「生なる傷痕」一章 同類
毎日のように世界の不幸を伝えてくるニュースを見るたび、この世界はもうじき終わるんじゃないかと思う。
世界的なパンデミックや災害、異常気象による洪水、大地震や津波が立て続けに起きた。大量の死者が出て、もともと少なかった出生数も相まって、人口は大幅に減少。住む場所や仕事をなくした人もいる。傷が癒えないうちに不作によって物価が上昇し、誰もが疲弊していて、余裕がない。パンデミックのあとに当たり前になったリモート生活は便利で楽な反面、人との繋がりを薄くして、孤独を感じる。
これが、私たちの生まれた世界。
それから二年、免疫を獲得して、その病原体がインフルエンザと同じくらい身近になった今も、世界の有様はパンデミック前に戻ることはなかった。身体の一部になってしまったかのように、道行く人がマスクをつけている。そうやって変化した世界からは、新しい習慣、常識、ウイルスや人、良いもの、悪いものが生まれる。
……私もたぶん、その中のひとり。
高校二年目の秋。
十月になり、衣替えして制服が重くなると、なんとなくそれだけで気分は憂鬱だった。
昼休み、いつものように女子トイレにこもった私は便座に腰掛け、我慢できずに腕にカッターを走らせる。
「……っ」
鋭い痛みに奥歯を噛みしめ、それでも足らず頬の痣にも手を伸ばした。これは今朝、義父に殴られたときについたものだ。
痣に強く指を押し込むと、骨に響くような鈍い痛みを感じて、口元は酔いしれるように勝手に笑みを浮かべる。
痛い……それを感じられている私は……ちゃんと生きてる。
かなりやばいやつだと自負している。――が、こうしないと私は生きていけない。
痛みを堪能したあと、腕にガーゼと包帯を巻いた。満足感にほんの少し混じる罪悪感には気づかないふりをして、スクールバックと昼食の入ったコンビニ袋を手に個室を出る。荷物を台に置いて、手を洗いながら鏡を見た。
痛みはあんなに気持ちがいいのに、血の気の引いた顔。ネットの情報によると、強い痛みやストレスがきっかけで、迷走神経反射というのが起こるとこうなるらしい。この身体がちゃんと、生きている反応を示している証拠だ。
私は白い肌を汚すように浮かび上がっている痣へ視線を移す。
不健康そうな傷だらけの顔で無理やり笑ってみせれば、切れた口端にぴりっと痛みが走った。その瞬間、麻薬が抜けたかのように、私はすっと表情を失くす。
「気持ち悪りぃな」
吐き捨てるように言い、マスクを引き上げて痣を隠した。
今さら、なにかを取り繕ったところで手遅れだ。もとには戻らない。
トイレから出ると、横から来た誰かとぶつかった。よろめきながら顔を上げれば、黒髪の端正な顔立ちをした男子生徒と目が合う。クラスは違うが、同級生の逸色だ。
爽やかな華やかさを纏った彼は友人らを背に少し驚いた様子でこちらを見ていたが、すぐに我に返ったらしい。
「大丈夫?」
逸色が顔を覗き込んでくる。首を傾げた彼の首元でなにかが揺れた。白い数珠のようなものがいくつもついたチェーン。白いワイシャツの下に見えた大ぶりのアクセサリーは、いかにも好青年である彼には不釣り合いで、どこか背徳的だった。
この男のことはよく知らないが、学年問わず女子生徒に告白されているらしい。人の名前を覚えるのが苦手な私の耳にも残るほど、クラスの人間の話題に上る。
男子生徒たちもその恩恵にあやかりたいのか、彼とこんな話をしただの、一緒にカラオケに行っただのと仲良いアピールがなかなかにイタい。
私みたいな嫌われ者にも和やかに話しかけている逸色を、親衛隊たちはいいやつだなと感心した目で見ている。〝自分たちが虫のように群がっている花が、造花だと気づきもしないで〟。
気持ち悪りぃ。
この男の顔を覆っているのは、誰かの機嫌を窺って生きてきた人間の明らかな作り笑いだ。
湧き上がる同族嫌悪から、反射的に睨みつけると、踵を返して歩き出す。後ろで彼の友人たちが喚いていたが構わず、かつての自分から逃げるようにその場を離れた。
✝︎✝︎✝︎
「なんだあれ、感じ悪いな」
遠ざかる彼女の背をじっと眺めていると、隣にいた友人がぼやいた。それを皮切りに、他の友人らも彼女を叩き始める。
「あの子、直里依……だっけ? 同中のやつがこの学校にもいてさ、中学でカンニングやらかしたかなんかで、先生に呼び出されてたって聞いたぞ」
「はあ? ダセェ。今時流行らねえ問題児かよ」
「俺は腕にリスカの痕があるとか聞いたけど」
リストカット……俺を睨みつけてきたあの目、死にたがりには見えなかった。
「わざとお前にぶつかってきたんじゃねえの?」
からかうように肘でつつかれるが、俺は彼女の背中から視線を逸らさずに呟く。
「……彼女、死体みたいに顔が真っ白だったな」
うっかり口走った自分の発言に、友人たちはぎょっとしていた。
「死体? 怖ぇ言い方するなよ。具合、悪かったんじゃね?」
「繋、ときどき言葉遣いが変なんだよね」
友人たちの話をよそに、俺はじっと彼女の後ろ姿を見つめ、マスクの下でほくそ笑んだ。
✝︎✝︎✝︎
コンビニの夕勤は帰宅ラッシュで忙しい。
学校のあとにシフトに入ると、どうしても行列になった客をさばく時間にぶつかる。
愛想がないうえに痣がある顔をマスクで隠して、ひたすらレジ打ちをした。それから客の波が去った頃合いで、バックヤードに少なくなった袋の補充を取りに行くと――。
「ほんと、あの子の休み癖、なんとかならないの?」
騒いでいるのは、今日バイトに来るはずだった砂長雪斗の代わりにシフトに入った森谷さんだ。このコンビニは家族経営で、オーナーが息子、店長が父親、母親の森谷さんが一店員として働いている。
「今月に入って三回目よ。なんでみんながあの子の代わりにシフトに入らなきゃいけないのよ」
「まあ、高校生だからね。そんなもんだって」
オーナーは穏やかな人で、まったくといっていいほど怒らない。普通の人のように愛想よく振る舞えない私が、ここのバイトを続けられているのは、オーナーの人柄のおかげだ。
静かに袋の入った箱を抱え、レジに戻ると、少しして森谷さんも肩を怒らせながらやってくる。
「急にバイト休まれるのって、ほんと迷惑よね」
土壇場での欠勤に腹が立つのはわかるが、砂長くんの仕事中の態度は私が接した限りいい。引っ込み思案そうだけれど、積極的に品出しに行くし、レジにも入ってくれた。
「なにか、あったんじゃないですか? 砂長くん」
「インフルエンザに、身内の不幸だそうよ。立て続けにね」
明らかに信じていない物言いが癇に障る。
砂長くんは、失敗を過度に気にするところがあった。周りに迷惑をかけたくない気持ちが強くて、追い込まれて出勤できなくなっているのかもしれない。
いつもどこか疲れた顔をしていたし、『頑張ります』が口癖なのも少し心配だった。
「それが嘘だったとしても、なにか人に言いにくい別の悩みがあるのかもしれないじゃないですか」
森谷さんみたいに事情を聞く前に怒る人がいるから、それを言葉に出来ないのだ。そもそも、周りを頼ることを知らず、ひとりで頑張ってしまう人もいる。
「砂長くんになにか悩みがあったとしても、仕事に持ち込むべきじゃないでしょ?」
ああ、この人はそんなふうに割り切れる悩みしか知らないで、ここまで生きてこれたんだな。いいな、幸せそうで。
そう皮肉交じりに言えたならすっきりするだろうが、森谷さんに嫌味のねちっこさで勝てる気がしないので、心の中だけに留めておく。
「そりゃね、誰にだって悩みくらいあると思うのよ? でもね、社会に出たら学生のときより、もっと辛い経験をしたりするんだから」
辛い経験に子供も大人も関係ない。それに、もっと辛いことってなんだ。勝手に大したことないって決めつけるなよ。その大きさを計れるのは当事者だけだ。
自分を粉々になるまで壊されたあと、普通に戻れなくなる人間がいる。人より脆くて、傷つきやすくて、普通にならなきゃと水底で必死にバタ足している人間がいるなんて、微塵も思わないんだろう。
わかってる、自分にすり替えてムカついているだけだって。砂長くんがただ面倒でバイトを休んでいるだけかもしれないことも。
でも、なにかがきっかけで、人より誰かの顔色を窺いやすくなったり、責任や緊張を感じやすくなったりして、生きづらさを抱えることになってしまった人間だっているのだ。
だからいつも、なんとなく憂鬱で、疲れていて、仕事に行けない人だっている。
この不幸に満ち溢れた世界で生きていれば、いつ誰にでも起こりうることだ。それを知らずに歳をとれたのは幸せなことだけれど、無知であるがゆえに人の痛みを想像できない人間は平気で人を傷つけるから嫌いだ。
とはいえ、森谷さんみたいに自分の価値観を押し付けてくる人間にはなにを言っても無駄なので、討論する気もないけれど。
「そうですね。あ、補充行ってきまーす」
ここには仕事をしに来たので、おばさんの愚痴に付き合うのは業務外だ。
私は適当に相槌を打ち、さっさとレジを離れて無駄に多く品出しをした。
バイトが終わったあと、いつものルーティーンで公園にひとつだけ設置されている多目的トイレに立ち寄った。家の人間が寝静まるまで、時間を潰すためだ。
暇つぶしに新しい傷をつけようと、自分の手首の瘢痕を撫でながら扉を開ける。
「……は?」
目の前の光景に一瞬、思考が停止した。
中には便座にぐったりと座り込んでいる裸の男がいる。
死んでる……?
化石になったように立ち尽くしていた私は、はっとして救急車を呼ぼうとした。震える指で番号を打ち込んでいるところで、後ろから伸びてきた手にスマートフォンを奪われる。
「おっと、通報は困るんだよね」
若い男の声だった。首筋にナイフの先を当てられたかのように身体が硬直する。ばくばくとうるさいくらいに心臓が鳴っていた。
恐る恐る振り返ると、チェックジャケットの下に黒いタートルネックとスキニーパンツを身に着けた男がいる。その首元で揺れているのはロザリオネックレスだ。長いネックレスチェーンは、昼間に学校で彼がワイシャツの下につけていたものと同じだった。
私服なうえ、黒いマスクで顔半分が隠れているせいで一瞬誰だかわからなかったが、日々を作り笑いで過ごす学校の人気者がそこにいた。
「ぁ……逸、色……?」
掠れた声で呼べば、彼はあざとく小首を傾げながら、人差し指でマスクをずらして、にこやかに「うん」と認める。
この状況で平然としている彼とは対照的に、私は気が動転しながら便座にぐったりと座り込んでいる男に向き直る。
「こ、この人……死ん――」
言いかけながら振り返った私は、ぞっとした。歪な笑みに塗り替えられていく好青年な面が近づいてきて、ごくりと喉を鳴らす。
「死んでないよ、眠ってるだけ」
耳元で囁かれ、寒気が走った。私は息を呑むと、耳を押さえて飛び退く。
「じ、じゃあ早く起こさないと。こんな裸でいたら死ぬって……」
秋っていっても夜は冷える。
「だからいいんじゃん」
けろっと言ってのけた彼に、私は耳を疑った。
「……は?」
「肌が冷たくなるほど、唇や爪が青くなるほど死体っぽくなる。それに、この外に放置されてる感もいい」
「…………」
わかった、この人もやばいやつだ。
逸色は私の考えを見透かしたように目を細める。
「俺のこと、やばいやつだと思ったでしょ」
「こんな状態の人間を見つけておいて放置してるうえ、死体っぽくていいとか言ってる人間をまともとは言わないだろ」
呆れた目で見れば、逸色はぶっと吹き出した。
「正直! ってか、口悪! それが素?」
「……私の話はどうでもいいんだよ。つか、この人寝すぎじゃね?」
普通、寒くて起きないだろうか。お酒で泥酔しているなら別だけれど。
「そりゃ睡眠薬飲んでるからね」
信じられない思いで逸色を見上げる。
「……なんでそんなこと知ってんだよ」
「俺が仕込んだから。カフェで彼がトイレに行ってる間に、こっそりコーヒーに」
しれっと罪を告白され、愕然とする私を置き去りに、逸色は世間話でもするみたいに続ける。
「アルコールと一緒に摂取させられれば、もっと長く死体プレイが楽しめるんだけどね。居酒屋とかなら他の客のことなんか眼中に入ってない客ばっかで騒がしいし、静かなカフェよりやりやすいと思うんだ。でも俺、未成年だから、酒はね」
「そっち気にする前に、人に睡眠薬盛るんじゃねーよ」
「えー、殺さないで死体プレイで我慢してるんだからよくない?」
「よくねーよ。我慢してこれかよ。混乱の極みだわ」
「ぶはっ、俺もよく言葉遣いが独特だって言われるんだけど、直里さんもなかなかだね」
笑い事じゃねえし。今、その話、マジでどうでもいいし。巻き込まれる前に逃げよう。
急いで踵を返すと「おっと」と手首を掴まれる。すると、服の袖がめくれ、リストカットの痕が露わになる。
目を見張った逸色に気づき、私は慌てて腕を引いて傷を袖で隠した。
「薬……盛って死体プレイって、この人のこと襲ったってこと? 男だけど」
なかったことにして話を続けると、彼も「うん」と見て見ぬふりして乗ってくれる。
「興奮するのに性別は関係ないしね。死んでてくれればそれでいい」
今まで出会ったことがない、やばい性癖の持ち主。しかも、ここまで大っぴらに打ち明けるなんて……。誰にも理解してもらおうと思っていないゆえの正直さか、もうバレてしまったから投げやりになっているのか、堂々としている。
普通じゃない価値観に悩み苦しむことも、罪悪感を抱くこともないのだろうか。だとしたら、羨ましい。……とは思いつつも、本音とは裏腹な言葉が口を衝く。
「まさか、学校の人気者が死体好きのレイプ犯だったとはね」
「案外、愛想がよくて人が好さそうで、人畜無害ですって顔してるやつのほうが、とんでもないサイコ野郎だったりするよね」
「お前みたいなやつな」
「ぶっ、ほんと直里さん面白い。犯罪者と普通に話してる直里さんも普通じゃないよ」
「……普通じゃないと駄目なわけ?」
目を伏せ、少し八つ当たりっぽく返してしまった。不快にさせたのか、逸色が無反応だったので様子を窺うと、彼は目を見張っていた。
なんで、驚いてんだよ。
怪訝に思いつつも、じっと注がれる視線に居心地が悪くなり、顔を逸らす。
「……そんで? どうすんの、これから」
「……? どうもしない、帰るよ?」
なんでそんなことを聞くんだとばかりの顔で言われ、さすがに呆れた私は逸色を振り返る。
「やることやって放置かよ。ろくでなしか」
「ははっ、まあアルコールと混ぜたわけじゃないし、軽い睡眠導入剤だから、すぐに目が覚めるよ」
そう言って、逸色は気安く私の手を引いてトイレを出た。振り返れば、男を残して、ゆっくりと閉まるドアが見える。
彼のことは気がかりだったが、なぜか横やりを入れる気にならず、私は素直に従った。
あのあと、逸色はあっさりスマートフォンを返してくれた。『またねー』と軽い調子で手を振ってきた逸色を無視して家に帰ったのだが、やはり置いてきてしまったあの男がどうなったのかが気がかりだった。
翌朝、私は座る間も惜しくて、立ちながらテレビを確認してみたのだが、ニュースで取り上げられている様子はなく、ひとまずほっとする。
ああいう死体好きって、他にもいるんかな。
スマートフォンで調べると、ネットの辞典の文章がヒットした。
【ネクロフィリア(necrophilia) 読み方:ねくろふぃりあ 死体に性的興奮を感じる異常性欲。死体性愛。屍姦症】
へえ、と文章を読んでいたら、リビングをふたつに仕切る襖の向こうから、母親の喘ぎ声が聞こえてくる。少しだけ隙間が空いており、中にいた義父と目が合った。その瞬間、義父の眦が上がる。勢いよく立ち上がり、大股で近づいてくるなり、大きく拳を振り上げた。
「なに見てんだ――よ!」
初めに感じるのは痛みよりも衝撃。キーンと耳鳴りがして、世界が白く靄がかり、テレビの音が遠ざかる。飛ばされるように床を転がり、ジワジワと熱と痛みが頬に広がった。
軽い脳震盪を起こしたのか、世界が白くぼやけて揺れている。頬を押さえながら、なんとか身体を起こすと、寝室から母親が出てきた。
長い髪はぼさぼさで、キャミソールと下着のパンツ一枚で歩いてきて、なんの関心も映っていない目でこちらをじっと見下ろしてくる。この女はいつだって見ているだけ、娘を助けようともしない。
「はは……」
痛い……。
頬を押さえ、乾いた笑みを零す私を義父は虫でも見るような目で睨んだ。
「また笑ってやがる。気持ち悪りぃな。イカれてんのか?」
痛い……。
胸が鋭く刺すように疼き、じわりと目に涙が滲む。
でも、痛いから、まだ生きてる。どんなに踏みにじられても、私は存在してる。
昼休み、いつものように痛みを摂取したあと、トイレの個室を出た。手洗い場に買った昼ごはんの入った袋とスクールバックを置いていたら、「汚な」とよく知らない女子生徒に笑われた。
そんな言葉、言われ慣れている。父親に床に料理を落とされて、それを犬のように拾って食べたことがある。そんな私を義父は母親と一緒に『汚ねえ』と笑ったが、食事が出るだけマシだと思えた。
なにが楽しいんだか、いまだにくすくす笑っている女子生徒たちのことは気にせず、荷物を持って廊下へ出た。
みんなが誰かと群れている。ひとりでいる人間を可哀想とか、少し優位に立った気持ちで、あるいは無関心に見ている。
自分も中学の二年頃までは、その他大勢に溶け込むために必死だった。
普通じゃない自分を隠すために普通なふりをして、傷を隠して、みんなと話を合わせて、違う意見を言わず、強い人間に共感して生きていた。家でそうしてきたように。
身体に沁みついていたのだと思う。逆らわず、従う処世術が。でも、ずっと息を潜めていることはできなかった。
親はたまに親の真似事をする。普段は興味すらないくせに、たまたま目に入ったテスト用紙に悪い点数が書かれていたとき、馬鹿だと突然殴りつけてくる。
こっちは毎日、生きるのに必死だ。とてもじゃないが勉強なんてしている余裕はなく、赤点を連発したときはボコボコにされた。
痛いのが嫌でカンニングをしたこともあった。それがバレたとき、同じグループで行動していた気の強い女子生徒がこちらの事情などお構いなしに、正義感を振りかざして責め立ててきた。さぞ、気持ちよかったことだろう。
私のしたことは確かに悪いことたったけれど、息をするのすら緊張する家で暮らしたことがあるだろうか。咳ひとつすればうるさいと怒鳴られ、家の中ですれ違うだけで邪魔だと張り倒される生活がどんなか、想像したことがあるだろうか。生きた心地のしない凶暴な殺人鬼がいる家で勉強をして、食事をとり、眠ることができる人間がいるだろうか。
最優先事項は生き残ることで、それは義父の機嫌をそこねないことだが、なにが引き金で怒り散らすか予測できないうえ、恐らくただイライラして当たっているだけのこともあり、それはもはや災害のように突然降りかかってくるので、家は世紀末だ。
命がかかっていたら、人間なんでもする。食事は毎回用意されるわけじゃなかった。でも、中学時代はバイトができない年齢だ。お腹が減れば親の買ってきたものを密かに奪ったこともあったし、財布からくすねたお金で買ったこともあった。見つかれば車で拉致されて、川辺を髪を掴まれて引きずり回されたこともあったが、それでも意地汚く生きてきた。
頼る大人がいないのだから仕方ない。カンニングの件で呼び出されたとき、私の手や顔にある痣に気づいた当時の女の担任教師もそうだ。
『大丈夫なの?』
遠慮がちに聞いてきたが、それだけだ。自分が言い出して大事になるのは嫌だったのか、踏み込んでは来ない。できればなにも言い出すなと、そわそわしている顔をしていた。聞いてきたのはそっちのくせに、虐待児を見捨てた教師になりたくなかったのだろう。だから、生徒を案じる教師を演じて体裁を守った。
この苦しみを知らずに、のうのうと生きてこれた人間に断罪される苛立ちと、理解者など存在しないのだという失望は今でも忘れられない。味方なんて、どこにもいなかった。
カンニングの件がきっかけで友人たちは離れていったが、私ももうどうでもよくなっていた。
高校に上がった今はひとりでいても惨めにならない過ごし方を見つけたせいか、ぼっちでいることが苦にならない。
人間は自分たちと違うものには残酷だし、それだけわかろうとしないやつが多い。だから擬態する。逸色みたいに一見普通に振る舞っているが、人には言えないなにかを抱えてる人間は大勢いるのだろう。そう思うと、少しほっとした。
そんなことを考えながら一階に降りると、上履きのまま中庭沿いの外廊下を歩く。すると、遠くで女子とふたりきりで話している逸色が見えた。告白だろうか。女子生徒は頬を赤らめながら、緊張と恥ずかしさが入り混じったような面持ちで気持ちを伝えているようだった。
青春の一ページを切り取ったような光景。それを透明なフィルター越しに見ているような感覚。いつもそうだ。教室にいても、確かにそこにいて授業を受けているはずなのに、自分を置いて景色が流れているように思える。昼休みの生徒たちの賑やかな声も遠くに感じる。目に見える世界の全てが現実に思えないことがある。
青春映画でも流し見しているような気持ちで、私はふたりを横目に校舎裏へ回った。東棟、音楽室の非常口に繋がる螺旋状の非常階段を登っていく。
最上階までくると、ぼんやりと階下を眺めた。
ここから落ちたら、痛そうだな。痛いほどいい。それだけ大きな生の実感が得られる。
願望に突き動かされるように、前のめりになりかけたとき――。
「直里さんって、なんかふらっと死んじゃいそうでいいよね」
聞き覚えのある声がして視線を斜め下にやると、下の階段から逸色がこちらを見上げていた。
「悪いけど、自殺願望はないよ」
手すりに手をかけながら階段を上がってくる逸色は足を止め、目を丸くする。
「え? でも、リスカ常習犯でしょ?」
すぐに隠したつもりだったのだが、やっぱり昨日、公園のトイレで見られていたようだ。
「生きてなきゃ、実感できないだろ。痛いって」
興が削がれ、階段から落ちるのを断念し、踊り場の縁に腰かけると、袋からコンビニで買ったおにぎりを取り出す。
意味、わからないだろうな。
わかってもらおうとも思っていないので、無感情におにぎりの包装を開けてかじった。
私の傷を見た人間は大抵、自殺願望があると決めつけて、自傷行為をやめさせようとする。実際、学校の健康診断で私の身体を見た保健室の先生や担任は止めるよう説得してきたが、私からすればこの行為をやめることのほうが自殺行為だ。
担任は私を説得する言葉が他に思い当たらなかったのか、本音かは知らないが、他の生徒たちも私の手足を見ていたからだろう。
『みんなおかしいと思ってるぞ』
などと、奇妙な生き物でも目の当たりにしたかのような目で、なんとも気の利いた助言をくれた。
「なるほど。生きてる実感が欲しくて、リスカしてる、と」
腑に落ちたという顔で隣にやってきた彼は、私と同じように階段に足を置く形で踊り場に座る。
わかってもらえるはずがないと思っていた私は、抵抗なくこちらの意図を察した逸色に驚いた。
「痛み、イコール生きてる実感、か。シンプルかつ、わかりやすくていいね」
自分の異常さを自覚しているだけに、それを受け入れられたことに戸惑っていると、逸色はどこか遠い目で宙を見つめる。
「みんなさ、生きてる実感なんてなくても生きられるから、それが必要な人間の考えなんて、これっぽっちもわからないんだ」
わかる、と思った。 いつも現実感がない。感情の動きや身体の感覚が鈍い気がする。というより、そうやって麻痺させないとやってられないほど、自分が身を置く現実は辛すぎた。
だから、生きている実感が必要なのだ。でないと不安になる。
「自分が本当に存在してるのか、確かめたい。自分がただ、心臓が動いてるだけの屍になってないか、痛みで思い出すんだ。ああ、ちゃんと生きてるって」
私の話を、逸色は静かに聞いていた。これまで接点がまったくといっていいほどなかった相手との沈黙は気まずいものだと思っていたのだが、逸色だと不思議と心は凪いでいた。
「俺はね、もどきだけど、死体に触れてるときが一番満たされる。ほっとするんだ」
「へえ」
相槌を打ちながら、純粋にそれはどんな感覚なのだろうと興味が湧いた。
「俺は死体の無抵抗さが好きなんだ」
「ああ……」
小さな変化に気づいてくれる柔らかい眼差し、心を温める優しい言葉、大切そうに触れてくれる手、生まれてきたことを喜んでくれる誰か――。
逸色も、自分が望むものを手に入れるのは不可能だと、悟ったことがあるのだ。
「死体なら逃げないし、拒否られないし、絶対に手に入るからな」
そう口にした私を、逸色は驚いたように見つめ、それから蛇のように妖しく微笑んだ。嬉々として、獲物を見定めるかのように。
「ねえ、聞いていい? 犯罪者かもしれない俺を、なんで通報しなかったの?」
唐突に変わった話題に一瞬きょとんとしつつ、逸色に睡眠薬を盛られたあの男のことが頭をよぎる。
通報しなかった理由は、今の語らいではっきりした。無意識に同じ匂いを嗅ぎ取っていたのだ。人間が酸素を欲するように、私たちは痛みと無抵抗な死体を欲している。全く同じではないけれど、通じ合うものがあると思えた。だから、これは多分……。
「同類のよしみ?」
「はは、疑問形。まあでも、納得」
彼も私に対して似たような印象を抱いたらしい。
私はコンビニの袋を漁ると、
「……食べる?」
同類と餌を分け合うような気分で、前を向いたまま、もうひとつあったおにぎりを逸色に差し出す。
「いいの? お弁当、教室なんだよね」
「なら教室戻れば? 勿体ないし、食べる時間なくなるぞ」
「いや、これがいい」
誕生日プレゼントでも貰ったかのごとく、逸色は両手で持ち上げたコンビニのおにぎりを眩しそうに見上げた。
「手作りでもなんでもないのに、そんなに嬉しいものかね」
彼を横目に見つつ、私は最後のおにぎりを口に入れ、お茶で流し込む。
「嬉しいよ。これは俺だけに直里さんがくれたものだし」
逸色はまだ袋すら開けていない。じっと、おにぎりを見つめている。
「いや、早く食べろよ」
さすがに見かねて促すと、彼はまるで儀式かのように丁寧に袋を開け、おにぎりを頬張る。それを眺めながら、躊躇いがちに聞いてみた。
「……お弁当」
「ん?」
「そのお弁当は、逸色のために作られものじゃないのか?」
「うん。他の人のために作られたものを、俺が貰ってるだけだから」
「他の人?」
逸色は「そ」とだけ答え、本心を閉じ込めるように薄い笑みで覆った。それ以上は傷が裂ける、だから切り込まれたくない。彼からはそんな拒絶を感じたので、それ以上は踏み込まない。
「まあ、見た目はいいんだし、逸色のために弁当作りたい人間はわんさかいると思うよ。さっき告白してきた子とかさ」
「やっぱり見てたんだ」
「私が行く先に、たまたまお前がいたんだよ。てか、そっちも気づいてたんかい」
「うん、だから追いかけてきた」
逸色はおにぎりを食べ終えると、「ごちそうさまー」と満足げに言いながら、そのまま後ろに倒れるように寝転がる。
青い空には雲が流れていて、逸色は少し眠そうに目を細めた。
「俺の上辺しか見てないのに、好きだとか言われても、どうとも思わないよね。そもそも俺は死体じゃないと愛せない」
「それカミングアウトしたら、みんな卒倒するだろうな」
それを想像して、ちょっと笑った。すると、逸色がごろりとこちらを向いて横になる。
「だから他に好きな子がいるんだって言っといた。間違ってはないでしょ?」
「好きな子っていうより、死体な」
「正確に表現すると、やばいやつのレッテル貼られて面倒だからね」
「そうね。学校は保護者面談とか言い出すだろうし、運が悪ければ精神科送り? 私が自分を痛ぶるのが好きです、とか言っても末路は同じだろうけど」
その点、うちの親は私に無駄なお金を使うのは嫌だろうから精神科には行かせないだろう。高校の学費と自分の食費は私がバイトで賄っているくらいだ。
傷を教師に見られて親が呼び出されたときも、面談には来なかったので助かった。まあ、面倒を起こすんじゃねえと殴られはしたが。
ぼんやり空を仰いでいると、踊り場についていた手を握られた。
「そのときは、ふたりで逃げようか」
本気か冗談かわからない目が、こちらを見上げている。
「逸色は、うまく他のやつらと同じように擬態できてるだろ。逃げるような事態にはならないと思うけど」
「ずっと隠し通すなんて無理だよ。どっかで絶対ボロが出る」
否定はできない。私は自分を守るためにカンニングという罪を犯した。親に命じられれば、生きるために窃盗や殺人、なんでもしたかもしれない。
だから、痛みは悪いものじゃないと思い込むことにした。すると最初は怖くて嫌だったはずの痛みが、今では生を実感する唯一のものになった。例えるなら、タバコかコーヒーだ。
中毒になって、エスカレートする痛みへの欲望を隠しきれず、傷だらけの身体という異端な姿になり、私はただそこに存在するだけで周囲の人間に嫌悪感を抱かせる生き物になった。その代わり、親の支配から少し逃れられるようになって、おかげさまで痛みから逃れるために道を踏み外すようなことはもうしていない。
私が心を守るために周りにも認知される異端者になったように、逸色も自分の本当の姿を知られるときを、綱渡りをしている気持ちで待っているのだろう。本当の姿を知られたとき、まるで異端審問を受けるかのような、火あぶりに処される魔女のような、世界の全てが敵に回る恐怖を味わうことになるのだろうと恐れて。だから――。
「……いいよ」
一緒に逃げてあげてもいいかと思えた。どうせ、お互いに行きつく先は犯罪者か自滅か、あまりいい未来は待っていないだろう。
昨日までまともに話したことがない相手だったけれど、ソウルメイトに出会ったような不思議な親近感がそう言わせた。
なんとなく、 手を離さずに和やかに流れる時に身を任せていた。やがて予鈴が鳴り、私は名残惜しさを振り切るように手を離すと、立ち上がった。
「そんじゃあな」
どんな顔をして彼を見ればいいのかわからず、前だけ見て階段を降りていく。
「直里さん」
呼び止められて、つい振り返ってしまった。逸色は困ったように笑っている。
「連絡先、交換しない?」
どうしたものかと、揺れている自分の気持ちに整理をつけられぬまま答えた。
「……いいよ」
