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「生なる傷痕」五章 傷痕は生を顕現する

 昨日、家に戻った私は仕事から帰ってきた義父にボコボコにされた。顔はひどい有様だが、証拠を撮ることができた。
 繋はうまくいっただろうか。そんなことを考えながら登校すると、放送で先生から呼び出された。
 職員室に行くと、担任に連れられて応接室に通される。そこには見覚えのある女がいた。繋の母親だ。私を見るなり、目つきが鋭くなる。さながら、自分の男を寝取った間女を睨むようである。
「繋が何日も家を空けて遊び歩くなんてこと、今までなかったのよ。それなのに、その子から悪い影響を受けたんだわ!」
 いや、毎晩のように出歩いていたはずだが、気づいていなかったのだろうか。その理由は恐らく、母親が布団に入ってくるせいだ。自覚がないのか、知らないふりをしているのかは知らないが、それよりも気がかりなことがある。
「繋は? 学校に来てるんですか?」
 呼び出されたのは私だけなのか、応接室に彼の姿はない。
「繋……ですって? 馴れ馴れしく呼ばないでちょうだい。これ以上、色目使って、付き纏ってくるようなら、学校は辞めさせますから」
「大変申し訳ありません。我々の指導不足で……」
 肩を怒らせながら立ち去ろうとする母親に、教師たちは見当違いな謝罪でぺこぺこと頭を下げる。
「おい、待てよ! 繋は? 繋になにかしてないだろうな!」
 追いかけようとすると、担任が目の前に立ちふさがった。
「どけよ! なにも知らないくせに!」
「真面目な逸色が、学校に連絡もなく遊び歩くはずがない。直里、お前が悪い遊びに付き合わせたんじゃないか?」
「は? そんなことしてねえよ」
「でも、一緒にいたんだろ?」
「それは……っ」
 そうだけれど、事情を話せば繋が隠したがっていた性的虐待のことを話さなくてはいけない。そうやって私が口ごもっている間に、母親はいなくなってしまった。
「さすがにここまでの問題となると、親御さんも交えて三者面談するからな」
「うちの親なら、来ませんよ」
「それならこっちから伺うから。お前も家にいるんだぞ。逃げたら退学もありえるんだからな?」
 担任は面倒事を起こしやがって、という顔で言う。
 すぐにでも繋のところへ行きたかったが、退学とまで脅されたら従うしかない。
 学校が終わり、仕方なく家に帰って扉を開けると、顔面に衝撃が走った。
 アパートの廊下に倒れ込んだ私は、一拍遅れて蹴られたのだと理解する。
 鼻が折れたのではないかと思うほど痛い。つううっと垂れてきた血が、コンクリートにぽたりと落ちたのを横たわったまま見ていた。
「お前はクソなことしかしねえな!」
 家庭訪問の電話が家にいったからだろう。怒り狂った義父は私の胸倉を掴み、家の中に引きずり込むと、壁に叩きつけた。後頭部を強く打ったせいか、目の前がチカチカする。それでも義父の怒りは収まらず、そのまま首を絞められた。
「そろそろ死んどくか?」
「……ぅ、ぁ……っ」
 お前が死ねよ、と言ってやりたいが、苦しくてうめき声しか出ない。そのときだった、インターフォンが鳴る。
「すみませーん。XX高校の者ですが」
 扉越しに聞こえたのは担任の声だ。
 喉から手が離れ、私はその場に崩れ落ちる。咳込んでいる私を義父は冷ややかに見下ろした。
「奥、行ってろ」
 よろよろと立ち上がって、ひとまず和室に行くと、扉が開く音がした。
「どうも、御足労頂いてすみません」
 猫を被った義父の声がして、そろりと顔を出すと、それに気づいた担任が「直里?」とぎょっとした顔をした。
 義父は内心、出てくるんじゃねえよ、と思っているだろう。こちらを振り返ったその顔に、怒りと愛想が複雑に入り混じったような引きつった笑みが浮かんでいる。
 再び担任に向き直った義父は、意地でも玄関先で話をつける気なのだろう。担任が中に入れないよう自分の身体で道を塞ぐように立っている。
「このたびは、ご迷惑をおかけしてすみません。あいつ、最近反抗期なんですかね。夜通し遊び歩いて、どっかで喧嘩でもしてるのか、ああして怪我して帰ってくるんです」
「そう、なんですか……」
 怪訝そうに担任が家の中を見回す。テーブルの上に積まれたビールの缶や散らかった部屋を見て、なにか変だと気づいた顔をしてるのに、見なかったことにしたいのだろう。担任も愛想笑いをするだけで、そのことに突っ込まない。
「うちの子が引っかけた男の子……逸色くんでしたっけ? もう二度と近づけさせないんで」
「ああ、はい。お願いいたします。といっても、逸色さんのほうは息子さんを転校させるとおっしゃっていて――」
 ……え? あれ、売り言葉に買い言葉じゃなかったのか? 思ったよりも本格的に話が進んでいる……? 
「繋、本当に転校するんですか?」
 和室から這い出て、玄関まで行くと、担任が呆れ混じりに言う。
「お前に会わせたくないからだそうだ。いったい、なにをしたんだ」
「私はなにもしてねえよ! してんのは、あいつの母親だ!」
 焦りのあまり、うっかり漏らしてしまった。
 しかし、私の言葉なんて、はなから信用していないのだろう。
「お前な、これ以上問題起こすな。卒業できなくなってもいいのか?」
 先生にかけ合っても、埒が明かない。今の状況だって、おかしいって思っているのに見て見ぬふりしようとしている人間が、繋を助けてくれるとは到底思えない。
「……っ!」
 私は勢いよく駆け出し、先生と義父を押し退けて外へ出た。
「おい! どこに行くんだ!」
 担任の声が聞こえたが、夕暮れの空の下、裸足で全力疾走する。私の足元を見て、通行人たちが二度見してきたが、周りの目なんてどうでもよかった。
 一度行ったことがあるとはいえ、若干道が心配だったが、私は記憶を頼りになんとか繋の家に辿り着く。その頃には、空にはすっかり月が昇っていた。
「繋! 繋! いるんだろ!」
 繋の家の扉を叩く。
 絶対に明日学校で、と約束したのだ。それなのに来ないということは、なにかあったとしか思えない。
「繋……!」

   ♰♰♰

 水底に沈んで揺蕩っているようだった。
 意識は微かにあるが、身体は鉛のように重くて動けない。
 どこからか、どんどんと音が響いてきた。けれど、ぼんやりとした頭は思考することを許してくれず、それをただ聞いていると、
「繋!」
 この声……。
 幻聴かと思ったが、繰り返し「繋」と呼ばれるたびに、徐々に声がはっきりとしてくる。
「繋! 諦めるな!」
 機能停止していた身体に電流が走ったかのように、ぴくりと指が跳ねた。瞼を持ち上げると、見慣れた天井がある。
「そこから逃げろ!」
 声に突き動かされるように、重い身体を起こそうとして、うつ伏せに倒れた。肌に触れる床の冷たさに、少しだけ意識が研ぎ澄まされる。そこで初めて、自分がなにも纏っていないことに気づいた。
「うっ……」
 頭も重くて痛い、視界が揺れる。それでも、床を這うように前へ進む。
「頑張れ!」
 途切れそうになる意識を繋ぎとめる声に導かれて、リビングから廊下に出た。その先に玄関が見える。そこが唯一の出口だ。
 ――はじめに神は天と地とを創造された。
 俺は聖書の一節を思い出しながら、ひたすら腕を動かす。
 ――地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 扉の中央にある細い曇りガラスから差し込む光が道を細く照らしている。なんとか扉の前まで辿り着くと、高いところにある取っ手に手を伸ばす。
 ――神は「光あれ」と言われた。すると、
 ガチャリと鍵が開く。扉が開いた先で、月光に縁どられて淡く輝いた彼女が、必死な表情を浮かべて手を差し伸べている。俺は思わず目を細めた。
「繋!」
 ――すると、光があった。

   ♰♰♰

「繋!」
 目の前でガチャリと鍵が回る音がして、開かれた扉の先には裸の繋がいた。
 こちらに縋るように伸ばされた手を取って、外に引きずり出すと、そのまま抱きしめる。
「っ、よく頑張ったな!」
 生きていてくれた――。ただそれだけで、じわりと滲んだ涙が頬を幾度も流れていく。
 繋の身体はやっぱり冷え切っていて、体温を分けるように強く腕の中に閉じ込めた。すると、遠くからサイレンが聞こえた。私が叫んでいるのを聞いた誰かが通報したのだろう。
 駆け付けたふたりの警官は私たちの姿を見るなり、差し迫った状況にあると判断したらしい。女性警官のほうが、私たちと目線を合わせるように屈む。
「近所の家の前で女の子が叫んでるって通報があって来たんだけど、家にお父さんか、お母さんはいる?」
 その答えを知っているのは繋だ。彼に視線を向けた、そのとき、後ろで足音がした。買い物から帰ってきた繋の母親が、青ざめた顔で立ち尽くしている。
 警官は私たちを背に庇うように立ち、母親に向き直った。
「お母さんですか? すみません、ちょっとお話を聞かせてもらえますか?」
 母親は観念した様子で項垂れた。
 それから、母親がリビングで警察の聴取を受けている間に、私たちも繋の部屋でひとりずつ身体を確認された。
 私も? と驚きはしたが、顔についた鼻血と痣のことを聞きたかったらしい。
 服を脱いだ私を見て、女性警官は表情を険しくしていた。そこで私は、スカートのポケットに入れていたスマートフォンで、リビングに設置しておいた小型カメラの映像を見せた。
 買った小型カメラは電源を入れておくと自動で録画がスタートする。離れていても、スマートフォンから撮影した動画を確認できるので、昨日と今日の二日間、私が暴行されている映像を見た警察は私の家にも聴取に向かった。
 繋は身体に目立った外傷はなかったものの、動画が決め手となって、私たちはすぐにパトカーに乗せられ、保護されることになった。

 十二月。施設に入ることになり、張り詰めていた生活からは解放されたが、世界が私たちに優しくなることはなかった。
「逸色くん、施設に入ることになったんだって」
「知ってる! 母親が変な宗教に入ってたんでしょ? 中学では有名だったらしいよ。同級生の親も勧誘してたんだって」
「うちらも勧誘されてかもじゃん? こわーっ」
 あれだけ繋をちやほやして群がっていた人間も、彼の家のことを知った途端、手のひらを返すように遠ざかっていった。
「直里さんもなんか施設の子なんでしょ? 痣とか、よく作ってたし、虐待? ちょっとかわいそうだよね」
「どうりで、病んでるっぽかったもんね」
「病んでるって」
 言い方、と笑う女子たちの声がする。どこに行っても、私たちは噂の的になった。
 周りが騒がしい中、昼休みになると、私は階段の踊り場に直行した。女子トイレに寄らなかったのは、自分を傷つけることをやめると宣言したからでもあるし、いちばんは繋のことが気がかりだった。
「冷たいね」
 コンクリートの上に仰向けに転がっていると、隣に繋が座る。
「木枯らしが?」
 私を見下ろした逸色は、意味深に笑う。
「依と同じクラスだったら、よかったのに」
 私は上半身を起こして、繋に寄り添った。
「後悔してる?」
「……いや、あそこから解放されてほっとしてる。でも……あの家も教団も出られたのに、また新しい苦しみが待ってるなんて……俺、想像できてなくて」
 その顔は見ているこっちが消耗しそうなほどにやつれていて、胸が締めつけられる。
「みんな、俺がカルトに染まってるんじゃないかって言ってる。ほら、ロザリオしてるでしょ?着替えのときとかに見られてたみたいで、今まで一緒に行動してた友達も話しかけてこない。移動教室も置いてかれてさ……ちょっときつい」
「繋……」
 その手を握ると、繋は苦笑いした。
「依は……平気? 俺とセットで言われてるでしょ」
「私は……なんか、その辺の痛覚が鈍くなっててさ。辛いって、そういう感覚がまだ戻ってきてない。たぶん、楽しいとか、嬉しいとか、そういう感覚も」
「これまで逃避してた俺たちの後遺症だね。俺も、痛覚だけは死んでてほしかったな」
 私はたまらず、繋の頭を抱き寄せた。
「でも……私は繋がくれた痛みなら、ちゃんと感じてたい」
 破瓜の痛みも、彼を大切に思うがゆえの痛みも。
「依……」
「大丈夫」
 そう言った矢先のことだった。
 好機の視線を浴びながら学校に通うこと五日。登校してくると、教室にいる生徒たちがスマートフォンを見てざわついていた。その異様な光景に眉間に皺を寄せながら、自分の席まで歩いていくと、誰かが「こんなに炎上して、やばくない?」と言ったのが聞こえた。
 嫌な予感がしながら、私はスマートフォンのSNSを確認する。
【母親の性的虐待、カルト強姦された少年Kの正体】
 そんな投稿と共に繋の顔写真が投稿されていた。
 ただでさえ施設入りした学校の人気者というだけで皆が燃えているのに、さらなる火力が投下されて大炎上だ。
 私は教室を飛び出した。そのまま彼の教室へ行き、扉を開け放つと、繋は自分の席でスマートフォンを見つめたまま、表情を凍り付かせている。
 他所のクラスだが、躊躇せず踏み込んでいって、繋の手と鞄を取った。
「行こう」
 繋はなにも言わずについてきた。学校を出て、できるだけ遠くへと、いつかみたいに電車とバスを乗り継いで、私たちはあの海にやってきた。
肌寒い潮風に髪を攫われながら、波打ち際までいくと、繋は綱渡りでもするかのように海と陸の堺を歩き始めた。波が足元にかかると、その冷たさに一瞬身が竦む。
「……男子高校生が母親に性虐待受けてたってさ、そんなに面白いかな」
 それを聞いた瞬間、怒りでなにかが捩じ切れそうになった。
「誰かにそう言われたのか?」
 ……って、聞くまでもなく学校とネットだろう。
 繋は聞こえていないのか、声をかけても止まらなかった。
 私は繋に置いて行かれないように、あとをついていく。
「俺、このままいろいろ調べられてさ、死体プレイのこともバレて、またいろいろ言われるんだろうな」
「でもあれは……!」
「どうして俺がそんな生き方しかできないのか、依は知ってくれてる。でも、同じ説明をしたとして、虐待を受けた俺たちのことを面白おかしく話す人たちに理解できるとは思えない」
 同意見だった。だから否定できずに黙るしかなかった。
砂浜に繋の足跡が刻まれるたび、黒板消しみたいに波が攫って消していってしまう。それを見ていたら、漠然とした不安が胸をよぎる。
「……俺たちは誰かの話のネタになるために、こんな目に遭ってるんじゃないのに」
 かける言葉を見つけられずにいると、繋が振り返る。
「って、ごめん。愚痴ばっかりで」
 弱々しい笑みに、痛いほど胸が締めつけられた。
「なにか、あったかいものでも買ってこようか?」
「はは、依はすぐ俺を温めようとするよね」
「フライヤーで揚げないだけ優しいだろ」
「ははっ、それ前に話してた客のことだよね。変態度合いでいえば、俺のほうが上なのになあ。依は本当に優しいよね」
 繋はそう言って、自分の首からロザリオを外しながら、こちらに戻ってくる。目の前までやってきた彼は、そのロザリオを私の首にかけた。
「繋?」
「ロザリオの意味、覚えてる?」
「薔薇の……冠?」
「そう。聖母マリアへ捧げる祈りを薔薇に見立ててるんだ」
「聖母……」
 自分の胸元にあるロザリオを見下ろすと、それを繫が両手で持ち上げた。そして、ロザリオの左右の数珠に指を滑らせながら繋は言う。
「一輪一輪、一珠一珠、祈りの薔薇が輪になるまで祈りを編んで、プレゼントするんだ」
「それをなんで私に?」
 繫を見上げて問えば、眩しそうに目を細められる。
「依が俺にとって聖母のような人だったから……かな。汚れて、歪んだ俺を、裸のまま抱きしめてくれた。包み込んでくれた。だから俺は、これをきみに捧げる」
「大事なものなんだろ? いいのか?」
「うん。俺の心と祈りがこもったこの薔薇の冠を、受け取ってくれる?」
 ――私、贈り物を貰うの、いつぶりだろう。
「……嬉しい。ありがとう」
 私は胸を熱くしながら、手の器を作った。そこに繋がロザリオを入れる。
「どんな祈りを込めたんだ?」
 繫はすぐには答えなかった。真剣な眼差しでロザリオを見つめたあと、私に視線を戻す。
「……一度負った傷は消えない。この先もきっと、きみを苦しめる」
 繫の言いたいことはわかる。
 施設に入って、身の安全が確保されたのに、未だに扉が閉まる音にびくつく。義父は行動がいちいち荒っぽくて、立てる物音も大きかったから。
 義父と同じ性別や背格好で、威圧的な雰囲気のある職員に身体が震える。そのストレスに晒されるたび、私は自分を傷つけないと決めたのに、ストレスを痛みで紛らわしたい衝動に駆られた。一度負ったトラウマは簡単には消えてくれないし、これからも怯え続けるのだろう。
「ただ受け入れるしかなかった無力感とか、惨めさとか、歪な価値観とか、身体に残る傷や汚れの残像とか……そういうのが蘇ってきて、自分が嫌になるときもあると思う」
 それはきっと、今の繫に起きていることなのだろうと思った。
「同じように歩くことが出来なくて、すべてを終わらせたくなることもあると思う。やっと開放されたのに、自分でも自覚してなかったような生きづらさに気づいて、死にたくなることも」
 繫は表情を陰らせて、目を伏せる。
「繫……」
 私は繫がいれば、この絶望の洪水の中でも、船を見つけて生きられると信じているけれど、繫は私だ。繫が感じていることは、私もいずれ経験するのだと思う。だから真剣に耳を傾けた。
「だから、きみが何度でも復活できますようにって祈った。俺は知ってるから、きみは俺と出会う前、ひとりだったときから、生きることを諦めない人だった。自分だって大変なのに、俺を助けに来てくれた。同じ境遇の人たちのために泣ける女の子だ。その強さと優しさを、俺は知ってる」
 繫の手が頬に触れた。感触や形を心に刻みつけるみたいに、顔の輪郭をなぞっていく。
「もし自分を見失いそうになったら、このロザリオを見て、今の俺の言葉を思い出して」
「うん、わかった。……ありがとう、これ、大事にする」
 失くさないようにと、私は繋の祈りごとロザリオを強く握りしめた。
 繋はそれを見届けると、突然、肩を縮こまらせて身震いする。
「ね、やっぱりあったかいもの、飲もうか。さすがに冬の海はしんどい」
 私は頬に触れていた繋の手を取って、さすった。
「確かに氷みたいになってるわ。んじゃ、ちょっと待ってて。あそこで買ってくる」
 私が振り向いた先には、コンクリートの歩道にぽつんと立っている自販機がある。
 学校であんなことがあったあとだ。それなのに放心している繫を無理やり引っ張って、こんなところまで連れてきてしまった。少し、休ませないと。
 ここなら学校の連中の目を気にしなくていいから、教室よりは息ができるだろう。
「ありがとう」
「うん。じゃ、行ってくる」
 そう言って歩き出したところで、大事なことを思い出した。私は「あ、そうだ」と足を止めて、彼を振り返る。
「繫もだよ」
「え?」
「自分も辛いのに、私を励ましてくれただろ」
 きょとんとしている繫に笑いかけると、彼は一拍遅れてくしゃっと笑った。その目が微かに潤んでいるように見えた。
 私は浜を背にして、今度こそ飲み物を買いに行く。自販機の前までやってくると、前にコンビニで彼の昼食を選ぶときに悩んだことを思い出した。
 また、なにが好きか聞き忘れたな。
 苦笑いしながら、おしるこジュースをふたつ買って海辺を振り返ると、繫の姿がなかった。
 また、波打ち際でも歩いているのだろうか。じっとしていると、却って嫌なことを考えてしまうのだろう。だったら、一緒に自販機まで行けばよかったな。
 浜に降りて、辺りを見渡しながら歩いていると、地面に本が数冊重ねて置いてあった。それを一冊持ち上げて、軽く砂を払って表紙を確認すると聖書だった。
 本から視線を外すと、砂浜になにかが書かれているのに気づく。
【この痛みがきみを生かしてくれますように】
 メッセージを残したのは繫だろう。
 彼の姿を探していたら、波打ち際に左右綺麗に並んだ靴を見つける。つま先はまっすぐ、海に向いていた。

 前の私なら彼の作り笑いも見破れた。なのにどうして、あのときは気づけなかったのだろう。
 ふたりでいれば、乗り越えられると思っていた。繫も同じ気持ちでいると信じたかった。
 でも、本当は波打ち際を歩いているとき、ロザリオを託されたとき、予感があったはずだ。そんなはずないと、信じたくないものから無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
 あのあとのことは、よく覚えていない。靴を見つけた瞬間、私は聖書を投げ捨てて無我夢中で海に入っていった。
『繫っ、繫ぇぇぇぇーっ!』
 途方もなく広い海に向かって、何度も何度も繫の名前を叫んでいると、通行人がそれに気づいた。
『きみ! なにしてるんだ!』
『やめて! 離して!』
 ふたりがかりで陸に引きずり上げられた私は、
『うっ、あああああああーっ!』
 子供みたいに泣きじゃくって、その場に崩れ落ちた。
 通行人が私の話を聞き、警察と118――海上保安部に電話すると、駆けつけた救助隊がすぐに浮いている人を見つけ、助けに向かった。
 少しして、救助隊が誰かを運んできた。心臓は今にも止まってしまいそうなのに、けたたましく音を立てている。
『繫……? 繫っ、繫!』
 私は足をもつらせながら、担架に駆け寄った。引き上げられたのは、繫だった。でも、繫を前にみんなが暗い顔で立ち尽くしている。彼らの顔を見て、私は脱力した。
 繫は……死んだのだ。ひとりで、私を置き去りにして。
 覚えているのはそこまでだ。どうやって帰ったのか、私は施設にいて、その日のうちに警察からいろいろ聞かれた。
『逸色繫くんとは、どんな関係だったの?』
『どんな関係?』
 そういえば、明確にそういう話をしたことはなかった。ただ……。
『通じ合っていた、唯一の人……です』
 明確な答えじゃないからか、警官は少し怪訝そうな顔をした。たぶん、そういうことを聞いているんじゃないんだけどな、と思われている。
 別に理解されなくても構わない。私と繫だけがわかっていればそれで。
『逸色繫くんが亡くなった理由に、なにか心当たりはあるかな? 思い詰めてたとか』
 繫の家のことは、警察だってもう調べているだろう。
 自殺した理由を明確にしたいのだろうけれど、そんなの私にもわからない。だって直前まで、私たちは笑って話していたのだ。
 私が海に連れていかなければ、あのとき一緒に自販機まで行っていたら、こうはならなかった? 私が繋をひとりにしたから、いけなかった?
 なんで、私を置いて、ひとりで死んだんだよ?
 でも、繫が望んだら、私は一緒に死ねただろうか。
 どうだろう、でも確実にわかっているのは――。
『彼は……殺されたんです』
『え?』
 警官の顔は険しくなり、立ち会っていた施設の職員は動揺しているように見えた。
『どういうことか、話してもらえるかな』
警官に促された私は、込み上げてくる怒りに身体を震わせる。
そうだ、繫は殺された。それも虐待をしていた母親張本人ではなく、人の不幸や間違いに目を爛々と輝かせ、その正義感を疑いもせずに追い詰め、ただうさばらしをしたいがために吊るし上げ、熱狂し、群がるなんの関係もない人間の手によって。
『繫は……宗教二世だったことが学校でバレて、居づらい状況だった。そこに、母親から性暴力受けてるって投稿がSNSに上がって……みんなが噂して笑ってたんだ。これで死ぬなってほうが無理だろ』
もし私たちが異端者だというなら、繋を晒して辱めて死に追いやった連中はなんだ? せっかく、あの地獄のような場所から生き延びたのに、その先でさらに地獄が待っていて、どんなに絶望したことだろう。
 でも、最後に引き金を引かせたのは私だ。目の前に飛び込んでくれとばかりに広がる海を見せてしまったから。
 ごめん、繫……私が海なんかに連れてこなければ。私がなにかを変えようなんてしなければ、繫と出会わなければ、繫が死ぬことはなかったのに。
 私も……繫を追い詰めた人間のひとりだ。

「繫くんのお通夜、明日だそうよ」
 繫が死んだ翌日、学校を休んだ。施設の自室で、繫の遺した聖書を読みながらぼんやりと窓の外を見ていたら、職員がやってきて言いにくそうにそう教えてくれた。
 なにも反応せずにいる私を職員は憂うように見て、静かに出て行った。そしてまた、部屋にひとりになる。
 繫のお通夜……。
 そこには繫を吊るし上げ、嘲笑った学校の人間も来るのだろうか。繫に生きづらさを背負わせた母親も、我が物顔で繫の遺体に触れるのだろう。
 ……嫌だ。
 もう繫を誰の目にも晒したくない、あんな母親の好きにさせたくない。繫は……繫のものだ。

 死んだ人間の身体は重くて、チーズが腐ったみたいな変な臭いがした。
 明けていく空をぼんやりと眺めながら、私は静まり返った住宅街の坂道でランドリーカートを押す。
 吐く息は白く、冷えた空気が肌を突き刺してくる。でも、と私はカートの中にある棺掛けにくるまれた塊に視線を落とした。
 彼はもう、寒さも感じないのだろう。

 一時間前、私は町で一番古い葬儀場に忍び込んだ。この辺の人間がお通夜や葬式をするとなったら、だいたいはそこでする。深夜にスマホの明かりを頼りに侵入すると、年配の男館長は裏口の鍵を閉め忘れていて、考えていた以上にうまくいった。
 中で見つけたランドリーカートを押して、会場に置かれていた棺に近づき、窓を開けると、繋がいた。
 込み上げてきた慟哭が喉奥に引っかかる。
『お前が死体になってんじゃねえよ……』
 棺の淵に手をかけ、ずるずるとしゃがみ込んだ。震える息を大きく吐き出し、気持ちを整えると、棺にかかっている棺掛けを引っ張る。
 重い腰を上げて、蓋を外し、両手でなんとか棺を横に倒した。転がり出てきた繋の脇に両腕を差し込むと、その身体をランドリーカートの中へと滑らせるように入れる。それから、棺掛けでその身体を包んで隠すと、カードを押して葬儀場をあとにした。

 死体を盗んだら、なんの罪に問われるのだろう。
 そんなことを考えながら歩いていると、白い羽のようなものが視界をよぎった。空を見上げると、ふわふわと雪が降っている。
 どうりで寒いわけだ。手のひらを前に出せば、雪片が肌に触れた瞬間、溶けて消えていく。
 私が生きているからだ。その雪が繋の肌に触れたなら、消えずにそこに残ったかもしれない。
 カートを押して私が向かったのは、繋と二度ほど訪れたことがある教会だった。
 木製の両開きの扉は、押したら簡単に開いた。いつでも神に祈り、懺悔することが許されているのだろう。
 扉の締まる音が静まり返った室内にやけに大きく響く。夜明けの光が厳かに差し込む教会はステンドグラスの影響か青白く見え、冬の空気を吸い込んで冷えきっていた。
 私は十字架の前まで進むと、ランドリーカートから、繋の身体を引きずり出した。死装束を纏った彼の肌は雪のように儚い白さをしている。温度を全く感じられない身体はまるで凍ってしまったかのように硬い。
 私はコートを脱いで繋の身体を包むと、強く抱いて、ほっと息をつく。
 やっと……取り戻せた。
 いろんな人に傷つけられて、ぼろぼろにされて……何度も奪われた。もう、離れたくない。冷えたこの身体を温めるのは、私の役目だ。
 自分の体温が移りますようにと強く抱きしめるけれど、冷たいまま温度が戻らない。繋を取り戻したのに、胸の奥になにかが詰まっているみたいに苦しい。鼻の奥が痛み、視界がじわりと滲んで、堪えようと唇を噛むが――。
「……っ」
 瞬きをした瞬間、涙が頬を伝った。
「繫……私も、この目が私を映さないことが寂しい」
 指先で、固く閉じられた繫の下瞼に触れる。
「繫の体温が恋しい」
 冷たいまま体温が戻らない繫を抱きしめる。
「繫ともっと喋っていたかった………!」
 繫の額に自分の額を重ねる。涙の粒が繫の白く無機質な肌にぽつぽつと落ちて、滑り落ちていく。
 そのとき、教会の横の小さな扉が開いた。重い頭を上げ、姿を確認すると、白髪の柔和な顔立ちをした神父が驚いたように私を見た。
 しかし、すぐに賢者のごとき面持ちでこちらに歩いてくる。
「きみは……前にも、繫くんと一緒に教会に来ていたね」
 教会には二度足を運んでいる。その際に、どこかで見られていたようだ。
「……神父様、私たちはなぜ生まれてきたのでしょうか」
 繫の人生は一体なんだったのか。
 目の前で足を止めた神父を、私は空虚な気持ちで見上げる。
「誰かの悲しみや怒りの捌け口になって、魔女狩りの生贄みたいにされて死ぬために生まれてきたのでしょうか。だとしたら、その命になんの意味があるのでしょうか」
 私のこれからも、繫と同じように、どこへ行ってもなぶられて、最後には死ぬ……そんな末路しか待っていないなら……。
 ――死は、唯一の救いなのではないだろうか。
 繫が選択したように、私もこんな世界から、さっさと消えてしまえたほうが幸せなのではないか。
 神父は迷える子羊を導くかのように、清廉な瞳で答えた。
「神は子供たちを祝福して言われました。生めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよと」
 私たちは世界の悪いものから生まれてきた。
 母親は片親になって忙しくしていたから、付き合った男があんなだと気づくのに時間がかかった。気づいたときには結婚までしてしまっていて、逃げられないところまであの男は我が家に入り込んでいた。繋も父親がパンデミックで他界し、母親が宗教にはまったことで、私と同じように心と身体を壊された。
 失った愛情を埋めるため、一時でも不安を和らげるため、私たちは自分を痛めつけ、死体を愛する。人には理解できない方法でしか生を実感できない、私たちのような生き物が生まれた。
「その他大勢から見れば異端で、世界の悪いものから産まれてきたような私たちの誕生も、皆と同じように祝福されていたのでしょうか」
 だとしたら、どうして繫はあんな形でこの世を去らなければならなかったのか。
 私は神に祈る教会で、神を疑っていた。
「神は自分のかたちに人をかたどり、男と女とに創造された。そして人間を産んで増やし、地に満ちさせて地を従わせ、地に動くすべての生き物を治めよと。あなた方にもこの地に生まれ、成すべき使命があると、私は思います」
「成すべき使命……? 繋はもういないのに、死んでるのに、どうやって! なにが使命だよ!」 
 神父に当たってもしょうがないのに、感情を抑えきれなかった。
でも、神父は不快な顔ひとつしなかった。すべてを受け止めるように静かに佇んでいた神父は、ふと私の胸元に視線を落とす。
「繫くんは……あなたにそのロザリオを譲ったんですね」
「それがなんだっていう――」
「祈りを授かったのでは?」
「……!」
 繋の祈り――『きみが何度でも復活できますようにって祈った』。
「あなたはそれを、どう受け取ったのですか?」
 繫はこの先、自分が嫌になって死にたくなったときのためにと言葉をくれた。それをこのロザリオを見て思い出せと。
「……生きるための……道標」
 そうだ。あれはたぶん、私が死にたくなったときの道標。
 繫は私を生きることを諦めない人だと言った。たぶん、その通りなのだと思う。私は自分を傷つけてでも、その痛みを頼りに生にしがみついてきたから。
 でも、繫は……死に魅入られていた。出来れば私が繫の生きる道標になりたかったけれど、死体になることで苦しみを逃がしてきた繫は死が救いだと知っていた。
 だから……納得できるかは別として、繫の選択は彼らしいのだと思う。
「神は必要なくして人を生み出したりしません。繫くんは……あなたを生かすために遣わされたのかもしれませんね」
 どこかで似たような言葉を耳にした気がする。
『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ』
 高校の階段の踊り場で、繫が教えてくれた聖書の言葉だ。
『神様は俺たちが自分でも気づいてない、欠けてるものを知っていて、必要なものを与えてくれるんだって。だから俺たちも、お互いのなにかを満たすために、神様が今だって思って、出会わせたのかも』
 私たちの出会いは運命だと言ったくせに、今、どうしてそばにいないのか。
 欠けているものを補い合う者同士なら、どちらかがいなくなったら、また欠けてしまうのに、どうしてひとりで逝ってしまったのか。繫の死に納得できないのはそこだ。私では繋の欠けたものを埋められなかった……ということなのだろうか。
「子供が夜遅くに教会に来るなんて、あまりないことですから、繫くんのことはずっと気にかけていました。本来であれば、帰るように促すべきだったのでしょうが……」
 神父の視線は、繫がよく座っていたというあの席に向く。
「繫くんは救いや安らぎを求めて、ここへ来ているように見えました。ですから、そっと見守ることにしたんです。でも、あなたとこの教会に来ているのを見て、ああ、この子はやっと拠り所を見つけられたのだと思いました」
 神父の視線が、今度は私に注がれる。
「生きている間に、あなたという安らぎを得られた。彼は幸福をちゃんと手にしていたはずです」
「私は……一緒にいたかった。一緒にいれば、なにがあっても生きていけるって、本気で思って……っ」
「私も、できれば繫くんにはその道を選んで欲しかったです。あなたたちはたぶん、人とは違う感性を持っていて、だからこそ深く通じ合えたのでしょうね」
 私と繫は出会ったときから、普通の同級生、友達といった枠には当てはまらない関係だった。傷を持つもの同士だと、匂いでわかった。深いところで通じ合う――まさにその言葉がしっくりくる。
「その他大勢と違う者たちは迫害を受けやすい。神は心を広く持てと、その気づきを人々に与えたいのかもしれません」
 神様の考えなんてどうでもいい。そのはずなのに、神父の言葉に答えを見つけようと、耳を傾けてしまう。
「あなたはきっと、繫くんの歪さも受け入れて愛したのでしょう」
 愛した。死体を愛する異常さも、彼が負った傷も、誰かに忌避されたぶんだけ、私が愛したいと思っていた。
「自分と違うものを愛せたあなたは、人より広い視野と心で他人を受け入れられる。そんなあなたがまた誰かと関わって心を通わせていくことで、その熱が広がって、心に血が通った人々が増えていくのです。そうすれば今は狂ってしまった世界も少しずつ、正気を取り戻していくのではないかと、私は信じています」
 人間を産んで増やし、地に満ちさせて地を従わせ、地に動くすべての生き物を治めよ――その意味が少しだけ理解できた気がした。
「あなた方が生まれ、出会ったこと……すべてに意味があったと私は思いますよ」
 私は腕の中の繫を見つめた。
 私たちは異端ではなかったのかもしれない。繫の言ったように、世界でふたりぼっちの新人類だったのかもしれない。
「なら……神父様のように、布教でもすればいいんですかね」
 まだ、ささくれだった心は癒えず、嫌な言い方をしてしまう。けれど、神父は表情を変えずに答える。
「過去を肯定し、あなたがこれから生きるために必要なら」
 私は、私に生きて欲しいという繫の祈りをロザリオを受け取ったときに大事にすると決めた。
「……具体的にどうすればいいのかまでは、わかりません。でも……」
【この痛みがきみを生かしてくれますように】
 ここで繫の死体を抱えて、悲嘆にくれているのは……違うんだろうな。
「探し続けろって、ことですよね。私の……使命を」
 傷ついたことは無駄じゃなかったと、私の痛みのすべてに意味を見出すために。それが多分、私の生きる糧になる。
【この痛みがきみを生かしてくれますように】
 繋の喪失がただの悲劇で終わってしまわないように生きる。
 私は繋を見つめ、縋りつくようにきつく抱きしめた。離れたくない、残ったのは私に触れてくれたこの身体だけだ。ずっとそばにいてほしい、だけど――。
 ロザリオを握り締め、神父をまっすぐ見上げた。
「……神父様、朝になったら私……ちゃんと裁かれに行きます」
 繋が好きになってくれた私でいたいから、夜明けに向かって進んでみるよ。

『今日未明、XX市、XX町にある葬儀場で遺体が盗まれる事件がありました。窃盗罪の疑いで逮捕されたのはXX市に住む女子高校生で、XX市、XX町の葬儀場に許可なく侵入し、遺体を盗んだ疑いがもたれています。その後、少女が潜伏していたとされる近くの教会から通報を受け、今朝早く少女を現行犯逮捕しました。警察の調べに対し、少女は「遺体を盗んだのは間違いない。死体が欲しかった」と容疑を認めており、精神鑑定も視野に――……』

 私が犯した死体の窃盗罪は、結論から言うと不起訴処分になった。
 同級生が母親の性虐待がきっかけで自殺した。それを間近で見てしまった私の精神状態は普通じゃなかった……と言う具合に判断されたのだ。未成年だったこともあり、刑罰を受けることもなく、前科もつかなかった。
 三か月後、私は高校を卒業した。漠然と人を助ける仕事に就こうと決めた私は、介護施設のスタッフになった。
 繫の死や私の過去を、ただの辛い経験で終わらせたくない。私は人に嫌われ、大切な人の自死を止められず、引き金を引かせた。だから彼の代わりに、誰かを救わなくちゃいけない。こんな私でも、誰かに必要とされたいという気持ちもあった。
 つまり私情から進路を決めたわけだが、高校生のバイトとは違って、社会人になると、どんなことにも責任がついてまわるし、人付き合いもハードルが高くて大変だった。行きたくない飲み会に誘われて断れば付き合いが悪いだのと言われるし、いざ参加してみると、いない人間の悪口で盛り上がる。参加しないと、言われたい放題になることを知った。
 仕事もどんな形でやっても同じなのに、先輩が教えた通りにしないと直される。でも、それを指摘しようものなら嫌な顔をされ、今までのように思ったことをそのまま言ったり、愛想のない私では社会に通用しないことを知った。
 だから、普通の人間に擬態した。外面を作りすぎて、家に帰ってくると倒れるように寝込んだし、仕事前はヘマをしないようにしないとと考えすぎて不安になり、眠れない。朝起きると身体が重くて、たびたび欠勤するようになった。そうなれば、当然ながら信用を失う。
『昨日は休んでしまって、すみません』
 腕を組み、不機嫌そうにこちらを見下ろしている主任に身体が震えそうになる。
 義父に似た背格好の人間を前にすると、表情が固まって、愛想笑いも出来ない。そのせいで、主任からは感じが悪い人だと思われていた。
『直里さん、もう入ってきて半年だろ? いい加減にちゃんとしてくれ。仕事も同じことを何度も間違えるし、人の命を預かる仕事なんだぞ? 他の人たちを見習わないと』
『……すみません』
 人目のあるところで注意されるのも、人と比べられるのも、惨めで恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。
 追い詰められれば追い詰められるほど、自分でもなんでこんなミスをしたのか、理解できない失敗を繰り返すようになって、私は仕事ができない人間というレッテルを貼られた。
 その日、休憩に入ろうとしたとき、怒られている私を見ていたのだろう。
『なんか辛気臭いよね、あの子』
『やる気がないのよ。若いのに死人みたいな顔して、辛気臭い』
 休憩室から、私の話をしている声が聞こえて、トイレで休憩をとったこともある。
 結局、肩身が狭くて、そこは辞めてしまった。別の職場に移っても、結局は同じ末路を辿って、なにも変わらなかったが。
 どうすれば嫌われない? どうすればみんなに馴染める?
 そうして、私は中学生の頃の自分に逆戻りした。生きるために身につけざるを得なかったいい子のふりをするようになったのだ。でも、なにをやっても怒らず、気に入られようと相手の望むままに動くことの弊害もあった。
『おはようございます』
 ある日、廊下ですれ違った職場の先輩に挨拶をしたら、声が小さすぎたのだろう。
『あ?』
 威圧的に聞き返されて、先輩は足を止めた。
 彼は私が他の先輩に仕事のことで注意されているのを見てから、こういった態度をとってくるようになった。
 子供の頃は親だったが、こういうふうに自分より下だと思ったら、平気でコケにしたり、威圧する人間に私は逆らえなくなった。
 命を脅かされる。その恐怖を植え付けられている身体は、息をするみたいにへこへこし、無駄に笑いかけて媚びを売る。そんな自分が気持ち悪くて仕方ないのに、ずっと誰かの顔色を窺っている。気弱で逆らわず、なにをしても言い返せないところが相手の加虐性を駆り立てるのだろう。こういうパワハラ人間の目に止まりやすくなり、どこへ行っても誰かしらに鞭を打たれ、終わらない暴力の中で生きていた。
 そうして貶されているうちに、私は自分の価値を証明したくなった。
『ねえ、まだコピー終わらないの?』
 同僚が上司に叱られているのを見て、
『私が代わりにやります』
 その仕事を奪って、褒められるために過剰に自分をアピールしてしまうこともあった。さんざん親に存在を否定されてきた反動だろう。
 今の私は自分を守るために、誰かを犠牲にする人間になっている。そういう大人を嫌っていたはずなのに、同類になっていることに気づいた私は、二十歳の誕生日になんとなく節目だと思ったのかもしれない。仕事を無断欠勤した。
 私は一人暮らしのアパートの部屋でベッドに横になったまま、マットレスの上にあるスマートフォンをちらりと見る。職場から何度も着信が来るのがしんどくて、先ほど電源を切ったところだ。
 繋がいなくなってから二年、虐待を生き延びたあとにも地獄は待っていた。
 今なら繋が死んだ理由がわかる。生きるので必死だったときは自覚できていなかったけれど、負った傷が思いのほか重症だったことに社会に出て気がついた。
 頑張りたいのに気力と身体がついてこない。普通になろうとすればするほど、自分が嫌いになっていく。
 ……もう、限界だ。
 私はのっそりと起き上がり、ベッドを出て浴室に向かう。浴槽に栓をして、お湯を出すと、再びリビングに戻った。
 ベットの枕元にある繋が遺した聖書数冊と、丸テーブルの上のペン立てからカッターを引き抜いて浴室に運ぶ。それらを浴槽の淵に置き、少ししてお湯が溜まると、私は明かりもつけずに、ロザリオとパジャマを身に着けたまま湯船に浸かった。
 浴槽の中で伸ばした足のほうの壁には、曇りガラスの窓がついている。そこから差し込む日差しが、ぼんやりと室内を照らしている。繋の死体を盗んだあの日の冬の明け方みたいに、静かで薄暗い。
 繋は自分を嫌いにならないでと言ったけれど、繋が好きだと言ってくれた自分はもういない。私は弱い。今は自分が気持ち悪くて、嫌いで仕方ない。
 もう自分を傷つけないって言ったのに、ごめん。
 懺悔しながらカッターを手に取り、手首を深く切りつける。
「っ……」
 痛みでは足りなくなった。そう、私は魅入られている。この苦しみから解き放ってくれる死に。
「誰だよ、朝の来ない夜はないとか言ったやつ」
 お湯に沈むように胸まで浸かる。その間も、ドクドクと手首から命が流れ出ている。
 あの教会で、夜明けに向かって進もうと決めたはずだった。でも、繋を失ったときに、私の未来も閉ざされてしまっていたのだろう。やみくもにここまで歩いてきたけれど、結局朝はこなかった。
「なにが、痛みに逃げたくない……だ」
 自分と大切な人たちの世界くらいは、変えられるようになりたかった。でも、私は自分の世界すら変えられなくて、世界を変えてあげたかった好きな人も、もうこの世にはいない。
 仕事で患者に必要とされることで、胸の穴が埋まった気になったけれど、一時だ。
 ずっと、欠けたものが埋まらない、そんな感覚。繫がいなくなってから、誰にも理解されない孤独に打ちひしがれている。
 もう、どうやって生にしがみついていたのか、わからない。
「あーあ、土産にできる話もないな」
 私は天井を仰いで、苦笑いする。
「死体、あげるっつったのに」
 私の死体はきっと、誰にも引き取られずに燃やされるのだろう。
「あげたかったなー……」
 物悲しい気持ちになり、私は繋からもらった聖書を取ろうとした。しかし、手が濡れていたせいだろう。少し持ち上げたところで、カバーから本体がずるりと滑り落ちてしまう。
 私は浴槽の外に身を乗り出して、それを拾おうとした。けれど、
「……?」
 むき出しの表紙に、びっしりとマジックペンで文字が書かれているのに気づく。
 本を拾い上げて確認すると、一文目に【懺悔】と書かれていた。
「懺悔……」
 この聖書を私に遺したのは繫だ。今まで、こんなところに文字が書かれていたなんて、気づきもしなかった。
 このタイミングで現れたことに、少しだけ神様の啓示ではないかと思ったりもしながら、私は読み進める。

【幸福と安心を手に入れたあと、俺はPTSDに悩まされた】

 PTSD……トラウマになった出来事を繰り返し再体験したり、悪夢として反復されてしまう病気。これは施設で会った子たちから、そういうのに悩まされるよ、程度に話を聞いていた。
 繫もだったんだ。私にも似た症状は出ていた。
 今までは痛みで麻痺させてきたけれど、自傷をやめてからというもの、私はその恐怖や不安を紛らわすことができず、落ち着かないし、イライラして、物事に集中できなくなった。仕事が皆と同じようにできないのも、これが原因のひとつだろう。

【これまでは全ての感覚を殺して、死体のように無になることで生きてこれたけど、心も身体も解放されて、自分の意思とか感情が戻ってきたからだろうね。あのときのことが頻繁にフラッシュバックするようになって、儀式を拒否できなかった自分が反吐が出そうになるほど汚く思えた】

 繫の気持ち、わかるよ。今、繫と話すことができたなら、間違いなくそう声をかけた。
 私も過去に囚われて、どんどん歪んでいく自分が気持ち悪くて仕方ないから。

【直里さんがいるのに、ふとした瞬間に無力感と虚無感に襲われる。未来を見ようとするのと同じ引力で、悪魔が過去に引き戻そうと手を伸ばしてくる】

 繫は過去から逃れられず、明日を見ることを諦めたのかもしれない。今の私も、その道を辿っている。どうせこうなるなら、あのとき一緒に逝きたかった。
 瞼を閉じると、繫がいなくなった寂しい海の光景が蘇り、涙が頬を伝う。

【もし普通の高校生同士だったらって考えもした】

 再び開いた目に飛び込んできた言葉に、心臓がどくんと跳ねる。
 もし、普通の高校生同士だったら、繫と私の接点はなかったかもしれない。繫はそれでも、普通になりたかったのだろうか。だとしたら……かなりこたえる。

【けど、それだと多分、俺たちはこんなにお互いを求め合ってない。俺は確かに自分が気持ち悪くて嫌いだ。でも、あんな経験をしたからこそ、初めて直里さんに触れられたとき、あんなにも人を愛しいと思えたんだと思う】

 聖書を持つ手が震えた。
「繫……」
 私たちは無条件に注がれる愛を知らない。どんなに努力しても、手に入らないものだと思っていたから、やっと手が届いたときは喜びに身体が震えた。あの感覚は今も忘れられない。それくらい鮮烈で、気持ちがよくて、愛おしい時間だった。

【だから、俺は過去を変えたいとは思わない。でも、未来まで耐えられる心の強さが俺にはなかった。だから、直里さんがいる今を永遠にしたいと思った】

「今を、永遠に……?」
 繋が死んだのは、ただこんな世界で生きていたくないという絶望だけじゃなかった……?
 守りたいから、大切だから、繫はその瞬間を美しい形のまま、自分の中に留めておきたかったのだ。エンバーマーになりたいって、言ってたもんな。本当に繋らしい考え方だ。

【いつか未来で、お互いにボロボロになったとき、俺はたぶん直里さんを連れて行ってしまうから】

 いいよって、私、言ったもんな。
『ふたりで逃げようか』
 いつか階段の踊り場で、そう言われたときの話だ。お互いに行き着く先は最悪な未来だと思ったから、私は受け入れた。
 でも、彼と結ばれたあとの私はそれでも彼がいるなら、この世界で生きることを諦めなかったと思う。
 でも、今の私なら喜んで繫について行った。

【諦めたくなかった。直里さんみたいに全然強くなれなくてごめん】

 私は繫が思うほど、強くはない。繫の祈りを叶えられなくてごめん。
 出血のせいか頭に霞がかかり始めるが、彼と同じように私も懺悔しながら文字に目を凝らす。

【直里さんが自分のことみたいに傷つく姿が目に浮かぶのに、ごめん。それでもどうか――】

「この痛みが……きみを生かしてくれますように……」
 逸色繋の懺悔は、砂浜に残されていたあのメッセージでしめられていた。
 痛みでしか生の実感を得られなかった私は、自分を傷つけるのをやめてから、苦痛の逃し方がわからなくなっていたのだと思う。だから、死しか見えなくなった。
 繋はそうなることを見越して、私に失う痛みを刻み、永遠に消えない傷をつけたのだろうか。
 朦朧とする中、湯船に浮かんで揺蕩うロザリオが視界に入る。

『もし自分を見失いそうになったら、このロザリオを見て、今の俺の言葉を思い出して』

 ふと、懐かしい声が聞こえた気がした。

『……一度負った傷は消えない。この先もきっと、きみを苦しめる』

『ただ受け入れるしかなかった無力感とか、惨めさとか、歪な価値観とか、身体に残る傷や汚れの残像とか……そういうのが蘇ってきて、自分が嫌になるときもあると思う』

『同じように歩くことが出来なくて、すべてを終わらせたくなることもあると思う。やっと開放されたのに、自分でも自覚してなかったような生きづらさに気づいて、死にたくなることも』

 今がその時だ。私はすべてを終わらせようとしている。

『だから、きみが何度でも復活できますようにって祈った。俺は知ってるから、きみは俺と出会う前、ひとりだったときから、生きることを諦めない人だった』

 無理だって。
 現に私は湯船に落ちていく身体同様に、ずるずると死に沈みそうになっていて、それでもいいかと思っている。

『自分だって大変なのに、俺を助けに来てくれた。同じ境遇の人たちのために泣ける女の子だ。その強さと優しさを、俺は知ってる』

 そんな私、もうとっくにいない。でも、それが見失っていた本当の私なのだろうか。
 どうせなら今、繋の声で直接、その言葉が聞きたかった。
 胡散臭い作り笑いでもいいから、笑いかけてほしい。また触れ合いたい。それができないことが、胸が張り裂けそうなほど痛い。
 それはたぶん、私だけじゃないんだろう。だって、もう死ぬっていうのに、私になにかを残そうとして、必死じゃないか。この未練たらたらな懺悔の文を見れば、自惚れもする。死に魅入られていた彼の心残りになるほど、私は彼に愛されていたんだって。それがわかったら、この懺悔もラブレターに思えてくるんだから、私はイカれている。
 狂おしいほど繋を愛おしく思う気持ちが、冷え切っていた心に熱を灯す。
【この痛みがきみを生かしてくれますように】
 会いたい、でも会えない。それが身を引き裂かれそうなほど苦しくて辛い。
 永遠に続く、喪失の痛みが私に生きていることを実感させる。胸の傷がどくどくと脈打って、私の意識をかろうじて保ってくれている。
 私は浴槽の縁に手をかけ、身を乗り出した。力が入らないから、重力に頼って浴槽の外へ滑り落ちるように出る。
 冷たい床に打ちつけた身体の痛みさえ力に変えて、私は地を這った。
 腕の力だけでベッドまで行くと、こんなところで役立つなんてと思いながら、スマートフォンの電源ボタンを連続で五回押し、119に連絡をした。
「すみません……救急車……血が……手首……切って……」
『手首を切られたんですね。傷口を強く押さえて止血して、怪我をしたほうの手を心臓より高い位置に上げて待っていてください。すぐに救急車を向かわせます。鍵は自力で開けられますか?』
 私はなんとか起き上がり、ベッドに背を預けながら、玄関に視線をやる。
「はい……」
 私は床に積んであるタオルを手に取り、手首を押さえながら、再び腹這いになった。止血しながら床に肘を交互について、這って玄関へ向かう。
『依』
 幻聴だろうか。
『依、諦めるな』
 そんなこと、あるはずがないのに、玄関の扉の向こうから彼に呼ばれている。
『そこから逃げるんだ』
 声に突き動かされるように、濡れた重い身体を動かす。そのとき、ずるっと血で腕が滑った。
「うっ……」
 床に顎を強打するが、その痛みで少しだけ意識がはっきりとする。奥歯を噛みしめて顔を上げると、出口を目指した。
 頭が重くて痛い、視界が揺れる。
『頑張れ!』
 他人事だと思って。
 途切れそうになる意識を繋ぎとめる声に導かれて、玄関に続く廊下までやってきた。ドアスコープから差し込む光に、思わず目を細める。
 いつかの私も繋を励ましながら、彼が来るのを扉の前で待っていた。あのときの繋とは、すっかり立場が逆だ。
 彼も今の私と同じように、光を目指したのだろうか。
 息を切らしながら、少しずつ前へ進む。ようやく扉の前まで辿り着くと、腕を千切れそうなほど伸ばした。
「……ぅ……くっ!」
 ようやく、高いところにある鍵に指が届く。
 ――わたしはめくらであったが、今は見えるということです。
 繋の影響で読むようになった聖書にそんな言葉がある。
 世界は相変わらず狂っているけれど、コンビニのオーナーやヒアシンスさん、神父様のように、その中に確かに私たちを見てくれている人がいた。
 そして、砂長くんや繋に出会えたように、また傷を持つもの同士で繋がり合える誰かに出会えるかもしれない。
 だから、無駄だと諦めないで声をあげる。怖がらないで、人と繋がるために手を伸ばす。
 私は蜘蛛の糸に縋るように取っ手を掴み、ドアを押し開ける。真っ白い光が差し込む中で、誰かが――繋が微笑んでいる気がした。
「っ、助けて!」


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