見出し画像

少しだけ自分のことを…|温浴施設へ行けなくなって気づいたこと|立つ力を支える筋肉と、AI時代の身体


海外では、人を部分ではなく全体で見る「Whole Person Health」という考え方があります。

五感解析ラボは、その考え方を日常の悩みに落とし込み、心・身体・生活・環境をつなぎながら、今のあなたに合う道具を探す場所です。


先週の記事では、母が退院したことをご報告しました。

退院できたことは、家族にとって一つの大きな区切りでした。

しかし、退院したからといって、事故以前と同じ生活へすぐに戻れるわけではありません。

母が日常生活を取り戻すためには、まだ家族の支えが必要です。

私自身も、以前のように長い時間家を空けて、温浴施設でゆっくり過ごすことが難しくなりました。しょっちゅう実家へと通う日々が続いています。

そのため、これまで温浴施設で出会った人や、そこで交わされていた会話を書いてきた木曜シリーズも、しばらく形を変えることになります。

さて、どうしたものか。

温浴施設へ行けないのだから、木曜シリーズもお休みにするべきなのでしょうか。

そんなことを考えながら、ふと気づきました。

私は、なぜあれほど頻繁に温浴施設へ通っていたのでしょう。

面白い人を探しに行っていたわけではありません。

ごぼう先輩のような強烈な人物が、毎回待ち構えていたわけでもありません。

もともとの目的は、もっと単純で、もっと身体的なものでした。

私が温泉を求めていたというより、私の筋肉が温泉を求めていたのです。


♨️ 私より先に、筋肉が温泉を求めていました

私は現在も、週に3回から4回ほど筋力トレーニングをしています。

少し前までは、週に6回ほどトレーニングをしていました。

胸、腹、腕、背中、脚、肩。

日によって鍛える場所を変えながら、ほぼ毎日のように身体へ負荷をかけていました。

筋力トレーニングをしている時間そのものは、決して嫌いではありません。

むしろ、身体へ力を込め、重さに逆らい、自分の限界を少しずつ押し広げていく感覚が好きです。

しかし、身体へ負荷をかければ、当然ながら疲労は残ります。

脚を鍛えた翌日は、階段を上るだけでも太ももが重く感じます。

背中を鍛えれば、肩甲骨の周辺に張りが残ります。

胸を追い込めば、腕を伸ばしただけでも筋肉が存在を主張します。

若い頃であれば、少し眠れば何事もなかったように動けたのかもしれません。

しかし、年齢を重ねれば、鍛えることと同じくらい、回復させることが重要になります。

そこで、私にとって大きな役割を果たしていたのが温浴施設でした。

温かい湯船につかり、身体全体をゆっくりと温める。

張っていた筋肉が、少しずつ緩んでいく。

水圧に身体を預けながら、深く呼吸をする。

その時間は、単なる娯楽ではありませんでした。

筋力トレーニングで使った身体を、次のトレーニングへ向けて整えるための時間だったのです。

鍛えることと休ませること。その両方があって、身体は次の一歩へ向かえます。


もちろん、温泉へ入るだけで、すべての疲労が消えるわけではありません。

身体をつくるためには、運動だけでなく、食事や睡眠、休息も必要です。

それでも私の中では、

筋肉を使う。

食事を取る。

温泉で身体を緩める。

眠る。

そして、また身体を動かす。

その一連の流れが、生活の中に組み込まれていました。

温浴施設へ行けなくなって初めて、私は温泉を「お風呂に入る場所」としてではなく、身体を回復させる循環の一部として使っていたのだと気づきました。


💪 筋肉は、見せるためだけにあるものではありません

筋肉という言葉を聞くと、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。

太い腕。

厚い胸板。

割れた腹筋。

ボディービルダーのような、鍛え上げられた身体を想像する人もいるかもしれません。

そのため、筋力トレーニングの話をすると、

「私はマッチョになりたいわけではありません」

「筋肉を大きくする必要はないと思います」

という反応が返ってくることがあります。

その通りです。

誰もがマッチョになる必要はありません。

競技へ出る人と、健康のために身体を動かす人では、必要な筋肉の量も、トレーニングの方法も違います。

どのような身体を目指すのかは、その人の目的や好みによって変わります。

しかし、マッチョになる必要がないことと、筋肉が必要ないことは、まったく別の話です。

私たちは、筋肉を見せるためだけに使っているわけではありません。

朝、布団から起き上がる。

椅子から立ち上がる。

顔を洗う。

服を着替える。

階段を上る。

買い物袋を持つ。

トイレへ行く。

浴槽をまたぐ。

転びそうになったとき、身体を支える。

こうした日常の動作は、すべて筋肉と筋力によって支えられています。

あまりにも当たり前にできているため、私たちはそのことを忘れています。

筋肉は、目立つための飾りではありません。

自分の身体を自分で動かし、自分の生活を自分で続けるための、静かな土台です。


🧍 二本の足で立つことは、決して単純ではありません

人間は、二本の足で立っています。

普段は何気なく立ち、何気なく歩いています。

しかし、よく考えてみれば、細長い身体を二本の足だけで支えることは、決して簡単な作業ではありません。

足の裏で床を捉える。

足首が傾きを調整する。

ふくらはぎや太ももが、膝と股関節を支える。

お尻や腹部、背中の筋肉が、上半身を起こしておく。

目から入る情報や、身体の傾きを感じる感覚も使いながら、転ばない位置へ重心を戻し続ける。

私たちは立っている間、ただ棒のように静止しているわけではありません。

身体のさまざまな場所が、小さな調整を繰り返しています。

座った状態から立ち上がるときには、さらに大きな力が必要です。

身体を前へ傾け、足の裏へ体重を移し、太ももやお尻の筋肉を使って身体を持ち上げる。

その一連の動きがつながって、ようやく立ち上がることができます。

できているときには、何も考えません。

しかし、筋肉や筋力が大きく落ちると、それまで一つの動作に見えていたものが、いくつもの難しい作業へ分かれてしまいます。

身体を起こせない。

足へ力を入れられない。

立ち上がっても身体を支えられない。

一歩を踏み出すことが怖い。

歩く以前に、立つこと自体が大きな課題になります。

筋肉量や筋力の低下は、椅子から立つ、歩く、荷物を持つといった日常動作を難しくし、自立した生活にも影響します。

二本の足で立っている。

たったそれだけのように見える姿も、実は身体が行っている見事な共同作業なのです。


🌿 母の姿から、生活と筋力のつながりを知りました

今、母にとって大きな課題となっているのが、療養生活の中で失われた筋肉と筋力です。

入院中、母は食事が身体に合わず、十分に食べられない時期が続きました。

体重も大きく減りました。

身体が痩せたという言葉だけでは伝わりにくいのですが、失われたのは体重だけではありません。

身体を起こす力。

立ち上がる力。

自分の体重を脚で支える力。

歩くために一歩を踏み出す力。

日常生活を送るために必要な、さまざまな力が弱くなっています。

私は長年、筋力トレーニングをしてきました。

筋肉へ負荷をかけ、食事を取り、身体を休ませながら、少しずつ力を増やしていくことを経験してきました。

だからこそ、筋肉をつけることが簡単ではないことも知っています。

筋肉は、一晩で増えるものではありません。

しかし、病気やけが、食事量の低下、長く身体を動かせない生活が重なると、特に高齢者では筋肉と身体機能が急速に落ちることがあります。
病院で寝ていると、ちょっとビックリするほど急速に筋肉が削げ落ちてしまいます。

つくるには時間がかかるのに、失われるときは速い。

これが、筋肉の厳しいところです。

母が以前と同じ日常を取り戻すためには、痛みの問題だけではなく、失われた力をどのように取り戻していくかを考えなければなりません。

もちろん、無理に動かせばよいという話ではありません。

年齢やけがの状態、食事、痛み、その日の体調を見ながら、医療やリハビリの専門家と相談し、少しずつ進めていく必要があります。

それでも、最終的に生活を支えるのは身体です。

誰かが手を貸すことはできます。

身体を起こす手伝いもできます。

歩くときに支えることもできます。

しかし、母自身の脚がもう一度身体を支えられるようになることは、これからの生活を考えるうえで、とても大きな意味を持ちます。

私は母の姿を通して、あらためて知りました。

筋力とは、重い物を持ち上げる能力だけではありません。
自分の身体を自分の意思をもって操作するする為のもの、これが筋肉です。自分の生活を、自分の身体で続けるための力なのです。

AIは変化を見つけ、回復の道筋を支えられるかもしれません。
それでも、立ち、一歩を踏み出すのは本人の身体です。



🏠 日常生活は、小さな筋力の積み重ねでできています

私たちは、健康という言葉を使うとき、病気があるか、ないかで考えがちです。

検査結果に問題がなければ健康。

薬を飲んでいなければ健康。

痛みがなければ健康。

もちろん、それらも大切です。

しかし、日常生活という視点から考えると、健康にはもう一つの側面があります。

自分で起きられること。

自分で座れること。

自分で立てること。

自分で食事を取れること。

自分でトイレへ行けること。

自分で行きたい場所へ移動できること。

こうした行動を、どこまで自分で行えるのか。

そこには、筋肉と筋力が深く関わっています。

マッチョである必要はありません。

人に見せるような筋肉でなくても構いません。

ただ、自分の身体と暮らしを支えられるだけの筋肉は必要です。

それは若い人にとっても同じです。

今は簡単に立ち上がれていても、身体を使わない生活が長く続けば、少しずつ力は落ちていきます。

便利な乗り物があります。

買い物は自宅まで届けてもらえます。

仕事も椅子に座ったままできます。

家電やサービスが、身体を使わなくても生活できる環境を整えてくれます。

便利になること自体は悪いことではありません。

しかし、身体を使わなくても困らない生活と、身体を使わなくても衰えない生活は同じではありません。

使わなくて済むようになった筋肉は、必要がなくなったと身体に判断されます。すると即座にいなくなってしまうのです。

だからこそ、生活が便利になるほど、意識して身体を使う時間が必要になるのかもしれません。


🤖 AGIやASIが語られる時代に考えること

最近、AIに関する記事を見ていると、AGIやASIという言葉を目にする機会が増えました。

スマートフォンのニュース欄を眺めていても、AIが人間の仕事をどこまで代替するのか、いつ人間と同等の知能へ到達するのか、その先に何が起こるのかという記事が、次々と流れてきます。

AGIとは、特定の作業だけを得意とする現在のAIよりも幅広く、人間のようにさまざまな知的課題へ対応できる汎用人工知能を指す言葉です。

その先に語られるASIは、人間一人の知能を超えるだけではなく、多くの専門家や大きな組織の知的能力さえ上回る、超知能として考えられています。

実現する時期や、どの状態をAGIと呼ぶのかについては意見が分かれています。

しかし、もはや一部の研究者だけが語る遠い空想ではありません。

世界的なAI企業や研究機関が、AGIへ向かう道筋や、その先にある超知能について公に議論しています。

AIが人間の知能を超える。

いずれは人類の脳の総和さえ超える。

そんな未来が、真面目に語られる時代になりました。

それでは、もしAIがそこまで進化したら、人間は身体を使わなくてもよくなるのでしょうか。

私は、そうはならないと思っています。

なぜなら、知能がどれだけ進化しても、私たちの筋肉は別だからです。


🏋️ AIに腕立てを頼んでも、私の筋肉は育ちません

先週も書きましたが、AIは筋力トレーニングの方法を考えることができます。

年齢や体力、目的に合わせて、運動の組み合わせを提案することもできるでしょう。

食事の記録を分析し、足りない栄養を知らせることもできます。

カメラやセンサーを使い、姿勢の乱れや歩き方の変化を見つけることもできるようになるはずです。

将来は、筋力が落ち始めた小さな兆候をAIが見つけ、本人や家族へ知らせてくれるかもしれません。

転倒の危険を予測したり、リハビリの進み具合を記録したり、その日の体調に合わせて運動量を調整したりすることも考えられます。

AIは、身体を守るための優秀な参謀になれます。

しかし、参謀は参謀です。

私がAIに、

「今日は腕立て伏せを100回やっておいてください」

と頼んだとします。

AIが元気よく、

「押忍、100回完了しました」

と答えてくれたとしても、私の胸の筋肉は1ミリも育ちません。

AIの腕立てによって鍛えられるのは、AIの達成報告能力だけです。

私の筋肉を育てるためには、私自身が身体を動かさなければなりません。

重さを受ける。

筋肉へ刺激を入れる。

食事を取る。

休む。

そして、身体がその刺激へ適応する時間を待つ。

この生物としての過程を、情報だけで飛び越えることはできません。

ロボットが荷物を持ってくれることはあります。

歩行を支える機器や、身体の動きを補助する技術も発展していくでしょう。

それらは、とても大切な技術です。

しかし、道具が身体を助けることと、自分自身の筋力が保たれていることは同じではありません。

AIがどれほど賢くなっても、私たちの身体の中にある筋肉は、私たちの生活、食事、活動、休息の影響を受けながら生きています。

知能は外部へ預けられても、身体そのものを完全に外部へ預けることはできません。


🧠 AIが進化するほど、身体の価値は大きくなるのかもしれません

AIが多くの知的作業を引き受けるようになれば、私たちの生活はさらに便利になります。

文章を書く。

情報を調べる。

予定を組む。

数字を計算する。

仕事の判断を助ける。

機械やロボットと結びつけば、家事や移動、介護の一部を支えることもできるでしょう。

しかし、便利さが増すほど、人間が身体を使う機会は減る可能性があります。

頭を使わなくてよくなること以上に、歩かなくてよくなる。

持たなくてよくなる。

立たなくてよくなる。

外へ出なくてもよくなる。

そのような生活が広がるかもしれません。

AIが人間の知能を拡張する一方で、人間の身体が使われなくなっていく。

これは、少し不思議な未来です。

人間の脳を超える知能を手に入れながら、自分の身体を椅子から起こす筋力を失ってしまえば、果たしてそれを進化と呼べるのでしょうか。

AIと人間は、競争する必要はないと思います。

AIには、AIが得意なことがあります。

人間には、身体を持つ存在として経験できることがあります。

お湯の温度を感じる。

筋肉の張りを感じる。

足の裏で床を捉える。

呼吸が深くなる瞬間を知る。

疲れた身体が緩んでいく感覚を味わう。

それらは、単なる情報ではありません。

身体を持ち、時間の中で生きているからこそ得られる経験です。

AIが知恵を支え、筋肉が生活を支える。

これから必要になるのは、そのどちらかを選ぶことではなく、両方をうまく使うことなのだと思います。


♨️ 湯気の向こうで見ていたのは、人の生きる力でした

温浴施設で私が見ていたものも、今になって少し違って見えてきました。

湯船から勢いよく立ち上がる人。

手すりを使いながら慎重に立つ人。

背筋を伸ばして歩く人。

身体をかばうように、ゆっくり歩く人。

年齢よりも若々しく見える人。

立派な身体をしていても、動きには疲れが表れている人。

以前の私は、そこで交わされる会話や、個性的な人物の言動へ目を向けていました。

しかし、人は言葉だけで自分を表しているわけではありません。

立ち方。

歩き方。

呼吸。

姿勢。

声。

表情。

湯船から立ち上がる、その一瞬にも、その人がどのように身体を使い、どのように暮らしているのかが表れます。

温浴施設は、筋肉を回復させる場所であると同時に、人間の身体と生活を観察する場所でもあったのです。

しばらくの間、私は温浴施設へ行くことができません。

けれども、湯気の向こうで見てきた人たちの姿は、今も記憶の中に残っています。

これからの木曜シリーズでは、そうした過去の出来事を振り返りながら、身体、筋肉、年齢、生き方、そしてAIと人間の未来について考えていきたいと思います。

当時は、ただ面白い出来事だと思っていたもの。

思わず笑ってしまった会話。

理解できずに通り過ぎた言葉。

今になって、意味が分かるようになった光景。

記憶の中に残る湯気を少しずつたどれば、そこには人が生きるための、さまざまな知恵が隠れているかもしれません。


🌏 五感解析ラボという道具箱

海外では、心や身体を別々に切り離さず、生活習慣、環境、価値観なども含めて、その人全体を見る「Whole Person Health(ホール・パーソン・ヘルス)」という考え方があります。

米国では、国立衛生研究所や退役軍人省、大学医療機関などでも研究・実践されている考え方です。

五感解析ラボも、この「人を部分ではなく、全体で見る」という考え方に近い場所です。

ただし、五感解析ラボは医療機関ではなく、診断や治療を行う場所ではありません。

日常の悩みを、心だけ、身体だけ、お金だけに切り分けず、五感や身体反応、生活習慣、心理、環境などから観察します。

そのうえで、脳科学、心理学、五感観察、五行、易などの道具の中から、今のあなたに役立ちそうなものを選びます。

五感解析ラボは、身体の反応を手がかりに、自分を責める前に、

「今の自分には、どの入口と道具が合うのか」

を探していくための道具箱です。


🔭 知能が空へ伸びるほど、足元の筋肉を忘れない

人類は、これからどこまで賢くなるのでしょう。

AIは、どこまで進化するのでしょう。

AGIが生まれ、さらにASIと呼ばれる知能へ進み、人間には想像もできない問題を解く日が来るのかもしれません。

それでも朝になれば、私たちは自分の身体を起こします。

椅子から立ち上がります。

足の裏を床につけ、自分の体重を支えます。

そして、一歩を踏み出します。

どれほど高度な知能が生まれても、その一歩には筋肉が必要です。

立つこと。

歩くこと。

自分の身体で生活すること。

当たり前に見えるその力を、私たちはもっと大切にしてもよいのではないでしょうか。

温浴施設へ行けなくなったことで、私は温泉の役割を考えました。

温泉の役割を考えたことで、筋肉の役割へたどり着きました。

そして母の姿を通して、筋肉は身体を飾るものではなく、人生の日常部分を支えるものなのだと、あらためて知りました。

しばらく木曜シリーズは、湯けむりの中に残った記憶を振り返る回顧編となります。

最初に記憶の湯船から立ち上がってくるのは、誰なのでしょう。

ごぼう先輩なのか。

それとも、まだ記事には登場していない、別の誰かなのか。

私にも、まだ分かりません。

ただ一つ分かっているのは、どれほどAIが進化した未来でも、その人物が湯船から立ち上がるためには、やはり本人の脚と筋肉が必要だということです。

#筋トレ #筋力トレーニング #筋肉 #筋力低下 #サルコペニア #フレイル予防 #健康寿命 #高齢者の健康 #リハビリ #疲労回復 #温泉 #AI #生成AI #AGI #ASI

いいなと思ったら応援しよう!