居酒屋/ゾラ

 ゾラは、居酒屋の真ん中を占める蒸留機を、「陰鬱で強力で寡黙な労働者が真昼間にやっている深夜作業」と表現している。「真昼間」に密かに流れるもう一つの時間としての「深夜」。しかもそこには「作業」という身分が与えられている。
 この小説では「作業」が執拗に描かれている。ナナを含めた造花職人たちは、菫の造花を作りながらお喋りを続ける。誰がどういう情事の最中にいて、どういう問題に巻き込まれているのか。造花を作るために動き続ける手と違う速度で、噂話と当て擦りと、下品な仄めかしが並走する。そもそもこの小説は洗濯場でのいざこざから始まるのだった。女と女は殴り合うが、その周りでは水が流れ続け、湯気は立ち続け、洗濯女たちは仕事を続けたり囃し立てたりする。単純労働だけでは埋まらない余った分のエネルギーがお喋りや諍いの火種になる。
 労働と見世物のイメージが重ねられているのも、この小説の面白いところだと思う。洗濯物屋を開業したジェルヴェーズは、ガラス張りの路面店で忙しなく働く。アイロンの湯気で店内は蒸されてしまうため、女たちは肌を上気させ、薄着で働くほかない。ガラス張りの店内は、道ゆく人々の視線の的となる。そして、ジェルヴェーズが落ちぶれ、店をヴィルジニーに譲った後も、往来の人々は店内で繰り広げられるヴィルジニーとランチェの浮気現場を眺めては、噂を振り撒き続ける。
 しかしそれでも、ゾラは見られることが「監視」である暗さの代わりに、むしろ人々からの視線を平気ですり抜けてしまう怠惰さと骨絡みになった、人間の「強さ」こそに軸を置いているように見える。
 ジェルヴェーズは徐々に堕落していくが、「糊の酢っぱい臭い」や、「黴や残飯や垢の悪臭」すらも「塒(ねぐら)」の素材にしてしまう。「不潔も一つの暖かい塒であり、彼女はけっこう楽しくそこに蹲っていた」。抜けたかに見えた生活の底は、即座に新しい巣となり家となる。恐ろしいのは、生活が悪くなっていくことではなく、「悪い生活」にすら、それなりの工夫や逃げ道というクッションが配置されてしまうことだ。最終盤のクーポーの狂気は、まさに見世物であることと、それをすり抜け自律してしまうことの両面を鋭く描いている。
 狂ったクーポーは何十時間も寝ずに幻想に翻弄され、パントマイムを繰り広げる。疲れ果てて眠りこけてもなお、彼の手足は蠕動し続けている。

「このなかじゃいったい何が起っているんだろう?肉の奥の奥までぴくぴく踊っている、骨だって飛び跳ねているに違いない。震えとうねりが遠くから起っては、小川のように皮膚の下を流れていっていた。すこし強く押しつけてみると、骨の髄から出る苦痛の叫びが感ぜられた。肉眼ではただ渦巻の表面のように、漣が凹みをつくるのが見えているだけだったが、内部ではすさまじい破壊が行われているにちがいない。なんという働きだろう! 土竜みたいな働きではないか! そこでがんがんと、つるはしを打ちこんでいるのはあの<居酒屋>の火酒なのだ。体じゅうがそのためにびっしょり酒浸しになっている。でも、なんて酷いことだろう!その働きは、クーポーの全身をたえまなく揺さぶりつづけて、粉々に打砕き、命まで奪ってしまわなければ終らないに違いないのだ。」

 居酒屋の蒸留機から継がれた「流れ」は、眠りすら、あるいはクーポーの体すらすり抜けていく。だが他方で、クーポーの狂気の周りには医者たちが陣取り、データを採取している。死刑台と罪人を巡る見世物の系譜は、生活習慣と、生活習慣が呼び込む狂気の方へスライドし、文学は数百ページかけて、「生活」という得体の知れないものを掴もうとする。そのモチベーションはもはや大きいのか小さいのかもわからないし、その当の文学が掴んで持ち帰るもの自体も、大きいのか小さいのかよくわからない。
 後半になるにつれて、「酒は人を駄目にする」、「怠惰が破滅を招く」、「環境が人間を壊す」という、十九世紀的で、今読むとやや単純化された作者の声が混入してくるが、むしろそのおかげで、目も当てられない悲惨さに陥らないで済んでいるのがとても不思議だ。教訓にすらならないような教訓は、小説を明るくする。

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