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どうしようもなく、どっぷり浸かった恋の話

地元の花火大会の夜、
遠距離の彼氏がいる私が出会ったのは、
同じように遠距離の彼女がいるひとりの男性。
その人は、大学時代に同じサッカーの試合会場で
会っていたかもしれない人だった。

驚くほど趣味が似ていて、
話すテンポも合って心地良い。

深夜の海や、流星群。
何気ない時間を重ねるたびに、
少しずつ特別になっていく。

いつか終わりが来るとわかっていた。
それでもあの時は、
2人の時間を手放せなかった。

これは
最後まで「恋人」という名前がつかない関係の
実話ベースの恋愛記録。


好きな彼氏がいた。
浮気なんて自分には無縁だと思っていた。
あの夜、あの人に会うまでは。

何年経っても、ふとした瞬間に思い出す。

これは、人生のどこかに置いてきた恋の話。


第一章


彼氏がいるのに、出会ってしまった夜


花火が終わって、私たちは3人で歩いていた。
久しぶりの浴衣。

風も心地よくて、少しだけ浮かれた帰り道。


車に向かう途中、前から2人組が近づいてくる。
「ナンパかな」
小さくそう言いながら、
そのまま通り過ぎようとした、その瞬間。
顔が見えた。

「おー!」
一瞬、誰かわからなかった。

「え、久しぶり」
地元の友達だった。

小学校卒業以来の再会。
「てか、お前らかよ」
「なにそれ、ナンパ失敗やな」
そのまま、ご飯に行くことになった。

隣を歩いたのは、もう1人の人。
初対面。

ーーやば…目、合わんほうがいいやつや。

顔を見るたびに、少しずつ、変に緊張していく。

「大学どこやったん?」
「〇〇大学」

「あ、私そこ行ったことある」
「え、兵庫やで?」

「結構、山登るとこやんな?」
「そうそう、よく知ってるな」

笑って歩く。

「サークルとかしてた?」
「サッカー部」


ーーえ…


「え、サークルじゃなくて?」
「そうそう、ガチのやつ」
少し照れたように笑う横顔に、なぜか、目が離せなくなった。

「え、私も。サッカー部でマネージャーしてた」
「え?」
夜の空気が、一瞬だけ止まる。

「試合でそこ行ったことがあってさ…」
数秒の間のあと、


「まじで?」
少し遅れて届いた。

試合の相手。
もしかしたら、あの時、すれ違っていたのかもしれない。

その瞬間、根拠なんてないのに、
心臓の奥が小さく波打った。


ご飯を食べて、2人とは別れた。
3人に戻った瞬間から、さっきまでの話で持ちきりだった。

「久々すぎ」
「偶然やったな」
「あとさ、こんなとこで大学繋がりの人に会う⁉︎」
「めちゃビックリした」
「てか、めちゃ格好よかくなかった?」
「それ」
「やんな!」

何度も同じ話を繰り返して、笑って、
どこか少し浮ついたまま帰った。


まだその人の「まじで?」という声が、イヤホンで聴く音楽みたいに、ずっとリピートされていた。

2人で目を丸くして止まったあの空気が、忘れられない。

花火を見たのは、ほんの数時間前のはずなのに、
頭に残っていたのは、夜空じゃなくて、その人だった。


また会えた、会ってしまった


次の日からは、日常が戻った。
平日は仕事、
週末は友達か、家でゆっくり。

遠距離の彼氏との電話も、変わらず楽しみにしていた。
変わらない毎日。


子どもの頃から、私はわりと真面目な性格だった。

曲ったことが嫌いで、
恋愛についても、浮気なんて理解できないし、自分には関係ないと思ってた。


ある日、地元のメンバーで鍋パーティーをすることになった。
場所は、夏に再会した幼なじみの家。

——小学校の集まりやし、あの人は来んよな

それでも、その日は楽しかった。
久しぶりに会う地元の友達との話は尽きなかった。

気づけば、そのメンバーで集まることが増えていった。
みんなで笑って、何気ない時間を重ねていく。

そして——

数ヶ月ぶりに、あの人に会う日が来る。


その日は、いつもより少し人が多かった。
テーブルにはグラスが多めに並んでいる。

「もうすぐあいつらも来るわ」
誰かが言った。

——まぁ違うか

しばらくして、ドアが開いた瞬間、目が止まった。

ーあ…

友達と目を合わせる。

少しだけ驚いた顔をしたあとふっと笑って、
「久しぶりやな」

——この声や

「…うん、久しぶり」
平然と答えたつもりだった。


その人の周りには、初めて会う人たちがいた。
みんな気さくで、すぐに場は打ち解けていく。

鍋の湯気と笑い声が、部屋に広がっていた。

「そういえば」
その人が、ふと話し出す。

「俺ら大学の時、試合で会ってたかもしれんくてさ」
そう言って、自分と私を軽く指で示した。

「え、そうなん?」
鍋を取り分けながら、小さく頷く。

「なにそれ」
「すご」
「めちゃ偶然やん」

なんだか、自分たちだけの秘密が、ふいに外に出てしまったみたいで、少し恥ずかしかった。

「なんか、ずるいな」
隣で友達が、小さく笑いながら言った。

「え?」
「なんか、運命っぽいやん」
冗談なのに、ちょっと本気っぽく聞こえた。

自分だけが、少し距離が近い気がして、嬉しく感じたのは確かだった。


帰り道、彼氏からの『おやすみ』のスタンプに気付く。
いつもなら愛おしく思うはずのその画面が、
今はなんだか、遠い国の出来事のように感じてしまう……


帰ってからも、何度も思い出していた。

鍋を囲んで笑ったこと。

「運命っぽいやん」
と言われたこと。

ただそれだけなのに、
なかなか眠れなかった。


距離が縮まる


その日は店で集まっていた。

幼馴染と新しい友達が入り混じる、
この空気にも少し慣れてきていた。
他愛もない会話と、笑い声。

その中に、あの人がいる。
それだけで、少し気持ちが浮ついていた。

その店からは、帰る方向が同じだった。
「送ってくれん?」

幼馴染の男女2人と、その人を乗せて、
駐車場を出た。
「じゃあまたー」

助手席には女友達。
後部座席では、幼馴染がいつも通りふざけて、
その場を回してくれていた。

ルームミラー越しに目が合いそうで、
あまり見れなかった。

次の日も仕事が早い女友達を送って、
車は3人になった。
「次どっちが近いっけ?」
ルームミラー越しに聞く。

「ちょっとコンビニ寄ってもらっていい?」
そのまま、3人でコンビニに向かった。

タバコを吸う2人。
ひと足先に戻った運転席から、
なんとなくその様子を見ていた。

窓を開けると、風が心地よく吹き込んだ。

しばらくして戻って来た。
思いついたみたいに、その人が言う。

「まだ時間いける?ドライブ行かへん?」
「いいね〜」
幼馴染がすぐに乗る。

そんな流れもあるのかと、驚いている間に
「俺、前乗ろ」
当たり前みたいな口調でそう言って、車を回る。

助手席のドアが開いた。

返事をするのを忘れる。

早めにエンジンをかけて、
「どこ行く?」
何もなかった様に聞いた。

「とりあえず、逆方向行こ」

車の少ない夜の国道を走らせた。

運転している間は彼の顔を見なくて済む。
それだけが少し救いだった。

そう思っていた時だった。

「お、Green Day」
置いてあったCDを手に取って言った。

「え、Zebraheadやん!女で珍しくない?」
「そうかも」

「ミッシェルもあるやん」
「え、ミッシェル私めちゃ好きでさ」

なんでこんな嬉しいのか、自分でもよくわからなかった。

「チキンジョージも行ったよ」
「マジで!それ、あつい」
さっきまでよりも、大きな声で届いた。

「お前ら、好きな音楽も似てるんか」
後ろから、幼馴染が茶化すように笑う。

窓を少し開けると、夜風が心地よかった。

幼馴染が続けた。
「彼氏とは長いん?」
「んー3年目かな」

「サッカー部とか?」
「うん」

「え、てことはお前対戦してるやん」
「ホンマやな、絡んでるかもしれん」

本当にあり得る話だった。

「てか、お前もそれくらいちゃうん?」
「そやなぁ、3年弱くらいか」

「2人とも遠距離やし、また暇な時付き合ってや」
「なんやそれ」
「彼女、夜勤あるんやっけ?」
「そうそう。みんな寂しい者同士」
「悲しいー」
3人で笑った。

幼馴染の彼女は看護師だった。

その日から、
自然と3人で会うことが増えていった。


『今日あいてる?』
いつもの流れで集まった。

その日は初めてカラオケに行くことになった。

友達となら平気なのに、
その人と行くのは、なぜか少し落ち着かなかった。

部屋に入ると、幼馴染がいつも通り場を回していく。
ふざけて、笑って、順番に曲を入れていく。

2人の歌が上手くて、そこにいるだけで楽しかった。

しばらくして、
「いいの見つけた」
そう言って入れられた曲。

AM11:00

「はい、2番任せた」
軽く言われて、断るタイミングもないまま、
気づいたらマイクを渡されていた。

——これ、歌わんわけにいかんよな

よく歌っていた曲。
でもその時は、同じ様には思えなかった。

1番はその人が歌って、
2番で女性パートが始まる。

震える手を誤魔化そうと、両手でマイクを握って、
声を出した。

思ったより、ちゃんと声が出ていた。

「いけるやん、何が無理やねん」
マイクの声で言った。

ラップは幼馴染がふざけながら歌っていた。
その空気に引っ張られて、
少しずつ緊張がほどけていく。

曲が終わると、
「え、普通にうまいやん」
恥ずかしいのに、ほっとした。
横では、幼馴染がもう次の曲を歌おうとしている。

ほんの少しだけ、
何かが変わった気がした。


ふたりになってしまう


幼馴染とその彼女と、あの人と、私。
4人でご飯に行く予定の日。

3人は高校の同級生。私だけが別の高校だった。
仲間に入れてもらっている感覚で、
その時間も好きだった。

でも、その予定は急に変わった。
『ごめん、おれら行けんくなった』
幼馴染からの連絡。

気づいたら2人だけになってて、
なんとなく少し黙った。
「どうする?」
「まぁ…行くか」
流れのまま、ご飯に向かった。

店に入っても、特別なことは何もない。
注文して、話して、笑って。

会話はいつも通り続いてるのに、
たまにある沈黙が少し気になった。
別に気まずいわけじゃない。

ただ、どこか落ち着かない。

ふと、その人が言った。
「彼氏とは、ちゃんと会ってるん?」
初めての少し踏み込んだ言葉。

「うん、でもなかなか休み合わんくて。そっちは?」

少し間があって、
「まぁ、色々あるよな」
それだけだった。

それ以上は聞いてこなかったし、私も聞かなかった。

食事を終えて店を出る。
「まだ時間あるな」

少し考えた後、
「海、行くか」
一瞬迷ったのに、頷いていた。


途中でコンビニに寄って、コーヒーを買った。
しばらく走るうちに、街の明かりが少しずつ遠くなる。

海に着くと、夜の空気は思ったより静かで、
波の音だけが近くに聞こえる。
飛行機の光が、ゆっくりと流れていた。

特別なことは何もないのに、この場所だけ、
時間の流れが違う気がした。

ふと、コンビニの袋から、花火を取り出す。

ーーえ、さっき…

用意してくれたんやって思ったら、ちょっと嬉しかった。

「やる?」
「やる」

火をつけるのに少し手間取って、思わず笑った。
煙たくて目を細めながら、また笑う。

火のついた花火から、火を分けてもらう。
「こういうの、久しぶりやわ」
「たしかに」

明るくなるたびに、その人の横顔が浮き上がる。
あまり見ないようにした。

線香花火にそっと火をつけた。
「どっちが長いか」
「恒例のやつな」

手が届きそうな距離だった。
この時間が、終わってほしくないって思ってしまった。

——これ、ちょっとやばい


車に乗り込むと、すぐにエンジンがかかった。
知っている曲が流れた。

「そういえばさ」
その人が、少し笑いながら言った。

「連絡先、まだやったよな?」
一瞬、間が空く。

「あ、ほんまや」
なるべく軽い口調で答えた。

「結構会ってるのにな」
「いつも、あいつおったしな」
少し笑って、そのまま交換した。

画面に名前が増えただけなのに、
何かが大きく変わった気がした。


その日の夜、
『花火楽しかった ありがとう』
『こちらこそ ありがとう』
やり取りはそれだけだった。

それなのに、何度も画面を開いてしまう。

送る言葉は見つからなかった。


数日後。
部屋でカレンダーを見ながら、
彼氏に会いに行く予定を考えていた。

そのとき、幼馴染から連絡が入る。
『出れる?』
いつもの流れだった。

少しだけ迷って、
『うん ちょっと待って』
そう返した。

外に出て車まで歩くと、その人もいた。
「おつかれ」
それだけの一言。

ちょっと安心した。

車に乗り込んで、夜風の中を走る。
いつものように、
コンビニに寄ってコーヒーを買った。

特に行き先も決めないまま、また車は動き出す。

2人が音楽に合わせて口ずさむ。
何も話さなくても、それで成立してる時間だった。

ふと、幼馴染が言った。
「そうや、俺スピーカー欲しいねん。
明日付き合ってや」

次の日は休みだった。
彼氏と会う予定も、特に何もない。
「いいよ」
そう答えていた。

「おう、どこ見に行く?」
その人もそう言った。

——また明日も会える

遠距離の彼氏とは、
次に会う日もなかなか決まらないのに、
この人とは違った。

予定がなくても会えて、
"明日"もすぐ決まる。

もどかしさと、不思議な心地よさが、一緒にあった。


何もないはずなのに


翌日、約束通りにまた集まった。
休日のアウトレットは人が多くて、
思ったより歩きづらい。

人の流れに何度か逸れかけた。
離れたり、近づいたり。
繰り返しながら歩いていた。

「これいいなぁ」
「かっこいいやん」
「でもちょっと高ない?」
みんなで見て回った。

一旦、店を離れて、
ごはんを食べながら考えることにした。
さっきより、人が増えていた。

ーーあれ、どこ行った?
少し探した瞬間、腕を軽く引かれた。
ほんの一瞬。

「こっちやで」

その一言だけ。
何でもない顔で、また歩き続ける。

フードコートにいる間も
ずっとさっきの事が消えなかった。

高めのスピーカーに決めて、店を出た。
気づけば夕方になっていた。

帰り道の後部座席。
昼間の腕の感覚だけが、まだ確かに残っていた。

ーーあれは、ちょっとずるい


また別の日。
女友達と2人でファミレスにいた。

仕事の話、彼氏の話、ドラマの話。
何気ない会話の中で
「でさ、あの人とどうなってるん?」

ーーやっぱ聞かれた

「いや、何もないよ」
答えるのが、少し早すぎた。

「ほんまに?」
ちょっとだけ探るみたいに笑っていた。

「何もないって」
ポテトを取りながら、もう一度言う。

「でも遊んでるんやろ?」
「3人でな、遠距離と夜勤で、みんな暇なだけ」

「それだけ?」
「うん」

嘘つき、と自分に言いたかった。

友達はそれ以上は、聞いてこなかった。
その優しさが、ちょっとだけ刺さった。

会話はまた普通に戻る。
笑い声も戻る。

店を出ると、日が落ちて暗くなっていた。

携帯のあの人の画面を開く。
送ろうとして、やめた。
“何もない”なら、こんなに迷わないはずだった。


久しぶりに、彼氏と会う日。

いつもの場所で待ち合わせをして、
いつも通りの流れで合流する。
「久しぶりやな」

いつもの街。
その日もたくさん人の波があった。

自然に手をつないだ。

何度もしてきたこと。
何も特別じゃない。
でも、ちょっとだけ違和感があった。

近くのカフェに入る。
「はい」
当たり前みたいに差し出されるコーヒー。
「ありがと」

向かいに座って、他愛もない話をする。
なぜか、相槌を打つので精一杯だった。

嫌なわけじゃない。
好きなのは変わらない。
ただ、どこか落ち着かなかった。

「どうしたん?」
「ん?」
「なんか今日、静かやな」

どんな顔をして笑っているのか、
自分でも分からなかった。

店を出て、また歩く。
さっきと同じように、手を繋いでいた。
歩いて、休憩して、少し買い物もした。

帰るとき
「じゃあ、またな」
「うん、また」
それだけで終わる。

ーーあれ、いつ離してたっけ…

手を離すタイミングが、
ちょっと思い出せなかった。

改札を通って、一度、振り返る。
もう人に紛れていた。


携帯が震えたのは、その帰り道。
『明日集まるけど来れる?』
幼馴染からの連絡だった。

少しだけ迷ったのに、
気付いたら『行く』と送っていた。



第二章


付き合ってなくても手をつなげる?


翌日、久しぶりに幼馴染の家に、みんなで集まっていた。
その人も来ていた。

いつもの空気だった。
色んな話をする中で、
"付き合っていない人と手をつなげるかどうか"
そんな話になった。

「それは無理やろ」
誰かが言って、笑いが起きる。

「やんな?」
「いや、いけるって」
「え、なんでいけるん?」

いろんな意見や体験談が出て、
だんだん盛り上がっていく。

私はずっと同じことを思っていた。
——無理に決まってる。

その人は、"いける派"だった。
軽く笑いながら、当たり前みたいに話している。
その温度が、少しだけ引っかかった。

結局、「状況によるな」ということで、
その話は終わった。


帰る時間になる。
その人に送ってもらうことになった。
他に乗る人はいなくて、最初から2人だった。

「じゃあ、おつかれー」
車は静かに走り出す。

「よろしく」
「おぅ」

2度目の2人だけの車内。
まだ、落ち着かなかった。

言葉を探す。
「みんなで会うの久しぶりやったな」
「そうやな、みんな忙しいよな」

みんなでいる空気が、少しだけ懐かしく感じた。
ほんの数ヶ月しか経ってないのに。

余韻に浸る中で、ふと、
家とは逆の方向に走っていることに気づいた。
「…え?」
「え、気づくの遅っ」

笑いながら、続けた。
「ドライブ、ドライブ」

「なんか、ぼーっとしてた」
笑って返す。


しばらくして、前とは別の海の駐車場に着いた。
人はいなかった。

車を降りて、並んで歩く。
夜の空気が、少し冷たかった。

「さっきのさ」
思い出したみたいに、言う。

「手つなげるかってやつ」
「あー」

少し間が空いた。

「いけるで」
なんでもないみたいに言う。

「いや、私は無理かな」
そう言いかけた、その時。

手を取られた。

いたずらっぽく笑って、
私の手を引いて、また歩き出す。

振り払うこともできずに、そのまま歩く。
心の中では、同じ言葉が浮かんでいた。

——無理。やっぱ、無理。

そう思っているのに、つないだ手は解けなかった。

「な?」
少しだけ得意げに言う。

「な?じゃないって」
「いけてるやん」
そう言って、つないだ手を少しだけ振った。
思わず、少しだけ笑ってしまった。

立ち止まって、静かな海を眺める。
波が緊張をほぐしてくれた。

一瞬だけ、ぎゅっとされた気がした。
思わずそっちを見る。
でも、何もなかったみたいに前を向いている。
何も言わなかった。

どれくらいそうしていたか、覚えていない。
「帰ろか」
気づいたら、手は離れていた。

少し斜め後ろを歩く。

車に戻って、ドアを閉めた。

「まぁでも、1つ大人なったな」
そう言って、ふと笑いながら
また私の手を取った。

エンジンがかかる前の、
波の音すら聞こえなくなった車の中では
自分の鼓動の音が聞こえそうだった。

やっとエンジンがかかる。
いつもの好きな曲が流れてるのに、
何も入ってこなかった。


同じ星を見た夜


『今日空いてる?』
約束をするわけではなく、会える時に会う。

「誰か誘う?」
「誘う?」
「いいか」
「いいな」

そんなやり取りで
2人の時間が増えていた。

「この前の聞いた?」
それだけで、何の話かすぐわかった。
「聞いた聞いた。今回ヤバかったやんな」
同じタイミングで笑って、また思い出して。

くだらないやり取りが、ちょうどよかった。

他の人とは違う気がしていたのは、
好きなものが、よく似ていたから。
サッカー、音楽、ギター、ラジオ…
たまたまなのに、趣味が重なっていた。

その日も、やっぱり同じ時間が続いていく。


山を登った辺りにある大きな公園で、
車が停まった。

階段を登って、芝生の上に座る。
気づけば、その人は寝転がっていた。
私も同じように寝てみた。

「星やば」
「流れ星、見えるかな」
満天の星空が広がっていた。

「これは見えそう」
しばらく無言で星空を眺める。

「え!見た?」
「見た見た、あっちやんな」
「すご」
「見えたな」
同じタイミングで声が重なる。

しばらくして、何も言わずに手がつながった。
「もういけそうやな」
「…どうやろ」
まだ、ぎこちなかった。

たくさんの星が、その空気を和ませてくれた。


しばらく静かになったあと、
何も言わないまま、起き上がった。

「ちょっとそのままな」
そう言って、同じ方向を向いたまま、
私の立てていた膝に、背中を預けてきた。

一瞬、動けなかった。

「あ、この方が見やすいわ」
私の膝にもたれかかったまま、空を見上げる。

「そうなん?」
それだけ返した。

そのまま、何も起きない時間が続く。
緊張しながらも、
満天の星に見惚れて、時間を忘れていた。

ふと、体が離れる。
「やってみ」
そう言われて、
今度は自分が同じように、背中を預けた。

「あ、たしかに」
思っていたより、落ち着いた。
背中に感じる温度が、やけに温かかった。

また流れ星が流れる。
「あっ流れた」
「やば」
「今のゆっくりやったな」

だんだんと、
自分の体重がかかっていることが気になって
「今日ってさ、流星群の日?」
身体を起こして、振り向いて聞いた。

「好きやろ?」
空を見たまま言った。

ーーそういうとこが、ずるい。

流星群やから連れて来てくれたんやんな、とか。
そういうのを確かめるのは、少し恥ずかしかった。

また横に並んで、流れ星を探した。
当たりそうだった手を、当ててみた。
そのまま、つながった。

降ってくるような星空。
このまま夜が明けなければいいのにと、
本気で思ってしまった。

帰ろうと歩き出すと、
ふとローラーコースターが目に入る。
「最後、あれやろ」
「え、さっきあった?」

2人で乗り込んだ。
思ったより速い。
「こわっ。ちょ、待って」

途中、滑りが悪いところで引っかかる。
後ろから勢いよくぶつかった。
「痛っ」
「ごめんって」
2人で笑い転げた。

結局、最後は手で漕いで、進んで降りた。
「なにこれ」
「しんどいって」
2人共、笑いが止まらなかった。

息を整えながら、また空を見上げる。
星はまだ、静かに光っていた。

「次、流星群いつかな」
「またローラーコースター滑りに来よ」
「あれあかんて」


それは、サマソニの帰り道に


2人でフェスに行く計画を立てていた。
フジロックは少しハードルが高い。
「今年はまずサマソニやな」

どっちの日に行くか、
出演アーティストのリストを見ながら話した。

見たいアーティストが絶妙に別れていて、
ちゃんと決まらないまま、その日は終わった。


しばらくして、彼女ともその話になったらしく、
そっちで行くことになったと聞いた。

ーーまぁ…、そうやんな。

女友達を誘う。
2人集まった。


当日、友達2人を車に乗せて、
いつもの安めの駐車場に停めた。
そこからは電車で向かう。

車内はサマソニに向かう人で溢れていた。
ーー会ってしまうんじゃないか…
そんな不安も、忘れるほどだった。

向こうでも、特に思い出すことはなかった。
ステージをあちこち回った。

途中、彼氏からの連絡に気づく。
『楽しんでる?』

『楽しい!あと、暑い!』
『そやろな。気を付けて帰れよ』

『うん!仕事頑張って』


見たかったアーティストも見れて、
ちゃんと楽しんだ。
その日は、それで十分だった。

帰り道、混雑する駅で電車を待っていた。

その日初めて、あの人から連絡が来た。
『一緒に帰らん?』

彼女とは別方向だったらしい。

予想もしてなかった。
どうしようかと思った。

少し迷って、友達に話す。
「いいやん」
「うん、運転してくれるやろし」
2人はあっさり言った。
それでも、迷った。

運転してもらえるのは、確かにありがたかった。
そう自分に言い訳して、駐車場で待ち合わせた。

駐車場の場所は、その人も知っていた。
前に一緒に買い物へ行った時に使ったから。

急に汗の匂いが気になって、シートを取り出す。

駐車場に着くと、
車の近くで、もう待っていた。

「おつかれ、運転するわ」
「やった、よろしく」

助手席に座った。
後部座席で、友達が笑う気配がした。
振り返ると、2人ともいたずらな目をしていた。
少し笑って、何も言わずに前を向いた。

その後は、何もなかったように話していた。
誰を見たとか、何を食べたとか。
友達が、スニーカーを無くした話にも、また笑った。

その日、生で聞いた曲をかけながら、
みんなでサマソニのテンションのまま、帰った。

不思議と、彼女のことは気にならなかった。

しばらくすると、
後ろで、友達はもう寝ていた。

ふと、目が合った。
少しだけ笑って、ハンドルから片手を離した。

そっと手をつないだ。
すぐに離した。

ほんの数秒なのに、
見つかったら終わり、
という怖さで、体温だけがやけに残った。

「寝ていいよ」
「寝たくない、でも寝たらごめん」
「なんやそれ」

ただの都合のいい女なのかもしれない。
それでも、この時間が終わってほしくなかった。

自分でも、どうしようもなかった。


最後の友達を送って、後部座席が空になった。
少しだけ、間があく。

「……疲れたな」
そう言われて、うなずく。

「運転ありがと」
「おぅ」
エンジンの音だけが残る。

車はゆっくり走り出す。

無理に何かを話す感じでもなくて、
ただ同じ空間にいるだけの時間。

信号で止まる。
ふと、視線が合う。
手をつないだ。

やっと、ちゃんとつなげた。

「起きてたな」
「寝たくなかった」とは言わずに、頷くだけにした。

また車は動き出した。

疲れているはずなのに、
2人とも帰る空気を出さなかった。

いつものように
コンビニに寄って、また走り出す。

「来年フジロック行けるかな」
「行こや」

自分が止まらない気がした。

「テント要るな」
「やば、楽しそう」




しばらくして、その人の家の近くで車が停まった。
すぐには降りなかった。

また手をつないだ。
少し長く沈黙が続く。


重なるキレイな手を、
ただ、眺めていた。

ーーこれ、現実なんよな?

ふと、そんな事を思った。


「…なんかさ」

それだけ言って、止まってしまった。
うまく言えなかった。

「ん?」
その先を待っているようだった。

一度は飲み込もうとした。

でも、
「私、ちょっとやばいかも…」


「……ごめん、今のなし」
なかったことにしようとした。

その瞬間、
「いや」
小さく止められる。
それだけで、動けなくなった。

つないだ手が、少し引かれた。

何も言わないまま、距離が近づく。

止める理由はあった。
でも、止めなかった。

そのまま、


触れた。


何も言わないまま、距離が戻る。


少しの沈黙。

「……じゃあ、行くわ」
「うん」

ドアを開けて、降りていく。

私も降りて、反対側に回った。
運転席のノブに手をかけたまま、少し止まった。

手が肩に触れた。

そして、また唇を合わせた。


離れたタイミングで、ドアを開けて乗り込んだ。
じっとしていられなかった。

窓を開けると、目線を合わせてくれた。
窓越しに手をつないだ。

「気を付けてな、疲れてるやろし」
「うん」

「着いたら連絡して」
「うん」

手をそっと離して、車を出した。

音楽は、いつもと同じように流れている。
窓の外も、何も変わっていなかった。


なかったことみたいに


昨日のことは、
何もなかったみたいに朝が来ていた。

いつもの平日。
なんとか起きて、いつも通り仕事に行く。

昼休みに携帯を見る。
『起きてる?』
『なんとか』

『今日どうする?』
いつも通り会うことになる。

変わらない事に少しほっとしてしまっていた。
ただ、少しだけ会話が少なかった。

コンビニに寄る。
何を選んでいいか、ちょっと分からなかった。

車に戻って、とりあえず海に向かった。

コーヒーを飲みながら、CDを入れていた。
知らない曲がかかった。
「いいの見つけてさ」
静かに耳を傾ける。

「え、めちゃいい」
「やろ?2曲目もいいで」
ちゃんと好きな系統で、少しだけ笑った。

「これもいけると思う」
そう言って、また新しいCDを出す。

また、初めての曲を聴く。
「…これ、私ちょっと違う」
「いや、ハマるって」
そう言い合って、少しだけ空気がゆるむ。

海の駐車場。
雨でその日は降りなかった。

気づけば、手をつないでいた。


気付いてる、でも何も触れられなかった


また4人でご飯に行くことになった。

店に着くと、すでに2人は座っていた。
「おつかれー」
幼馴染の彼女の隣に座る。

「なんか今日さ、合コンみたいやん」
「あ、初めまして」
いつも通りの空気で、すぐに笑いが起きた。

たまに目が合って、すぐ逸れる。

私たちのことに、二人とも触れてこないのが、
逆に分かりやすかった。

幼馴染が、一瞬だけこっちを見て笑った。
"いい感じやん"
そんな風に受け取れた。

何も言わないまま、また別の話が始まる。

時間はあっという間に過ぎていく。
気づけば、遅い時間になっていた。
「またな」
それだけで終わる。

きっと二人とも分かってた。
そっと、見守ってくれているのがわかった。


明るさにつられて、もう戻らなかった


街まで買い物に出掛けた。

久しぶりのサッカーショップ。
「あった」
「いいやん」
早々にお目当てを見つけて、少し店を回る。

ユニフォームのレプリカを手に取る。
「これ、この前言ってたやつじゃない?」
「あ、そうそう、バレンシア」
「いいなぁ」
「やろ?」
2人で迷って、結局戻した。

色々見たあと、スパイクの前でもう一度止まる。
「どっちの色がいい?」
「こっち」
「そうやな」
あっさり決まる。

店を出ると、まだ賑やかな街が残っていた。

しばらく歩いた時だった。
「ここはいいやろ」
2人の前に出された手のひらに、ちょっと笑う。

そのまま手を重ねた。
迷いはなかった。

特に何も言わないまま、つないで歩く。
服を見たり、CDを見たり、休憩したり。
いつもとは少し違う時間を過ごした。

もう自然に、手をつないで歩いていた。

駐車場に向かう路地裏。
「なあ」
小さく呼ばれる。

「ん?」
続きはなかった。

ふと止まる。
それにつられて、少し遅れて止まる。

手をつないだまま、
距離が少しだけ消えた。


そのまま、
キスをした。


一度離れかけて、また近づいた。


そのあとも、
手はつないだままだった。

また歩き出すだけ。

心臓の音は、
外の空気に紛れていた。


駐車場に着いて、車に乗り込む。
いつもの空間に、少しだけほっとした。

目が合って、お互い少し笑う。
同じことを思っている気がした。

「運転いける?」
「おぅ。行くか」

さっきの感覚だけが、まだ少し肌に残っていた。

街を抜けて、国道を走る。
差し込む夕日が眩しかった。


少し眠ってしまっていたのか、
いつの間にか、知ってる景色に変わっていた。

そっと、横顔を見る。

「寝てたな」
少し笑いながら、そう言った。

バレてた。

「起こしてよ」
「起こさんやろ、買い物付き合わせたし」

付き合わされたとは思っていない。
むしろ、いつもと違う時間が新鮮だった。

「また行こ」
「バレンシア、次は買うか」

「可愛かったけど。着る場面ある?」
「んーフジロックとか?」

「あー被らんくていいかも」
2人で笑った。

「どうする? もう帰る?」
その言葉に
「……まだいける」
気づいたら、そう答えていた。

まだ少し明るい外の景色を眺める。

その日、たまたま家に誰もいなかったらしい。
「ちょっと寄っていい?」
軽い感じで言われて、
断らなかった。

車は、そのまま家の方に向かっていた。


初めて入る家。
少し落ち着かない感じがあった。

しばらくソファで話した後
「上行く?」
そう言って立ち上がっていた。

「…うん」
そのまま後ろをついて行く。

部屋に入ると、
少しだけ空気が変わった気がした。

「へぇー」
「へぇって」
少し笑う。

ベッドにもたれながら、2人でYouTubeを見た。
「うわ、これ、見てた」
「面白かったよなぁ」

どうでもいい動画を見て、くだらないことで笑う。
その空気が、ただ心地よかった。

たまに、
ふっと静かになる瞬間がある。

突然、
すっと肩を寄せられた。

心臓の音が聞こえそうだった。

それに耐えきれなくなって、
そっと顔を見た。

目が合う。

すぐ逸らしてしまった。

それでも距離が縮まる。
頭に、そっと手が添えられた。

唇が、重なった。

動かなかった。

少しだけ、離れる。

今度は私から近づいた。

さっきよりも、少しだけ濃かった。



止める理由を、
もう考えていなかった。

そのまま、時間だけが過ぎていく。

流れていた動画の音だけが、
遠くで聞こえていた。



気づけば、かなり時間が過ぎていた。

髪を直しながら、ベッドに座る。


「……てかさ」
ふっと、笑う気配がした。

「ちょっと、も一回」
また距離が近づく。

もう一度キスした。
少し長めに。

離れてから、小さく笑う。
「……やば」

「え?」
思わず聞き返す。

「なんか……」
言葉が出てこないまま、少し笑って、
「やめられんくなる」

その言い方がおかしくて、笑ってしまった。

「……それさ、慣れてるやつやん」
「いや、違う…ことはないか」

「あ、認めた」
「でも今はここにおるやん」

そう言いながら、また距離を詰めてきた。
一緒にベッドに倒れ込んだ。

冗談なのか、本気なのか、上手いだけなのか。
でも、どれでもよかった。

「ずるいって」
「キスうまいのもずるいやん」

「知らんし」
「お互い様やな」

そうやって、離れないまま言い合っていた。

「てか、そのうち妹帰ってくるかも」
「え、早く言うてよ」

慌てて身体を起こして、階段を降りる。
気づいたら、少し走っていた。

「キスのせいやで」
「なんでそうなるん」

なんだかおかしくて、2人で笑った。

車に乗り込んで、そのまま走り出した。



第三章


変わらないままでいようと


次の日。
何もなかったみたいに、朝が来た。

職場で忙しくしている方が楽だった。

ふと、携帯を見る。
『ちゃんと起きれた?』
あの人から、そんな連絡が来ていた。

思わず少し笑う。
『起きたよー 仕事中!』
そう返す。

『失礼!』
いつもと変わらないやり取りだった。

そのやりとりを見返していた休憩中、
彼氏からのメッセージが届く。

『今から外回り』
『そっか、気を付けて!』

普通に返しているのに、どこか上の空だった。

帰り道、
彼氏から電話がかかってくる。

「おつかれー今日どうやった?」
「まぁいつも通り、忙しかった」
彼氏の声は、相変わらず優しかった。

何気ない会話。

「また日決めよ」
「うん、そやな」
電話を切ったあと、しばらくそのまま動けなかった。

何も知らない彼の優しさが、
今の私には一番の毒だった。
それが、ちゃんと苦しかった。


もう、気づかれてもいい


あの日から数日が経っていた。

仕事が終わる頃、連絡が来る。
『今日行くやろ?』
『うん』

その日は、みんなで夜景を見に行くことになっていた。

大きな車に乗り込むと、
そこはいつも通りの空気が流れている。

2時間程走って、夜景スポットに着く。
さすがに風が冷たかった。

「めっちゃ綺麗やな」
冬の夜景は、本当に見惚れる景色だった。

海まで続く都会の夜景を、
ただただ、ずっと見ていた。

ふとしたタイミングで、目が合いそうになった。
知らないふりをして、また視線を戻す。

夜景は、何も知らないまま綺麗だった。

帰りの車の中。
2列目の席で、たまたま隣になった。

夜景の余韻のまま、ぼんやり外を見ていた。

山道のカーブで、
肩が少しだけ触れた。

そのまま、
膝にかけた上着の下で、手を探した。
すぐに、手が重なった。

多分、周りは気づいていない。

何も言わずに、ぎゅっと握った。
すぐに、ぎゅっと握り返してきた。

視線だけは変えなかった。

会話は楽しく続いていた。


帰ったら通知が来ていた。
『スリルあったな』
『かなり』
『あの夜景、また行かなな』

気づかれているかどうかなんて、
もう、どうでもよくなっていた。

ただ、まだ言葉にはできなかった。


どうしても言えなかった、でも知ってた


その日、久しぶりに友達と2人で会った。

「最近どうなん?」
ふと、そう聞かれる。

「んー」
少し迷う。

「…進んだやろ?」
軽いトーンだった。

言葉が出てこなかった。
「……うん、ちょっとやばい」
小さく、それだけ言った。

「やろな」
「え、わかる?」
「わかるよ、めちゃ仲良いやん」

何もないふりは、通用していなかった。

「彼氏は?」
その一言で、少しだけ視線を落とす。
「もう言おうと思ってる」
「そっか」

「まぁでも、正直びっくりした」
少しだけ笑いながら続ける。

「え?」
「だって、そういうタイプちゃうやん」
軽く言われたその言葉が、思ったより刺さる。

――そう、こんなはずじゃなかった。
自分でも忘れかけていた気がした。

「でも」
少し笑う。

「ああいう人って、引っ張るんやろな」
何も返せなかった。

「……ていうか、向こうも彼女おるよな?」
少しだけ空気が止まる。

「…うん」
小さく返す。

少しだけ間があく。

「お互い遠距離ってことやんな?」
「そう」

友達が小さく何度も頷く。
「……それ大きいなぁ」

責めるでもなく、納得するみたいな言い方だった。

「でも、あの人気ぃつけや?」
少し声を抑えて言った。
「なんか、女に慣れてそうやし」

冗談っぽい言い方やのに、
少しだけ本気で心配してるのが分かった。

「うん、わかってるんやけど…もう遅いかも」

「あー…」

「自分でもちょっとやばい」

「まぁでも、楽しそうではある」
そう言って笑う。

「趣味似てるってやっぱでかいな」

私も、少しだけ笑った。
それ以上は、何も聞かれなかった。

全部は言っていないのに、
もう隠しきれていなかった。

分かってはいた。
あかんことしてるってこと。
気を付けなあかん相手やってことも。

それでも、まだ、
今を楽しんでいたかった。


関係に名前がつく前に


その日はフットサルについて行った。

「おつかれー」
「おー久々」

高校時代のサッカー部で、たまに集まっているらしい。
少しだけ、いつもと違う場所にいる気がした。

「ナイスー!」
「それは無理やって!」

声を出して笑っている姿が、
いつもと少し違って見える。

休憩に戻ってきた。
「寒ない?」
そう言いながら、コーヒーを渡される。

「ありがと」
自然すぎて、逆に少し困る。

一口だけ飲んで、またすぐに戻って行った。

そのやり取りを見ていた誰かが笑う。
「付き合ってるん?」
「いやいや」
「え、違うん」
笑って返した。

誰も深くは触れない。
また別の話が始まる。


帰りの車。
「どう?まだ動きいけてたやろ?」
「いけてたいけてた」

汗をかいたからと、そのまま家に行く流れになった。
それももう、珍しくはなかった。

「さっきさ、付き合ってるん?って言われてたやろ」
「うん」
「なんて言ったん?」
「いやいやって」
少し笑う。

信号で車が止まる。

「まぁ、見えるよな」
同時に手が重なる。

深読みしてしまいそうだった。
離れないまま、また車が走り出す。

考えるのをやめた。


部屋について、
シャワーの準備をしながら、ふと言った。

「そういえば、サッカーいつにする?」
「私、磐田行きたい」
「え、ちょっと遠ない?」
隣で普通に笑っている。

「ちょっと待ってて」
部屋で1人になる。

ふと、思う。
——ほんまにこれ、このままでええんかな

携帯を見て、また閉じる。

画面の向こうにある名前を見て、
少しだけ、息が詰まった。

深呼吸をひとつして、
そのまま部屋で過ごした。


本音を話せた夜


幼馴染からの連絡。
『ちょっと行かへん?』
2人でご飯に行った。

「あいつと、どうなん?」
聞かれることはわかっていた。
それでも、一瞬だけ止まる。

「んー」
「いや、もう分かるって」
「やばい?」
「やばいっていうか」

少し笑ってから、
「普通に、2人いいと思う」

少しホッとする。
「そう思ってくれてたよな」
「最初からな」
あっさり返される。

「なんかさ」
言葉を探す。

「合いすぎて、色々」
「……うん」

「楽やし、楽しいし」
そこまではよかった。

「でも逆に、違うとこが見えるとめっちゃ落ち込む」

少し笑って
「それは好きやからやろ」
軽く言われて、何も返せなかった。

「まぁ、あいつ、うまいとこあるからな」
「それは分かる」

笑ったのに、ちゃんと笑えてなかった。

「分かってるのに、楽しくなってるのが痛い」
小さくそうこぼす。

「彼氏は?」
「……別れるつもり」

しばらく黙ってから、
「あいつも多分そうなると思うで」

ーそっか。

「でもな」
幼馴染は頷きながら、静かに聞いてくれた。

「ずっとはしんどいから…」

「今だけ楽しみたいだけなんよ」
続けて話した。

「無理してるから…」

「そのうちしんどくなるの、わかってる」
言ったあとで、自分でも少し苦しくなった。

「そうなん」
「そう」
確かめるように言った。

少しの間があって
「今だけなんかなあ」
幼馴染が、腕を組みながら言った。

「うん、その先はない…なぁ」

私の顔をじっと見つめたまま、幼馴染が呟く。
「無理せんでもいいのに」

「無理しな置いてかれるもん」

幼馴染は、まだ何か考えていた。

「ま、今は楽しいから」
そう言って、少しだけ笑った。

そして、黙った。


会わない日


その日は、半年に一度の同期会の日だった。

『今日どうする?』
いつもの連絡。

『ごめん、今日同期会の日』
『あ、今日やったか』

珍しく断った。

『飲み過ぎ注意な』
『はーい』

恋人よりも、恋人みたいなやりとり。


夕方になって、電車で向かった。

「久しぶり」
「おつかれー」
「これでみんな?」
駅で集まって予約した店に向かう。

同期はバラバラに配属されていて、
仕事で会うことはほとんどない。
近況報告も含めて
この同期会をみんな楽しみにしていた。

その日は10人。
いつものように話が尽きない中で
ある同期の視線が、なぜか少しだけ気になった。

ーー思い違いかな

2件目も3件目も、
誰も帰ることなく最後まで楽しんだ。


会えない日


その日、彼氏とやりとりをしていた。
次に会う日の約束。

その最中に
その人から通知が来た。
『ごめん、今日連絡少なめでお願い』

スマホを持つ手が止まった。

『なんで?』
打ちかけて、やめる。

そのあと、もう一つ届いた。
『彼女が来る』
それだけだった。

一瞬だけ、画面を見たまま止まる。

動揺した。
1人なのになんともないふりをした。

『そっか』
それだけ返す。

既読がつく。

『また連絡する』
それで終わった。

携帯を閉じる。
音が少ない部屋がやけに気になった。

別に驚いたわけじゃない。
でも、
"ちゃんと分かってなかったこと"が
今になって追いかけてくる感じがした。


夕方になって、
何もすることがないまま、スマホをまた開く。

何も来てない。

当たり前やのに、
それが少しだけ引っかかった。

家にいるのが落ち着かなくて、なんとなく外に出た。

気づいたら、
タワーレコードに入っていた。

棚を眺める。
どのアルバムを見ても、どこかであの人と繋がってる気がした。

ふと、視線を上げた瞬間、
ーーもし、ここで会ったらどうしよう
そんな考えが急にリアルになって、胸の奥が少しだけざわついた。

気づいたら、何も選ばずに早足で店を出ていた。

外に出た瞬間、
少しだけ息が軽くなる。

歩きながら、
さっきの自分を笑いそうになった。


始まりか、始まってもないのに終わりか


あの日は長く感じた。
でも、過ぎてしまえば、また元通りだった。

『今日いける?』
仕事終わりに会って、ご飯に行って、
そのまま一緒に過ごす。

普通の流れだった。

帰り道、いつものように車に乗る。
何も言わないまま、音楽だけが流れている。

「話終わったらさ」
ふと、そう言う。

「俺から言うことあるから」
少しだけ間があく。

「…ちょっと待ってて」

何も聞かなかった。
聞けなかった、の方が近かった。

しばらくして、車が止まる。
どちらもすぐには動かなかった。

「…じゃあ、またな」
ドアを開けて、外に出る。
振り返らなかった。

始まりなのか。
始まってもないのに終わりなのか。

それが、ずっと頭から離れなかった。


ちゃんとしてる人


そのあとも、やり取りは続いていた。

彼氏との連絡も、いつも通り。
『今、電話いける?』
少しだけ画面を見たまま止まる。

『うん』
すぐに電話がかかってくる。

「おつかれ」
その声も、いつも通りだった。
「今日仕事どうやった?」
「今日はまだ落ち着いてたかな」

ちゃんと返しているはずなのに、
どこかだけズレていた。

「なんかさ」
少しだけ間があく。

「どうしたん?」
優しい声だった。

「…いや、でもやっぱ疲れたなと思って」
思ったことと違うことを言った。

少しだけ沈黙が流れる。

「無理してない?」
その一言に、少しだけ息が詰まる。

「うん、大丈夫」
嘘ではなかった。
でも、本当でもなかった。

「じゃあ」
「うん、また」

電話が切れる。
しばらく、そのまま動けなかった。

視界が、少しだけ滲んだ。

ちゃんとしてる人で、もう長く付き合っていた。
それでも今は、
ちゃんとしてる方を選べない自分がいる。

あの人と結婚はないって、思ってる。
いつか終わりが来ることも、全部わかってる。

でも、その“ちゃんとしてる未来”より、
今の方が軽くて、楽で、戻れなかった。


終わりにした


その日、彼氏と大阪で会っていた。

いつもと同じ場所で、同じように会う。

「久しぶりやな」
「うん」

ご飯を食べて、他愛もない話をする。
何気ない時間を過ごした。

帰り道、街を少しだけ歩く。
自然と視界が滲んだ。

「どうしたん?」
ふと、そう聞かれる。

少しだけ間があく。

「……ごめん」
小さくそう言った。

「え?」
戸惑った声。

「ごめん」
うまく言葉にならなかった。
「ちょっと…もう…」

少しの沈黙。
「……何かあった?」
小さく、そう聞かれる。

何か言おうとして、やめた。

「ごめん」
それしか出てこなかった。

少しだけ視線を落とす。
「そっか」
小さく、そう返ってくる。

責めるでもなく、
引き止めるでもなく、
ただ受け止める声だった。

それが、余計に苦しかった。

しばらく何も言わないまま、時間だけが流れる。

そして、
「わかった」それだけだった。

「またな」は、もうなかった。


その日は1人で帰った


彼氏に、さよならを言った後。
大阪の街を、一人で歩いていた。
色々混ざっていた感情は、人の多さに紛れていた。

どこにも寄らずに、車に乗る。
ドアを閉めると、少しだけ現実に戻る感じがした。

視界が滲む。

ただただ、わがままを通してしまった。
その重さに、しばらく動けなかった。

そのまま時間だけが過ぎた。


一口、コーヒーを飲んで、シートベルトを締めた。

そのとき、携帯が震えた。
あの人からだった。
『なにしてる?』

その文字を見つめた。
『今、あの駐車場』

少し間があって、返事が来る。
『まじで』『俺も大阪』

一瞬、手が止まる。

『さっきまで会ってた』
その一言で、なんとなくわかった。

『そっか』

いつもと同じような、短い会話。

『私も』
『そうなんや』

少し間が空いた。

『一緒に帰らん?』
画面を見たまま、止まる。

でも、
『今日はやめとく』
そう送った。

『わかった』
それ以上は、続かなかった。

また一口、コーヒーを飲む。

今日だけは、
一人で帰った。


思ってたより、ちゃんと辛かった 


次の日からまた、日常に戻った。

仕事に行って、帰って、また次の日が来る。
変わらない毎日。

ふとした瞬間に、思い出す。

あの人じゃなくて、
あっちのことだった。

電話の声とか、
何気ない会話とか、
「おつかれ」って電話で言われたこととか。

会って終わりにしたはずなのに、
なぜか、残っていた。

でも、戻ろうとは思わなかった。
ただ、思ってたより、ちゃんと辛かった。

私の勝手な思いを、
受け入れてくれた優しい人だった。

あとから、あとから、それだけが残った。

後から気づくなんて、
あまりにもありきたりで、ダサい。

それでも、ちゃんと痛かった。



第四章


仲直りするみたいに、海に行った


夜、久しぶりに会うことになった。

『空いてる?』
『いけるよ』

久しぶりの短いやりとり。

家の近くまで、迎えに来てもらっていた。

なぜか身支度に時間がかかって、
慌てて家を飛び出した。

友達と散歩中の親とすれ違う。
「あ、さっきそこで待ってたよ、彼氏?」
友達のおばさんに聞かれた。

「あー、そんな感じ…かな」
笑って誤魔化した。

「若いのはいいなぁ」
冷やかされながら、通り過ぎた。


その先で、
スマホを片手に車にもたれかけて、待っていた。

やけに絵になる姿に、
最初に会った日のことを、少し思い出した。

「ごめんごめん」
「おぅ」

「さっきの、親と友達」
「まじで、今から行けるん?」
「いけるいける、行こ」
少し笑って、そのまま車に乗り込む。

「海行こか」

久しぶりと言っても、1週間ぶり。
それでも、私たちには久しぶりだった。

お互い別れてから、初めて。

さっきのやりとりで、
少しだけ空気が和らいでいた。

コンビニでホットコーヒーを買う。

夜の海は静かで、
何も変わっていなかった。

並んで歩く。
「寒ない?」
「ちょっと寒い」
そう言って、手をつないだ。

そのままポケットに入る。
前と同じやのに、少しだけ遅れて馴染む感じがした。

波の音だけが続いていた。

しばらくして、2人で座る。
海を見ていた。

「やっぱ寒い」
少し寄った。

ジャケットごと腕が回ってきた。
その中の温度が、嬉しかった。

何も話さないまま、時間だけが流れる。

「キスしていい?」
初めて聞かれた。

「え…、なんで…」
「なんか…、初めましてかなって」

少しだけ間があって、
気づいたらもう、

触れていた。

離れて言った。
「これやわ」

小さく笑う。
「初めましてじゃなかった」

「…はいはい。で、明日はどうする?」

そのまま、夜は続いていった。


未来の話をしていた


気づけば、また普通に戻っていた。

その日は、旅行に行く計画を立てていた。
前から、「いつか行こな」って話していた。
やっと現実になりそうだった。

「都会じゃなくて、自然の方がいい」
「じゃあ、やっぱ車か」

「長野よくない?軽井沢とか」
「いいやん」

「箱根もいいしなぁ」
「露天付きな」
「…さすがに気まずい」

そんな話でずっと笑っていた。

行きたい場所だけが増えていく。
それだけで盛り上がりすぎて
気づけば、遅い時間になっていた。

「また、決めよ」
結局、その日は具体的には決まらなかった。

帰ってからも、まだ少し浮かれていた。

口約束だけの未来なのに、
前より近づいている気がしていた。


静かになったあと…


その日は、みんなで幼馴染の家に集まっていた。

「もうこのままおるやろ?」
「そのつもりしてた」

残った4人で、リビングのこたつで過ごした。

しばらくして、
「俺も眠い」
「私もちょっと寝よかな」
一人、また一人と眠っていく。

気づけば、みんな寝ていた。

横になったまま、1人テレビを見ていた。
音だけが小さく流れている。


「眠くないん?」
小さな声が後ろから聞こえた。

「なんか目冴えてて」
同じくらいの声で返した。

誰かが動く音が遠くでして、一瞬だけ息が止まる。またすぐに静かになった。

こたつ布団の下で、背中にそっと手が当たった。
振り向くと、すぐに目が合った。

こたつの中で、手がつながる。
その手が引かれた。

"無理"
口を動かした。

"いける"
そんな動きだった。

今度は首を横に振った。

それでも、近づいた。
音も立てられないまま、距離が詰まっていた。

唇が重なった。

どこかで物音がして、
反射的に距離を戻す。

手だけが、まだつながったままだった。

テレビの音が戻る。

少しして、手をギュッとされた。
握り返す。

何度か繰り返して、振り返ると、
「これスリルあるな」
小さく言った。

後ろから、腕が回る。
心臓の音がうるさかった。


雨のせいにして、知らない道を進んだ


何気なく買い物をしていた。
CDを探したり、服を見たり。
特に目的もなく、ただ歩いていた。

大きなスポーツ用品店を通りかかった。
「そうや、フジロックのテント」
「あ、ホントや」
キャンプのコーナーを見て回る。

「これくらいでいいよな」
「寝れたらいいもんな」
目星だけ付けて、その日は買わなかった。


キャッチボールのコーナーがあった。
「やろや」
「いいよ」

「グローブとか付けるの久々」
「そうやな」

ネットの中に入って、
近い距離から、投げ合う。

「お、いいやん」
「うまい?」
「野球もいけるなぁ」

思ったより普通に続くのが、ちょっとおかしかった。
しばらく投げてからグローブを置いた。

「これ楽しいなぁ」
「いいフォームしてたで」
「誰なん」
笑いながら、また歩き出す。

自然と手をつないでいた。

テニスのコーナーを通りかかった。
「俺、テニス始めたいんよな」
「そうなん?」

「いつまでもできそうやん」
「あー、サッカーはそろそろキツイもんなぁ」
「まだいけてるて」
「いけてたな」

笑いながら、ラケットを手に取る。
軽く振ってみると、思ったよりしっくりきた。

2人で、打つフリをする。
「え、買う?」
「やる?」
「やろ」
勢いで、ラケットとボールを買った。

そのままテニスコートに行こうと外に出ると、
雨が降っていた。

「またやな」
「そやな」

その日は、買ったラケットを使えなかった。


少し早めにごはんを食べて、車に向かった。
さっき買ったラケットを
傘がわりにして2人で走った。

「どうしよ」
「雨やしなぁ」

まだ帰る空気では、なかった。

行き先が決まらないまま、車だけが進む。
いつもの海も、星の公園も、その日は諦めた。


「行ったことないとこ行こか。」
ふと、その人が言った。

「たとえば?」
「いや、知らん道」
よくわからないまま、ハンドルは少しだけ迷う。

それでも、とりあえず知らない方へ進んだ。

山の方まで来ていた。

「そこ左入ってみよ」
「これ?やばそうじゃない?」
「行ってみよ」

細い道に入ると、街灯も少なくなっていく。

そのまま抜けた先の小高い場所に、
茶畑があった。

一瞬、言葉が止まる。

「畑かよ」
「茶畑で何するん」
2人とも、すぐに笑った。

どうしようもなく、くだらない時間だった。
そういう時間が、最高に愛おしかった。

ひとしきり笑って、やっと落ち着いた。
「帰り方わかるかな?」
「代わるわ」

雨がまだ降っていた。
車の中で交代しようとしていた。

その時、肩を軽く抑えられた。

驚く間もなく、
そのまま唇が重なった。

軽いやつ。

すぐ後に、もう一度。

今度は少しだけ長く。

運転席のシートが倒されて、
そのまま2人で倒れ込んだ。
「ちょ、」
言いかけたのに、言葉にならなかった。

おかしくて、また少し笑ってしまう。
それでも、距離は戻らなかった。

首元に、ゆっくり唇が触れる。

雨の音と、音楽だけが残る。

周りには誰もいないはずなのに、
変な緊張感があった。


しばらく、そのまま抱き合っていた。
何も考えない時間だった。

気づけば、時間の感覚も少し曖昧になっていた。


少しすると、
その人はそのまま目を閉じていた。

起こすでもなく、
そのまま腕の中にいた。

私の腕が、
その人の頭を包んだまま。
少しだけ静かで、動けない時間だった。

好きな曲が流れる。
【I’m Not Afraid When I’m With You】

距離が近すぎて、迷ったけど、
少しだけ口ずさむ。

ーーやっぱりこの曲、可愛くて好き

そう思った瞬間、
「声、やば」
顔を上げて、そう言った。

また唇が重なる。

このまま時間が止まればいいのに、と思った。


しばらくして、
体を起こそうとした時、クラクションが鳴った。
「ちょっと」
「びっくりした」
2人で笑う。

「そりゃ、こっちはあかんよな」
笑ったまま、でも、近づく。

そのまま、今度は助手席で抱き合っていた。

髪に触れる彼の手が、心地よかった。
「なぁ」
ポツリと言われた。
「今日、帰らんでもいいよな?」

ずるい。
本当にずるい人。

そう思いながらも、
私は何も言えずに、ただ彼の胸に顔を埋めた。


その人の香水の香りが、その時は濃く感じた。
いつの間にか、私の好きな香りになっていた。

強くなる雨の音に、いつもの曲が少し紛れていた。

ふと時計を見る。
思っていたより時間が経っていた。
身体を起こした。

「茶畑は違うかも」
「思ってた」

場所だけ移動した。


関係は変わらないまま、重なる記憶 


いい天気。
音楽だけが流れている。

信号で止まる。
窓の外を見ていた。
「前ここ通ったときさ」
ふと、そう言う。

「窓開けて名前叫んだやん」
「私もそれ今思ってた」
思い出して笑う。

「あれ、気持ちよかったわ」
「ほんとにすると思わんかったし」
「するやろ」
そう言って笑った。

「またやろかな」
「昼はあかんって」
ーそういうとこやった。

また流星群を見に行った、夜のドライブだった。
「あの時は流星群、一個だけやったな」
「一回目はめちゃ見れたのにな」
それだけで、少し空気がゆるむ。

「なんか懐かし」

全部がちゃんとした思い出じゃないのに、どれも残っている。

その人も、遠くを見ながら言った。
「色々やってるなぁ」
しばらく、音だけが戻る。

楽しいことは重なっていく。

テニスも一度だけした。
全くラリーが続かなくて、習いに行こうと話していた。

京都にも行ったし、
伊勢神宮にも行った。
和歌山までラーメンを食べに行った日もあった。

遠出の時は、交代で運転をする。
助手席で眠る事もあった。

朝まで過ごすそういう距離感も、
当たり前になっていた。

でもどこかで、嫌われないように、終わらないように、無理もしてた。

思い出が増えるほど、カウントダウンが進んでいく気がした。

好きすぎるというより、
離れ方が分からなかった。

関係に名前がつかない心地よさと、
名前がついてほしいという焦りが、
入り混じっていた。


普通なら


金沢に赴任してる同期がいた。

大学が同じだった事もあって、
他の同期より少し距離が近かった。

普段にも、たまに連絡が来る。
『そっちは最近どう?』
『忙しくて、毎日あっという間』
そんな、やり取り。
ほとんどが仕事の話だった。

電話で話すことも増えていた。
「そいつ、やめといた方がいい気がする」
そう言われたこともあった。

ある金曜日の休憩中。
『今日行っていい?』
冗談かと思った。

『金沢じゃないん?』
『今日なら行けるから』
そう、普通に返ってきた。

もう一つ。
『心配やし』

そして、その日の夜、本当に来た。
片道5時間。
忙しいはずやのに、定時で切り上げて、そのまま。

遅めのご飯を食べて、
少し話して帰っていった。

こういう人と一緒におる方が、幸せなんやと思った。

ちゃんと考えてくれて、
ちゃんと会いに来てくれる。

その"ちゃんと"が、
今の私には少しだけ重くて、眩しすぎた。

手を振った後の、静かな夜。

そんな時でも、帰り道で思い出すのは、
振り回されても、どうしても抜け出せなかった、
あの人の方だった。


会うことは変わらない、でも…


その日も、仕事終わりに合流した。
「どこ行く?」
「んーどうしよ」

少し考えてから
「星行くのは?」
「いいやん、行こ」
いつもの山の公園に向かった。

手をつないで、ベンチまで登る。
また温泉の話をしていた。

ふと、目が合う。
少し笑ってしまった。
「え?」
「ううん」

そのまま近づいた。
「…これやわ」
半分笑いながら、そう言った。

でも、今の私にはそれが、
答えをはぐらかしたみたいに聞こえた。

「もう、セリフやん」
笑って誤魔化したのは、私の方だった。

何も変わらないまま、
それが増えていくのが、少し怖かった。

肩に寄りかかった。
何も言わずに、腕を回してくれた。

体温を感じる。
今までならほっとしていた。

会えば楽しいのは、変わらなかった。
でも、
ただ会うだけの時間が、少し辛くなっていた。


また別の日、昼から一緒にいた。

ご飯を食べて、買い物をして、笑って。

歩いているとき、
何も言わずに手がつながる。
つながない方が不思議だった。

過ごしている時間は、ちゃんと楽しかった。
今までと同じ。そう信じていた。



「そろそろ行こかな」
店の近くまで送って行った。

「ありがとう、また連絡するわ」
そう言って、軽く手を振って降りていく。


車の中が急に静かになる。
いつもの音楽だけが、流れていた。

まだ明るさが残る時間。
気づけば、1人、海に向かっていた。

思ったよりもしんどかった。
あの人は、私の知らない別の場所で
きっと楽しんでいる。

そう思った瞬間、視界がにじんだ。
涙が落ちる。

わかっていたはずだった。
でも、実際にその距離を感じるには、
まだ早かった。
悔しさが溢れた。

ーーまだしたい事いっぱいあるのに。無理かも。


次の日、仕事終わりにいつも通り連絡が来た。
『今日どうする?』

その一言を見て、少しだけ止まる。

返事をしてしまえば、
また会う流れになるのは、分かっていた。

でも、断るのも怖かった。

結局、昨日のことには、触れないまま。
ただ、一緒にいるだけ。
手はつながなかった。

どちらも、気づかないふりをしていた。

そのまま、普通に別れた。


部屋に着くと通知が来ていた。
金沢の同期だった。

『お疲れ様 来週また会いに行きたい』

手が止まった。
涙が落ちる。
ただ、動けなかった。


だんだんと
"友達と会う"
"今日は無理やわ"
そういう日が、増えていく。

連絡を待つのも、
連絡をするのも、
少し怖くなっていた。

たまに会っても、
行き先がなかなか決まらなかった。

「サッカーいつにする?」
「そうやなぁ」
それ以上、話は進まなかった。

帰る時間も、少しずつ早くなっていった。

気づいてた。
もう前とは、違うこと。

そして、その夜に向かっていった。


そして、そうなってしまった


まだ、会ってはいた。
ご飯を食べて、車に戻る。

同じように笑ってはいたけど、ちゃんと笑えていたかどうかは、わからなかった。

家の近くの公園で、車を停めた。

音楽だけが流れる車の中で、
沈黙が少しずつ増えていく。

ふと、横で声がした。
「ちゃんと言うわ」

一瞬、意味が分からなかった。
でも、そのすぐ後、覚悟を決めた。

少し間があって、続く。
「このままは、…違うかなって」

ーーこっちやんな

前から分かっていた。
気づかないふりをしてただけ。

信じたくない気持ちと
そうやんな、って気持ちと
両方だった。

沈黙を破って話した。
「一回だけさ」

声を振り絞った。
「ちゃんとした関係になりたかった」

……やっと言えた。

「…うん。そやんな」


もう一度、振り絞った。
「どこでタイミング…ミスったんかな」


ずっと一緒に聴いていた音楽が、続いている。


「その前に、楽しくなり過ぎたよな」

胸が詰まった。


沈黙が続く。

言葉が出ない私を
見守るように続ける。

「ほんまに、楽しかった」

「こんな合う女…、女っていうか男でもおらんと思う」

涙をぬぐいながら、頷いた。

「キスも…やばかったしな」

最後まで、ズルい。
でも、その空気に助けられて、涙と一緒に笑った。


責めるでもなく、
軽くするためでもなく、
ただ、
終わりをやさしく置いていくみたいな言葉やった。

もう本当に終わってしまう怖さと
戦っていた。


終わり方が分からない私に、
手を出してくれた。

いつもなら、
横からつないでいた手。

その時だけは、握手にした。


「じゃあ…」
そう言って、降りていく。
頷くことしかできなかった。


"俺から言うこと"は
付き合う言葉じゃなくて、
終わりの言葉になっていた。

その人の香水の匂いだけが、残ったままだった。



第五章


もう少しだけ…


あの日から、連絡はしていない。

自分から好きになったのが、
初めてだった。

自分でも驚くほど、楽しかった。
だから余計に、抜けなかった。

寂しさも共通点もスリルも、
お互い相手と別れてから、
全部が少しずつズレていった気がした。

色んな場所には行った。
でも、
フジロックも、神戸の夜景も、サッカー観戦も、温泉旅行も、「いつか行こな」のまま終わっていた。

もし叶っていたら、
納得できたのかどうかは分からない。

それでも、もう少し
一緒に過ごしていたかっただけやった。
"彼女"って、一度くらい呼ばれてみたかった。

でも、出会わなければよかったという風には、
1ミリも思えなかった。


ユーモアがあって、
距離感もうまくて、
私が喜ぶことをよく知っていた。

ズルくて、うまくて、
でも、わかってそれを楽しんでたのも事実。


ちゃんと忘れられるような恋じゃなかった。


甘えてしまえば、楽だった。でもまだ…


金沢の同期が、
また5時間かけて来てくれた。

遅めのご飯を食べていた。
カウンターの席。

視界が少しぼやけて、
グラスを持つ手が止まった。

気がついたら、テーブルの上で、
私の手が彼の大きな手に包まれていた。

張り詰めていた何かが切れそうで、
そのまま甘えてしまいたくなった。

そうしてしまえば、
楽になれるのは分かっていた。

でも、握られた手のひらの中で、
なぜかあの人と繋いでいた時の、
少し冷たくて、でも愛おしかった手の感覚が、
ふと蘇る。

何も言えなくて、
そのまま黙ってしまった。

彼は少しだけ笑って、
「ごめんごめん、困らせたいわけじゃなくて」

どこまでも真っ直ぐで、優しい言葉。

彼が軽く頭を撫でた。
「考えすぎんなよ」

優しく笑っていた。

ズルい私を、
彼はそのまま包み込んでくれた。


帰って1人になると
またあの人の存在が邪魔をする。

それでも、髪に触れられた感覚だけが
ほんの少し残っていた。


その二週間後、半年ぶりにまた同期会があった。

みんなで会った後
2人で少し歩いた。

「…ごめん」

こんなに真っ直ぐ向き合ってくれてるのに、
どうしても、前に進めなかった。

彼は少し黙って
「了解」って笑った。

「じゃあ、また半年後やな」
最後まで優しかった。

駅までの帰り道、
夜風が少し冷たかった。

あの人のことを思い出したわけじゃない。

でも、
まだ完全には終われていないことだけは、
分かってしまった。

自分が、信じられないくらい愚かな人間に思えた。


言葉にしたら、抜けられる気がした


もう連絡はない。
なのに、思い出すタイミングだけは、たくさんあった。

毎日のように会っていた分、
2人で行った場所も多かった。

趣味が似ていた分、
家でテレビを見ている時でさえ、ふと思い出した。

私だけが置いて行かれた気分だった。

続かないとわかっていたのに、
しんどくなるのも知っていたのに、
あの時は、止められなかった。

終わったはずなのに、
日常のあちこちに、まだその人が残っている。

どっぷりハマってしまった分、
簡単には抜けなかった。


だんだんと、みんなで集まることも減っていた。
久しぶりに、幼馴染と会った。

当然、あの人の話になった。
「やっぱやられたわ」
自分でも笑ってしまうくらい、抜けていなかった。

「なんか…、大丈夫かなって」
「もう、いっぱい泣いたから大丈夫」

幼馴染は少し黙ってから、
「あいつ、ほんま…」
そう申し訳なさそうにしている。

それに少し笑ってしまった。

「楽し過ぎたから…」
少し泣きそうになったのを、堪えた。

「なかなか抜けんくてさ」
「そうやんな」

「でも、私もずっとはキツかったし」
「言ってたなぁ」

「向こうのがちょっと早かったってだけ」
幼馴染が、
少し落ち込んでいるように見えた。

「でも、本当」
声をワントーン上げて話した。

「出会わせてくれて、ありがとう」
「あれは、たまたまやけどな」

「でも、その後もずっと気にかけてくれたやん」
優しく笑っていた。

「大恋愛したよ」

今思えば、
ちゃんとした関係じゃなかったのかもしれない。

それでも、あの時間は本物やった。

苦しくて、ボロボロで、世界で一番幸せな恋だった。

言葉にして、
やっと少し抜けられる気がした。


大切な1ページ


あの夏の匂いは

まだたまに思い出す。

ただそれだけ。

それでいいと思えた。

私の中の、
大切な1ページ。


終わり




この物語を書きながら、
実際によく聴いていた曲をまとめています。

よければこちらも。


そして、その後の人生はこちら





いつか、ドラマ化することを、夢見ています

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