聖ジュヌヴィエーヴ、救貧法とチャリティー、守護市パリの古名ルテティア、王と王妃、パンテオン
基本情報
Geneviève, Genevieve, Genoveva, Genoveva, Genoveffa, Genovefa, Genowefa
祝日:
公式には1月3日 (死去の日)だが、11月26日 も憲兵隊が祝う「熱烈な祈りの奇跡」の日である。
Attribute:
蝋燭、燃える灯(cierge allumé):
悪魔が吹き消そうとしても天使がすぐに点け直すという、聖ジュヌヴィエーヴの揺るがない信仰を表す。
仔羊(agneau)、羊飼い(bergère)、紡錘(fuseau)または糸巻き棒(quenouille)、十字の刻まれたメダル、
鍵(clés): フランク王キルデリクに捕らわれた囚人を解放した奇跡から。
船: 食料を運んだ船は、パリ市の紋章でもある。食料(パン、麦)
Patron saints:
パリ、ナンテール、ナンテール司教区、サント=ジュヌヴィエーヴ(米国ミズーリ州やカナダのケベック複数など)、
憲兵隊、疫病の特に麦角病(le mal des Ardents)、災害、羊飼い、タピ職人、帽子屋、ろうそく職人、救貧
時代: 5世紀(420年頃生誕、502〜12年頃死去)
生誕地: ナンテール
逸話
451年のパリ(Lutèce)包囲戦の際、28歳だったジュヌヴィエーヴは、その強い精神力によって、パリの住民をフン族の侵略に屈しないよう説得した。
465年、彼女はパリを包囲したキルデリク1世に抵抗し、ブリーとシャンパーニュから小麦を供給した。
彼女はクロヴィス王を説得し、現在のパリ5区、カルチェ・ラタンの中心に位置するルコティティウス丘(現在はサント・ジュヌヴィエーヴ丘として知られる)に聖ペテロと聖パウロに捧げられた教会を建てさせた。
彼女は89歳でパリで亡くなりました。彼女はクロヴィス王と並んで同じ教会に埋葬され、後に彼女の最も有名な弟子であるクロティルド王妃もそこに埋葬された。これがパリのサント・ジュヌヴィエーヴ修道院となり、その鐘楼は今もリセ・アンリ4世の敷地内に残っている(クロヴィスの塔)
フン族
古代ローマ時代、パリの古名ルテティアLutetia / Lutèce
パリの地には紀元前3世紀頃から、ガリア人の一部族であるパリシイ族Parisiiが定住していたことがパリの由来。
古代ローマ人からはラテン語で、Lutetia Parisiorum(パリシイ族の沼沢地)と呼ばれていた。
紀元前1世紀、ユリウス・カエサルによるガリア征服の際に、この地は共和政ローマによって攻め落とされ、ガロ=ローマ都市として発展した。
パンテオン、シャヴァンヌ Pierre Puvis de Chavannes画など


Sainte Geneviève enfant en prière

Les Miracles de sainte Geneviève

1月10日、聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物箱は、市の当局と聖職者団によって運ばれ、ノートルダム教会へ厳粛に導かれた。これは、神が3度危機から救った聖人たちの執り成しを得るためである。
執り成しについての議論、面白い。

Antoine-Auguste-Ernest Hébertのモザイク画、フランスの天使にその国民の運命を示すキリスト

恐らく、左から聖ジャンヌダルク、聖マルガリタ?、キリスト、聖ミカエル、聖ジュヌヴィエーヴ

こちらの聖人を確定したいです。



Sainte Geneviève ravitaillant Paris assiégé
パンテオン近く、サン=テティエンヌ=デュ=モン教会


日本に於けるシャヴァンヌの esquisse(試作)

聖ジュヌヴィエーヴの幼少期
19世紀フランスの画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは壁画家としても知られ、1874年にはパリのパンテオンのためにく聖ジュヌヴィエーヴの生涯>の連作を完成させました。この作品はその一場面として描かれた壁画のエスキス(油彩習作)です。パリの守護聖人・聖ジュヌヴィエーヴが、聖ゲルマヌスに見出され、聖人としての生涯を告げられる場面を表しています。
Musée des Années 30にて、Paul Landowskiによる橋脚

Pont de la Tournelle再建で採用された計画。アトリビュートは麦と、船を抱いた子ども = パリ市か。
サンシュルピス、Louis-Charles Timbal 画
Sainte Geneviève distribuant des vivres aux habitants de Paris
聖ジュヌヴィエーヴ、パリの住民に食糧を配給する


《L'intercession de sainte Geneviève délivre Paris de la peste des Ardents》
聖ジュヌヴィエーヴの執り成しがパリを麦角病の苦しみから解放する

16世紀末英国と18世紀末仏国に於ける貧困救済の取り組みと哲学の違い
以下の文章は、↑のサイトよりGeminiが和訳&要約、筆者修正済みです。
🇬🇧1597年のイギリス:救貧法Poor Law
基礎: 1597年(最終的に1601年に確立)の救貧法 Act for the Relief of the Poorが、その後の250年間の貧困救済の基礎を築きました。
責任: 行政教区(parish)に救済の責任が課されました。
原則:
• 働けない貧困層への援助。
• 貧困層に仕事を提供すること。
• 資金調達: 貧困税Poor taxによって賄われ、支払いを拒否した者の財産を差し押さえる権利が教区に与えられました。
強制力: 働くことを拒否した者に対しては、懲罰(鞭打ち、ガレー船送り、重度の場合は絞首刑)が課されるなど、厳しい措置が取られました。
🇫🇷 18世紀のフランス:慈善とサン=シュルピス教会の事例
基礎: フランスでは、救済は長らく教会の慈善(Charité)に委ねられていました。
サン=シュルピス教会のケース: 1777年に着任した主任司祭、ド・テルサック氏(M. de Terssac)の行動が例として挙げられています。
実態: 彼の教区(パリのサン=シュルピス地区)には、約10万人の住民中、20%(2万人)が貧困層と推定されていました。
ド・テルサック氏の哲学: 彼は、貧困層を単に援助するのではなく、「真の貧困層」と「偽りの貧困層」を区別するという人道主義的な原則を適用しました。
偽りの貧困層: 「自分の過ちで貧しい者、働こうとしない者、数週間を生き延びるためのお金をたった一日で使い果たす者」を指します。
💡 この比較の要点
この文章は、イギリスが公的な強制力と課税に基づく世俗的な制度(救貧法)を導入したのに対し、フランスでは貧困救済が教会の管理下にあり、18世紀末においても、個人の道徳性や労働意欲に基づいて「真に値する貧困層」を選別するという考え方が存在していたことを示しています。
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ジャンヌダルクとの共通点
羊飼いの少女が、信仰と愛国の象徴となる点で、ジャンヌダルクと共通していると思いました。どちらのヒロインもパンテオンの壁画に描かれています。
