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教会は、過去・現在・未来の「キリストの到来」を待つ

待降節(アドベント)とは何か──「三つの到来」を待つ時間

アドベント(待降節)は、単に「クリスマス前の準備期間」ではありません。教会にとってこの時期は、一年の中でも特に深い神秘を宿した時間です。その理由は、待降節がイエス・キリストの「三つの到来」を同時に見つめる時だからです。
聖ベルナルドはこの神秘を、簡潔かつ力強くこう表現しています。
「第一の到来において、イエスは肉体と弱さのうちに来られます。第二の到来において、イエスは霊と力のうちに来られます。第三の到来において、イエスは栄光と威厳のうちに来られます。」
待降節が特別なのは、過去・現在・未来という三つの時間が、この期間に重ね合わされるからなのです。

この記事は、19世紀に書かれた、 The Liturgical Year VOLUME I ー ADVENT By Dom Prosper Gueranger, O.S.B. を翻訳し、わかりやすくまとめたものです。クリスマスに向けてカトリック教徒がどのように準備するか・その神秘について記述していますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。





第一の到来──歴史の中に来られたキリスト

第一の到来とは、約二千年前、肉体をもってこの世に生まれたイエスの降誕です。
それは、静かな夜、ベツレヘムの飼い葉桶という、もっとも謙遜で隠された形で起こりました。
ブロワのペトロは、この到来についてこう語ります。
「第一の到来は真夜中でした。『真夜中に、見よ、花婿が来る!』と叫び声が上がったからです。」
教会は待降節の典礼において、旧約の預言者たちの言葉を繰り返し用います。しかしそれは、単なる歴史の追憶ではありません。古代イスラエルの切望と、今日の教会の祈りとは、神の永遠の計画の中で結ばれており、神はそれらを受け入れて「定められた時に、地上に祝福された露を送られた」と語られます。
第一の到来は、神が人間の歴史に入り込まれた出来事であり、すべての救いの出発点です。




第二の到来──今も魂に訪れるキリスト

しかし、教会が待ち望むのは過去の出来事だけではありません。
第二の到来とは、今この瞬間にも起こりうる、魂への到来です。
ブロワのペトロは言います。
「私たちは今、第二の到来の中にいます。ただし、私たちがイエスを愛するならば、です。」
この到来は目に見えず、外からは分かりません。「神の霊以外に、誰がそれを知ることができるでしょうか」とあるように、それは各人の内面で静かに起こります。キリストは、花婿が花嫁を訪れるように、恵みと愛をもって人の魂に来られます。
だからこそ、待降節の祈りは、「キリストが私たちのもとに来てくださるように」という切実な願いに満ちています。もし、キリストが私たち一人ひとりの人生に来られなければ、二千年前の降誕も、私たちにとっては意味を失ってしまうからです。




第三の到来──栄光と裁きのうちに来られるキリスト

そして教会は、さらに第三の到来を見据えています。それは、終末における栄光と裁きの到来です。
この到来は「必ず起こるが、いつ起こるかは誰にも分からない」とされます。聖書はそれを、「身ごもった女の陣痛のように、突然訪れるもの」と表現します。
教会は、この日を恐れをもって見つめます。しかしそれは、自分自身の救いを疑っているからではありません。むしろ、母として、多くの人々が裁きの左側に立つ可能性を思い、胸を痛めているのです。
このため、待降節の典礼では、しばしば厳しい聖書の言葉が選ばれます。それは、人々を絶望させるためではなく、「罪の眠りから目覚めさせるため」の健全な恐れを呼び起こすためです。




なぜ待降節はこれほど厳粛なのか──典礼に込められた意味

待降節の重要性は、典礼の細部にもはっきりと表れています。
40日間という期間:当初、教会は40日間の待降節を定めていました(現在も一部の教会で維持されています)。後に4週間に変更されましたが、これはヘブライ語聖書によれば最初のクリスマスが4000年後に起こったことを象徴しています。
紫色の祭服:教会は待降節の間、悲しみを表す紫色の祭服を着用します。これには三つの意味があります。まず、メシアを待ち望んだ古代イスラエル人たちとの連帯。次に、キリストを迎えるための悔い改め。そして、愛する花婿の到来を切望する花嫁の嘆きです。
沈黙する歌:待降節の間、天使たちがベツレヘムで歌った「いと高きところには神に栄光あれ」という賛歌は歌われません。まだ神の子が生まれていないからです。同様に、感謝の賛歌「テ・デウム」も歌われません。教会は深い謙遜をもって、ただ祈り、懇願し、希望するのみです。
終わらないミサ:通常、ミサの終わりには「ミサは終わりました」という言葉で解散しますが、待降節では「主を賛美しましょう!」という挨拶に変わります。まるで教会が、人々の祈りを中断することを恐れているかのようです。
結婚式は行われない:今は悔い改めの時期であるため。
待降節は四旬節(レント)とは異なる:「アレルヤ」は完全には沈黙せず、第三主日にはバラ色の祭服が許されます。そこには、すでにインマヌエルが来られているという確信があるからです。
これらは、

  • 第一の到来を思い起こす悔い改め

  • 第二の到来を願う切なる祈り

  • 第三の到来に備える厳粛な目覚め

この三つを、身体感覚として信者に刻み込むためです。
教会は悲しみの中にあっても、希望を失いません。なぜなら、「最も暗い夜のただ中に、正義の太陽が昇る」ことを知っているからです。




恐れと希望——第三の到来への複雑な思い

教会は、第三の到来である最後の審判の日を思う時、しばしば身震いします。教会はこれを「怒りの日、世界が灰燼に帰する日、嘆きと恐れの日」と呼びます。
しかし教会が恐れているのは、自分自身のためではありません。この日が、キリストの花嫁である教会にとって永遠の栄冠を確かなものにする日であることを知っているからです。教会の母なる心が苦しむのは、同じ日に多くの子供たちが裁き主の左側に立ち、暗闇に投げ込まれることになるだろうという思いからです。
だからこそ教会は、待降節の典礼で、キリストの到来を恐るべき到来としても語り、罪の眠りについている人々の心に健全な恐れを呼び起こすのです。

終わりに——待つことによって生きる信仰

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
待降節は、単なる季節行事ではありません。それは、過去・現在・未来という三つの時間軸において、キリストとの出会いを真剣に準備する期間なのです。
教会が2000年前のベツレヘムと心を一つにして祈る時、それは私たちの魂への今日の訪れを準備し、同時に世の終わりの完成を待ち望んでいます。紫色の祭服に包まれながらも「アレルヤ」を歌い続けるその姿に、既に救われながらもなお完成を待ち望むキリスト教信仰の本質が現れているのです。
クリスマスの輝きの前に訪れるこの静かな待ちの時——それは、最も晴れやかな日よりも輝かしい聖なる夜への、教会の深い祈りと準備の時なのです。


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