僕も元気をもらってた。

こんな状況でも、
"自分にしかできないことがある"
ケニアのスラム街で感じたことを思い出した。
マチュピチュ村の人たちにはこの監禁生活で本当にお世話になったので、感謝してもしきれない。




日に日に村人達と仲良くなっていった。
ペルーの公用語はスペイン語。
英語ならまだしも、スペイン語なんて挨拶や数字すらもわからない笑
でもそんな事は関係なく、マチュピチュ村の人々は1人だけ取り残された僕に優しく接してくれた。
監禁から4ヶ月ほど経ち、ペルーのロックダウンも少し緩くなった頃、
クスコからドイツ人が歩いてマチュピチュ村まで来たらしい。
でも、
「この村は今、現地の人しか入れない」
と警察に追い返されてた。
「あれ、俺は?笑」
完全に現地人扱いされていた笑
嬉しいような、
「なんでやねん」と言いたくなるような笑
でもそれくらい、
僕はマチュピチュ村に馴染んでいた。
・ラストサムライ
ある日、マチュピチュ村の友達と、
プトゥクシ山へ登りに行った。


プトゥクシ山はマチュピチュ遺跡の隣の山で、マチュピチュ遺跡より高いので、遠くからマチュピチュ遺跡が見下ろせる。
「せめて遠くからでもマチュピチュ遺跡を見せたい」
と、みんなが連れて行ってくれた。

落ちたら大怪我では済まない笑
怖かったけど、なんとか登りきることができた。

この時も、そして毎朝ランニングしている時も
"遠く"にマチュピチュ遺跡を見ることはできた。
「ほんまにあそこ、行けんのかな」
そう思いながら、遠くから遺跡を眺めた。

マチュピチュ村に監禁されて7ヶ月が経とうとしていた頃、ついに国内と国外の移動許可が来週から出るいうニュースが流れた。
「ついに、、、これで日本に帰れる!」
でも、
マチュピチュ遺跡が開放されるというニュースは無かった。
「結局、遺跡には行けへんか...」
心の何処かで
最後はマチュピチュ遺跡が開放されて、
遺跡を見てから帰国する。
そんなハッピーエンドを思い描いていたので、正直ショックだったが、
「この村にはまた会いに来る人たちがたくさんいるから、もう一度来ればいい」
って、マチュピチュ遺跡に行くのは諦めた。
遺跡を見ることなんかより、
マチュピチュ村の人々とかけがえのない時間を過ごすことができたから後悔はない。そう思っていた。
.
.
.
そんな時、
マチュピチュ村にペルーの新聞記者がやってきた。
「コロナで観光客がいなくなり、ゴーストタウンになってしまったマチュピチュ村は今どうなっているのか」ということを取材しに来たらしい。
たまたまその新聞記者が泊まったホテルで、
僕の友達が働いていた。
新聞記者と友達が話している中で、
「この村に、1人だけ日本人が残っている」
ということをその友達が記者に伝えたらしい。
翌日。
毎日の日課であるランニングをしていると、
向こうから見たことない2人組が歩いてくる。
偶然すれ違ったのがその記者たちだった。
すると、
「君がもしかして……」と、声をかけられた。
最初は何のことか分からなかったけど、
話を聞くと、友達が僕のことを話したらしい。
「記事になるかは分からないけど、一応取材させて」
そんな感じで、
30分くらいインタビューを受けて、写真を撮った。

「もしかしたら記事になるかもしれないから、
その時はまた連絡するわ」
僕も記者も、そこまで大きなことになるとは思わずに
その日は別れた。

数日後、記者から写真が送られてきた。
「マチュピチュ村に残された最後の観光客」
その記事は、
ペルーの全国紙の一面に載った。
(日本でいう毎日新聞とか読売新聞レベル)


「彼は村で子ども達にボクシングを教え、
地域の人たちと交流しながら、
マチュピチュ遺跡が開くのを待っている。
彼はハッピーエンドを迎えることができるのか。」
そんな内容の記事だった。
この記事が出ると、
まず最初に反応してくれたのは、
マチュピチュ村の人たちだった。
村の人たちが、
SNSで僕のことをどんどん拡散してくれた。
そこからはもう携帯が鳴り止まない。
ペルー中から応援メッセージが届くようになった。
「頑張って!」
「応援してる!」
そして、
「彼をマチュピチュ遺跡に行かせてあげて」
「7ヶ月も待っていたなら、行かせてあげるべきだ」
そんな声が、
ペルー国内でどんどん大きくなっていった。
自分でも、
もう何が起きているのか分からない。
記事を書いてくれた記者。
拡散してくれたマチュピチュ村の人たち。
応援してくれたペルー中の皆さん。
いろんな人の想いが重なって、
このニュースはペルー政府にまで届いた。
そして、ある日。
僕のMessengerに、
一通のメッセージが届いた。
送り主は、
マチュピチュ遺跡の最高管理責任者のホセさん。
そこには、こう書かれていた。
「明日、マチュピチュ遺跡に行くぞ」
・マチュピチュ、独占
2020年10月10日。
僕の人生を変えたこの日を一生忘れることはない。
朝、マチュピチュ遺跡行きのバスに乗り込んだ。
ちょうど雨季に入りかけくらいだったけど、
この日の天気は雲一つない青空だった。

バスに乗っていたのは、
僕と、遺跡の最高管理責任者ホセさん、
マチュピチュ村の職員、そしてカメラマンが3人。
たった6人。
世界中の人々が
"一生に一度は行きたい"と願うマチュピチュ遺跡。
今現在は1日4〜5000人がが訪れる、誰もが知る世界遺産。
そこに6人だけで入場する。
観光客は僕だけ、加えて
最高管理責任者のガイド付き。
なんて贅沢なんや笑
毎日、山の下から見ていた場所。
7ヶ月間、
行きたくても行けなかった場所。
その入り口に、ついに到着した。

7ヶ月前に買ったチケットを見せ、入り口をくぐる。

一歩一歩、遺跡に向かって進んでいく。
.
.
.
.
.
心臓が高鳴る。
.
.
.
.
.
そこには、
誰もいないマチュピチュ遺跡が広がっていた。

「すげぇ...」
写真で見るのとは、レベルが違う。
山の迫力。
石の存在感。
空気の静けさ。
目の前に広がる景色のスケール。
もちろん、その絶景に感動した。
でも、
その時、それ以上に思い浮かんだのは
今日までお世話になったマチュピチュ村の人たちの顔だった。
本当の家族みたいに接してくれたファミリー。
ご飯を作ってくれたり、いつも一緒に遊んでくれた友達。
僕の記事を拡散してくれた村の人たち。
その人たちのおかげで、
今、自分はここに立っている。

普段は立ち入りできないスポットなども含めて、
その日は10時間くらいマチュピチュ遺跡を隅々まで観光させてもらった。
観光が終わると、突然の大雨。
まるでマチュピチュ遺跡が僕のことを迎えいれてくれたみたいだった。

「人類史上初、1人のためだけにマチュピチュ遺跡が開放されました!」
このニュースはペルー国内だけでなく、
CNN、BBC、New York Timesなどの世界的メディアでも報道され、
日本のメディアにも取り上げられた。
数日後にはホセさんから
「もう1回マチュピチュ行くぞ」
と言われ、
ペルー観光復興の象徴として、
副大統領、大臣とご一緒した。



その時ホセさんが、
「君、世界中でニュースになってるで」
と言ってきたので、
「あなたがマチュピチュ遺跡に連れて行ってくれたおかげです!ありがとうございます!」
と返すと、
ホセが一言、
「This is Life」 (これが人生や)

痺れること言うなぁ〜!!!!
さらに数日後、
マチュピチュ村役場の村長室に呼ばれた。
オンラインで雑誌のインタビューとのことだったので、パジャマで行った笑
ただ、インタビューが終わってもなかなか帰してくれない。
「なんでかな〜」と思ってたら、
村長が立派な証書を渡してきて、
「今日からマチュピチュの観光大使なっ!」
.
.
.
「え」
.
.
.
「ええぇぇぇぇ!?観光大使ぃぃぃぃ!?」

パジャマでごめんなさい...
マチュピチュを改めて世界中に広めたということで、僕はマチュピチュ村から"観光大使"に任命された。
「あとこれ、マチュピチュに来た著名人のリストやからここにもサインしといて!」

どうやらマチュピチュ村では
皇族のマコ様(当時)と片山 慈英士は肩を並べているらしい笑
"ほんまに人生、何が起きるか分からへん"
2020年3月15日、この日に
マチュピチュ村に入っていなかったら。
村の人たちと仲良くなっていなかったら。
友達が記者に僕のことを伝えてなかったら。
あの日、ランニングをサボっていたら。
何か1つでも違っていたら、
この出来事は起こっていない。
たまたまマチュピチュという場所で
ロックダウンに遭って、運が良かった。
それは間違いない。
でも、
ただ運が良かっただけじゃない。
行動し続けてきたから、
その運に出会えた。
お金がなくても、英語が話せなくても
お金が尽きても、死にかけても、
諦めずに「世界一周を叶えたい」って
旅を続けてきたから、その偶然を掴めた。
そして、ここからは僕の解釈で、
ちょっとスピリチュアル的なこと。
僕は世界一周してきて、色んな国の子ども達にボクシングを教えてきた。
たくさんの子ども達を笑顔にしてきた自信がある。
その積み重ねが、巡り巡ってこの出来事として返ってきたって考えてる。
「良い事したら巡り巡って、必ず良い事が返ってくる」
マチュピチュでの奇跡的なこの出来事は、
世界中のボクシングを教えてきた子ども達からのお返しのプレゼントだと僕は思っている。
・マチュピチュ村の初代村長は日本人
後から知ることになるが、
この奇跡には、もう一つ理由がある。
世界中の誰もが知る"マチュピチュ遺跡"
山の麓のマチュピチュ村には、
かつてこの村の発展に人生を捧げた1人の日本人がいた。
その人の名前は、野内与吉さん。

福島県出身の日本人で、
21歳という若さで遠く離れたペルーに渡り、
マチュピチュ村の発展に大きく貢献した人物。
村にホテルを作り、水路や温泉、電気まで整備。
地域の発展に尽くし、
のちにマチュピチュ村の初代村長になった。
僕は、マチュピチュ村に閉じ込められるまで、
そんなこと全く知らなかったが、後からその話を知った時に全てが繋がった気がした。
なぜマチュピチュ村は日本の温泉街っぽい雰囲気なのか。
なぜ村人たちは日本人の僕に対して優しく接してくれたのか。
なぜ僕がマチュピチュを独占できたのか。
この村には、
ずっと昔から日本人との深い繋がりがあった。
僕も、野内与吉さんと同じ日本人。
少なくとも、
僕がマチュピチュ遺跡に入ることができた背景には、
この村に与吉さんが残した信頼の歴史も
あったんじゃないかと思っている。
日本では、
この野内与吉さんの存在はまだまだ知られていない。
日本とマチュピチュを語るうえで、
絶対に欠かせない偉人。
このことを後世に伝えていくのも、
観光大使になった僕の責任だと思っている。


マチュピチュ村に与吉さんの顕彰プレートが完成した
タイトルの
"マチュピチュに愛された男"
このフレーズはある方に名付けていただいて、
これ以上ないくらいにしっくりきている言葉。
マチュピチュに愛された男として、
今度は僕が、日本とマチュピチュをつなぐ架け橋になると心に決めた。
こうして僕は、
ただのバックパッカーからマチュピチュの観光大使になった。
そして、
ここから人生が変わっていく。
