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掌編小説|伊東のバイト先のはなし①

伊東は結局就職しなかった。
大学四年のときは周囲に影響されて、公務員試験を受けてみたりしたが、当然のように全滅した。
学生のときは車がほしくて、居酒屋でひたすら働いた。その経験を通して悟ったのは、兎に角自分は働くのが嫌いだ、という事だった。
そうは言っても、働かない事には生活が成り立たないし、直近では家賃を払わないといけない。
伊東は本気で考えた。如何に働かず、かつ自分なりのQOLを満たす、究極のバランスは何処にあるのかを。
そのために譲れない項目を棚卸しした。

①寒さを防ぐ屋根と壁
②水道
③電気
④通信環境
⑤暖房
⑥バランスの取れた食事
⑦清潔な衣服と寝具

伊東はこの7項目を『神セブン』と呼ぶ事にした。
あれ程ほしくて働いたのに、車の事は出て来なかった。自分でも不思議だった。
車を維持する事よりも、働きたくない気持ちの方が強い事が分かっただけでも、大きな収穫だった。
その日の内に車は手放した。二万円だった。
学生時代に入っていたアパートから出て、壁の薄い六畳一間に引っ越した。
そのときに持ち物も極力現金化した。
そうすると、キャンプ道具に毛が生えた程度の持ち物しか残らなかった。
時給の良さそうな塾講師のアルバイトをしようと思ったが、どういう訳か、どこでもシフトに入れるにもかかわらず採用には至らなかった。後で知った事だが、その塾は大学生の間でポストが受け継がれていたらしく、卒業生が横から入るような隙間などなかったのだった。
居酒屋はもう、ウンザリだった。
伊東は殆ど酒を呑まない。
酔っ払いのオヤジが女のバイトにちょっかいを掛ける雰囲気が大嫌いだった。
素面で声を掛けられない癖に、酒の力に任せて声を掛けるのは卑怯な気がした。
バイト中ずっとそんな気持ちで、その変な正義感みたいな自分の思考回路と向き合わされるのも嫌だった。
結局、大学のときにやらなかったバイトをする事にした。

伊東は25歳になっていた。
大学卒業後、倉庫のバイトを2年続けた事になる。
仕事は、朝から晩までコンベアから流れてくるダンボールを台車に積み重ねるだけの内容だった。
始めた頃は、その積み重ねの順番にコツがある事が分からず、コンベアにダンボールが溜まった。
自分より若いヤンキー女が近付いてきて、面倒くさそうにバーっと台車に載せられた。
今思うと、そんな事でマウントをとるなよ、と思うだけだった。
結局半年くらいそれをやっていたのだが、会社からフォークリフトの免許を取ったら時給上げてやる、と言われて免許を取った。
取得費用も出してやる、という美味しい話だったのだが、しばらくしてから五千円振り込まれただけだった。確認しに行ったら、あとは時給で還元する、と訳のわからない事を言われた。辞めてやろうと思ったが、また面接からやり直す事を思うと面倒になった。
フォークリフトに乗るようになって気付いたのは、ここにいる人間は分からない事を理解しようとする習慣がない、という事だった。
どう見ても効率的な順番があるにもかかわらず、最初に覚えた順番を頑なに繰り返すだけだった。
伊東が「こうしたら早いですよ」などと言っても、曖昧な苦笑いをされたり、「分かんねーけど」みたいな返事しか返って来なかった。
彼らは、新しいことは上長が命じない限り、覚えようとはしなかった。

そんな感じの繋がりしかなかったのだが、伊東生来の求心力の様なものが自然に発揮されて何人かの仲間が出来た。
この日も、仲間内で居酒屋に集まっていた。
耳にピアスを何個も付けた、背の低い我妻、という男がひたすら「っすねー」と言っている。
実家暮らしで小太りな笹木はニヤニヤしながら「意味なくね」と言っている。
前髪が異常に長い加東は、猫背で、少しずつビールを飲んでいる。
伊東が最初に知り合った男で、今も一番親しい仲邑が、「伊東ちゃん、アレなの?」と言っている。
伊東は、大学時代の仲間たちの事を思い出していた。彼らは分からない事を知ろうとしていたし、知る事によって、自分が成長する事を楽しんでいた。
それに比べて、ここにいる奴らは何だ。自分の脳が快適である事だけを優先するだけだ。その割につるみたがる。自分の脳で考えるのが苦痛だから周りから得る良さそうな情報を得ておけば失敗しても自分を責める事もないし、何よりいちいち考えなくて良い、と思っているだけだ。それすらも、考える事が嫌いだから自覚もできていない、と思った。
「さっきから、オバさんグループうるさくない?」と笹木が言った。
「っすねー」と我妻が言った。
「……。」と加東も、その意見に対して肯定的な事を言っている様だ。
仲邑が「伊東ちゃん。注意してきてよ」と半笑いで言った。
「お前が言えよ」と伊東は言ったが、仲邑が言ったら余計面倒な事になりそうだし、ここは自分がやんわりと促そう、と思った。
トイレに行くついでに、オバさんの席に向かい、「すいません。少しで良いんで、静かめに話してくれませんか。申し訳ありません。」と居酒屋バイト時代の言い方で言った。
オバさんたちは、あからさまに嫌な顔をしたが、とりあえず静かになった。

伊東が小便をし終わり、手を洗っているときに、股間に信じられない様な痛みが走った。
見ると股間から手が出て、それがキンタマをギューっと掴んでいる。
「いててててて!」
思わずうずくまったが、股間の手は硬く握られたままだった。
「ぎ!ぎぎぎぎ……!」
まるで万力で締め付けられた様な、とんでもない握力だった。
「……!!」
味わった事のない痛みが広がった。伊東はトイレのタイルの上で七転八倒した。動いていないと激痛で気が狂うと思った。
その手の持ち主は、伊東の背中を蹴飛ばし、「何が静かめに話してくれませんか?よ。店員でもない癖に」と言い残してトイレから出て行った。

気付いたら伊東は病院にいた。
あの後伊東は気を失い、そのまま救急車で搬送されたそうだ。
結局、片方の精巣が破裂したらしく、手術で摘出した、と聞かされた。

つづく

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