27,000円の銀座フレンチで、お見合いをさせられた #231
「みんな聞いて! 今日は彼女の、お見合いの日!」
彼女とは、私のことである。
銀座の老舗フランス料理店。真っ白なテーブルクロスのかかった長テーブルには、10名の紳士淑女が座っていた。そしてこちらを見て、「まあ」と言わんばかりに微笑んでいる。私の隣の席はまだ空いていた。
この時は、まだ知らなかった。
このフレンチランチの最終的な値段も、「私はどこまで自分を明かして生きるのか」という、なかなか厄介な問題を突きつけられることになることも。
「今度、超有名で、超美味しいフレンチに行く。一緒に行こう」
バレエ教室で、一緒にレッスンをしているマダムのミサエさんが言った。朝10時。レッスンが始まる前で、私は床に寝転がって股関節をいろんな方向に曲げたり伸ばしたりしていた。
「あそこは、何もかも素晴らしい。あと、化粧室が超キレイ。住める」
ミサエさんとは、以前に帝国ホテルの朝食ビュッフェに連れて行ってくれた人だ(第217話、文末参照)。生まれが台湾で、日本人らしくない遠慮のなさが、私は好きだった。
「ちなみに、いくらですか?」
「27,000円」
ニマン、ナナセンエン。
思わず脚を閉じて起き上がる。
「でもそれ以上の価値ある。人生で一度は行った方がいい」
ミサエさんは、このようなランチ会を月に一度、友人たちとしているらしい。
東京って、すげーな・・・・・・
開いた口が塞がらない。
もちろん行くならば自腹だ。
でも私は少し考えてから、決心した。
「27,000円・・・・・・行きます!」
行きます、というより、頑張らせていただきます! の方が、ニュアンス的には合っている。
見てやろうじゃないか、東京の高級フレンチってやつを。その金額で、どれだけのサービスが受けられるのか、この目で確かめてやろうじゃないか。
ただただ、好奇心に燃えていた。
当日、2026年5月某日。
場所は銀座の『ロオジエ』。
私はミント色のワンピースを着て、髪は高めのゆるふわお団子。今日来るメンバーの中で一番目立ってやろうと、15センチヒールの白いサンダルを履いて行った。
目的の場所に着く。入り口は意外と小さく、なんとドアマンがいる。
誰でも入って良くない感が強すぎる・・・・・・
一度通り過ぎた。
もうミサエさんは入っているのだろうか。というか、店、閉まってるんじゃないか?
少し離れたところで、入り口の様子をうかがう。すると黒いワンピース姿の女性が一人、中に入って行った。ドアマンが扉を開く。
どうやら、入っては良いみたい。
背筋を伸ばし直し、一呼吸おいて、入り口に向かった。
個室に通されると、ミサエさんがハグで迎えてくれた。
「よく来た、バレリーナ!」
参加者はほぼ全員そろっていて、全員で12名。年代は40代から90代まで様々だった。
ミサエさんは私を、「この子の踊りは超キレイ。とっても素直で、性格もいい」と、とても下駄を履かせて、みんなに紹介してくれた。
そして次に言った。
「今日は彼女の、お見合いの日だから!」
・・・・・・いやいや、お見合いは、誇張しすぎ!
ミサエさんは、ある男性に会わせたい。と言っていた。そしてこの日、その男性が来ることも知らされていた。台湾出身の大学教授で、事業もしていて、年齢は40歳。日本が大好きで、カラオケに行ったら、日本の軍歌を歌う人らしい。
「彼は真面目すぎて、女の子の方が、つまんないって言っちゃう。でもむっちゃいい人。超、両親を大事にする。私の息子にしたいくらい」
その彼はまだ未婚らしい。
「もし合わなくても、友達になるだけでもいいじゃん」
ミサエさんはそういうテンションだった。
だから「お見合い」だなんてやめてよ。
緊張しちゃうじゃん・・・・・・
そしてみんなが微笑む中、例の彼がやって来た。
メガネで、短髪。背は高くて、大柄で、スーツ姿。私が学生の頃の研究室の教授に似ている。名前は林さん。私は彼とミサエさんの間の席になった。
はじめのうち、林さんとはほとんど話さなかった。彼とミサエさんは時折、台湾語で会話する。早口の異国の言葉が、私の前を飛び交う。
バイリンガル、かっこいい。
いや、そうじゃない。
私にも分かる言葉で話してくれ。
「林(りん)ちゃんがね、こんなことならネクタイ締めてきたら良かった、って言ってる」
ミサエさんはニヤニヤ笑いながら、日本語で補足してくれる。そしてまた台湾語になる。いつもパワフルなミサエさんだが、母国語で話している時はさらにパワフルで、楽しそうだった。
それを見て、少し嬉しくなった。私も地元の関西弁で話している時が、一番落ち着くし、一番口に合うと感じるから。
日本の高級フランス料理店で飛び交う台湾語。
なんともチグハグで、ぐちゃぐちゃで。
でもだからこそ、どんな人間でも受け入れるような空気が、そこにはあった。
参加者の職業は様々だった。弁護士、日本舞踊の家元、元官僚、医者の妻。けれどみんな、お互いのことを深く聞こうとはしない。
「キレイなお料理ね」
「今日のお肉いいわね」
そんな話をしながら、料理を味わう。居心地が悪くはないが、その空気を、少し不思議に感じていた。みんな、窓ガラス越しに相手を見ているみたいで。
私はいつも、人のことが知りたい。
「あなたは誰?」
「普段何をしているの?」
「どんな生き方をしてきたの?」
気付けば相手を質問攻めにしている。話せば話すほど、疑問が浮かんでしまう。
でもここにいるみんなは、そんなことを少しも思っていないようだった。あえて聞かないようにしている感じでもある。まるでそれがマナーとでも言わんばかりに。居心地が悪いとかではない。浮世離れしたというか、貴族の遊びというか、不思議な空間。だから私も郷に入れば郷に従えで、目の前のマダムを質問攻めにする、なんてことはせず、27,000円のこの空間に全神経を集中させた。
自分のお金でここにいるんだ。何を話すか話さないか。相手に微笑むか微笑まないか。選択の権利は全て自分にある。この金額に見合うだけ、堂々としていよう。
ただ。
私と同じ、知りたがりの人が他にいた。
それが隣の林さんだった。
ミサエさんの仲介があり、彼とは少しずつ話しはじめた。話していると、お互い理系だということが分かり、会話の流れが良くなった。
何を専攻していたのか。
どんな研究をしていたのか。
今の仕事は、どんなことをしているのか。
私は仕事については「執筆をしています」とだけ答えた。
すると彼は言った。
「僕は読むことがとても好きです。あなたの書いているものも読んでみたい。だからぜひ見せてください」
そして名刺をくれた。それを両手で受け取り、固まった。
私が書いているもの。
それを伝えるということは。
AV女優であることを、伝えるということだ。
完全に油断していた。この場では、誰もお互いのパーソナルなことを深く聞いてこない。だからつい無防備になっていた。そして仕事について聞かれた瞬間、電気が走ったように、背筋が伸びた。
AV女優だということを、この場で伝えてもいいだろうか。昼間の銀座のフレンチで。AVに縁のなさそうな紳士淑女の前で。AVという言葉を発しただけで、この金ピカのでかい皿を割ってしまいそうだ。
それに、ミサエさんにもまだ話していない。林さんに先に伝えるのは、順序が違う気がした。何よりも心の準備ができていない。
「ありがとうございます」
もらった名刺を丁重にテーブルに置いた。そして立ち上がる。
「ミサエさんが、住みたいくらいキレイって言った化粧室に行ってきます!」
彼女は私たちがちょっといい感じに話しているのを見ていたので、「早く帰ってこい!」と笑った。
東京に引っ越してきて、新しいバレエ教室に通い始めた頃。私は少し浮いていた。30代未婚で、平日の朝の10時からバレエのレッスンに来る。普通の会社員ではないことくらい、みんな気づいていた。周囲が、私の内情に触れていいのか探っている空気の中、すごい勢いで話しかけてきたのが、ミサエさんだった。
「あなたの踊り、超キレイ!」
そしてこうも聞いてきた。
「パパとかいるの?」
関西人の私ですら圧倒される距離の詰め方に、最初は警戒した。でも彼女が気を遣わない分、次第に私も気を遣わずにいられるようになった──
AV女優だと知っても、彼女は、今まで通りでいてくれるだろうか。
ピカピカの化粧室。自分の部屋より広い。お花の香りすらしない空気を吸いながら、そんなことを考える。別に考えなくてもいいのかもしれない。でもどうしても気にしてしまう。
私は、人とどんな距離感でいたいのだろう。
時々、分からなくなる。
結局、林さんとは一方的に名刺をもらっただけで終わった。
帰り道、ミサエさんと2人きりになり、地下鉄の改札の前でこう聞かれた。
「りんちゃん、どうだった?」
「優しそうな人だなと思いました」
自称執筆家にしては、薄すぎる感想だ。
すると、ミサエさんは私の手を握った。
「私は、自分がほしいと思ったものは、全部手に入れてきた」
恋人も、旦那も、友人も。「この人がほしい」と思ったら、全力で取りに行ったらしい。
「いっそ彼をあの場で押し倒して、キスして脱がしても良かった」
冗談っぽく言っているようで、8割くらい本気というのが、手から伝わってくる。
「日本人、遠慮しすぎ。それじゃ、チャンス、逃す」
そして続けた。
「でもあなた、大丈夫。もっといける。高級フレンチにも、行こうって思える人だから」
そう言ってハグをしてくれた。仕事以外で、こうして誰かとハグをするのは、彼女だけだ。少しひんやりとしていて、しんなりした肌は、反発なく私を受け入れてくれる。生まれも、言葉も、年齢も違う。でも「人間」という共通点だけで、他は案外どうでもいいのかもしれない。そう思わせてくれる。
「はい、じゃあ今日はもう解放してあげる。バイバイ」
ミサエさんは、大きく手を振りながら改札の中へ消えていった。
──今日はもう解放してあげる。
その言葉が、妙に心に残った。彼女は自分が好き放題に振る舞っていることを自覚している。それでも自分を隠さない。日本では隠すのが美徳とされる、気遣いすらも隠さない。
私はいつも、どこまで自分を見せるかを考えてしまう。
この人には、ここまで。
この人には、まだ言わない。
この人には、一生言わないかもしれない。
そんなふうに、自分を少しずつ切り分けながら生きている。
だぶんそれは悪いことではない。そうすることが必要なときはある。それに誰にだって、そういう部分はあると思う。
でもミサエさんは違う。もう少しシンプルだ。一緒にいたい人には「好き」と言う。会いたい人には会いに行く。抱きしめたい人を抱きしめる。そして自分自身も隠さない。
銀座の27,000円のフレンチで、一番消化できなかったのは、その違いだった。
私は、どこまで自分を明かして生きたいのだろう。
AV女優であることも。
あなたのことを書いていることも。
誰かと深く関わりたいと思うことも。
全部まとめて「私です。」と、差し出せる日は来るのだろうか。
27,000円のランチの味は、正直、もうあまり覚えていない。でも、あの日の問いだけは、今も残っている。
私は、どこまで自分を明かして生きるのか。
そして誰の前なら、それができるのか。
〜追記〜
ちなみにあの日、もう一つだけ、銀座で消化しきれなかったことがある。
27,000円だと思っていたフレンチの金額が、
最終的に30,000円だったことだ。
最初に出てきた食前酒が別料金だったらしい。私はノンアルコールだったのに。当たり前のように出されたノンアルの食前酒が、3,000円!
会計の後の領収書を見て、しばらく固まった。
3,000円あれば、500mlのコーラが15本は買えるやん! 物価高の今ですら!
これが銀座のフレンチか、とまたひとつ教養を増やした。
ミサエさんと帝国ホテル朝食ビュッフェの話も、ぜひ併せて読んでみてください。
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