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それでも選び続ける苦しみ


▼ 本記事は以下の続きです


学園祭が終わった。

気になる人がいると、日常のあちこちに地雷が埋まっているような恐ろしさに怯えることになる。その人がいるかもしれない場所に近づくたびに、胃の底に何かが落ちる。その人を思い出させる何かに触れるたびに、記憶が戻ってくる。朝、目が覚めた瞬間からすでに頭の中にいる。忘れようとすると逆に意識する。そういう種類の苦しさを、経験したことがあるだろうか。

以前、そのことについて記事を書いた。なぜ苦しいのかを解剖して、感情の構造を分析した。書き終えたとき、自分はこう予言した——「明日もまた眠りから覚めると、同じ苦しみの場所に戻ってくるだろう」と。

皮肉なことにその通りになった。

ただ——想定していなかったことが、ひとつある。

彼女と会う可能性のある場所が、ひどく億劫になった。後片付けの会場、共通の講義、キャンパスの廊下。前の記事では「行動できない」と書いた。しかしそれは、行動しようとして動けないという話だった。今は違う。向かうことすら避けたい、という感覚だ。

求めているはずの人間から、なぜ自分は逃げているのか。

この問いに、前の記事の言葉では答えられない。

客観ではない


前の記事のタイトルは「客観視が私を苦しめる」だった。

客観視という言葉を選んだとき、それが正確な名前だと思っていた。感情を外側から眺める癖。自分の内側を解析する動作。それが苦しみを構造化し、無限ループを生み出す——そういう理解だった。

しかし客観視は”懐中電灯”にすぎない。苦しめているのは暗闇ではなく、光が当たっても動けないこと自体だ。客観視を苦しめている犯人にすることで、行動できない自分への責任から逃げていた。

あの記事を通じて、一度でも彼女の視点に立ったことがあるだろうか。

彼女が何を感じていたか、何を考えていたか。あの日、後ろから声をかけてきたとき、腕を引いたとき——彼女の側に何があったか。そこへ思考が届いたことは一度もなかった。

記事の中で解剖し続けたのは、彼女への感情に対する「自分の反応」だけだ。前の記事を読み返すと、彼女について書かれていることが驚くほど少ない。名前を呼んだ、腕を引いた——それだけだ。彼女がどういう人間なのかが、どこにもない。

「自分の内側を精密に観察すること」を、「客観視」と名付けていた。

それは客観ではない。高解像度の主観だ。

そしてもうひとつ。前の記事には、私が彼女とどのような関係性を構築したいのかが一度も書かれていない。告白したいのか、仲良くなりたいのか、ただそばにいたいのか。その欲望の形がどこにも出てこない。メカニズムの解剖に全エネルギーを注ぐ中、目指すべきゴールが空白のままだった。

つまり呪いの名前を最初から間違えていた。

ループの維持


前の記事の末尾に、こう書いた。また同じ苦しみが訪れたとき、この文章に戻ってこようと思っている、と。執着や未練をきっぱりと捨て去ること、要するに「洗心」だった。

実際に戻った。

苦しさは消えなかった。正確には——記事を読むことで苦しさが再燃した。あの日の記憶が呼び起こされ、また同じ場所から始まった。洗心ではなく、記憶の保存だった。感情を浄化する場所ではなく、封じ込めておく容器として記事は機能していた。

しかしここで、問わなければならないことがある。

自分は本当に、ループから出たかったのか。

前の記事でこう書いた——「明日もまた同じ苦しみが再発しているだろう」。その通りになった。その「通りになった」という事実を確認するとき、どこかに奇妙な安堵があった気がする。「もしかしたら」が、まだある。曖昧さが、まだ残っている。苦しいはずなのに——その曖昧さがどこかで守られていた。

ここで、1つの最悪な仮定をして話をしたい。

もし彼女に彼氏がいたとしたら——という想像だ。まず絶望する。それは間違いない。しかしその後に、冷たい分析が続くだろうと思う。「まともで眩しい世界に生きている人間を、内側に闇を抱えた自分が『救い』として消費しようとしていた。その傲慢さが自分の本質的な毒だ」——おそらく自分はそう言葉にする。

それでも。彼氏がいたという明確な絶望は——白黒が明瞭な「終わり」でもある。

今の状況は違う。希望も絶望も与えられないまま、曖昧さだけが残る。この曖昧さの中で、関係が有耶無耶に薄れていく——それが、最もありそうなルートだ。明確な絶望よりも、輪郭のない消滅の方が残酷かもしれない。そしてその「曖昧さが続く状態」を、自分はどこかで維持しようとしていたのではないか。

虚像の輪郭


ここで、冒頭の問いに戻る。

求めているのに、なぜ逃げているのか。

前の記事で、こう書いた。「彼女への気持ちも、闇から心を守るための何かだったのかもしれない。癒し、光、救い。暗い場所に傾いているとき、人はそういうものを無意識に求める。」

この分析は正しかった。ただ、途中で止まっていた。

前の記事には、自己陶酔的な解釈が含まれている。

「自分の内側にある何かが少しだけ彼女に届いていたのではないか」と書いた。自分の闇が非言語的に彼女に伝わり、共鳴した——そういう推測だ。しかし冷静に見れば、これは根拠のない自己陶酔にすぎない。

なぜこう解釈したのか。あの日の偶然の接触を、「自分の暗さを感知した者だけが引き寄せられる出会い」として神格化したかったからだ。そう意味づけすることで、虚像としての彼女に「運命的な根拠」を与えられる。自分の闇を救う女神——自己救済の女神という役割が、強固になる。

今もそう感じているのか、そう感じようとしているのか、自分でもわからない。

具体的な証拠がある。

学園祭の自分たちのブースに、彼女を呼ばなかった。2ヶ月かけて作ったものだ。当日、複数の教授が足を止め、コンテストへの推薦まで受けた。自分が一番自信を持てるものが、そこにあった。「よかったら見ていってください」—その一言で済んだはずだ。

出店紹介の列に並びながら、横目で彼女を見た。列の端から全体を見渡す、いつもの笑顔。その奥底で、自分たちを冷笑していたとしたら——という考えが頭をよぎった。あんなに自信があったはずのものが、砂のように手から落ちていく感覚があった。

呼べなかった。

もし彼女を呼んで、期待に反する反応が返ってきたとしたら。自分のすべてが否定されるかのような錯覚に陥っただろうと思う。2ヶ月の作業も、コンテスト推薦も、自分が最も自信を持てるものでさえ彼女を振り向かせられないなら、もう接点は存在しないに等しい。そしてその瞬間、頭の中で作り上げた虚像が崩れる。自己救済の女神としての彼女が、現実の他者に変わる。その崩壊を、極端に恐れていた。

シュレディンガーの猫のように、観測しないかぎり、可能性は死なない。

接触しないことで、「もしかしたら」は生き続ける。虚像は完全なまま保たれる。逃げることは、守ることだった。

自分が惹かれているのは、現実の彼女ではないかもしれない。彼女のことを、どれだけ知っているか。講義で顔を見る。打ち合わせで言葉を交わす。後ろから名前を呼ばれた。腕を引かれた。

それだけだ。それだけの情報から、「光」「救い」という意味を付与したのは自分だ。彼女を自分の精神世界に引き入れ、「暗さを救ってくれる象徴」として機能させる——それは自己愛的なプロセスだ。

だから、前の記事で「彼女にどうなりたいのか」を書けなかった。実在の彼女への具体的な欲求ではなく、「彼女という象徴を持ち続けること」そのものを求めていたから、形が書けない。

そして問わなければならない。

安全な距離を保ちながら、彼女を精神的な安定剤として消費し続けること。それが自分の目的だったとしたら、本当は彼女を愛しているのではなく、彼女を都合よく消費できる状況を愛していたのではないか。

そう書きながら、まだ彼女のことを考えている。

「行動できない」と前の記事では書いた。しかし正確には違う。「行動したくなかった」のかもしれない。

自己欺瞞の正体


前の記事に「悲劇の主人公」という言葉は出てこない。しかしここまで話してきた自分の本質的な思想に基けば「悲劇の主人公」というワードがどこかしっくり来るかもしれない。

そう、私は「悲劇の主人公」という役割を自ら作り、演じていた。

客観視の呪い(実際は高解像度の主観)に囚われた、行動できない、繊細で複雑な内面を持つ人間。その物語を書き続けていた。苦しんでいることを精密に言語化することで、苦しんでいる自分に意味と形を与えていた。

ループから出ることは、虚像の崩壊を意味する。悲劇の主人公という役割の放棄を意味する。それは苦しみの消滅であると同時に、今の自分を支えている物語の消滅だ。

だから出なかった。

そして今、この記事を書きながら また同じことをしている。

「悲劇の主人公」から「自己欺瞞に気づいた人間」へと、物語を更新している。新しい役割を自分に与えて、またその中に収まっている。しかもこの分析が、新たな言い訳を生み出す。「自分にはこのような複雑な深層心理がある。だから行動に移せなくてもしょうがないのだ」そのような精緻な自己解剖が、強固な免罪符に変わる。気づけば気づくほど、行動しないことへの根拠が厚くなっていく。

学園祭で自分たちのブースに、彼女を呼べなかった。

彼女に、ほんの一言も話しかけられていない。

どれだけ自己解剖を深めても、どれだけ思考をアップデートしても、現実は変わらない。これが自己欺瞞の最も恐ろしいところであり、自分が直面している究極の絶望なのだろう。

▼続編


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