光の海から #1「海のささやき」
一、珊瑚の森のかくれんぼ
翌朝。
珊瑚の森に、
朝の光がゆっくり差し込み始めた頃。
遠くから、
楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
次の瞬間、
灰青色の尾ひれが、
光の粒を散らしながら、
一直線にこちらへ飛び込んできた。
「レアー!」
パニーだった。
「ねえ、かくれんぼしよ!」
「今?」
「今!」
パニーはもう、珊瑚の森の奥へ泳いでいた。
レアは思わず笑って、後を追った。
珊瑚の森は、かくれんぼにちょうどよかった。
大きな珊瑚の陰に隠れると、
光の粒が体の周りに舞って、
見つかりそうで見つからない。
「パニー、どこ?」
返事はなかった。
でも気配はわかった。
レムリアでは、心が近ければ、
どこにいてもわかる。
——こっちだよ。
パニーの心の声が、くすくす笑っていた。
——わかってるよ。
レアは心で答えながら、
わざとゆっくり泳いだ。
大きな紫の珊瑚の陰から、
パニーが飛び出してきた。
「見つかった!」
「わざと遅くしてたんだよ」
「嘘だ!」
「本当だよ」
「嘘だってば!」
二人は笑いながら、
珊瑚の森を泳ぎ回った。
光る魚が驚いて、
一斉に散った。
虹色の鱗が、四方八方に弾けた。
「きれい!」
パニーが叫んだ。
「きれい!」
レアも叫んだ。
誰に見せるわけでもなかった。
何かのためでもなかった。
ただ、きれいだったから、叫んだ。
それだけで、十分だった。
しばらく泳いで、
二人は珊瑚の森の浅い場所へ出た。
そこには、小さな白い貝殻が、
砂の上にたくさん散らばっていた。
月の欠片みたいに、
柔らかく光っていた。
「見て!」
パニーが嬉しそうに潜った。
両手いっぱいに、貝殻を抱えて戻ってくる。
「また集めてるの?」
レアが笑うと、
「またって何!」
とパニーが頬を膨らませた。
「だって、かわいいでしよ」
そう言って、
白い貝殻を一つ、
光に透かして見せる。
薄くて、小さくて、
虹色の筋が入っていた。
「これ、海の音がするんだよ」
「全部するよ」
「違うの!これは特別!」
パニーは真剣だった。
レアは笑いながら、
砂の上に腰を下ろした。
するとパニーは、
集めた貝殻を細い海草の糸で、
器用に繋ぎ始めた。
「何作ってるの?」
「秘密」
パニーは舌を少し出しながら、
夢中で手を動かした。
時々、
うまく通らなくて、
「あー!」と声を上げる。
レアは、その様子を見ながら笑っていた。
魚たちが、
二人の周りをゆっくり泳いでいく。
パニーは、
近くを通った青い魚を指差した。
「あ、ルルだ」
「また会えたんだ」
レアは笑った。
青い魚は、
二人の周りをくるりと泳いで、
光の粒を散らした。
「昨日、東の珊瑚のところにいた子」
「うん。尾びれの先が少しだけ白いの」
レアは目を細めた。
たしかに、
光が当たるたび、
尾びれの端だけ、
淡く銀色に光っていた。
「今日は元気そう」
「でしょ!」
しばらくして、
パニーが顔を上げた。
「できた!」
白い小さな貝殻を繋げた、
細いブレスレットだった。
光を受けるたび、
虹色に揺れていた。
「はい、レアに」
「……え?」
「プレゼント」
レアは少し驚いた。
「なんで?」
「なんか、あげたかったから」
パニーは、
当たり前みたいに言った。
レアは、
そっと受け取った。
貝殻は、
ほんの少しだけ温かかった。
「ありがとう」
「絶対なくさないでね!」
「うん」
レアは、手首につけてみた。
白い貝殻が、
水の光を受けて、
小さく虹色に揺れた。
パニーは満足そうに笑った。
「似合う!」
その笑顔が嬉しくて、
レアも笑った。
ただ、それだけだった。
でもその瞬間が、
なぜか、
とても大切なもののように思えた。
しばらくして、
二人は珊瑚の森の端で並んで浮いた。
息を整えながら、
上を見た。
水面が、銀色に揺れていた。
その向こうに、虹が見えた。
「ねえ、パニー」
「うん?」
「ずっと、こんなふうだといいね」
パニーは少し黙った。
それから言った。
「うん」
その一言が、
いつものパニーより、
少しだけ重かった。
でもレアは、それ以上聞かなかった。
空の虹が、ゆっくりと揺れていた。
二、海の色が変わる日
次の日
海の色が少し違った。
気のせいかもしれなかった。
でもレアには、わかった。
ターコイズブルーの中に、
かすかに、灰色が混じっている。
ほんのわずか。
誰も気づかないくらい。
でも確かに、そこにあった。
レアはジョルジュを探した。
珊瑚の広場にはいなかった。
光の泉の近くにも、いなかった。
「洞穴にいるよ」
パニーが教えてくれた。
「朝からずっと」
——何かあったの?
レアは心で聞いた。
——わからない。でも、ずっとそこにいる。
パニーが心で答えた。
言葉を使わなくても、伝わる。
レムリアでは、いつもそうだった。
でも今日のパニーの心の声は、
いつもより静かだった。
洞穴は、広場から少し離れた岩山の奥にあった。
入口は狭くて、
知らなければ気づかないような場所。
でも中は広くて、天井が高くて、
岩の隙間から差し込む光が、
床の砂をきらきらと照らしていた。
ジョルジュは奥に座っていた。
洞穴の一番深いところ。
そこだけぽっかりと開いた穴から、
遠くの海が見えた。
ターコイズブルーの海が、
切り取られた絵のように、静かにそこにあった。
老神官はその海を、ただ眺めていた。
背筋を伸ばして。
両手を膝の上に置いて。
何かを考えているようで、
何も考えていないようで。
「ジョルジュ」
レアが声をかけると、
老神官はゆっくりと振り向いた。
「おはよう」
その声は、穏やかだった。
「おはよう」
レアは隣に座った。
二人で、しばらく海を見た。
洞穴の奥から見る海は、
外から見るより、静かに見えた。
額縁の中の絵のように、
その青さだけが、くっきりとそこにあった。
「ジョルジュ」
「うん」
「海の色、変わった?」
老神官は、少しの間黙った。
「……気づいたか」
「うん」
「そうだな」
ジョルジュはゆっくりと頷いた。
「少しずつ、変わっている」
洞穴の外から、魚の群れが通り過ぎる気配がした。
光の帯が、遠くの珊瑚の森を横切った。
「怖い?」とジョルジュが聞いた。
レアは少し考えた。
「……わからない」
「それでいい」
老神官は、また海を見た。
「わからないまま、感じていなさい」
しばらく、二人は黙っていた。
「怖くはない」
ジョルジュが、ふと言った。
誰に言ったのか、
自分に言ったのか、
わからなかった。
でもその声は、
レアの胸の奥に、
そっと落ちた。
波の音が、遠くで一つ、響いた。
洞穴の中で聞く波の音は、
外で聞くより、深く響いた。
「ジョルジュ」
「うん」
「ずっとここで、何を見てるの?」
老神官は少しの間、答えなかった。
それから、静かに言った。
「海が、どれだけ美しいか」
「……それだけ?」
「それだけだ」
ジョルジュは目を細めた。
「美しいものを、ちゃんと見ておきたい。
それだけで、今日は十分だ」
レアは、その言葉を、
胸の奥にそっとしまった。
洞穴を出ると、
パニーが待っていた。
「どうだった?」
「……なんか、穏やかだった」
「そうだよね」
パニーは頷いた。
「ジョルジュってさ、
怖いことが起きてる時ほど、
穏やかになるよね」
レアは少し驚いた。
パニーらしくない、鋭い言葉だった。
「気づいてたの?」
「なんとなく」
パニーは笑った。
でもその笑い方は、
いつもより少しだけ、静かだった。
パニーも、感じてるんだ。
「ねえ、ププのとこ行こう」
パニーが言った。
「うん」
三、貝殻の歌
その日の午後、
レアはププを探した。
いつもの岩陰にいた。
膝を抱えて、貝殻を耳に当てて、
目を閉じている。
その周りには、
小さな貝殻がたくさん並べられていた。
白いもの。
薄桃色のもの。
虹色に光るもの。
まるで、小さな海の宝物みたいだった。
「ププ」
声をかけると、ぱっと目を開けた。
「レア!」
その顔が、ぱっと明るくなった。
「また集めたの?」
レアが聞くと、
ププは嬉しそうに頷いた。
「この子たち、みんな音が違うの」
「昨日の歌、聞こえた?」とレアは聞いた。
「聞こえた!」
ププは貝殻を両手で持ち上げた。
「ね、この貝殻からも聞こえるの。おんなじ歌」
レアはその貝殻を見た。
白くて、丸くて、小さい。
どこにでもある、普通の貝殻に見えた。
「聞かせてくれる?」
ププはにっこりして、貝殻をレアに差し出した。
レアは両手でそれを受け取って、
耳に当てた。
聞こえた。
波の音ではなかった。
もっと深く、
もっと古い、
まるで海の底から、
時間をかけて届いてきたような——
名もない響き。
でもその旋律を、レアは知っていた。
体の一番奥に刻まれた、
生まれる前から知っている歌。
涙が出た。
止まらなかった。
ププが心配そうに顔を覗き込んだ。
「……泣いてる?」
「うん」
「なんで?」
「わからない」
レアは笑いながら言った。
「でも、きれいだから」
ププは少し考えて、
それから小さく頷いた。
「そう。きれいだよね」
二人は並んで、
しばらく珊瑚の森を眺めた。
虹色の魚が一匹、
ゆっくりと目の前を横切った。
「ねえ、ププ」
「うん?」
「この歌、いつから聞こえてるの?」
ププは首を傾けた。
「ずっと前から」
「ずっと?」
「うん。生まれた時から、かな」
レアは貝殻を見つめた。
小さくて、白くて、何でもない貝殻。
でもその中に、
海の全部が入っているような気がした。
「ねえ、レア」
ププが言った。
「この歌、みんなに聞こえてる?」
「……どうかな」
「パニーには?」
「聞いてみたことないけど」
「聞いてみて」
ププは真剣な顔で言った。
「なんか、大事な気がするから」
レアは、ププを見た。
幼い顔。
でもその目は、
どこか遠くを見ていた。
まるで、大人より多くのものを、
すでに知っているような目。
この子は、最初から知っていたんだ。
四、白い珊瑚
夕方。
遠くから、
勢いよく水をかく音が近づいてきた。
次の瞬間、
灰青色の尾ひれが、
光の粒を散らしながら、
急いでこちらへ泳いできた。
「レア!」
パニーだった。
いつもの明るい声で、
でも少しだけ息が上がっていた。
「レア、来て。サラが何か言ってる」
サラは広場の端にいた。
岩の上に立って、遠くの海を見ていた。
半透明のひれが、夕方の光を受けて、
静かに七色に輝いている。
「サラ」
レアが近づくと、サラは振り向いた。
「見て」
サラが指差した方向を、レアは見た。
珊瑚の森の奥。
一本だけ、色が薄くなっている珊瑚があった。
鮮やかなオレンジだったはずのそれが、
白に近い色になっていた。
「いつから?」
「今朝、気づいた」
サラの声は静かだった。
パニーが珊瑚に近づこうとした。
「触らない方がいい」
サラが言った。
パニーは止まった。
三人は、しばらくその珊瑚を見つめた。
白くなった珊瑚が、
夕方の光の中で、
静かに立っていた。
「今日、陸に上がったの」とサラが言った。
「陸?」
レアが聞き返す。
サラは頷いた。
「風が強かった」
「海と違う?」
「うん。乾いてる。でも、あたたかい」
サラは遠くを見るように目を細めた。
「陸の空は、海より広く感じる時がある」
レアは、その言葉を胸の奥にしまった。
サラは、両方の世界を知っている。
海の深さも。
陸の風も。
だからこそ、
誰より早く、
変化に気づいている気がした。
「ジョルジュに話す?」とパニーが言った。
「もう知ってると思う」
サラが答えた。
「あの人は、全部知ってる」
レアは珊瑚から目が離せなかった。
白い珊瑚。
色が消えた珊瑚。
でも枯れているわけではなかった。
ただ、静かに、そこに立っていた。
まるで、何かを待っているように。
——消えていない。
ただ、変わっているだけだ。
レアは、ジョルジュの言葉を思い出した。
「美しいものを、ちゃんと見ておきたい」
今、この珊瑚も、
白くなりながらも、美しかった。
別の美しさで、
静かに、そこにいた。
夜、レアはまた洞穴へ行った。
ジョルジュは朝と同じ場所に座っていた。
同じ姿勢で。
同じように、海を眺めていた。
一日中、ここにいたのかもしれなかった。
洞穴の外は、夜になっていた。
でも海は暗くなかった。
珊瑚が柔らかく光を放って、
虹がかすかに、夜の水の中に揺れていた。
「珊瑚のこと」とレアは言った。
「うん」
「どうなるの?」
ジョルジュは海を見たまま、答えた。
「色が消えることは、終わりじゃない」
「でも——」
「終わりじゃない」
老神官の声は、穏やかだった。
怖がらせようとしていないのが、わかった。
ただ、本当のことを言っている声だった。
「レア」
「うん」
「あの歌を、忘れるな」
「……昨日も言ってた」
「そうだな」
ジョルジュは小さく笑った。
皺が深くなって、目が細くなる、あの笑い方。
「大事なことは、何度でも言う」
レアは膝を抱えて、洞穴の外の海を見た。
夜の水の中に、虹がある。
かすかに、でも確かに。
「ジョルジュは、怖くないの?」
「何が?」
「……これから起きること」
老神官はしばらく黙った。
波の音が、遠くで一つ、大きくなった。
洞穴の壁に、その音が静かに響いた。
「怖くはない」
その声は、
レアの胸の奥で、
何かが静かに揺れた。
「なぜ?」
「愛しているからだ」
ジョルジュはレアを見た。
「海を。仲間を。この世界を。愛しているものは、手放せない。でも——」
老神官は、また遠くの海を見た。
「愛しているからこそ、手放せることもある」
レアには、まだわからなかった。
でもその言葉を、
体の奥に、そっとしまった。
「ジョルジュ」
「うん」
「ププが言ってた。貝殻の歌が、大事な気がするって」
老神官は、少しの間黙った。
それから、静かに言った。
「そうだな」
「どういう意味?」
「あの子は——」
ジョルジュはゆっくりと息を吸った。
「生まれた時から、聞こえているんだ」
「何が?」
「海の、一番古い歌が」
「それは——」
「いつか、わかる」
老神官は、また海を見た。
「焦らなくていい。
あの子は、ちゃんと知っている」
洞穴の外で、
夜の海が静かに光っていた。
虹が、かすかに揺れていた。
ププの貝殻の歌が、
どこからともなく、
また聞こえてくるような気がした。
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