【歴史小説】寧らかの波 最終回「お前と出会えてよかった。決して忘れないよ」
ここまでのあらすじ
16世紀。
異国の血を引き、剣術「陰の流」を受け継いだ少年・楠葉入鹿は、美貌の明国人・宋素卿と出会い、南海に「境界に生きる者たちの国」を作るため共闘を誓う。
日本の細川京兆家・明国の宦官と通じている素卿は、勘合貿易の莫大な利を守るために行動するが、対立する大内氏から刺客を送られ、入鹿は彼らと激闘を繰り返す。
第二の故郷である南海の臥蛇島を、元の仲間である中林孫太郎により焼き払われた素卿たちは、大内の遣明船を追いかけて大陸の港都・寧波へと向かう。
大内方の狂僧・謙道宗設は、朝貢使歓迎の宴を襲撃し寧波の町を焼き払う。明の官吏・朱子純、武人・愈志輔と手を結んだ入鹿は、異形の巨人・神代源太郎をどうにか討ち取り、寧波を脱出した素卿を追いかけて 紹興府へ向かうが…
他に類を見ない壮大な歴史絵巻が、ついにフィナーレを迎える!
本編
三
剃り上げた後ろ頭と、異様に盛り上がった肩も見えている。
その下に、別の人間が組み敷かれていた。腿から腰にかけては丸みを帯びているが、胸は平らで膨らみというものがない。
入鹿は思わず、一歩前へ踏み出していた。
唐靴の底が泥を引きずり、舐めるような音を立てた。
ふと、目の前の相手が動きを止めて振り返った。斜めに刀傷のある顔。片目は白く裏返り、唇の端が笑うようにめくれ上がっている。
「シャハハアアーッ」
相手はつばきを吐き散らしながら声を上げた。
入鹿の頭は、考えを失っていた。ただまとわりつく泥を振り払うように駆け出し、腰の刀を抜き放っていた。
相手はすぐさま起き上がり、こちらを向いた。巨大な一物が、がに股の短い足の間にぶら下がっていた。青筋を立て、全体が血濡れている。
身をかがめたかと思うと、傍らに放り出してあった金砕棒を持ち上げ、それを軽々と振りかぶった。
入鹿の繰り出した突きを、叩き下ろしながら撥ね飛ばしてきた。
「宗設っ」
「貴様、あの時のガキかア」
真っ赤な片目を、剥けんばかりに見開いている。物の怪そのものの声で、喚き立ててみせた。
「痛む、顔の傷が痛むぞオオ。あれから片時も、この恨みを忘れたことはないぞオオ。今ここで、そこの女とともに肉片ににして、グチャグチャにかき混ぜ、食らいきってやるわいイイイッ」
入鹿は、相手の背後に横たわっている姿を見やった。長い髪が解け、顔を覆い隠している。股ぐらの間が血の海になっていた。
「貴様の女は、やはり出来損ないじゃ。これだけ責め立ててやっても、悦びの声も、痛みの声も、一つとして上げんのじゃからのオ」
入鹿は深く呼吸し、かえって心を落ち着けた。両手で柄巻を握りしめ、燕飛の構えを取った。
「お前は、人間じゃない。殺すのに何のためらいもない」
「殺す? このわしを殺すだってエエーッ?」
耳障りな高笑いが響き渡った。
「わしは誰よりも人間よ。この世に持って生まれた力を、十全に活かしているばかりじゃ。これからもそうして生きてゆく。わけのわからん仕組みに縛られ、自らを縛りつけている者どもこそ哀れよのオオ」
一瞬でいい。たった一瞬でも、この相手を上回らなければ。
「わしは中華であり、東夷じゃ。僧であり俗じゃ。淫であり聖じゃア。あらゆるものの両極を飲み込み、全てをおのれの血肉と化す。これこそが人間じゃ。貴様のような小虫には、一生わからんことよのオオ」
息を細く、長く吸い込む。灯皿の火を吹き消さないほどに吐き出す。心が凪のように静まり、音が消えていく。
自分にはもう、このあとはいらない。これが最後でいい。命の全てを、一瞬の閃きに注ぎ込む。
思いの中で、型ができた。
入鹿が先に踏み込んだ。
片手で薙いだ刀めがけて、金砕棒が振り下ろされる。肘を折り畳んだが、そこに叩き込まれた。骨が砕ける。刀を取り落とした。重さを感じさせないほどの速さで、もう一撃食らった。今度は肩が粉々に割れた。
それでも入鹿は、後ろ足で踏ん張り、円を描くように跳んだ。
「うおおおっ」
総身で声を上げながら、前足の膝を振り上げ、相手の後ろ首に掛けた。相手は小柄だが、巌のような肉の塊だ。そこを支えにして腰を伸び上げた。ぶら下がるだけの右腕を捨て、左手を懐へ差し入れた。藤四郎吉光。
「ジイっ。これで最後だ、最後に俺に力を貸してくれ」
親指を弾いて鞘を抜き払い、逆手に握って相手の脳天へ突き下ろした。
頭蓋を貫く手触り。
悪鬼のような叫び。
血が噴き出し、八方へ飛び散った。地獄の岸辺に咲く花のようだ。そして命の泉のように湧き出してくる。
「おごオオッ」
上下に潰れた鼻と目からも、夥しい血が流れ出していた。
「こんなところで死ぬるか、死んでたまるかよおオオーッ」
宗設はなおも前歯を剥き出すと、こちらの胸元へむしゃぶりつき、力いっぱい噛みついてきた。
が、やがて膝をつき、その場に崩れ落ちた。
入鹿も諸共に地べたへ転がされたが、相手の歯がこちらの肉に食い入り、離れてゆかない。
しばらくそのまま、身動きが取れなかった。
息が熱い。生と死の悪臭がする。自分はただ、煮えたぎる一個の脈だ。痛みを越え、疲れを越え、そうとしか感じられなかった。
しかしやがて、頭の中へ甦ってきたのは。
「素卿」
思いがつぶやきに変わった。そうだ。自分はあいつを助けに来た。宗設なんぞ、どうだって構わない。ただ素卿のためだけに、寧波からの道をひたすらに駆け抜けてきたのだ。
もがきながら足を蹴り、小さくしぼんだような骸を引き剥がした。虚ろに開いた相手の口の中に、自分の胸乳の肉が含まれていた。
体をねじり、暗がりの方へどうにか顔を向けた。その辺りの地面が真紅なのは、流れ出した血のためばかりではなかった。飛魚服だ。栄誉の証だった官服が引き裂かれ、その上に横たわっている。
「素卿」
呼びかけると、長い髪に隠れた顎の辺りが、かすかに揺れた気がした。
「素卿、もう大丈夫だ。ここには他に誰もいない。明国にも日本にも琉球にも、どこにも属さない、俺たちだけの国を作ろう」
血まみれで、這いずったまま腕を伸ばした。それに応えるように、裸体をかばうこともできない素卿の指が、小さく震えた気がした。
その時だった。
背後の茂みがざわめき、そこから二人の男が姿を表した。黒い官服と、胸当てばかりの軽装。手にはそれぞれ、革鞭と柳葉刀を握っている。
「ああ」
入鹿は、絶望のうめき声を発した。
猫じみた顔の男が、無造作なくらいの手つきで素卿の脇の下へ肩を入れ、立ち上がらせた。細い吊り目の官吏が、羽織っていた織物を脱ぎ、胸のない女の裸に前から掛けてやった。
「楠葉入鹿、ようぞやってくれたたい。まさか一人で、大逆人の謙道宗設を討ち取るとはの。その上こうして、宋素卿の身柄を取り押さえることさえできた」
「朱子純、愈志輔」
そこではっと気がついた。
初めから、嚆矢を撃つ必要などなかった。自分は密かに、あとをつけられていたのだ。そうして泳がされていた。おのれの右半身を捨てる覚悟で、どうにか宗設を倒すことはできた。ところが肝心の素卿の身柄は、まんまと明国人たちに奪い取られてしまった。
「素卿」
入鹿には、叫ぶことしかできなかった。それでも喉の奥に張りついた、掠れ声しか出てこなかった。
「宋素卿こと、寧波府鄞県の女朱縞。贈賄及び、異国人による騒擾を招いた嫌疑により、南京刑部員外郎、朱紈がその身を拘束する」
法、というものの権化のように、朱子純は言い渡した。入鹿は手元の柔らかい土くれを握りしめ、歯を食いしばるしかなかった。
「入鹿」
そこで初めて、耳慣れた声が聞こえてきた。傷つき、ひび割れているが、間違いなく素卿の声だった。
目を上げると、磔になったようなぼろぼろの体が、愈志輔に肩を支えられていた。垂れた髪の間から覗く眼差しは、驚くべきことに、まだ光を失っていなかった。
「私は大丈夫だ。必ず帰ってくる。それまで、みんなのことを頼むぞ」
嘘だ、と口にするところだった。
これだけの騒乱の下手人に仕立て上げられて、無事で済むはずがない。命を落としても構わないほどの、凄惨な拷問を加えられるだろう。ましてや、既に瀕死の傷を負わされているのだ。
「素卿っ」
「泣くな、馬鹿野郎。私たちは、やるだけのことをやったんだ。本当に最後の時まで、決してあきらめるな。お前はみんなと一緒に、私を信じて待つんだ」
「本来ならば、ぬしも取り調べの獄に下すところたい。そんな体では、手向かいもできんじゃろうしの」
朱子純は、鞭を丸めたまま広袖の腕を組んでいた。
「じゃが、今この時ばかしは見んかったことにしちゃる。そもそもこの場にいなかったことにしちゃる。瀕死のぬしを助けはせんが、捕らえもせん。できるんなら、自分ひとりで生き延びてみせんしゃい」
「宗設を討った手柄と引き換えか」
涙と鼻水が泥に混じり、口の中へ入り込んできた。
「いいや、謙道宗設は行方知れずじゃ。さしずめ、倭のどこかに匿われておるんじゃろう。……その逮捕と引き渡しを手札として、倭寇どもの取り締まりに使わせてもらう」
なるほど、さすがは進士様だ。頭の出来が違う、というわけだ。
「俺も」
入鹿は血と土くれにまみれながら、地を這う虫のようにうめいた。
「俺も、素卿とともに獄へつながれる。拷問するなら、心ゆくまで俺を痛めつければいい」
しかし、意外なほど鋭い声が頭上から落ちてきた。
「馬鹿野郎! それこそ本当の馬鹿だ。吐噶喇や双嶼の仲間たちを見殺しにするな。誰かが私のあとを引き継がなければならない。今はお前のほか、誰にも頼れないんだ」
「ぬしを見逃すのは、宗設の件ばかりが理由じゃなかと。何ちうか、……おいたちは敵同士ではなか。大内と細川とは違う。守ることはできなくとも、心の中で励ますことはできる。まあ、そういったところじゃ」
本当は和語がわかるのか、愈志輔も隣でしきりにうなずいている。
入鹿はふっと瞼を閉じながら、心の中で笑っていた。
大明国の士大夫様らしくもない言葉だ。あんたは官吏失格だな。……そのつきそいの番犬、いや番猫か。そっちも同じだよ。
気が遠ざかっていくのを、もはや止められなかった。全ての終わりのように、心に帳が降りていった。
「入鹿、ありがとう。お前と出会えてよかった。決して忘れないよ」
最後に、素卿の涙声が耳に届いた気がした。
~エピローグへ続く
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