「生なる傷痕」 エピローグ
あれから季節がひとつ巡り、春が来た。
私は勤めていた職場を辞め、あの教会の神父のもとを訪ねた。今まで繋との思い出がある場所に足を運ぶのを避けていたので、数年ぶりの再会だった。その神父の紹介で、今、世界各国で活動するキリスト教団体が経営する児童福祉施設で働いている。
裾が足首まである紺色のニットワンピースと、その胸元で静かに光るロザリオ。まるでシスターのような出で立ちで、繋がくれた聖書を片手に廊下を歩いていると、
「依先生、おはようございます!」
前から走ってきた子どもたちが、元気よく私の横を駆け抜けていく。
「おはよう」
そう返事をして、ふと足を止める。廊下の窓から見上げた空は澄んだ海の色をしていて、飛行機は魚のように白い水飛沫の雲を上げながら一直線に泳いでいる。
同じ空の下にある他の国のお話。この二十一世紀に先進国の大国が同じ先進国の小国に戦争を起こしたらしい。
科学技術が発展して、昔の戦争とは比べものにならないほどの威力を持った兵器。死傷者がたくさん出ているだけでなく、病院や学校、住宅といった建物も次々と壊されているのだとか。
これが、私の生きている世界。
――万物の終りが近づいている。
世界の終わりを意味する聖書の言葉だ。
――だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
絶望に直面したとき、私は自分を傷つけることで苦痛を誤魔化し、現実逃避してきた。けれど、考えることから逃げるのではなく、素面で責任を持って生きなさいと聖書は言う。そうすれば、祈った夜明けに辿り着くと。
――なによりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。
私たちは自分の弱さや歪さや未熟さのせいで、誰かを傷つけたり、争い事を起こしたり、大なり小なり罪を犯す。だからお互いに理解し、赦し合って足りないものを補い合う……その愛情を私はこれから、ここにいる子供たちに注いでいく。自分と同じように普通を手に入れられず、歪んでしまったとしても、自分を好きでいられるように。
そうやって過去を昇華して、私自身も救われることを望んでいるのだと思う。この先、奉仕の形は変わっていくかもしれないけれど、今はそれが私の使命だと感じるのだ。
私の近況は、刑務所にいる砂長くんには手紙で、ヒアシンスさんにはスマートフォンでメッセージを送って伝えた。ふたりから返事もあった。私たちはこの空の下で、同じ傷を抱えながら繋がっている。
私は目の前の窓を開けた。暖かな緑の香りを含んだそよ風が髪を撫でる。
日差しの心地よさに目を閉じると、真っ暗な視界に繋と見た深い藍色の空と海が蘇った。繋が留めておきたかった時間。あの瞬間は、これからもずっと夜だ。でも……。
瞼越しに感じる朝の光が、優しく記憶の中の藍色の空と海に滲んで広がっていく。
繋と生きた夜が恋しくて寂しい。けれど、繋との思い出をこんなに穏やかな気持ちで振り返れる今が幸せだと思う。
私は目を開けて、世界をまっすぐ見つめると、ロザリオを握り締めた。
私はたぶん、また夜から出られなくなることがあると思う。
でも、繋が遺してくれた祈りと、名言集という名の聖書たちと、きみの懺悔という名のラブレター、愛された瞬間の記憶、そして……。
この痛みと傷――生なる傷痕に、私は生かされ続けるのだろう。
参考文献
・日本財団.“数字で見るヤングケアラー”. 日本財団ヤングケアラーと家族を支えるプログラム. https://youngcarer.jp/report/, (参照2025-02-23)
・東洋大学.“LINK@TOYO今こそ身につけたい“教養”、大人のためのWEBマガジン”.介護は家族で行うべき?中学2年生の17人に1人が当てはまる「ヤングケアラー」。その実態や課題を解説. 2024 MARCH12. https://www.toyo.ac.jp/link-toyo/social/youngcarer, (参照2025-02-23)
・日本司法支援センター(法テラス).“霊感商法の被害にあわれた方(チラシ)”. https://www.houterasu.or.jp/site/reikan-higai/#cmsdenwa, (参照2025-03-07)を加工して作成
