【歴史小説】寧らかの波 最終章(2)「俺たちは、待つべきだったんだ」
ここまでのあらすじ
16世紀。
異国の血を引き、剣術「陰の流」を受け継いだ少年・楠葉入鹿は、美貌の明国人・宋素卿と出会い、南海に「境界に生きる者たちの国」を作るため共闘を誓う。
日本の細川京兆家・明国の宦官と通じている素卿は、勘合貿易の莫大な利を守るために行動するが、対立する大内氏から刺客を送られ、入鹿は彼らと激闘を繰り返す。
第二の故郷である南海の臥蛇島を、元の仲間である中林孫太郎により焼き払われた素卿たちは、大内の遣明船を追いかけて大陸の港都・寧波へと向かう。
大内方の狂僧・謙道宗設は、朝貢使歓迎の宴を襲撃し寧波の町を焼き払う。明の官吏・朱子純、武人・愈志輔と手を結んだ入鹿は、異形の巨人・神代源太郎をどうにか討ち取り、寧波を脱出した素卿を追いかけて 紹興府へ向かうが…
他に類を見ない壮大な歴史絵巻が、ついにフィナーレを迎える!
本編
二
東の空が、次第に白んできた。
紫色の幔幕に、裏から映じられた光が広がっていくようだ。
夜通し、走り続けてきたのだ。
いくつもの川に囲まれた沼沢地のただ中に、横に長く伸びている城壁が望まれてきた。
「あれが紹興府たい」
朱子純は心なしか力強く、指先を掲げてみせた。
城壁へ近づいていくにつれ、明らかに異変が窺われた。まだ暗さの溜まっている馬蹄の足元に、いくつもの骸が点々と転がっている。
小札を縅した腹当を身に着け、月代を剃り上げている。いずれも日本の武士たちだとわかった。
城壁の上に、明国の兵たちが立ち並び、身じろぎもせずこちらを見下ろしていた。
三騎が寄せてゆくと、閉ざされた城門の真上に、一人の老士大夫が姿を見せた。
精悍に痩せ、豊かな黒い顎髭を蓄えている。赤い官服に丈の高い冠をかぶり、いかにも堂々たる姿だった。
「王老師!」
と、愈志輔が飛び跳ねるような声を上げた。
「王陽明伯たい。さすがに、手抜かりはなかごたる」
朱子純が、ふうーっ、と大きく嘆息した。
「朱紈、愈大猷」
朗々と響き渡る声で、老人はこちらへ呼びかけてきた。断固とした口調の漢語で、何事か言い渡している。
愈志輔はきらきらした瞳のまま、ずっと馬上で拱手していた。朱子純は幾度か大声で問答を繰り返していた。互いにうなずき合うと、老人はさっと城壁の向こう側へ姿を消した。
「どうしたんだ」
と、入鹿はすぐに尋ねた。
「不逞の倭人どもは、紹興の民兵が迎え撃ち、あらかた討ち果たした。じゃっどん、下手人の謙道宗設と宋素卿はまだ見つかっておらん。今はその捜索に移っとるんで、そなたらも力を貸せ、とのことたい」
「いるとすれば、城壁の外か」
朝日のまぶしさに手庇を作り、入鹿は周囲を見渡した。
「ああ。全ては、奴らを見つけてからの話たい」
点在する沼や湖、網目のような川や水路の間に、緑の森が茂っている。身を隠すにはもってこいの地形だろう。
「この広さじゃあ、二手に別れた方がよさそうじゃ。ぬしゃあ、城壁に沿って北へ行け。おいと志輔は、南側へ回る」
「もしやつを見つけたらどうする」
「ぬし、弓矢は撃てるか」
「的に当てられたことはないがな」
朱子純は、鞍から提げていた小弓と矢筒を外し、こちらへ手渡してきた。
「そいつは嚆矢っちうもんで、火薬に劣らん大きな音が出る」
「鏑矢か」
「倭ではそう呼ぶんかの。やつを見つけたら、空へ向かって放て。おいたちに限らず、紹興の兵らはみんな、そっちへ集まっていくはずじゃ。こっちには、志輔のぶんの嚆矢がある。逆に音が聞こえたら、おいたちの方へ急いで来なっせ」
「わかった」
うなずいて弓矢を受け取った。
「湿地に足を取られそうなら、馬から降りて歩け。こん辺りじゃ、そっちの方がなんぼかましなくらいたい」
入鹿は、独りきりで見知らぬ紹興の土地を進み始めた。
森の間の湿地へ入ると、馬はすぐ苦しげに嘶き、膝下まで泥に漬かって歩きなずんだ。
入鹿は鞍から降り、弓袋と矢筒だけを腰につけると、ここまで走りづめだった馬を放ってやった。そうしてまだしも乾いた土の部分をたどって歩き始めた。
疲れと昂ぶりで、ほとんど何も感じることができない。が、動きだけはひどく鋭敏で、過剰なくらい自分のしていることがわかる気がした。
そのような頭で、必死に思い巡らした。
宗設は、今何を考えているのか。
寧波で暴れるだけ暴れ回り、町と港を火の海にし、道すがらの村々で関わりのない人々を惨殺しながら、素卿を追いかけていった。
むろん一番の目的は、憎い相手の身柄のはずだ。抑えきれない憤怒が、あの狂僧を駆り立てている。
だからと言って、もし素卿に追いつき、捕まえたところで、一体何ができるのか。
仮に殺害し、恨みを晴らしたところで、次に打つ手は何もない。
しかも紹興の兵に打ち破られ、道連れをほとんど失ってしまったからには、自分自身が生き延びる目もほとんど残されていない。
名将王陽明の網にかかり、朱子純の思惑通り、凄惨を極める拷問の獄に下されるだけだろう。
それでも、と思う。
あの男なら、どうやってでも逃げ延びようとするはずだ。そんな気がしてならない。
ただ一つの術は、寧波へ戻ることだ。そうして大内方の乗ってきた遣明船を出航させ、日本へ帰り着くことしかない。
あの男なら、きっとそうしようとする。最後の最後まで、何とか生き残ろうとしてあがくだろう。
ならば、押さえるべきは、寧波へ向かう街道。
自分たちが、ついさっきまで必死にたどってきた道だ。
「朱子純、むやみに捜し回るべきじゃなかった。俺たちは、待つべきだったんだ」
独りきりで声を発し、立ち止まった。
その時だった。
木々の奥深い暗がりから、異様な音が漏れ聞こえてきた。
「シャアアアーッ」
蛇の脅す声か。
いや、耳に覚えがある。悪寒の走るような覚えだ。
「宗設」
あの大内館での夜に見た異様な姿に、とっくに変わっているのか。
恐怖と同時に、ようやく見つけられた、という安堵もあった。何しろ昨晩から夜を徹し、必死で捜し求めていたのは、あの男の影だったのだ。
ためらっている暇はない。この異様に冴えた感じ方のまま、あのもう一人の怪物を叩き斬ってやるしかない。
声のする方へ歩き出すと、腿に弓袋と矢筒が触れた。
「そうだ、鏑矢を撃たないと」
入鹿は気づいたが、まだ必ず宗設だと決まったわけではない。まずはその姿を目で見て、斬り込む態勢を整えてから、朱子純たちへ報せるべきだ。
そう思って足音を殺しつつ、茂みの向こうを覗き込んだ。
斑のある満月のような尻が、上下に揺れていた。
~(3)最終回へ続く
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