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【掌編小説】年末ブルー

今年を清算するかのような青空が、なんだか後ろめたい。
十数キロ軽くなった自転車のペダルを、私は踏み込んだ。

私は、賃貸の営業時代を思い出していた。
様々なお客様がいた。大学生、新社会人、新婚カップル、離婚を決めた人、終の住処を探す老夫婦….人生の転機を覗き見するのは、なんとも不思議な気分だった。

中でも一番幸せそうなのは、小さい子どものいるファミリーだった。キッズスペースでDVDを見ては退屈し、話を聞いていた母親の裾を引っ張り、内見先で転がって父親に諌められ、とにかくてんやわんや。どの家族もいかにも大変そうなのに、陽だまりのように見えて、当時独身だった私には眩しかった。

私は今、その陽だまりの中にいる。もし、当時の私から見たら、陽光が眩しい存在なのかもしれない。でも…

息子のミナトを保育園に預けた後、電動自転車を漕いで駅まで向かう途中、私はいつも同じ思考を車輪と共にに巡らせる。幸せの中にいるはずの私は、幸せを感じられているんだろうか。幸せを感じる時、それはミナトを迎えに行った時の、彼の満面の笑顔。保育園の先生がいなければ毎回涙ぐんでしまいそうになるほど美しい。

だが、それも一瞬のこと。それ以外の時間は、陽だまりなんてもんじゃない、台風だ。

私は育休から復帰した後、営業部から事務部に異動した。表向きホワイト企業である我が社が、無理やり事務部に移らせることはない。ただ、時短勤務になっても、フルタイムの場合と同じ予算を課せられる。事務部への異動は、ワーキングマザーにとっての現実的な選択だった。

事務部の仕事がこんなに忙しいなんて、営業時代には考えもしなかった。入居者申し込み対応、保証会社への審査用紙提出、契約書送付、重要事項説明、解約問い合わせへの対応…一つ一つの業務は単純だが、それが一日に十数件、多い時には何十件も来る。保育園の送迎もあるので、9時から16時までしか働けない。

吹きすさぶ台風のような日々は、後ろも横も向かせてくれなかった。もうちょっと時間があれば、丁寧に、周りに配慮しながら、今後のことも考えて、進められるのに…ただ目の前のことをこなすしかない日々が、もどかしい。

ミナトを迎えに行った後は、「母親」としての忙しさが押し寄せる。夕食を作り、お風呂に入れ、寝かしつける。遊び足りなくて暴れる3歳児相手だから厄介だ。仕事が育児を癒し、育児が仕事を癒す…と考えるには、両者はあまりにも過酷だった。

師走の風は、コートを突き抜けて体の芯を刺した。自転車を駐輪場に停めて、いつものように駅へと急ぐ。

もうすぐ、年末年始だ。長期休み。母親にとっての長期休みが決して「休み」ではないことを、私は完全に受け止めきれてはいなかった。ミナトはいつものようにはしゃぎ、夫の航平も休みを「休み」として捉える。 そんな中、私は、年末年始、専業主婦となる。日頃たまった家事を片付け、ミナトの相手をし、朝昼晩の食事を用意する。

航平は、昼まで寝て、その後もゴロゴロしている。私はどうしても穏やかに接することができない。つい、刺々しい物言いをしてしまう。

「あおいちゃん、最近言い方キツい。」と、航平に言われ、ますます腹が立った。あなたが、ちゃんとしてたら、私だって言わないよ、と言いかけて、なんだか母親の物言いのようで、口をつぐんだ。「妻が母親のようになる」「夫が大きい長男になる」、Yahoo!知恵袋で見るような、月並みな悩みに自分が陥っていることに驚いてしまう。

子どもの頃、あんなに楽しみだった年末年始の休みが、憂鬱なものになった。

営業の時に接した、陽だまりのような家族。あの母親も、同じような悩みを抱えていたのだろうか。あの時に戻って、話したくなった。


9時前に営業所に到着した。既に営業は案内や商談に出ており、人はまばらだった。意外なことに、事務部の後輩である丸田さんの席も空いていた。

「丸田さん、今日体調不良で休みだって。」
所長がこともなげに言う。彼女がシフト以外で休むなんて珍しいことだ。むしろ、私がミナトの発熱で休むことの方が多かった。休みの間は丸田さんが私の代理対応をしてくれている。今日は、私が代理対応をしないとな…。ただでさえ忙しい。場合によっては、延長保育の連絡も…と思って彼女の机を調べると、あることに気がついた。

丸田さんのデスク上は普段、未対応の書類が積まれている。しかし、今はデスクの上の書類は全て片付いている。PC周りの付箋もない。念の為記録を見たが、全て対応済みになっている…。

昨日は12月24日。通常、土曜日は営業日だが、クリスマスイブのため、本社から休暇の通達が出ていたはずだ。

昨日は、彼女…クリスマスイブに、出勤したのだろうか。
鞄に書類を入れている営業部の黒木くんに後ろから声をかけた。

「ねえ、丸田さんって、昨日出てたかどうか、知ってる?」

黒木くんは一瞬背中をピクッとさせたように見えたが、
「さあ…わかんないっすね…」と曖昧に答えるだけだった。

私は自分自身の書類を処理しながらも、丸田さんのことを考えていた。
確かに、彼女は仕事が速い方ではない。こつこつ、着実に進める人だ。
多少のミスはあるものの、慣れるうちに減っていくと思っている。
だが、クリスマスイブなのに、休日出勤するほどなのだろうか…。

もしかして、普段から休日出勤してる…?

一抹の疑念が浮かぶ。私は時短勤務を理由に業務量を調整してもらっていた。それでも忙しいのに変わりはないのだが。電話応対も丸田さんに任せていた。母親業と両立している自分が、一番大変だと思っていた。

もし、それが、丸田さんが私の知らない間に、埋め合わせをすることに繋がっていたら…。疲労が重なり、今日の体調不良に繋がっていたら…。

「言ってくれたら、なんとかするのに…。」
その呟きは、静寂にかき消された。営業部が全員外出し、自分一人になった営業所。配属から今まであまりにも忙しく、丸田さんとは業務上の話しかしていなかった。業務量が多いのは当たり前、そんな状況で、弱音を吐けるはずもない。丸田さん、過労で倒れていないだろうか。明日、出社できるだろうか。

もし、来てくれたら、謝ろう。色々、気づかなくて、ごめんね。


だが次の日、先に出社していた丸田さんは、あまりにも爽やかな表情だった。
「大丈夫だったの…?」と問うと、
「はい、おかげさまで元気になりました!」と答える。
その声も、いつになく溌剌としていた。

彼女が出社したら、言おうと決めていたことがあった。
「丸田さん、今日さ。二人でランチ行かない?」
「え…でも、電話は…?」
「大丈夫。その時間、所長にいてもらうようにしてるから。」


二人で営業所の近くのカフェレストラン、「オーシャン・アルデンテ」に入った。
「ここ、入ってみたかったんですよ。」
「シーフードパスタが美味しいらしいね。」

木目調のテーブルに水色のテーブルクロスがかけられ、貝殻を詰めた小瓶が飾ってあった。地中海がコンセプトのようだ。丸田さんと向かい合わせに座り、茶色く縁取られた、つるつるしたメニュー表を開いた。

「漁師風トマトシーフードパスタにしようかな…」
「いつも思うんですが、漁師風ってやっぱり注文してから魚獲ってくるんですかね…?おりゃ!って」
「おりゃ!って…?昼休み終わっちゃうよ!」

そんな軽口を叩き合って、二人でクスクスと笑う。業務上の話しかしてこなかった丸田さんと、ここに向かい合っているなんて、いつになく新鮮だった。

私はやっぱり「漁師風トマトシーフードパスタ」を、丸田さんは「潮騒のレモンシーフードパスタ」を注文した。

「年末は、どっか行くの?」
「いやぁ…うちは、実家なんでまあ買い物行ったりぐらいはしますかね…先輩は…?」
「あぁ、うちは子どもいるし…夫の親には会うけど、まあどこも混んでるからねえ…」
「ちっちゃいお子さんいると大変ですよね…。」
「そうなのよ…。」

当たり障りのない会話は、すぐに止まってしまう。
こっちから誘ったんだから、何か言わなければ。空気を探していると、丸田さんが口を開いた。

「先輩って…旦那さんとはどこで知り合ったんですか…?」
そう問われるのはあまりにも久しぶり過ぎて、一瞬記憶を辿ってしまう。
航平と出会ったのは…そうだ。
「高校時代、同じ吹奏楽部だったの。私がトロンボーンで、彼がユーフォニアム…って、知ってる?」
「あ、なんとなく知ってます。『響けユーフォニアム』ってアニメ、ありますもんね。」
「そうそう、それそれ。それでね…。」

トロンボーンとユーフォニアムはメロディーラインであることはほとんどなく、低音パートで共にパート練習をすることが多かった。私は自分のトロンボーンの音も好きだった。腕の動きに合わせて、滑らかに音を変える。でも、航平が演奏するユーフォニアムの音は、もっと好きだった。彼自身の声であるかのように、優しい音がした。彼がソロで『浜辺の歌』を演奏した時はその懐かしさが、胸に沁みた。

彼を異性として意識し出したのは、ある合奏の時だ。合奏の時は、ユーフォニアムはトロンボーンの前に座る。ある時、トロンボーンの音を出す時にうっかりスライドを伸ばし過ぎてしまい、航平の後頭部に当たってしまった。一瞬、演奏が止まる。航平は「いてててて…」と後頭部を押さえる。私は慌てて航平に駆け寄った。私は、責任を感じて、航平を保健室に連れて行き、氷をもらって当てていた。幸い、大事には至らなかったが、二人でしばらく音楽室の外に座り、様子を見ることにした。それで少しずつ話すようになり、なぜか仲良くなった。

「あの時、君にぶつけられてなかったら、僕は東大に行けてたんだって、今でも言われるの。」
そう話すと、丸田さんは笑った。
「すごく素敵じゃないですか、なんか、アオハルって感じがします。」

話し続けているうちに、二人の料理が来ていたことに気づく。私は自分のことを語り過ぎてしまったことを少し恥じた。イカリングをフォークで刺しながら私は尋ねた。

「丸田さんは…?」

彼女は少しハッとしたような表情をした。
「彼氏は、今いないんですけどね…。」と言い淀む。

その口調から、私は何かを察した。

「え!好きな人がいるの?誰?知ってる人?会社の人?」
まだ何も言ってないのに、思わず自分で畳み掛けてしまう。女子同士のこういう話、よく修学旅行の消灯後にしていたな、と思い出す。懐中電灯を持った先生に見つからないように、誰が好きだとか、気になるとか、かっこいいとか、そんな話ばかりしてたっけ…。

でも、丸田さんは慎重だった。
「やっぱ…今は言えないです…迷惑かかるかもしれないし…」
迷惑…?ということは、私たちの知ってる人に違いない。誰だろう。所長は結婚してるし…営業部の人?気になって仕方がない。

「イニシャル!イニシャルだけでも!」
「中学生じゃないんだから!それに、だいぶ特定できちゃうじゃないですか!」
丸田さんがちょっと口を尖らせるのが、なんとも可愛らしい。

「いいなぁ…結婚しちゃったから、そういうのなくてさ、人の話聞いてるだけでも楽しい。」
「いいじゃないですか、先輩だって、素敵な出会いがあったんだから。」

丸田さんの表情を見ると、彼女は本当に好きな人を見つけたんだな、と思う。この表情、人が好きな人を見つけた人の顔、わかる。そういう表情見るの、私好きだなあ…

それが、何かに似てると、思い当たった。

私は、前からそういう人の表情の変化を見るのが好きだった。
営業として賃貸物件を案内していたとき、本当に合うお部屋を見つけたお客様の顔は、やっぱり違う。妥協して「ここかなあ…」と選んだ時と、本当に気に入った時の表情は異なっていた。私は、妥協している人に無理に部屋を勧めることはしなかったから、トップセールスにはなれなかった。

でも、気に入ったお部屋を見つけたお客様は、次の引越しの時も私を頼ってくれていたっけ。

私、やっぱり営業に戻ろう。今は無理でも、ミナトがちょっと、大きくなったら。航平に頼ったっていい。

「丸田さん、ありがとう。」
「え…何がですか?」
「色々。色々ありがとう。ごめんね。丸田さんを元気づけようと思ったのに、逆に、大事なことを思い出した。迷惑かからない状態になったら…教えてね。」
「先輩に一番に言いますから、待っててくださいね。」

丸田さんがお手洗いに行ってる間に、LINEの画面を開く。
航平とのメッセージ画面で、何を送ろうか、一瞬迷った。

「航ちゃん、冬休みに浜辺の歌、聞かせてよ。」

そう送ると、すぐに既読マークがついた。

(了)


たねあかし

あ…これ、先輩側の意見です。
独立した話として楽しめましたでしょうか…?

上記の話の「先輩」を主人公にしてみました。
同じワーキングマザーとして、先輩を応援したいなあという思いがあったのです。私は在宅ですが、外で働く人は本当に大変だろうな…と思っております。

ちなみにユーフォニアム吹いててトロンボーンぶつけられた思い出があるのは私です。しかもあんまり上手くないっていう…。

浜辺の歌はこちら

親の皆さん、年末年始乗り切りましょう!!







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