「愛子天皇論」への冷めた眼差し――20年前の東宮バッシングを忘れた大衆の「自己懺悔」と手のひら返し
皇室典範改正の議論が一応の政治的決着を見た今もなお、言論空間やSNSでは「愛子天皇以外ありえない」とする熱狂的な声が止まない。現代のジェンダー平等論や、成年に達した愛子内親王の気品あふれる佇まいをシンボルに掲げ、あたかもこれが「国民の純粋な総意」であるかのように語られる現在のブーム。
しかし、20年前のリアルな空気を知る者からすれば、この突発的な熱狂に対して、激しい違和感と、ある種の「軽蔑」を禁じ得ないのが本音ではないか。
なぜなら、いま「完璧なご一家」「愛子さまを天皇に」と狂信的に叫んでいるマスメディアや大衆こそが、かつて現在の天皇ご一家を最も冷酷に叩き、病へと追い詰めた「加害者」そのものだからである。
1. 2006年、皇居の現場にあった「冷ややかな歴史」の証言
時計の針を20年ほど巻き戻してみる。現在の「愛子さまブーム」しか知らない若者には信じがたいことかもしれないが、2000年代半ば、当時の東宮家(現・天皇ご一家)を取り巻く世論は、現在の神格化とは真逆の、極めて冷淡で容赦のないものであった。
象徴的な記憶がある。2006年(平成18年)頃、大学からの募集で皇居清掃奉に当時学生だった私は参加した。その時に目撃した光景だ。当時、皇太子であった徳仁親王は奉仕団の前に姿を現されたが、ご病気の関係で長期療養中だった雅子妃(当時)の姿はそこになかった。
本来、わざわざ皇居まで足を運ぶ奉仕団(学生以外には、各県の農協職員などの団体が参加していた。)の人間は、最も熱心な皇室支持層(尊皇派)のはずである。しかし当時の現場からは、公務や祭祀に出てこられない雅子妃に対し、「なぜ出てこられないのか」「皇太子妃としての自覚が足りないのではないか」といった、露骨な「顰蹙(ひんしゅく)の声」が上がっていた。これが当時のリアルな日本の空気だった。

メディアのパパラッチ的な過熱取材によって最初の懐妊時に流産(1999年)という悲劇を経験し、その後も私生活まで付きまとわれて心を病んでしまった高貴な女性に対し、当時の大衆は「同情」よりも「役割の強制と不満」をぶつけていたのである。週刊誌やワイドショーは連日のように東宮家の「暗いイメージ」を書き立て、大衆はそれをエンタメとして消費していた。
2. マスメディアの醜い「転向」と大衆の「自己懺悔」
この冷酷な歴史が、ここ数年でなぜ180度ひっくり返ったのか。その潮目を大きく変えたのは、秋篠宮家の眞子さんの結婚騒動(2017〜2021年)と、2021年に成年を迎えられた愛子内親王の完璧な記者会見であった。
それまで秋篠宮家を「理想の家庭」と持ち上げ、東宮家を叩いていた大衆は、小室圭さんの金銭トラブルが発覚するやいなや、手のひらを返して秋篠宮家へ凄まじい憎悪を向け始めた。同時に、立派に御成長された愛子内親王の姿を見て、大衆の脳内に強烈なバグが発生した。
「私たちは間違っていた。あんなにバッシングしていたのに、なんて素晴らしいご一家だったんだ」
現在の「愛子天皇論」を支える熱狂の正体は、天皇や歴史への真摯なリスペクトではない。かつて自分たちがメディアの悪口に踊らされ、病床の女性や幼い子供をいじめていたという「過去の加害性に対する強烈な罪悪感(自己懺悔)」である。彼らは「全肯定の狂信的ファン」という新しい仮面をかぶることで、20年前の自分たちの冷淡な醜態を歴史から消去し、上書きしようとしているのだ。
3. 怨念(ルサンチマン)の投影としての「愛子天皇推し」
もう一つ、このブームを「軽蔑」すべき理由は、彼らが愛子内親王という存在を、自分たちの歪んだ政治的欲求や社会への不満を晴らすための「棒」として利用している点にある。
彼らの脳内では、複雑な皇位継承の歴史(継体天皇や桓武天皇がアクロバティックに父系を死守してきたドロドロとしたリアリズム)など1ミリも理解されていない。ただ、現代のわかりやすい「善悪二元論のプロレス」として皇室が消費されている。
【善のシンボル】 実力も品格もあるのに、古いルールのせいで割を食っている「悲劇のヒロイン」(=現代の報われない弱者やジェンダー平等の投影)。
【悪のシンボル】 特権を貪り、忖度で未来を約束されている(と彼らが信じ込んでいる)秋篠宮家(=ずるい既得権益の投影)。
SNSに昼夜を問わず「愛子天皇以外ありえない!」と書き込む彼らの異常な熱量は、純粋な敬愛から来ているのではない。絶対に反論してこない「秋篠宮家」という安全な対象を正義の側から叩き、日頃の社会的劣等感をスカッと発散(投影)したいという、実につまらないネットいじめの快感によって駆動している。
結論:消費のサイクルが変われば、彼らはまた手のひらを返す
歴史をフラットに見つめれば、大衆の「熱狂」ほど信用できないものはない。
20年前、皇居の地で冷ややかな顰蹙を投げかけていた大衆と、いまネット上で「愛子天皇!」と叫んでいる大衆は、本質的に地続きの、同じ「消費者」である。彼らは一貫して、皇室の歴史的・宗教的な重みを見ていない。ただ「自分たちの期待するエンタメ(ヒロインの成長物語や、悪役の引きずり下ろし)」を求めているだけだ。
だからこそ、もし数年後、愛子内親王が彼らの思い通りの「聖女のシナリオ」から少しでも外れる選択(例えば、大衆が気に入らない民間人との婚姻など)をされた瞬間、彼らは昨日までの熱狂を忘れ、再び2010年代のような凄まじいバッシングを始めるだろう。
大学の神道学が「都合の悪い古代のリアル(持統天皇の政治性など)」を教えず、保守メディアが「スカッとする神話ビジネス」に走り、左派メディアがそれを「ジェンダー平等の道具」として切り刻む。その結果として生み出されたのが、この知性を欠いた「愛子天皇ブーム」という現代のカルト的狂騒曲である。
20年前に現場の冷気を直接目撃した者からすれば、過去の加害を忘れて正義の味方になりすます大衆の「愛子天皇論」は、哀れみを通り越して、底の浅い現代日本の知的地盤沈下を象徴する、軽蔑すべき劇場型エンタメに過ぎないのである。
