「大御心」を語りながら「皇嗣の礼」を黙殺する矛盾
古賀茂明氏のコラムに見られる論理構造とその問題点を浮き彫りにする論考記事です。
「大御心」を語りながら「皇嗣の礼」を黙殺する矛盾
政治評論家・古賀茂明氏による皇室関連のコラム(『国民の合意がない「皇室典範改正」は…』や『「天皇陛下に弓を引いた」高市内閣の支持率が急落…』など)では、極めて情緒的かつ激しい言葉で政権批判が繰り広げられている。
氏は「天皇陛下のお気持ち(大御心)」を推測・斟酌し、「政権の暴挙に対するやむにやまれぬ牽制だ」「政権は陛下に弓を引いた」とまで言い切る。さらに、皇室典範改正の歴史や政治家の家系図、世論調査での国民感情などを細かく引き出し、自らの主張に「真の愛国者・皇室を思う識者」としての説得力を付与しようと試みている。
しかし、その緻密に見える論考には、決定的な「巨大な欠落」が存在する。2020年に国事行為として執り行われた「立皇嗣の礼」および「秋篠宮皇嗣殿下の存在」に対する言及が、不自然なほど完全に消去されている点である。
1. 皇嗣の礼が示した「父系継承」と、氏が求める「直系優先」の不可避な衝突
なぜ古賀氏は「立皇嗣の礼」に一切触れないのか。その理由は、この儀式が持つ歴史的・制度的な意味を紐解けば明確になる。
「立皇嗣の礼」は、天皇陛下ご臨席のもと、現行の皇室典範および特例法に基づき、秋篠宮さまが皇位継承順位第1位の「皇嗣」であることを国の内外に公式に宣明した国家の儀式である。これは、皇位継承が「今上陛下の直系」ではなく「皇統の父系(男系)血統」に沿って引き継がれていくという父系継承の論理を最も強く確定・具現化した事実にほかならない。
一方で、古賀氏が「国民の合意」や「世論の期待」を盾に推し進めようとしているのは、今上陛下の長子である愛子内親王への継承(直系・長子優先論)である。
すなわち、「立皇嗣の礼(国家として決定・実行された父系継承の現実)」と「古賀氏の主張(直系長子継承への誘導)」は、思想的にも制度的にも180度相反する。
2. 言及すれば「詰む」——触れられない3つの理由
古賀氏にとって「立皇嗣の礼」や「皇嗣殿下」の存在を正面から議論の対象にすることは、自身のロジックを破綻させる危険な行為となる。
① 憲法上の「皇室の政治利用」に抵触するリスク もし「陛下は皇嗣の礼も不本意だったはずだ」と論じれば、国家の最高儀式に臨まれた天皇陛下の内心を勝手に決めつけることになり、露骨な「お気持ちの政治利用(憲法第4条違反)」として決定的な批判を浴びる。
② 確定した法秩序・国家儀式の全否定 「皇嗣の礼は無効・間違いだった」と言い切れば、特例法や国会決議、閣議決定という手続きを経た法秩序そのものを全否定することになり、評論家としての論理的一貫性を失う。
③ 「進行中の政治問題」として語れなくなる 皇嗣の礼に触れることは、皇位継承順位の基本骨格がすでに国家として「確定した過去」であることを自ら認めることになるため、「政権がこれから暴挙に出ようとしている」という批判の前提が崩れてしまう。
3. 「大御心」の消費と、不都合な事実の不開示
細かな歴史や家系図を大量に引き出して見せかける一方で、最も重い「皇嗣の礼」という公的決定だけをスルーする言論の手法は、情報の選択的開示(チェリー・ピッキング)と言わざるを得ない。
天皇陛下の発言を自分の政権批判に都合よく解釈・補強する一方で、制度の根本である皇嗣の礼や皇嗣殿下の存在から目を背ける姿勢は、「皇室を心から敬っている」のではなく、「自分の政治的主張(政権批判)のために皇室を都合よく利用・消費しているだけではないか」という疑念を生じさせる。
結論
古賀氏のコラムが醸し出す違和感の本質は、「大御心を語り、愛国者を装いながら、国家の最高儀式である皇嗣の礼を黙殺しなければ成り立たない」という論理構造の脆さにある。
過激な言葉で政権を糾弾してみせても、父系継承を宣明した「立皇嗣の礼」という巨大な事実に向き合わない限り、その言論は「自らの主張に都合の良い部分だけをつぎはぎしたポジション・トーク」の域を出ない。
補)
古賀氏は小泉路線(2005年報告書系譜)のリベラル的立場に立ち、女性・女系天皇容認、旧宮家養子案批判という結論部分では小林氏らと軌を一にしている
しかし「皇嗣・立皇嗣の礼という制度・儀式そのものの正統性を問う」という、より踏み込んだ攻撃材料は意図的に採用していない
その理由は、この論点が「劇薬」であり、天皇制そのものへの過激な疑義と受け取られかねない、あるいは自らの「国民的合意重視」という穏健な立ち位置と矛盾しかねないため、戦略的に距離を置いている可能性が高い
