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押し入れの中ぜんぶ燃やす

「押し入れの中ぜんぶ燃やす」

母から犯行予告のようなメールが届いたのが、月曜日。
件名のないメールに母の決意を感じた。
あの人は昔から片付けに関してだけは容赦がない。

慌てて電話をかけると、母は受話器の向こうで笑いながら言った。

「やっと連絡してきたわね。ああでも書かないと、あなた動かないでしょう」

結婚して実家を出てから何年も経つのに、実家の押し入れには僕の荷物が大量に眠っている。
幾度となく片付けるように言われたが、そのたびに「忙しい」「今じゃない」と言い訳を重ねてきた。
気づけば、少しずつ埃をかぶっていく押し入れと記憶。

「来月リフォームするから、今週中に片付けなさい。じゃないと燃やすからね」

声は笑っていたが、その奥に本気の気配を感じ、週末は久しぶりに実家へ向かった。


実家の押し入れを開けた瞬間、懐かしい匂いがした。
防虫剤と仕舞い込まれた布団、そして長いあいだ動かなかった空気の混ざった匂い。
段ボール箱、古い教科書、アルバムに座布団。次々と引っ張り出していくうちに、手が何か硬いものに触れた。

引きずり出すと、それは小さな木製の椅子だった。
薄茶色の木肌はところどころ色あせ、背もたれの角は丸く擦り減っている。
座面には、引っ掻いたような無数の細かな傷。
手のひらで埃を払いながら眺めていると、「お茶入れたわよ」と母が湯呑みを持って入ってきた。

「あら、懐かしいじゃない」
「これ、誰の椅子?」
「あなたのよ。どんなに泣いていても、この椅子に座れば泣き止んだのよ」

母が横に積んであったアルバムを開くと、あちこちにこの椅子と僕が写っていた。
リビングでも、庭でも、旅館の部屋でも。どの場面にも、この椅子は僕の隣にあった。

なぜそんなにお気に入りだったのか思い出せない。
母に聞くと、少し考えてから話してくれた。

「あなた、保育園のクリスマス会でサンタさんに『ロケットがほしい』って手紙を書いたの。それでお父さんがこの椅子を贈ったのよ」

あぁ、そんなこともあったな。記憶の水面がかすかに揺れる。

「あなたは『こんなのロケットじゃない!』って泣いて大変だったわ」

母は椅子を手に取って続けた。

「だからお父さんが言ったのよ。『この椅子はロケットのコックピットだ。ミサイルを装備していて、宇宙の果てでも光速で行ける。しかもロボットに変形もする、お前を守る最強のロケットなんだ』って」

母が椅子をひっくり返すと、座面の裏には青いクレヨンで大きく『ロケット』と書かれていた。
その文字を見た瞬間に蘇る父の声。子供の頃の匂い、笑い声、椅子の軋む音。

僕は確かに、この椅子で宇宙を飛んでいた。

「あなたが大喜びしてこんな落書きしたから、バザーでは売れなかったのよ」と母は笑い、湯呑みを残して部屋を出ていった。


僕は椅子を抱えたまま、しばらく動けなかった。

鮮明に蘇る遠い記憶。
この椅子に腰を下ろすと、それは僕だけのコックピットになった。
体重をかけるたびにギシッと軋む音は、ロケットのシステムが起動する音。「発射準備完了!」と叫ぶと「また始まった」と母の笑っている声が遠くで聞こえる。

身体を大きく右に傾ければロケットが急旋回する。左に傾ければ敵の攻撃をかわせる。
夢中になりすぎて、何度も椅子ごと床に倒れた。背もたれの角が丸く削れているのはその時の名残だ。

嫌いなニンジンも、この椅子に座って宇宙食だと思えば食べることができた。
父が「俺にも操縦させろ」と座ろうとしたが、当然座れなかった。このロケットは僕にしか操縦できないのが誇らしかった。

時には宇宙の果てまで飛んだ。
時には怪獣と戦った。
時には月までお菓子を買いに行った。

友達と喧嘩した日も、母に叱られた日も、怖い夢を見た夜も、この椅子に座れば不思議と落ち着いた。
僕のロケットなら、どんな相手でも戦えるし、どこにでも逃げられる気がしたから。

ここが、僕の"いつもの場所"だったんだ。

懐かしくなり、四十年ぶりに座ってみたくなったけれど、腰を下ろそうとした瞬間に気づいた。

お尻が入らない。

座面は30センチ四方ほど。子どもの頃は余裕すらあったけど、今見ると驚くほど小さい。
無理をすれば細い脚が折れてしまいそうで、怖くなった。

最強のロケットには、もう乗れない。
いつもの場所には、もう帰れない。

目の前にあるのに。手で触れているのに。

現実の重さに、胸の奥が静かに軋んだ。


しばらく椅子を眺めているうちに、ふと気づいた。

もう座れなくなったのは、何かを失ったからじゃない。
僕が、大きくなったからだ。

泣き虫だった子どもは、この小さな椅子に守られて大人になった。
泣きそうになると、いつも座面を爪で引っ掻いていた。その跡が今も、無数の細い線となって残っている。

椅子は、そっと自分の役目を終えていた。
もう、座る必要がなくなったのだ。
場所を失ったのではなく、ただ、そこを通り過ぎただけなんだ。

この椅子だけじゃない。
生きていると、戻れない場所がどんどん増えていく。
四十歳を過ぎたあたりから特にそう感じるようになった。

小学生の頃に遊んでいた空き地にはマンションが建った。
中学で放課後に友達と集まっていた駄菓子屋は駐車場になった。
高校の帰りに立ち寄っていたドムドムはパチンコ屋に変わり、大学時代に背伸びして通っていた喫茶店は100円ショップになった。

どこも、僕の“いつもの場所”だった。

街が変わり、環境が変わり、時代が変わる。
そして僕も変わっていく。
そのたびに、“いつもの場所”は少しずつ姿を消していった。

けれど、思い出まで消えたわけじゃない。
場所に思い出が残るのではなく、そこで過ごした人の中に思い出は残るのだ。
そして人はその思い出を胸に、また新しい場所を見つけていく。

思い返してみれば、今の僕にも“いつもの場所”がある。
職場の窓際の席。週末に通うカフェの、入り口から三つ目のテーブル。家のソファの右端。

気づけば、どれも心が落ち着く場所になっていた。

空き地が消えても、駄菓子屋が消えても、僕はそのたびに新しい居場所を見つけてきた。
そしてこれからも、きっと見つけていくのだろう。

帰れない場所があるからこそ、人は前へ進める。
戻れない過去があるからこそ、新しい日々を探していける。

それは喪失ではなく、更新だ。
あの椅子に守られた時間は、今も僕の中で静かに息をしている。

もう、押し入れには戻さない。
あの頃の僕を乗せてくれたロケットを、今度は僕が連れて帰る番だ。

妻とアンコが待つ、今の僕の“いつもの場所”へ。

きっといつか、アンコがこの椅子に腰を下ろす日が来るだろう。
今はまだ、僕の膝の上が彼女のお気に入りの場所だけど。
その時は、きっとあの頃の僕も、同じ場所に座っている気がする。

そうやって、通り過ぎた場所は形を変えて戻ってくるのかもしれない。

湯呑みに口をつけると、お茶はすっかり冷めていた。


帰宅して、椅子をリビングの窓際に置いた。

「かわいい椅子ね」妻が覗き込む。
「ロケットだよ」そう答えると、「変なの」と笑いながらコーヒーを淹れに行った。

一人で椅子を眺めていると、いつの間にか夕方になっていた。
窓から差し込む西陽が木肌を温かく照らす。その光の中で、黒猫のアンコがピョンと飛び乗り、丸くなった。

「いいかい?この椅子はロケットのコックピットだ。お前を守る、最強のロケットなんだ」

話しかけると、アンコは一瞬だけ僕を見て、大きなあくびをした。
今度はアンコの“いつもの場所“になるのかもしれない。

「ロボットにだって変形するんだぞ」


そう呟くと、子供の頃の僕がどこかで笑った気がした。

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