ナナ/ゾラ
ルゴーン=マカール叢書は「汚れた血族」の命脈を追跡する。そして『ナナ』は、この叢書内で堆積した、血族への差別や貧困に対する復讐として位置付けられているのは間違いないだろう。実際、ゾラは筆が乗ってくると、その狙いを開けっぴろげに書きつけてしまう。貴族たち、あるいは男たち(ジェルヴェーズを、ナナを、殴りつけた男たち!)の財産を食い潰し、腐敗させるナナを「金バエ」に喩えてみせる。けれどそのようにして、ナナという人物に血筋や、第二帝政期の狂乱という歴史的な重圧をかければかけるほど、妙な具体性が浮かび上がってくるのはなぜなのだろう。
『居酒屋』はまだわかりやすかった。ジェルヴェーズもクーポーも市井の人々に過ぎない。彼らはキャラクターではない。いわばスポンジのように環境から影響を受ける平均人である。そこに備わる具体性は、「暮らし」の具体性である。労働者が酒浸りになるまでの道程を緩やかに描いていくこと、男に殴られる女がいかにそれを日常に慣らしていくのかを描いてみせること。
一方、ナナはそうした平均人たちに堆積した怨念から産み落とされた、光り輝く「キャラクター」である。彼女に「暮らし」はない。クーポーが堕落していくような、ありふれているが逃れ難いコミュニティの実相みたいなものを跳ね返してしまう。ナナはスポンジのように立ってはいない。
その時、歴史の巨大な圧力と、暮らしの具体性の間で粘つく、肉体とエロティシズムの層がせり出てくるようだ。
ナナの人心掌握術の基本は、自身の価値を高くしておくことで、少しのやさしさが「恩寵」として現れるように仕向けるDV的な手法だ。ミュファは、そうしたナナのコミュニケーションを宗教的なもの(正確にいうなら、宗教と性愛の綱引きとしての宗教的な慄き)として受け取る。あるいは、度々顔をだす扮装による価値転倒というモチーフも、ナナの立身出世(?)的な階級上昇も、そうした「カマし」の技術のバリエーションとしてまとめることもできるかもしれない。
けれど、肉体の具体性が最も現れるのは、ナナが鏡で自分の身体を「点検」するシーンだ。ナナは鏡の前で、自分の身体を確認し、それだけで一つの悦楽を立ち上げる。ゾラはナナに対して、「金バエ」や「酵母」という比喩を度々当てているが、一貫しているのは感染のモデルだ。ナナによって毒されているのは、コミュニケーションであり、コミュニティである。彼女は人間関係を操作し、変質させ、金を引き出す。けれど、その根幹にあるのは、鏡の前で自己循環する身体だ。
ナナはやはりスポンジではない。環境を吸引して、環境を毒すばかりでなく、その奥で環境から自立している。そしてだからこそ、毒された環境は、環境から自立した彼女に、分け前としての金や高価な物品を送り返す。
ゾラはナナを復讐者として位置付けるが、同時にナナはそのことを知らず、ただ気ままに気分の乱高下に合わせて男を漁る。この二重性こそをゾラは掴もうとしている。歴史は彼女を動かすだろうが、気分は歴史を素通りする。
素通り。このモチーフは二つのエピソードを惹起させる。
ナナと田舎での逢瀬を繰り返した少年ジョルジュは、兄への嫉妬からナナの目の前で自殺を図るのだった。彼の胸から吹き出した血は、ナナの館の絨毯(そしてそこは、ナナの部屋の扉の前である)に血痕を残す。その血痕は、ナナの放埒さへの異議申し立てである。けれどナナの部屋を男たちが出入りするたびに、染み付いた血痕は消えていく。ナナの部屋への男の出入りは、そのままナナの周りの経済における金の出入りを意味する。金と愛欲は循環し、その循環こそを憎む少年が残したしつこいシミは、さらなる循環によって(血痕を素通りする男たちと金によって)、消え去っていく。
もう一つ。ナナは天然痘によって命を落とすのだった。ウイルスを撒き散らし、ウイルスをコントロールする母体であったナナは、まるで、そのコントロールを失敗したかのようにして、あるいは、循環の出入りの高速化に身体が耐えられなくなってしまったかのように、美しい身体とその顔貌を食い荒らされて死に絶える。そしてナナの死体が横たわるホテルの外では、普仏戦争で昂った群衆たちが「ベルリンへ!」と声高に叫ぶ。
ウイルスと見分けがつかなくなって初めて、ナナはキャラクターから平均人へと、歴史上の一アクターに変換されたかのようだ。もはや歴史は、彼女を引き止めない。彼女を無視したまま、群衆は突き進む。彼の父である『居酒屋』のクーポーが、ただ一人のアル中患者として死ぬの同じに、彼女は一つの腐敗した身体として、その循環の幕を閉じる。
