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短編小説|1F

10階建ての建物の真正面に冷沢ひやさわが立っている。
これはかつて冷沢が住んでいたマンションなのだが、今は全く意味不明の建造物に成り果て、ひたすら訪問者を拒む雰囲気を醸し出している。
確かにこの建物は10階建て、と言えば10階建てなのだが、どうも上の階に行くに従い、蔦が絡まり、毒毒しい花が咲いたり、紫色の霧が窓から吹き出していたり、とにかく訳のわからない色というか形に包まれて、もう最上階の方などは言葉で言い表せない感じで、あえて印象だけで言えば認識、みたいになってしまっている。

1F 

冷沢はこの建物に何の躊躇もなく入って行く。
ロビーにはコンシェルジュがずーっと奥の方まで並んでいる。よく見ると手前から5人目のコンシェルジュの顔が、1人目の顔と同じだったりする。
奥の方に行くに従い、ぺらぺらの等身大パネルだったり、ひどい時にはカウンターの上に虫かごが置いてあってカブトムシの雌が入っているだけだったりする。その中で一際蛍光グリーンに輝く中年男性に冷沢は話し掛ける。
「10階の1038号室が、私の部屋なのだが」
蛍光グリーンは、あっそう。と言う顔をしたかと思うと、目からbeamを出して冷沢の眼球の虹彩を読み取った。
「1038号室は温水ぬくみず氏です」
「私は退去したつもりはない」
蛍光グリーンはまたしても、あっそう。と言う顔をして、「冷沢氏が居住した記録はあります。今は温水氏が占有しています」
「だからそれは単なる占有だろう? 出て行って貰えないのか」
「それは冷沢様御本人が直接占有者様と調整して頂かないと」
「分かった」
「モデルルームを、御覧になりませんか」
急に見学者相手みたいな、丁寧な口の聞き方だ。
恐らくプログラムの分岐バグらしい。冷沢は自分の部屋の現状を見てみたくなった。
「1038号室の間取りを見せて貰えないか」
「はい。承りました」
その瞬間、冷沢はバーチャル空間に没入した。
「くそっ、掃除してないじゃないか、温水っ!
……まあ良い。私のdrum setはあるのか。確か、西側の六畳和室の押入の下の段にバラして置いてあるはず……。
おいおいおいおい! 無いじゃないかっ! 私のdrum set!」
手当たり次第に押入の襖を開けると天袋。そこにスネアドラムがあった。

急に蛍光グリーンコンシェルジュが目の前に出て来た。
「あのこちらは入居中の物件でした。
申し訳ありません本当は見せてはいけないお部屋でしたゴメンね。個人情報保護法にアナタが抵触してしまうのでこの事は何卒御内密にお願い致します申し上げます」
冷沢は少なくともスネアドラムは確認できたし、ある程度満足していた。
「私が言うか言わないかは私が判断する事である」
蛍光グリーンの顔色はもう真っ青だ。
「マズいので。アナタがマズいので」
この期に及んで自分のミスを私に着せて、保身に走っていやがる。
冷沢はそのままロビーの最奥まで進み、一つしかないエレベータのボタンを押した。
いくら押しても反応がない。
どうも通電していないようだ。
「やはり階段で行くしかないのか。面倒だ」と独りごちた。
エレベータ脇の階段室の扉が目に入る。そこを開けると、むわん、とした蒸し暑い空気が充満していた。
確かここの下はボイラー室だったはずだ。恐らくその蒸気が上がって来ているのだろう。
今更こんな場所に用はない。だが部屋に置いてあるdrum set。あれがないと私は完全に終わる。終わる感じがする。あれさえあれば新しい曲が作れる感じがする。他にもうやれることもないし。それと「温水」とは何なのだ。勝手に人の家に上がり込んで住み着き怪しからん、と思った。
冷沢は体力がない。
彼は今までパソコン音楽を作る仕事をして来ただけで、運動など殆どしていないため無理もない。
そんなことより、彼はもう3年間曲を書いていない。書けないのだ。才能が枯れてしまったのかもしれない。だが彼はそれだけは認めたくなかった。色々とやれる事はやった。そして最後に思い出したのは、3年前まで住んで、そのままにしていたこのマンションのdrum setだった。
本当にエレベータの故障は痛い。こんな蒸し暑い所を10階まで昇らねばならんのか。
「あ」
2階と3階の間の踊り場が、コンクリートの瓦礫で閉ざされ、これ以上行けなくなっていた。
「2階を通り抜けて、反対側の階段から行くか」

2Fへつづく

#なんのはなしですか

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