「頑童の悪戯」から考える、現代のコンプライアンス問題
今日、神保町の某書店で雑誌『世界』創刊号を購入し、そこに掲載されていた安倍能成の「剛毅と真実と知慧とを」という文章を読んでいて、面白い一節に出会った。汽車の硝子窓に石を投げて割る、いたずら好きの少年の話である。
ーー昔は硝子が安く容易に補充できたため、こうした悪戯は「まあ子供のすることだから」と一笑に付されていた。ところが硝子が貴重品となり、簡単には手に入らなくなると、まったく同じ行為が急に道徳的な非難の対象になった――というのだ。
著者の論点はこうである。「物の価値が上がれば、その物を傷つける行為に対する道徳的関心も比例して増大する。」逆に言えば、道徳とは物そのものの性質ではなく、その物が社会にとってどれだけ「稀少で必要とされているか」によって、後から意味づけられるものだということになる。
これは現代のコンプライアンスの話そのものではないか
私はこの話を読んでびっくりした。
この構図はそのまま現代社会のコンプライアンス強化の説明になっており、戦後間もないどさくさの時代にもこのような事が論じられていたことにだ。
一昔前なら「そんなことでいちいち目くじらたてなくても」で済んでいたようなミスや不注意が、今では厳格な処分の対象になる。ハラスメント、情報漏洩、ちょっとした表現の失言――これらの行為自体が急に悪質化したわけではない。「変わったのは、それを取り巻く「稀少な資源」の方だ。」
昔の硝子にあたるものが、今は「組織への信頼」や「レピュテーション」である。SNSひとつで不祥事が瞬時に拡散し、たった一人の軽率な行動が会社全体の信用を毀損しかねない時代になった。信頼という財が稀少で、しかも一度失えば回復が困難であるからこそ、それを傷つける行為への道徳的(そして制度的な)関心が急激に高まっている。
個人間の悪戯が「社会全体」の問題になる
もう一つ興味深いのは、安倍がこの文章の中で指摘する「関係性の拡大」である。かつては投石する少年と、被害を受ける個人(あるいは鉄道会社)という限定的な関係の中で悪戯が捉えられていた。しかし物の稀少性が増すにつれ、その行為は「社会全体にとっての傷害」として意味づけられるようになる。
これも今の企業不祥事とまったく同じ構造だ。たとえば、入社したばかりの新社会人が、悪気なくInstagramのストーリーやBeRealに社内資料が写り込んだ写真を投稿してしまう――そんなケースを思い浮かべてほしい。本人にしてみれば「オフィスの様子を共有しただけ」という軽い気持ちだったとしても、画面の端に映り込んだ内部資料や顧客名、開発中の製品情報は、投稿した瞬間から不特定多数の目に触れる。かつてなら上司ないしは会社に叱られて終わっていたような話が、今では会社全体の情報管理体制の甘さとして、顧客・株主・取引先からの信頼を揺るがす問題に発展しかねない。だからこそ内部統制やコンプライアンス部門が、個人の行為を組織全体のリスクとして厳格に監視するようになった。
コンプライアンスは「うるさくなった」のではなく「守るべき財が変わった」
こう考えると、「最近はコンプライアンスにうるさくてやりづらい」という感覚の正体が見えてくる。行動の基準が不必要に厳しくなったのではなく、「社会が稀少だと認識する価値の対象が、物質的な財から信頼・情報・評判といった無形の財へ移った」というだけのことなのかもしれない。
昔の少年が石を投げた先にあったのは、いくらでも補充できる一枚の硝子だった。今、私たちが日々の業務の中で「割ってしまうかもしれない」ものは、二度と元には戻らない信頼というガラスなのだ。
