【教育史】なぜ今、「主体的・対話的で深い学び」なのか?―戦前教育からモンテッソーリ教育、現行学習指導要領まで―
「主体的・対話的で深い学び」。
教育に関わっている人なら、一度は聞いたことがある言葉ではないでしょうか。
現在の学習指導要領では、
「何を学ぶのか」
だけではなく、
「どのように学ぶのか」
という学習過程そのものが重視されています。
では、なぜ今になって「主体的に学ぶこと」がこれほど重要視されるようになったのでしょうか。
実はこれは、単なる教育界の流行ではありません。
日本の教育の歴史を戦前まで遡ってみると、
「教育の主体は誰なのか」
という問いを巡って、教育の考え方そのものが長い時間をかけて変化してきたことが見えてきます。
そして、その流れを教育心理学の視点から考えていくと、100年以上前にマリア・モンテッソーリが提唱した教育思想と、現在の学習指導要領との間にも興味深い共通点が見えてきます。
今回は、
戦前教育 → 戦後教育 → 高度経済成長 → ゆとり教育 → 生きる力 → 主体的・対話的で深い学び
という日本教育の変遷を振り返りながら、
「そもそも人間は、どのようなときによく学ぶのか?」
という教育心理学的な視点から考えてみたいと思います。
日本の学校教育はどこから始まったのか
日本の近代学校制度の大きな出発点となったのが、1872(明治5)年の「学制」です。
学制は、日本で最初の近代的な学校制度に関する法令でした。
全国に学校を整備し、広く国民に教育を受ける機会を提供しようとしたことは、日本の近代化において極めて大きな意味を持ちます。
それ以前の寺子屋などを中心とした教育から、全国的な学校制度へ。
日本はここから急速に近代国家としての教育制度を整えていきました。
戦前――「国家が求める人間」を育てる教育
明治以降、日本の学校教育は急速に制度化されていきました。
学校制度が全国に普及したことによって、
読み書き
計算
科学
社会
道徳
など、多くの人が共通した知識を体系的に学べるようになります。
これは日本社会の近代化に大きく貢献しました。
一方、戦前から戦時期にかけての教育は、国家政策とも強く結び付いていきます。
特に戦時期には、学校教育そのものが戦時体制の影響を強く受けました。
第二次世界大戦後、それまで使用されていた国定教科書の軍国主義的な記述などを墨で塗って使用した、いわゆる「墨塗り教科書」が存在したことは、その象徴的な出来事です。
ここで教育の構造を単純化して考えると、
「教師・国家 → 子ども」
という方向性が非常に強かったと言えるでしょう。
「何を学ぶのか」
「何が正しいのか」
「どのような人間になるべきなのか」
を、大人側が決め、それを子どもへ伝える。
つまり、
教育する側が主体となる教育
です。
1945年――日本教育の大転換
敗戦によって、日本の教育制度は大きな転換を迎えます。
戦時教育から民主的な教育へ。
1947年には教育基本法が制定され、新しい学校教育制度がスタートします。
ここから教育において、
「一人ひとりの人間をどう育てるのか」
という視点が、より重要になっていきます。
戦後初期の教育では、子どもの経験や生活を重視する考え方も強く取り入れられました。
教師が知識を一方的に伝えるだけではなく、
「実際に経験する」
「問題について考える」
「生活と学習を結びつける」
といった学習です。
現在の「主体的な学び」にもつながる考え方が、すでに戦後教育の出発点に存在していたのです。
しかし、日本は高度経済成長へ向かう
1950年代から1970年代。
日本は高度経済成長の時代へ入ります。
産業が急速に発展し、科学技術も高度化しました。
社会が求めたのは、高度な知識や技能を持った人材です。
当然、学校教育にもその影響が及びます。
教育内容は体系化され、より高度な内容を効率的に教えることが重視されるようになります。
1968~70年ごろの学習指導要領改訂では「教育内容の現代化」が進められました。
学校教育は、
「より多くの知識を、体系的・効率的に身につける」
方向へ進んでいきます。
これは決して悪いことではありません。
むしろ日本の高い基礎学力や経済発展を支えた重要な教育システムだったとも考えられます。
しかし、その反動として別の問題も生まれてきます。
「知っている」だけでいいのか?
知識をたくさん覚える。
試験問題を解く。
正解を素早く出す。
こうした能力はもちろん重要です。
しかし社会が複雑になるにつれて、
「正解を知っていること」と「現実の問題を解決できること」は同じではない
ということが意識されるようになります。
例えば、
「この問題の答えを求めなさい」
という問題には正解があります。
しかし社会に出ると、
「人口減少が進む町をどうするか」
「AIを教育にどう利用するか」
「働き方をどう改善するか」
「地域社会をどう維持するか」
といった、
そもそも唯一の正解が存在しない問題
に向き合わなければなりません。
そこで必要になるのは、単純な知識量だけではありません。
知識を使い、
考え、
他者と話し、
試し、
失敗し、
修正する力です。
「ゆとり教育」が目指していたもの
1977~78年の改訂では、学習負担の適正化が図られます。
そして1989年改訂では、
「社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間」
という方向性が打ち出されました。
さらに1998~99年改訂。
ここで大きく掲げられたのが、
「生きる力」
です。
「総合的な学習の時間」が導入され、
知識を一方的に教え込む教育から、
「自ら学び、自ら考える教育」
への転換が明確になります。
一般には「ゆとり教育」という言葉で語られることが多い時代ですが、本来の目的は単純に「勉強量を減らすこと」ではありません。
目指していたのは、
基礎・基本を身につけながら、自分で考えることのできる人間を育てること
でした。
「ゆとり」か「詰め込み」か、ではなかった
その後、
「学力低下」
「ゆとり教育の失敗」
などの議論が広がります。
しかし、教育政策の方向性を見ると、
「ゆとりをやめて、昔の詰め込み教育へ戻ろう」
という単純な話ではありません。
文部科学省も、
基礎的・基本的な知識・技能の習得
と、
それらを活用する力
を「車の両輪」として育てる必要があると説明しています。
つまり教育の課題は、
「知識か、思考力か」
ではありません。
知識を持った上で、その知識をどう使うのか。
ここへ教育の焦点が移っていったのです。
そして「主体的・対話的で深い学び」へ
現在の学習指導要領では、
「何を学ぶか」
だけでなく、
「どのように学ぶか」
が重視されています。
それが、
主体的・対話的で深い学び
です。
主体的な学び
子ども自身が、
「なぜだろう?」
「もっと知りたい」
「どうすればできるだろう」
と問いを持つ。
そして自分の学習を振り返り、次の学びへつなげる。
対話的な学び
友達や教師、地域の人、本、資料など、
自分とは異なる考え方と出会う。
そこで、
「そんな考え方もあるのか」
と自分の認識を広げていく。
深い学び
覚えた知識を単独の情報として終わらせない。
過去に学んだことや別の教科、現実社会の出来事などと結びつけ、
知識を自分の中で再構成していく。
これが「深い学び」です。
ここでモンテッソーリ教育を考えてみる
ここまで現在の教育について考えると、興味深いことがあります。
100年以上前に、似た方向から教育を考えていた人物がいました。
イタリアの医師・教育者、
マリア・モンテッソーリ
です。
モンテッソーリ教育では、教師が子どもに一方的に知識を与えることを中心に置きません。
重要なのは、
子ども自身が活動できる「環境」を準備すること。
国際モンテッソーリ協会(AMI)が説明するモンテッソーリ環境でも、子どもが自ら活動を選択し、具体物を操作しながら、自律的に学習していくことが重視されています。
教師の役割も変わります。
「教える人」
というより、
子どもを観察し、必要な環境を整え、必要なときに支援する人
です。
「教える人」から「学びを設計する人」へ
ここに、現在の学校教育との大きな接点があります。
従来型の授業では、
教師
↓
説明
↓
子ども
↓
理解
↓
問題演習
という流れが中心でした。
しかし主体的な学習では、
環境・教材・問い
↓
子どもの興味
↓
試行錯誤
↓
対話
↓
発見
↓
振り返り
↓
次の問い
という循環をつくります。
教師が必要なくなるわけではありません。
むしろ逆です。
教師には、より高度な専門性が必要になります。
「何を説明するか」だけではなく、
「どんな問いを置くか」
「どんな教材を準備するか」
「どこまで子どもに任せるか」
「いつ支援するか」
を考えなければならないからです。
教育心理学から見る「主体性」
ここで重要なのが、
人間は「やらされている」と感じる活動より、自分で選択したと感じる活動に動機づけられやすい
という点です。
教育心理学では、学習動機についてさまざまな研究が行われてきました。
例えば、
「テストがあるから勉強する」
「怒られるから宿題をする」
「成績のために覚える」
といった動機は、外側から与えられたものです。
一方、
「これを知りたい」
「できるようになりたい」
「もっと試してみたい」
という動機は、学習者自身の内側から生まれます。
もちろん学校教育では、すべての学習を子どもの興味だけに任せることはできません。
基礎的な知識や技能を体系的に教えることも必要です。
重要なのは、
「教えるか、任せるか」という二者択一ではない
ということです。
モンテッソーリ教育と学習指導要領は同じなのか?
ここは慎重に考える必要があります。
モンテッソーリ教育と現在の学習指導要領は、当然ながら同じ教育体系ではありません。
モンテッソーリ教育には独自の教具や発達観、教師観、環境構成があります。
一方、日本の学校教育は全国的な教育課程の基準に基づいています。
したがって、
「現在の学習指導要領=モンテッソーリ教育」
ではありません。
しかし、
・学習者を主体として考える
・自ら活動することを重視する
・教師を学習環境を整える存在として捉える
・具体的な活動や経験を重視する
・自分自身で学習を進める力を育てる
という点では、重なる部分があります。
ここが非常に面白いところです。
なぜ今、「主体的・対話的で深い学び」なのか
現在の社会は、変化のスピードが非常に速くなっています。
情報化。
グローバル化。
人口減少。
AI。
自動化。
働き方の変化。
これから子どもたちが社会に出たとき、
学校で覚えた知識だけで一生を乗り切ることは難しいでしょう。
文部科学省も現在の学習指導要領について、急速な情報化や技術革新などの社会変化を踏まえ、これから必要となる資質・能力を見直していると説明しています。
さらに中央教育審議会は、これからの子どもたちには、決められた手続きを効率よくこなすだけではなく、予測困難な変化に主体的に向き合い、他者と協働しながら新しい価値を生み出していく力が必要だとしています。
だからこそ、
「何を知っているか」だけでは足りない。
必要なのは、
「知らないことに出会ったとき、自分で学ぶことができるか」
なのだと思います。
教育の主語が変わってきた
日本教育の約150年を非常に大きく捉えるなら、こんな変化として見ることもできます。
戦前
「何を教えるべきか」
↓
戦後
「どのような人間を育てるか」
↓
高度経済成長期
「必要な知識をどう効率的に身につけるか」
↓
「生きる力」
「身につけた知識をどう使うか」
↓
現在
「学習者自身が、どのように学び続けるか」
もちろん実際の教育史は、これほど単純ではありません。
それぞれの時代にも様々な教育思想や実践がありました。
しかし大きな流れとして見ると、
教育の中心が「教える側」から「学ぶ側」へ少しずつ移動してきた
と捉えることができます。
「主体的な学び」は、教師が何もしないことではない
そして最後に、ここは非常に重要だと思います。
主体的な学びというと、
「子どもに自由にやらせればいい」
と思われることがあります。
しかし、それは主体性とは少し違います。
モンテッソーリ教育でも、子どもを完全に放任するわけではありません。
大人が環境を準備し、子どもを観察し、必要に応じて支援します。
学校教育でも同じです。
教師が、
問いをつくり、
教材を選び、
環境を整え、
子どもの状態を観察し、
必要なタイミングで支援する。
その中で、
子ども自身が「学んでいる」という感覚を持てるようにする。
これこそが、これからの教師に求められる重要な役割なのではないでしょうか。
教育とは、「教えること」なのだろうか
学校という場所を考えると、
どうしても、
「教師が教え、子どもが覚える場所」
というイメージを持ってしまいます。
しかし教育心理学の視点から考えると、
本当に重要なのは、
教師がどれだけ教えたかではなく、子どもの中でどれだけ学びが起きたか
なのかもしれません。
1872年の学制から150年以上。
日本の教育は何度も形を変えてきました。
しかし、その長い歴史の先で、私たちは再び根本的な問いに向き合っています。
人は、どのようにすれば本当に学ぶのか。
モンテッソーリが100年以上前に考えた問いと、
現代の学習指導要領が目指している教育。
時代も制度も違います。
それでも、その中心には、
「子どもは教育されるだけの存在ではなく、自ら学ぶことのできる存在である」
という共通した人間観があるように思います。
だからこそ今、
「主体的・対話的で深い学び」
が求められているのではないでしょうか。
