第217話 帝国ホテルの朝、『あんた、ばか!?』と言われた
4月中旬の平日。朝6時の電車に乗る。 普段ならまだ寝ている時間だ。
電車には思ったより人がいて驚く。こんな時間でも、座席はしっかり埋まっていた。
私は朝早くからどこへ行くのか。
帝国ホテルの朝食ビュッフェだ。
きっかけは、同じバレエ教室に通っているミサエさん。60歳くらいの台湾人で、日本語は流暢だけど、ときどきカタコト。けれど日本人みたいに遠回しな言い方をしないから、話していて気持ちがいい人だ。
「あなたの踊り好き。クセがなくてきれい。目の保養。だからご馳走する」
そんな理由で、朝7時スタートのビュッフェに誘われた。
朝7時。
正気か。と思った。
普段たいていの誘いは断るほうだ。ましてや朝7時なんてありえない。でもこの時は、行ってみたい、と心が躍った。そして当日、朝5時に起き、化粧をして、髪にいい香りのオイルをつけて。お気に入りのブラウスとスカート。ゆらゆら揺れるかわいいピアス。完璧にセットした姿で、何度もあくびをしながら早朝の電車に乗った。
東京の帝国ホテルに入るのは初めて。絨毯の床に足が優しく沈む。天井が高い。階段の手すりは太くて立派だ。自然と背筋が伸びる。ついはしゃいでしまいそうになる気持ちを落ち着かせるため、ひとまずトイレに直行したのは、ここだけの話だ。
朝食会にはミサエさんのお友達もいて、メンバーは10人。最年長は93歳。年齢も職業はみんなバラバラ。ちなみに最年少が私だった。
会場は17階。真っ白なテーブルクロス。このフォークやナイフは、銀だろうか。とても重い。大きな窓から差し込む朝の光は清々しくて、椅子に座っただけでも、すでに満足だった。
さっそくお料理を取りに行く。いちごの挟まったクロワッサンや、とろとろのスクランブルエッグなど。普段、家では絶対に食べないようなものを皿に盛って、再び席についた。
私の前に座っていたのは40代の男性。商社で働いているらしく、この後、出勤するらしい。自然と仕事の話になった。
彼はこのまま同じ会社で働くべきなのか、ぼんやりと悩んでいるらしい。でもこれといって、やりたいことも見つからないという状況。
「好きなように生きたいなと思ってるんです」
よく聞く言葉だ。でも「好きなように」を実行するのは、簡単なようで難しかったりする。
話は私の仕事の話になり、「執筆業してます」とだけ答えた。
私も30歳を目前にした頃、このまま同じ会社で60歳になるまで働くことを想像して、ゾッとした。だから好きなように生きてみようと、結果的に勤めていた会社を飛び出した身だ。
そのことを彼に伝えると、その話を聞いていたミサエさんが、
「あんた、ばか!?」
斜め前から大きな声を飛ばしてきた。
「あなたが60歳になるまで、この世界、もうない!」
ケタケタ笑っていた。断定的で、圧倒的にリアルだった。
「やりたいことやって、食べたいもの食べて、会いたい人に会う。それでいい」
それが正解! と親指を立てて、ミサエさんはまた料理を取りに行った。
よく食べる人たちだった。
そしてよく笑う人たちだった。
元気な人ほど、よく食べ、楽しそうな人ほど、よく笑う。
ミサエさんは、日本人は言いたいことをはっきり言わない、と普段から言っていた。
「台湾の人、みんなイーブン。思ったことちゃんと言う。他人の目とか気にしない。困ってる人いたら、誰でも助ける。だからみんな、幸せ」
8時過ぎ。私とその商社マンは「仕事があるので」と席を立った。 でもミサエさんたちは、「コーヒーのおかわりください」「次はフルーツにしよう」と、まだしばらく動きそうになかった。
外に出ると、いつもの平日の朝だった。表情のない顔で、目的地に向かって歩く人たち。人はたくさんいるけれど、聞こえるのは、靴音だけ。
さっきまでの空間は夢だったのだろうか。
そう不思議な気持ちになる。
帝国ホテルという素敵な空間で、スペシャルな朝食を食べる。
十分に贅沢だ。
でも「夢だったのだろうか」と感じた理由は、それだけでない気がする。
誰かと、笑いながら、朝食を食べる。
きっとこれが1番の贅沢だった。
「やりたいことやって、食べたいもの食べて、会いたい人に会う。それでいい」
私が60歳になるまで、今の日常が続かないかもしれない世界。
心が躍る方を選ぶ。
理由なんていらない。
それが正解。
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