客観視が私を苦しめる
今日の学園祭のことをずっと考えている。
人と話していて、ふと気になる瞬間がある。相手の視線が少しだけ長かった気がした。名前を呼ばれた声に、いつもとは違うトーンがあった気がした。別れ際のたった一言が、気づけば何時間も頭の中を巡り続ける。誰かに心を向けているとき、人は些細な出来事のひとつひとつを、こうして何度も思い返すだろう。
そしてその後に、必ずあることに気づく。
気になっている相手が、自分に少しだけ特別に接してくれた気がして——でも冷静に考えてみると、そんなわけはないことの方が多くて。単なる偶然か、都合の良い解釈だっただけで。その「自惚れ」に気づいた瞬間の、小さな自己嫌悪とともに高ぶった気持ちに蓋をする感覚。
自分にはそういう思考のバイアスがある。いつも根っこには諦観と悲観がある。そしてその諦観を支えているのが感情をいつも外側から眺める癖だ。何かを感じた瞬間に、一歩引いて「これは何なのか」と問い始める。だから何かに期待しそうになると、先にそれを落とす。過度に期待をしてその希望が断たれた時に傷つくことを避けるために自分で先に守る。
中学生の頃にテレビで見た「人に期待するな」という教えを説いていた人の思想に結構強く引っ張られてここまで生きてきた。
だが、そんな「期待しない思考」が機能しない時もある。
まさに今日のように。
忘れられない今日の出来事
学園祭の1か月前ほどから、出店側と運営側の打ち合わせが行われていた。
会場のレイアウト、タイムスケジュール、出店紹介の段取り——そういったことを確認する短い集まりだった。そこで運営スタッフのひとりとして、一人の女性と顔を合わせた。(以降はその人のことを彼女と呼ぶ。)
1年生のころから顔は知っていた。最近同じ講義で顔を合わせるようになって、前から気になっていた人だった。打ち合わせの場で彼女は指示役として仕切っていた。自分はただ、出店側の一人として席に座って話を聞いていた。
そして今日、本番のオープニングで、出店紹介があった。
運営は想定以上に慌ただしかった。大量の出店者が次々と集まり、整列の調整や欠員の確認に手間取って、開始予定時刻はじわじわと遅れていた。彼女はそのトラブル対応に追われながら、名簿を照合し、一人ひとりの顔を確認していた。
そのとき、自分は気づいたことがあった。別の出店に参加している友人が、連絡上のミスで名簿から漏れていた。本人はすでに集合場所を離れており、直接伝えている時間がなかった。自分はその場で彼女のもとに向かい、友人の代わりに状況を伝えた。彼女は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに段取りを組み直して対処していた。
——自惚れかもしれないが、あのとき動いたことが、後のやり取りにつながっていたのかもしれないと、今になって思う。
彼女の指示のもと、出店紹介担当の人間が整列した。自分も列に加わり、大勢の来場者の前でゲームブースを紹介した。アプリでもプレイできる本格的なゲームブースを、私含めて有志たちで作り上げ、企画から今日の形にするまで約3ヶ月かかった。講義とバイトが基本軸だが、空いている時間にnote執筆はもちろん、アプリ開発に全力を注いだ。実装をしてプレビューを見て何回も何回もコードを書き直す。そんな地道で泥臭い作業だった。その短い出店紹介の間、彼女は列の端から全体を見渡していた。
ブースのオープンまで少し時間があり、先に食事を取っておこうということで一緒にゲームブースをやるメンバー数人と、会場の一角で食事をとっていた。開場からずっと動き通しだったから、座って食べられるその時間がありがたかった。
食事の途中、A君が通りかかった。A君は同じ学科で、よく講義などで一緒にいる。彼は今日、会場全体の撮影係として動いていた。担当エリアを回る途中でたまたま自分たちの席の前を通りかかり、少しの間、立ち話をした。撮影の合間の短い雑談だったから、ほどなくしてA君はまた別の場所へと歩いていった。
その20秒ほど後だった。
後ろから、「〇〇君」(私の下の名前)と声がかかった。
振り返ると、彼女が立っていた。A君を探している、と彼女は言った。
さっき別れたばかりだったから、大雑把に方向だけを告げた。彼女はそちらへ向かったが、しばらくして、遠くから私の方を「いないよ?」と助けてほしそうにこちらを見てくる。
それを見て私は迷いなく椅子から立って彼女のもとに小走りに駆け付けた。合流して私は「こっちでなくてあっちかも?」と言う。それを聞いて反応した彼女は自然な仕草で私の腕をそっと引いて、「じゃあこっちを探そうよ」と言って足早に私を連れようとする。あまりに急なことで私は頭の中が困惑でいっぱいになった。でもなぜか悪い気はしなかった。そして彼女と一緒に探すことになった。
見つかるまでにそれほど長い時間は要さなかった。見つかったとき、彼女がA君に話しかける前、私のもとの去り際にこちらを向いて優しい笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。ほんの一瞬のことだった。
でもそれだけで、どこかゲーム開発の重い疲れが少し軽くなるような気がして。私は本当に簡単な人間なのだろう。
ブースが始まった後、何人かの教授が足を止めてくれた。話題になっているという声も聞こえてきた。クオリティの高さを評価され、コンテストへの推薦まで受けるほどで的確なフィードバックもらった。そのことについて、自分もしばらく頭を使っていた。
それでも、頭の片隅では——彼女のことが、ずっとそこにあった。
席に戻るその数歩の間で、もう私の頭の中では分析が始まっていた。
なぜ、自分に声をかけてきたのか。
その場には他にも人がいた。彼女と自分は打ち合わせやオープニングで顔を合わせていたが、それ以上の間柄ではない。普段、会話をするような仲でもない。それなのに、背後から自分を呼んだ。
ひとつ、考えられることがある。彼女はA君と自分が仲がいいことを知っていたのではないか。同じ学科内のことだから、そういう情報が伝わっていたとしても不思議ではない。だとすれば、「A君の近くにいる人間」として自分に声をかけてきたということになる。
その場合、自分が特別だったわけではない。A君への近道として選ばれただけだ。
もうひとつ、考えていることがある。名前のことだ。
あのとき彼女は、自分のことを下の名前で呼んだ。苗字ではなく、下の名前で。
オープニングの出店紹介で、彼女は名簿を管理して出店者の顔を一人ひとり確認していた。ゲームブースの出店紹介代表として参加していた自分の名前と顔は、そこで把握されていたはずだ。名前を知っていたこと自体は、不思議ではない。
しかし——なぜ下の名前だったのか。打ち合わせやオープニングで顔を合わせていたとはいえ、言葉らしい言葉を交わしたのはほとんど今日が初めてだ。そんな相手を、下の名前で呼ぶ。自分の名字はそれほど多い方ではない。読み方で迷うような難しい字でもない。名字で呼んでも、何もおかしくなかったはずだ。それでもわざわざ下の名前を選んだのはなぜか。名簿にそう記載されていたのか、誰かに聞いたのか——その理由がわからない。わからないまま、少しだけ引っかかっている。
でも——引っかかるのは合図のことだ。A君が見つからなかったとき、遠くから再び自分を呼んだ。普通は諦めるか、別の誰かに頼み直す気がする。その場にいた全員の中から、もう一度自分を選んだ。
席に戻ると、メンバーのひとりが「なんで声かけたんだ」と言った。その場の全員が男で、一様に首をかしげていた。その反応は当然である。
もうひとつ、引っかかることがある。合流したとき、彼女は自分の腕を引いた。探しながらの、ほんの一瞬の動作だ。それだけのことだとわかっている。でも——あのような何気なく甘えるような仕草が心を簡単に揺らす。特別な意図などなく、ただ自然に体が動いただけかもしれない。でも自分はそこに何かを読み込もうとしている。それが「自惚れ」の構造だと、頭では理解している。
自分でも分かっている。
「自惚れ」は、根っこにある諦観や悲観に対する、一種の感情のストッパーだ。何かに期待しそうになると、先回りして「そんなことはない」と蓋をする。感情が動き出す前に、それを止める仕組みを自分の中に持っている。この日もその仕組みが働いた——働こうとした。でも今日は、蓋をしきれなかった。
毒のありか
正直に言うと、自分は彼女のことが気になっていた。
前から。講義で顔を合わせるたびに、少し視線を向けてしまうような意味で。それが今日、突然後ろから声をかけてきた。打ち合わせやオープニングで顔を合わせていたとはいえ、言葉を交わしたのはほとんど初めてに近い。
だから、ものすごく——
やめよう。こういう書き方をするから自分を苦しめる。
どうせ彼女は自分に対して何も好意などない。A君を探していただけで、近くにいた人間に声をかけただけかもしれない。今回みたいな突発的なやり取りが何の影響も与えないままフラットに終わることはわかっている。彼女にとって自分は「偶然近くにいた、頼みごとをしやすかった人間」にすぎない可能性が高い。
わかっている。わかっているのに。
淡い期待と舞い上がった気持ちが心の中にある。
そのことが嫌だった。諦観と悲観が根っこにある自分が、期待する前に先に落とすはずの自分が、今日はそれができなかった。「自惚れだ」と蓋をしきれないまま、心のどこかがふわふわしている。そんな愚かな自分をどうにかしたい——でもその愚かさは、今日はどこにも行かない。
なんで気になっていた相手に話しかけてもらったくらいで、こんなに苦しいのか。そのこともよくわからなかった。
最初、自分は「彼女が毒なんじゃないか」と思った。
好意はある。でもその存在が自分を精神的に苦しめる。だから忘れてしまいたい——そういう理屈で、彼女に「毒」というラベルを貼ろうとした。彼女への感情がなければこんなに苦しまなくて済む。だから原因は彼女にある。
でも少し考えれば、これは突発的な感情の起伏であって短絡的でおかしいと気づく。
彼女に対して何も感じていなければ、今回のやり取りで何も思わない。心が動いたのは、自分が彼女を気になっていたからだ。彼女は引き金を引いただけで、毒の発生源は自分の中にある。
しかし、では毒とは何か。
それを考えるために少し時系列を遡って話す。私は就活のために今年に入って自己分析として「自分とはどういう人間か?」という問いを考えるようになった。この問いの答えはある程度現状では収束しているが、まだ完全に答えを出せずに問いのままにしている。
だが確実に自分の本質的な部分と強制的に対峙させられることが増えた。その中で気づいたのは、「肝心なときに動けない」という情けない自分がこれまでずっと変わっていないということだ。
今回のゲーム開発のようなものならば仲間との共同作業だから全力を注げる。成功体験があるから自信もある。でも今回のような、正解がなくて相手の反応が読めないような不確実性の強いことに対しては自分は固まる。
なぜ固まるのかを突き詰めると、ひとつの構造が見えてくる。失敗するかもしれない、拒絶されるかもしれない——不確実な状況への恐怖が先に立って、行動を封じる。そして代わりに論理武装が始まる。「今は時期じゃない」「相手は自分に何も感じていないはずだ」「そもそも自分には無理だ」。こうした理屈を積み上げることで、行動しないことへの正当化が完成する。これは防衛機制のひとつだとわかっている。わかっているから、タチが悪い。
行動できないまま時間が過ぎて、後から後悔する——そのパターンを繰り返してきた。今回も、おそらく同じことになる。後から「あのときやっておけばよかった」と思う。それがわかっている。わかっているのに、変えられない。
わかっていながら自分がやっていることは、行動ではなく、記事を書くことだ。
理解することと、変わることは、別の話だ。
ここで「だから諦めればいい」と思えれば楽だった。でもそう簡単にきっぱりと執着から離れられない自分がいる。忘れようとしても、明日もまた思い出すだろう。忘れたいのに忘れられない、行動したいのに動けない——この煮え切らない状態が、苦しさの正体だ。
実際は彼女が毒なのではない。「なれるはずのない理想の自分」を彼女との関係性の中で思い描いてしまうことで、現実の自分との乖離が浮き彫りになる。その乖離を直視することが苦しい。毒のありかは、自分の根っこそのものだった。
高すぎる理想を持つから、現実との落差に苦しむ。突き詰めれば、そういうことだ。以前、岸谷蘭丸が「理想が高すぎるから人は苦しむ」と言っていた。その言葉が、今になって腑に落ちる。自分で辿り着いた場所に、先に立っていた言葉があった。
「なぜ苦しいのか」の問いには、ここで一応の答えが出た。しかし、もう一つ問いが残っている。なぜ自分は、彼女にここまで惹かれるのか。毒の所在を探すのとは、また別の問いだ。
就活の自己分析は、自分の内側にある暗い部分と半ば強制的に向き合わせた。以前からそういう気質はあった。しかし向き合ってからというもの、自分は以前よりも日常の中で闇の方に傾倒しやすい状態にあると感じている。noteを書き始めた動機と時期が重なっているのも、おそらく偶然ではないだろう。
闇に傾倒するとは、苦悩や葛藤が日常のふとしたところに増えるということだ。そこから心を守るために、人は何かしらの方法で動こうとする——吐き出すこと、昇華させること、あるいは何かで誤魔化すこと。
そして——彼女への気持ちも、そのひとつだったのかもしれない。
癒し、光、救いという言葉がしっくりくるのだろうか。暗い場所に傾いているとき、人はそういうものを無意識に求める。彼女に惹かれているのは、純粋な好意だけが理由ではないかもしれない。苦しい場所から逃げるために、あるいはそこから目を背けるために、彼女という存在を心の逃げ場として求めていたのではないか——そう考えると、今日の感情の激しさにも説明がつく気がする。
しかし救いを求めることが、無理やり空気抵抗を減らして先に進もうとするような、ある種の自傷に近い動作なのだとしたら——それもまた、毒のひとつの顔かもしれない。
——と、ここまで整理して、また別の問いがふと浮かぶ。
これだけ分析できているのに、なぜ気持ちは楽にならないのか。
見えてしまうことの罰
自分はいま、なぜ苦しいのを解き明かすために苦しさの構造を分析している。
「なぜ苦しいのか」を自身の感情から分解して、「毒は自分の本質にある」という結論を出した。論理的に筋道を立てた。
それが、また自分を苦しめる。
先に「感情のストッパー」と呼んだものは、自惚れという形をとった自己防衛だった。しかし客観視そのものも、もっと深いところで同じ機能を持っている。感情が生まれた瞬間に、それを外側から眺めて意味を問う。その動作が、感情を感情のまま体験することを許さない。
「毒は自分の中にある」とわかった。これで少し楽になるかと思ったが、そうではなかった。「では自分の本質は変えられないのか。変えられないのに、また同じ後悔をするのか。」——客観視が苦しみを構造化したことで、次の問いがくっきりと浮かんだ。その問いが、また苦しい。
今度はその苦しみを分析し始める。「なぜ分析しても楽にならないのか」「客観視が苦しみを作り出しているのではないか」——気づくと、苦しさを分析していた自分をもう一段上から眺めている。
そしてさらに、今こうして「自分がそれをメタ的に分析している」という事実に気づいてしまっている。この気づきもまた、苦しい。
おそらく自分が持つ「客観視する癖」は、ある種の呪いだ。感情を生のまま受け取ることを許さず、すぐに距離を置いて分析しようとする。分析が苦しみを構造化し、その構造を眺めている自分をまた分析する。見えれば見えるほど痛い。
「こんな感情的な人間が彼女を幸せにできるとは思えない」——そう考える自分もいる。その考えもまた、客観視という道具が生み出したものだ。
どこまで続くのか、本当にわからない。
なとりとの共鳴
こういう気持ちのとき、なとりの音楽が頭に浮かぶ。
今年の1月にリリースされた2ndアルバム『深海』は重々しい空気感と生の感情が美しく歪んだ音楽に昇華されており、なとり自身の苦悩をいつでも戻って来れる場所にするための「儀式」なのかもしれない。
なとりの『深海』については何回も記事に取り上げているのでここでは詳細を割愛させて頂くが、なぜなとりの話題を出したのかという意図だけは理解してほしい。
なとりのポップスターとしての表の顔と、内側にある根暗な自分との乖離。その葛藤を抱えた先に生まれたものが『深海』であるということ。そして自分がなとりの音楽に惹かれるのは、そこに共鳴するものがあるからという仮説を示したかったからである。
内側の暗い部分を隠して、人前では明るく振る舞っている。そのオモテウラの構造がどこかで重なる。今日の学園祭でも、自分はずっとニコニコしながら明るく振る舞っていた。
なとりの歌詞にあるように「救いなんかない」「消えて私の前から」「逃げ出したい」——そういう言葉が心の中にあったとしても、表には出さない。でもその言葉は、確かに自分の中にある。
作品を作っているとき、楽しさで作ったものにはその楽しさが宿り、苦しみで作ったものにはその苦しみが伝わる——そんな言葉を聞いたことがある。なとりの音楽を聴いていると、その意味が少しわかる気がする。なとりの感情はすべてを理解することはできなくとも、そんななとりの境遇を自分事として考えることができる。
自分がゲームの開発に2ヶ月を費やしたのも、アプリ開発に異常な程にまでこだわったのも——根本には先ほど語ったような、就活の自己分析に起因するぶち当たった閉塞感や、そこで浮き彫りになった私の本質的部分から生じるやり場のない感情があったのかもしれない。
闇は時に人の心を動かす特殊なエネルギーを作ることがある。どちらかと言うと自分の中から漏れ出した闇が別の形になって憑依するといった方がいいのだろうか。
ただ——その毒は、作ったものの中だけに収まるわけではない。
気がつけば、自分の立ち振る舞いにも、人となり、表情にも、少しずつ染み出しているのではないだろうか。言語化されているわけではなく、形にもなっていない。でも人はそういうものを感知することがある。言葉にはならないが、相手の中にある重さのようなものを、なんとなく感じ取る。
そしてそういう苦悩が似ているとき、言葉を介さずに何かが共鳴することがある。私がなとりの『深海』に共鳴したように。
彼女がオープニングで指示役として自分たちを見ていたとき、あるいはA君を探して声をかけてきたとき、自分の内側にある何かが少しだけ彼女に届いていたのではないかと思う。自分の無意識に漏れ出す闇が、彼女の中にある何かと、わずかに響き合っていたのではないか——そういう推測が消えないまま残る。
しかし確かめる術はない。確かめようとすれば、また「自惚れ」という言葉が出てくる。
でも、それだけでは片付けられない何かが、ある。
それでも、考えられる日々
私はまた、講義で、キャンパスで、ふとした瞬間に彼女を見かけるたびに——同じ苦しさに引きずり込まれる。明日の学園祭最終日も例外でない。
そうやって彼女に囚われた日常が続く。
自惚れで期待して、否定して、毒のありかを探して、客観視でまた苦しくなる。そのループが続く。明日もまた眠りから覚めるとまた同じ苦しみの場所に戻ってくるだろう。
自分の本質は変わらない。肝心なときに動けないまま時間が過ぎる。後から後悔する。その繰り返しがこれからも続く。根本にある諦観と悲観は今日を経ても、明日も同じ場所にある。
それでも、ひとつだけ気づいたことがある。
今の状況は私にとって苦しい。だがこの苦しさが一周回ってみると幸せなのかもしれない。
気になる誰かがいて、その存在をめぐって精神を疲弊させる。自惚れで期待して、論理武装で否定して、客観視で構造化して、またそれで苦しくなる。そのすべての動きが、彼女のことを考えているということだ。この苦しさの中心には彼女と彼女について考える自分がいる。
それだけ——でも結局のところ、彼女のことを考えているこの時間が自分にとって幸せなのだと思う。
どうせ明日になれば、またあの苦しさが再発しているだろう。執着が、改めて激しく自分を襲うだろう。先ほど見つけた逆説も、明日の朝にはもう力を失っている。何も解決していない——ただ、今日はここまで考えられたというだけの話だ。
毒は自分の中にある。それは変わらない。変わらないまま、考え続けるのだと思う。
この記事は、単に今日の激しい感情的起伏を書きたかっただけではない。
今は落ち着いていても、また同じ苦しみが訪れたとき、彼女への執着が現れたとき、自分の思考のバイアスから生まれる自己嫌悪に再び溺れそうになったとき——この文章に戻ってこようと思っている。自惚れを自覚して、毒のありかを確認して、客観視の呪いを思い出す。そのループを、もう一度たどり直す。
決して強引に感情を断ち切るためではない。私は彼女に囚われ続けるうちはこの苦しみから逃れることはできない。だからこそ、自身の感情の構造を知った上でそれと向き合えるようになるために。少しでも救いを見出すために。この記事はそんな私の嘆願から生まれたのかもしれない。
こうして今日の出来事を淡々と言葉にして記事にする。これにこそ、自分のある種の異常性が表れている。正直に言ってこんなことしかできない。結局、記事を書くプロセスの中で苦悩や葛藤にもっともらしい理由づけをして逃げようとしている。
そして彼女に、ほんの一言だって声をかけられないでいる。客観視の無限ループについて書いたからこそ、そのループの中から一歩も踏み出せていない自分の臆病さに、さらに嫌気がさす。自ら苦しみから逃れられないように、首を絞めているようだ。
▼続編
