東海道五十七次 徒歩の旅⑱大津宿~京都三条大橋〜淀宿
こんにちは。26歳女です。
2024年11月から12月に、18日間かけて東海道五十七次を歩きました。
この記事では、東海道五十七次を歩いた記録を書いていこうと思いますので、これから歩く人にとって参考になればと思います。
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今回の内容
今回は、出発して17日目に歩いた大津宿~淀宿について書きます。
この日はついに、東海道五十三次のゴールである、京都の三条大橋に到着します。

大津宿出発
2024年12月13日(金)、天気は晴れ。
前日に宿泊したホテルはこちら↓
この日は、7時過ぎに出発。
生まれて初めて琵琶湖にきたため、少しより道をしてから出発をしました。

↑滋賀県に入ってからたびたび登場する飛び出し坊や。
この子はお坊さんバージョン。
飛び出し坊やは、滋賀県東近江市が発祥の地です。

↑大津宿本陣跡。
本陣とは、大名や公家などの偉い人たちが、参勤交代の際に宿泊をしていたところです。
大津宿は、琵琶湖舟運の要となる場所で、東海道で最大の宿場町でした。
大津宿周辺にも昔は一里塚がありましたが、現在は存在しません。

↑飛び出し坊や。

↑こんな飛び出し坊やもいました。

↑逢坂(おうさか)。香坂王・忍熊王(おしくまおう)の反乱で、忍熊王の軍がここに逃げてきました。討伐に向かった神功皇后の将軍が、ここでばったり忍熊王軍に会い、うち破ったことに由来しています。
京都の都と、東国・北国を結ぶ交通の要衝の地であったことから、この坂には逢坂関が設けられていました。

↑旧逢坂山ずい道東道。
東海道の脇に、存在感のあるトンネルがありました。
これは、日本人の技術者・技能者が中心となって設計・施工を行った、日本初の山岳ずい道(トンネル)です。
664.8mの道を1年8か月かけて、ノミやツルハシを使って、手掘りされました。

↑街道を歩いている人向けの看板としか思えない。
7時間20分なら余裕だな。

↑途中、八つ橋で有名な井筒八つ橋本舗がありました。
バス旅行で訪れる人が多いのか、従業員の方が多く、試食や休憩スペースが充実していました。まだ早い時間だったため、店内は私一人。

↑無料でお茶菓子をもらいました。
↑このお店で、東海道大名物「走り井餅」というのを発見して購入。
これが、18日間で食べた和菓子の中で、一番おいしい超おすすめのものとなりました。
この店舗の周辺は、大津追分と呼ばれていて、湧水が豊富であったことから、「走井(はしりい)」と呼ばれていました。
街道が整備されると茶屋が多く立ち並び、旅人が休憩する場所となりました。
豊かな水と、近江の米でつなぎあげた走り井餅は1764年に誕生します。旅人の空腹を補うのと共にエネルギー源となったこのお餅は、豊富な水の流れと、ほとばしる水滴を表した形をしていて、中に餡子が入っています。
東京では売っておらず、後日ネットから注文したくらい、美味しいお餅でした。

歌川広重の東海道五十三次にも、走井餅を商う走井茶屋で休憩をする人々と、噴き出る井戸水が描かれています。

↑1707年に創られた、五条分かれ道標。
「右ハ三条通」「左ハ五条橋ひがしに六条大佛今ぐ満きよみず道」と彫られています。「六条」とは、東本願寺・西本願寺、「大佛」とは方広寺の大仏、「今ぐ満」は今熊野観音寺、「きよみず」とは清水寺を指します。

↑日ノ岡峠道。この周辺は東海道で唯一、牛車が通ることを許されていた地域です。人馬が通る道と、荷物を積んだ牛車が通る道が分けられていました。

↑日ノ岡峠は大津から京都に続く峠道で、牛車が通る道は車輪によって深くえぐられて、道がぬかるんでいたそうです。写真は、牛車道を再現したもの。
牛車は、米俵などを積んでいました。

↑粟田口刑場跡。
江戸時代に、ここで公開処刑が行われていて、磔や獄門、火刑が行われ、1万5千人ほどが処刑されました。
明治初期に廃仏毀釈(仏教寺院や仏像、経典などを破壊して仏教を排斥する運動)や開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路の側溝の蓋石や石垣に活用されていました。

↑いよいよ京都三条大橋の標識が見えてきました。

↑三条大橋に到着!
下調べを全くしていなかったので、「え、これ?これでいいんだよね?」とおろおろしていました。

三条大橋とは、鴨川に架かる橋で、東京日本橋を起点とする東海道・中山道の終点です。
ここには、室町時代(1336年~1573年)前期にはすでに簡単な橋が架けられていました。その後豊臣秀吉の命令で、1590年に本格的な橋が創られ、三条大橋となりました。

↑「天正十七年津國御影」と彫られています。この石柱は、天正17年(1589年)に橋脚に使われたものと考えられています。
現在の下流側の橋脚には、当時の石柱が使用されています。

↑十返舎一九が書いた滑稽本、東海道中膝栗毛に登場してくる、弥次郎兵衛と喜多八の銅像。東海道中膝栗毛は、この2人が江戸から伊勢神宮・京都・大阪をめぐる物語になっています。

↑三条大橋の擬宝珠(伝統的な建築物の装飾)には、池田谷事件のときについたとされる刀の痕がついています。
池田谷事件とは、1864年6月5日に京都で起こった、新選組による尊王攘夷派(外国勢力を排除し、天皇を崇拝する動き)弾圧事件で、新選組の名が広まるきっかけとなりました。
事件が起こったのはここから150mほど離れた旅館ですが、この橋の上でも抗争が続いたと考えられています。(この傷は敵を斬ろうと力いっぱい振り下ろさないとつかないような傷だとされています)

↑ここで、なんとタイミングよく中山道を歩いてきたご夫婦に遭遇しました。
コロナ前からご夫婦でチャレンジし続けて、ゴールをしたまさに記念すべきタイミングでした。(すごすぎる、、!)
私も東海道五十三次が終了ということで、3人で話が盛り上がって、お昼ご飯をごちそうになりました。
登山がお好きな二人で、結婚式は山で挙げられたとか。
中山道の長い旅のお話をお伺いしましたが、お二人の会話や雰囲気から、一緒に色々なチャレンジをされてきた人生の仲間というのが伝わってきて、とても心温まる素敵な時間を過ごさせていただきました。
あこがれる夫婦像だ…。

↑立派なカメラで旦那さんが撮影をしてくださり、さらに後日盾にして郵送してくださいました。一生の思い出。
スタートの初日に、日本橋で中山道をこれから歩く方に遭遇して、さらにゴールの三条大橋で中山道を歩いてきた方に遭遇をするなんて、本当に私は運がいい人です。
初日の話はこちら↓

↑素敵なご夫婦と別れて、再度スタート。三条大橋の近くの川岸は、三条河原と呼ばれ、昔は処刑や処刑後のさらし首が行われていました。
ルパン三世の登場人物のモデルになった安土桃山時代の盗賊、石川五右衛門や、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成、新選組の近藤勇などが、ここで処刑されたり、さらし首になりました。


↑三条大橋近くにある、縁切り神社で有名な安井金毘羅神社に来ました。
この神社には「呼ばれる」という考えがあります。伊勢神宮参りをした帰り道、この神社に呼ばれた気がして寄り道をしました。
なぜ私が呼ばれたのかの理由は、こちらの記事をご覧ください。

↑具体的な斬りたい縁と、結びたい縁をお札に張ってきました。霊感がある人は、この神社にくると色々感じるものがあるらしいです。私は全く何も感じず。
心機一転守りという、今のタイミングにふさわしいものがあったので、購入しました。

↑道標。さて、ここからは東海道五十三次が終了したため、東海道五十七次の完歩を目指します。
京都三条大橋から大阪高麗橋までは、京都に向かう向きだと「京街道」、大阪に向かう向きだと「大阪街道」と呼ばれる道になります。
私は大阪を目指しているため、大阪街道と呼ぶことにします。
ここにたどり着くにあたって、いろんなシニアの方と話す機会があったのですが、大阪を目指していると言うと、多くの人が「ブラタモリでやってたやつだね」と口にしていました。
私は1度も見たことがありませんが、どうやら特集をしていたらしいです。
大阪街道にも宿場町はもちろんありますが、正直見どころはあまりなかったのと、川に沿って歩くことが多く、精神的にちょっとしんどかったです。

↑54番目の宿場町、伏見宿に到着です。

↑素敵な公園。

↑ホテルの近くに京都競馬場があったため、競馬バージョンの飛び出し坊やがいました。
本日の宿
この日は淀キャッスルインに宿泊。
8800円。
本日の記録

次回に続く
淀宿~高麗橋です。
ついに東海道五十七次のゴール、大阪高麗橋に到着します。
