短編小説|8F
【前回までのあらすじ】
パソコン音楽家の冷沢は、三年間曲を書けていない。
そんな時、三年前まで暮らしていたマンションの10階に、『drum set』を残置している事を思い出した。
その音を聴く事ができたら、また曲を書けるのではないかとの思いで、冷沢はマンションの中に入った。だがその中は不条理が支配する世界だった。
冷沢はランドセル、ポプリ、集合写真、ゲームウォッチなどの支援物資を貰いながら彼の深淵へと登って行く。
冷沢は電車に乗っている。
毎日、車内はいつも同じメンバーが乗っている。
冷沢は、この電車の中のことをほぼ知り尽くしていた。だが行き先の事となると、さっぱり分からなかった。
いつもの駅で、いつも一緒に乗る同年代の男はリュック=サックを前側に装着して、必ず車内の中央を目指す。
彼は車内の出入口付近に乗客が集まって、中央がガラ空きになっているのが気に入らないようだった。
実は冷沢も彼と同じく、中央から詰めるマナーを守る事にこだわっていた。だから彼と車内で隣り合うことが多かった。
「なぜあなたは車内中央にこだわる?」
その日、唐突にその男は話しかけてきた。
「そうアナウンスされるからだ」と冷沢は応えた。
「あなたは言いなりか?」
「まあ、そういうことだ」
「さては言いなりを楽しんでいるな?」
「まあ、そういうことだ」
「あなた、冷沢だろ?」
「そうだ」
見知らぬ男だった。
「私は仲嶋だ」
「そうか。今後ともよろしく」
「思い出さないのか?」
「そもそも知らない」
「伊園、野球しようぜ。の仲嶋だ」
「思い出した。あの仲嶋か。君は?」
「冷沢。久し振りだな!」
「久し振りも何も今まで毎日会っていたじゃないか」
「まあそれはそうだけど、お前の意識の上では久し振りだろ?」
「まあ、そうだな」
「この電車は、鉄骨の上を走っている」
「そうなのか」
「そうだ。レールもない。そして鉄骨の下は真っ暗闇だ」
「この電車はどこまで行くのだ?」
「伊園家だよ」
冷沢は思い出した。
伊園から借りたままの500円をまだ返していない。正確には借りて以来たまたま会えず、時だけが過ぎてしまったのだ。
冷沢はときどきその事を思い出しては、500円を返したくなる衝動に駆られていた。
「お前、500円返してないだろ?」
「まあそうだな」
「返せよ」
「この電車に最後まで乗っていたら返せるな」
「そういうことだ」
仲嶋、伊園、冷沢の三人は小学校時代の友人だ。
主に仲嶋が伊園を野球に誘い、伊園の都合がつかないときに限り、冷沢に声が掛かる、という関係だった。
冷沢は音楽作りのアイデアに行き詰まったときに、よく仲嶋と野球をした。つまり、伊園と冷沢が会うことはほとんどなかった。
冷沢は野球のことを殆ど知らない。冷沢にとって野球とは、仲嶋とやる二人だけのものだった。
冷沢はふと、この電車の秘密を披露したくなった。
「この電車は電車ではない」
「じゃあ、何なの?」
「この電車は女だ」
「女?」
「つまり、機関車トーマスみたいなものだ」
「全然分からないよ。どういうこと?」
「つまり、ここは車内ではなく、体内なのだ」
「車内が女くさいからそんなこと言ってるのか?」
「違う。疑うのなら、実験してみようか」
そう言うと冷沢は、ズボンの裾の隙間から細くて白い触手を無数にまろび出させた。
触手は車内の床を這い、みるみる間に先頭車両に到達した。
運転手が必死の形相で電車を操作していた。少しでも操作を誤ると奈落の底だ。脂汗を流しながら異常に集中して、ジョイスティックを握っていた。全ての触手の先端は鉄骨渡りの緊張感で汗ばんだ運転手の脇の下を目指した。
運転手はやはり女だった。
彼女は脇の下の違和感に暫く耐えていたのだが、程なく白目になった。連動した機関車トーマスの方の顔も同じく白目になった。
その瞬間、電車はコントロールを失い、鉄骨から転げ落ちた。
電車女の残機が一機減った。
「何やってんだよ」
「……!」
冷沢は今の一連の触手を使った快活があまりにも可笑しくて、息ができなかった。
「何が可笑しいんだよ? 意味なく一機減らすなよ。また途中からになったし。何のメリットもないことをして遊ぶな」
「お前が言うのももっともだ」
冷沢はときどき、こういう無意味な遊びを無性にしたくなるときがあり、特に幼いときはその傾向は顕著だった。仲嶋と久し振りに会って、その嗜好が顔を出したのだった。
『イソノー。イソノー。下り口右側です。開くドアーに、ご注意下さい』
「着いたな」
冷沢は、500円玉を握りしめ、高床式で三角屋根の、まるでバスの待合室みたいな伊園家のドアを叩いた。
誰も出てこなかった。
よく見ると、家の前に賽銭箱があった。冷沢はそこに500円を入れた。すると伊園が賽銭箱の隙間からシート状になって出てきた。それがみるみる厚みを持って、大人の伊園になった。
冷沢と仲嶋は「久し振りだな」と言った。実際、40年振りだった。
ふと伊園家のアーチ状に縁取られた窓を見ると、家族全員が見ていた。
伊園家の家族構成は何やら複雑だった様に記憶している。父、母、姉、伊園、妹、姉の夫、姉の息子、である。つまり、姉が13歳ほど歳が離れている上に、その夫が同居しているだけで複雑なのに、その息子がまるで伊園の弟と勘違いしてしまう雰囲気を持っていた。これ程複雑な構成なのに、誰もその事に違和感を抱かないのが不思議だった。
「500円返したからな」
「やっと返って来たな」
「伊園、野球やろうぜ」
「いいよ」
ふたりは行ってしまった。
冷沢はこの終点の伊園家からどう上階に行けば良いのか手掛かりが掴めず、逡巡した。
まさか、戻って鉄骨渡りをするしかないのか。
ふと、高床式になっている伊園家の床下を見ると、自動改札機が設置されていた。赤いランドセルが蒸れて痒かった。ランドセルを下ろして、中から目ぼしいものを探した。試しに自分の書いた恥ずかしい小説や曲をタッチしてみた。
警告音が鳴り、行き交う人々が白い目で冷沢を見た。
よく見ると改札の読取口は溝になっていた。そこにゲームウォッチ『SCUBA』を埋め込むと、ぴたりと嵌った。改札は紫色の瘴気を立ち上げながら開いた。
改札を通過すると、すぐに下りのエスカレータになっていた。そこから地下鉄を乗り継いで行くのだと推測できた。
見ると、分かりやすいように『drum set方面』と書かれていて、乗り継ぎの降車駅も必ず『音楽戦争駅』となっていた。最後の『音楽戦争駅』を降りると、ロールプレイングゲームの村人のような人物がエスカレータの傍でポケットティッシュを配っていた。
彼には話し掛けなくてはエスカレータに乗れないようだったので、通行人の邪魔にならない位置から話し掛けた。
ティッシュ配りは声を掛けこそすれ、掛けられることなど想定していませんでした、と言うような白々しいリアクションをした。
そして「この先は戦場ですよ」とゆっくり実況風の棒読みで言った。
ポケットティッシュを受け取ると、びっしりと文章が書かれていたが、全く読む気にならなかった。「目覚めよ」とか「赦し」とか「見ている」などが書かれていたからだ。
長いエスカレータに乗っていると、バットを肩に背負い、その先にグローブを括り付けた仲嶋と伊園が下りエスカレーターから降りて来た。
『お前はやっぱり音楽なんだな』
『ホントは毎日野球に誘いたかった』
などと言った文言が、彼らの頭上に表示されていた。
伊園と仲嶋は仲が良くて、冷沢はその間には入れなかった。でも別に良かった。
冷沢は「おれは音楽をつくるだけだし」と思っていた。
だが、本当はさみしかった。
エスカレータを登り切ると、あたりは霧に包まれていた。
(つづく)
