【歴史小説】寧らかの波 第六章(2)「お前の命は、お前だけのものではない」
ここまでのあらすじ
16世紀。
異国の血を引く少年・楠葉入鹿は、育ての親ジイを自らの手で殺めてしまい、管領・細川高国のために働くことを強いられる。
美貌の明国人・宋素卿と行動をともにした入鹿は、南海の臥蛇島から大陸の港都・寧波へと渡ってゆく。
そこで明の官吏・朱子純と武人・愈志輔に尋問され、一行は双嶼島へ逃れて海賊たちと明の海軍を迎え撃つ。入鹿の剣技は明兵を圧倒するが、愈志輔と斬り合って海へ逃れざるを得なくなる。
意識を失い、父赤沢宗益とジイの戦いを夢に見る入鹿を温めていたのは、裸になった素卿であった。実は素卿は乳房を落とした元歌妓で、その壮絶な過去を打ち明けられた入鹿は、境界に生きる者の国を作る、という夢を叶えようと決意を新たにする。
高国の命を受けた二人は、土壇場で大内氏による遣明使を阻止すべく、唐船の建造されている堺へと向かうが…
本編
二
「まさか遣明船が一隻のみ、それもどうにか修築して、ようやっと出航できるばかりになるとはのう」
踏立板の上で墨染衣の腕を組みながら、鸞岡瑞佐はぼやいた。
「考えられぬほど、時を食ってしまいました」
素卿もその隣で、沈痛なくらいの声を出した。
「大内の船団は既に、博多を出航しようとしているとのこと。これ以上遅れを取らないためには、我らもとにかく急がなければなりません」
船は土佐沖を西へ進み、豊後の瀬戸へ出ようとしている。このあと日向灘を下って薩摩の坊津に至り、南海の島々を渡っていく。
焼け残ったのは、木屋の仕立てた船だった。
船漆喰、と呼ばれるものを要所に使っていたのが、燃え広がるのを食い止めていたという。日向屋の方は、むしろ火の回りが早く、たちまち焼け落ちてしまった。
燃え残りの船をどうにか修築し、出航できるようにするまでの間に、入鹿の胸の傷も癒えてきた。
まだ激しい動きを繰り出せば傷口が開いてしまいそうだが、唐渡の薬草を塗りつけ、紙で覆っていたので、ずいぶん早く回復してきた。
「前もって船の質を試せたようなものじゃが、二隻のはずが一隻となれば、持ち帰る回賜品も半分になってしまうのう」
とんだ皮算用だ、と船べりで腕を組みながら入鹿は思った。
この船には、客衆と呼ばれる堺商人たちが同乗している。船を仕立てた見返りのようなものだ。
刀、鎧兜といった武具や、蒔絵、螺鈿、扇子、金屏風といった工匠の品、果ては銅の塊まで積み込んでいる。
朝貢使としての献上品もあるが、多くは客衆たちが、牙行と呼ばれる明国の仲買人を介して売りさばくためのものだ。
しかし本当の目当ては、皇帝から引き換えに下賜される明国の品々だった。
銅銭、生糸、織物、陶器、薬、画幅、書物など。その量は莫大で、日本に帰って取引すれば数倍もの利を生むという。
しかしそもそも、大内の船よりあとに到着し、その上最新の勘合すら持参していないとなれば、果たして遣明使として認められるのだろうか。
それで居直ろうというのなら、神代源太郎ではないが、まさしく「無理を押し通す」ことになるだろう。
既に晩春になっていた。
海は穏やかだった。飛び魚が跳ねては銀色の日差しを照り返し、飛沫を立てて波間に消えてゆく。
正使の一行が船室へ引っ込んでしまっても、入鹿はしばらく舳先に立ち尽くしていた。行く末はるかに霞む、九州の岸を打ち眺めていた。
「気にしているのか」
聞き慣れた声に振り返ると、素卿が帆柱の下に立っていた。白の漢服をゆったりと着こなしている。堅苦しい京を離れてから、すっかり明国人に戻った風体だった。
「何をだ」
「お前が一番よくわかっているだろう。何せ、お前の心の中のことだ」
素卿は意外にうきうきと笑んでみせた。あまり見たことのない顔だ、という気がした。
「私の手を借りて、あの化け物を退けたことが、引っかかっているのだろう」
「ふん」
入鹿は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。我ながら童じみた仕草だと思ったが、素卿に対しては、それだけ気安くなっているのかもしれない。
「しかし、私があそこで撃たなければ、お前は死んでいた」
「わかっている」
だからこそ、おのれの弱さが苛立たしいのだ。
自分の中で、以前より変わった、というところは確かにあった。
いや、そのつもりだった。ところがやはり実戦に出てみれば、腰が立たないほど驚かされ、地べたに転がされ、命を失う寸前まで追いつめられてしまった。
おのれを信じるに足りない、という気持ちにもなろうというものだ。
素卿はこちらまで近寄ってきて、軽く握った拳で胸を突いてきた。
「武芸者というのは、よくよく度し難いものだな。何かあればおのれの内側を覗き込み、あれこれと考えを巡らせる。要するに、自分一個のことしか見えなくなってしまうのだ。だが戦いとは、たった一人で勝つために行うのではない。ただ技量を誇るために行うのではない。まず狙いがあり、それを達するために命を賭けるのだ。そうではないか」
「ああ」
入鹿には、うなずくことしかできなかった。
「お前は、独りきりで戦っているのではない。お前の命は、お前だけのものではない。良くも悪くもだ。ならば最後に勝ったことをこそ誇れ。わかるな」
「わかる」
戦う者である以上、強くならなければならない。今よりももっと、ずっとだ。
しかし、強くなる術はきっと一つではない。自分の力だけを見つめるのではなく、誰かの力を借りたり、ともに戦うことを学ぶのも、やはりその一つなのだろう。
素卿も満足げにうなずき、白々とした雲と溶け合っている海のかなたへ目をやった。
「お前の高祖父の楠葉西忍は、こう言っていたという。北京で銭一貫を銀一両と交換すれば、寧波ではそれを銭三貫と交換できる。その銭で生糸を仕入れ、日本で売れば大きな儲けになる、と」
細い指を突き出し、何も見えない遠くを差し示した。
「縁もゆかりもない土地ではない。お前の血もまた、馴染みの場所へ帰っているんだ」
入鹿もその指さす方角を見つめた。二羽の海鳥が翼をはためかせながら、宿る場所もない大海原をひたすらに、迷いなく飛び去っていった。
~(3)へ続く
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