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「生なる傷痕」二章 分かち合う

 午後九時を少し過ぎた頃、コンビニのバイト帰りにスマートフォンを確認すると、早速メッセージが来ていた。
Kei【逸色繋です。登録よろしく】
 繋……って言うんだ。同級生とはいえクラスも違うし、知らなかった。というより、そもそもあまり人に興味がないせいか、クラスメイトの下の名前さえ覚えきれていないのだが。
より【直里依です。よろしく】
 似たような文面を打って、しばらく画面を見つめる。
 なんとなく、らしくなく返事を待ってしまう。メッセージアプリなんて、バイト先の人間とシフトについて話すツールとしてしか使っていなかったのに。
 イヤフォンで音楽を聴きながら、家ではなく公園への道のりを歩いていると、電話がかかってきた。滅多にない着信に、少し緊張しながら出る。
「……はい」
『どうも、夜に悪いね……ん? あれ、今外?』
 弾む呼吸か、足音か、風の音が電話越しに伝わったのだろう。
「バイト帰り」
『バイトしてるんだ。どこで?』
「駅近のコンビニ」
『コンビニか……ぷっ、なんか直里さん、嫌な客とか来たら睨んでそう』
「失礼な。でもこの前、俺のことを温めてくださいとか言ってきたサラリーマンがいて」
『俺ほどじゃないけど、やばいね。それでどうしたの?』
「揚げてやりましょうか? って、後ろのフライヤーを親指で指してやった」
『……え、本当に?』
「っていうのは冗談で、火傷しそうなくらいチンして弁当返してやった」
『ねえ! ビビったから! 本気で言ったのかと思ったじゃん! ぶっ、ほんと直里さんって……クビになんなくてよかったね』
 よほど可笑しかったのか、逸色は声を震わせている。
「それが困るから、一応は我慢してんだよ」
『偉い偉い。あ、ねえ、昨日のことなんだけどさ、なんであんな時間に公園にいたの?』
「バイト終わったら、立ち寄るのが日課だから」
『そう……だったんだ』
 意味深な相槌のあと、間があった。
 女子高校生が家に帰らずに公園で時間を潰している理由を、嗅ぎ取られたのかもしれない。やめろと正義感を振りかざして諭してくるのか、それとも新しい切り返しをしてくれるのか。やはり私は、逸色の普通じゃないところに期待しているらしい。
『公園の多目的トイレ、広くて使いやすいしね』
「…………ぶっ」
 予想のはるか斜め上をいってくれた逸色に、吹き出してしまった。
『今、笑った?』
「は? 笑って……っ、ねえし」
『いやいや、めっちゃ笑ってるじゃん。むしろ、そんなんでよくごまかせると思ったよね。てっきり、直里さんもあそこの広さとアブノーマル感に引かれて使ってるんだと思ったのに』
「人の癖にどんどんオプションつけんじゃねえ。私は見えない場所なら、どこでもいい派」
『なーんだ。昨日、トイレから出てきた直里さんとぶつかったじゃん? あんときもやってたんでしょ?』
「言い方がなんか引っかかるけど、うん」
『でしょ? だからトイレ、好きなのかと思ったのに』
「いや、トイレ好きなやつってなに?」
『いるかもよ? 限界を超えるようなプレッシャーを受けて、ねじ曲がった果てに、そういうのに目覚めた人がさ』
 俺たちみたいに、と言われている気がした。
「他の人はともかく、私は広さは必要ないから、逸色と違って」
『それもそうか!』
 逸色は可笑しそうに納得していた。
『まあ、ともかくさ、夜の道草に俺も付き合っていい? 電話でだけど』
「うん、どうぞ」
 私は公園に入ると、真っ先にブランコに向かって腰かける。
『話しながら、スパスパやっててもいいし』
「ぶっ、スパスパって……初めて勧められたわ、切れなんて」
『だって呼吸止めろとか、それこそ自殺行為でしょ』
 つい、口を噤んでしまった。今の私にとって、痛みは呼吸と同じくらい必要なものだ。それをわかってもらえたことに、不覚にも胸を打たれている。
『あ、でも切る以外でもよさそうだよね、直里さんって。今日、階段の縁ギリギリに立って下見てたじゃん? 落ちたら痛いだろうなーって、うずうずしてたんでしょ』
「すご、よくわかったね」
『うん、なんでか……ね』
 引かれていないし、むしろ好意的に受け止められている気さえする。人に言えない秘密を互いに分かち合っているからだろうか。どこまで話してくれるのか、どこまで平然と受け入れてくれるのか、試してみたくなった。
「あの、さ……この間、死体もどきになってた男の人。あれから訴えてきたりとか、してきてないの?」
『それはないよ。ちゃんと同意を得てやってるし』
「へー、睡眠薬盛って、トイレでいたしてもいいって同意を?」
 半信半疑でいると、逸色は『心外だなあ』とちっともそう思ってない様子で言った。
『裏垢男子って聞いたことない?』
「あるけど……」
 大多数は確か、出会い目的にSNSの裏アカウントを使う男子のことだったはず。
『SNSでタナトスって、調べてみ』
 言われるがまま、スマートフォンで検索すると、すぐにアカウントを見つけられた。
【タナトス 1年で1000人以上の男女と死体プレイ 動画→https://d……】
 アカウントのプロフィールを見て、私は目を剝きそうになる。
「フォロアー……七万人越え!?」
『うん。一年で千人以上からDMが届くよ』
「そんなに需要があんのか……」
『向こうは単なる興味本位とか、いつもと趣向を変えたセックスがしたいとか、そんな理由だったけどね。彼氏とか夫にはできないことも、知らない相手ならって踏み切れるんだと思うよ』
「へえ……」
『ただの気まぐれでもさ、受け入れてくれる相手がいるってだけでありがたいよ』
 彼らしからぬ弱気な物言いだった。私はどうにも落ち着かなくなって、うなじを手で押える。
「あー……私の場合はさ、自分ひとりで解消できるけど、逸色は相手ありきだし、大変だな」
『そうなんだよ。だからといって人形じゃ、やっぱ人とは別物だしね』
『でも、やっぱリスキーだな。最初は同意してても、あとで相手が自分の意思じゃなかった~とか言い出すかもだし』
「一応、対策はしてるよ。事前に自分の意思ですよって動画で言わせるようにしてる」
「それならいいんだけど」
『なに? 心配してくれてる?』
「……一応はね。そこが逸色の居場所なら、それをなくしてほしくないって思うし」
 逸色は嬉しそうに『そっか』と言った。
 夜の風がいつもより優しく吹いている気がする。沈黙が少しばかり照れくさい。
「アカウントの名前、さ……タナトスって、なに?」
『ああ、あれね。ギリシャ神話の死神のことだよ。夜の子とも呼ばれてるけど。フロイトの心理学用語では、無機物の不変性に帰ろうとする「死の本能と衝動」って意味があるんだって』
「無機物の不変性……逸色の好きな死体のことみたいだな」
『そ。だからタナトスにしたんだ。俺は死が持つ無機物の不変性を愛しいと思う。でも、その欲を抑えきれずに死体プレイなんかに耽る俺は、日の目を浴びてはいけない夜の子なんだ。そして、神に背いた俺はいつかサタンになるのかも』
「神に背いたって……クリスチャンかなんかなのか? ロザリオ、ずっとつけてるし」
 私服で出歩くときも、学校でも肌身離さずつけていたような。
『クリスチャン……ではないんだけどね。あれは貰い物なんだ。よく行く教会の牧師がくれた』
「ふうん。教会に通ってるから、神様の名前とか詳しいんだ? サタンは確か悪魔だっけ?」
『うん。この死への憧れが、いつか取り返しのつかない衝動を引き起こすんじゃないかって、自分がときどき恐ろしくなるんだ』
 それでいつかサタンになるかも、なのかと腑に落ちる。
 私はふうっと息を吐きながら、夜空を見上げた。
「……それがなきゃ生きていけなくなった身体は、楽になりたくて、満たされたくて、もっと美味しいものを、質のいいものをって、人間の食欲みたいに求め続けるだろうしな」
 その果てに、自分だけでなく他者まで傷つけるような悪魔になってしまったら? そう考えると自分が恐ろしくなる。
『直里さんは、エロスだよね』
 気分が落ち込みかけたところで、逸色が意味不明なことを言い出した。
「は? なに突然、下ネタぶっ込んでくんな」
『ちょ、下ネタじゃないって。エロスはギリシャ神話で愛を司る神のことだよ。フロイトは死を表すタナトスと、生きる本能や性欲を表すエロスを人間の根源にある欲望だって言ったんだ』
「ふーん。私が生きるために自分を傷つけるのも、痛みがくれる快楽の中毒になってるのも、みんなが持ってるその本能のせいだとしたら、少しは罪悪感も薄まるかも」
『でしょ? まあ、俺たちの場合、外的要因のせいで、みんなが抑え込んでるその無意識の欲望が極端に突き抜けてて、若干ねじ曲がっちゃったんだとは思うんだけどね』
 外的要因、考えるまでもなく私の場合は家庭環境だ。きっと彼も。
『俺たちの根本は人と変わらないんだ、多分。ただ、ものすごーい少数派に進化しちゃっただけで。そう思ったほうが気が楽にならない?』
「……気にしてるの? 人と違うこと」
 楽になりたいと思うほどに。
『……そうだね。普通の人たちの中にいると、こんなふうに考える自分はおかしいんだって気づかされることがたくさんあるから』
 私に現場を見られたときも、逸色は余裕そうに見えた。けれど、愛想笑いが板についてしまうような生活を送ってきたのだ。内心は怖かったのかもしれない。死体の無抵抗さに惹かれるのは、人に拒絶されたくないからだろうから。
「私さ、こんなだし、他人と慣れ合うなんて無理だって思ってて。世界でひとりぼっちっていうか……生まれる世界自体を間違えたんじゃないかとか、考えてた。でも……逸色が現れた」
『……俺?』
「うん、私みたいにおかしなやつが他にもいたんだって、ほっとしてるんだよね。私だけじゃなかった、ひとりじゃなかったって」
 電話越しに逸色が息を詰まらせるのがわかった。
『俺も……同じ。同じかもしれないって思ったから、直里さんと話したいって、会いたいって思うんだろうな』
 胸がとくりと音を立てる。
 逸色のストレートな言葉につられて、素直な気持ちが口からこぼれ出た。
「私も……逸色を知りたいって思って、なんか……逸色のことばっか考えてた」
『えっ』
「理解されたいって気持ち、久しぶりに思い出した。その相手は、逸色がいいんだと思う」
 誰かに期待しても無駄だって思っていたのに、生きてさえいれば神様はこんな奇跡をふと落としてくるらしい。
『俺も……俺を理解できるのは、直里さんだけだと思ってる』
「そっか。まあ、全部は難しいかもだけど、私は逸色を否定しない。そのままの逸色を肯定したい。私のことも、そうやって受け入れてほしいから」
 こんなに自分の考えを伝えたのはいつぶりだろう。親にもクラスメイトにも先生にも、どうせ伝わらないと諦めて、やさぐれていた自分はどこへいったのか。
 でも、今はちゃんと伝えなければいけないと思った。逸色の脆さが垣間見えた気がして、機会を逃すたびに彼は緩やかに、でも確実に壊れてしまう気がしたから。
『俺は直里さんの変わったところに興味を持ったんだよ。それがなくなった直里さんは、直里さんじゃない。ただ視界に入ってくるだけの風景と同じだったはずだ』
「……そっか」
『ニューノーマル』
「え?」
『直訳は「新しい常態」。社会に起こった大きな変化が新しい常識として定着することだよ。ひとたび起これば、変化が起こる前と同じ常態に戻ることはできない。数年前のパンデミックでマスクをつけるのが常識になったみたいにね』
「ニューノーマル……」
 逸色は私の知らないことをよく知っている。そういうところ、素直に尊敬する。
『結局さ、数の問題なんだよ』
「数?」
『そ。大多数の言葉が正しい、になっちゃうだろ。でも、こんな世界だから、いつか俺たちみたいな一度壊れてボロボロになって、元に戻れなくなった新人類がぼこぼこ生まれてくるんじゃない?』
「新人類がぼこぼこって……想像すると気持ち悪いんだけど」
 逸色が「ははっ」と笑ったのがわかり、少しほっとする。
『だからいつかさ、おかしい人たちがたくさん地上に増えたら、俺たちはおかしい、じゃなくて普通になるんだと思うよ』
「気の遠くなる話だな。それまでは息を殺しながら生きていくしかないわな」
 見上げていた空に煌めく、銀の星に願う。
 今は夜の下でしか傷をさらけ出して生きていけない私たちだけれど、いつの日か。太陽の下でありのままの姿で誰の目を気にすることなく生きていける未来があればいいのに、と。

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 夜の教会に差し込む月明かりは、ステンドグラスを通して室内を青く照らしていた。
「――うん、それじゃあ明日、学校で。おやすみ」
 二列でいくつも並べられた木製の長椅子のひとつに座っていた俺は、直里さんとの電話を終えると、耳からスマートフォンを外した。
「神に背いて、サタンの道を歩くのか」
 いつか、氷水を浴びせるかのようにかけられた言葉を復唱してみる。
「直里さんはどんなふうに、その道に堕落したんだろう」
 俺と直里さんは本当に似ている。彼女がどれほど俺に似ていて、痛みを共有できる人間なのかを知りたい。通じ合うものが確かな形を持ったなら、自分も安らぎを得られるはずだから。
 首元のロザリオを握り締め、窓越しに月を見上げた。
 似ている、じゃ足りない。もっと、完全に同じになれたらいいのに――。

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 新学期に入ってから、あっという間にひと月が過ぎた。
「ついに無断欠勤ね。もういいでしょ、辞めさせたら?」
 コンビニのバイトにやってくると、森谷さんがオーナーに詰め寄っていた。それを横目に見ながら、パーテーションの裏に入ると、制服のスカートからジーンズに履き替える。
「というより、もう来ないかもな」
 オーナーの言う通りだと思う。砂長くんは十一月に入ってから、一度も出勤してきていない。
「だから高校生は嫌なのよ」
 ここに高校生いますけど、と森谷さんの悪態に心の中で突っ込んでおく。
「そういうこと言うなよ」
 オーナーもパーテーションの向こうにいる私を気にしてか、母親を咎めた。
「でも……っ」
「それより、うちは給料手渡しだからね、取りに来てもわらわないとだから、いずれにしても連絡がとれるといいんだけど……」
 オーナーの声を聞きながら、ワイシャツの上から制服を身に着け、パーテーションを出る。
「砂長くんですか?」
「うん。電話したり、メッセージ送ったりしてはしてるんだけどね、連絡つかなくて。もし直里さんのところに連絡来ることがあったら、給料取りに来てって言ってもらえるかな?」
 砂長くんとは何度か一緒にシフトに入ったことがあるけれど、個別に連絡をするほどの仲ではない。オーナーもそれはわかっているのだろうが、それほど連絡がつく望みが薄いのだろう。
「わかりました」
 社交辞令になってしまいそうだなと思いながら答え、私はバイトの業務に入っていった。

kei【バイト終わった?】
 コンビニを出て、いつもの公園に向かって歩いていると、逸色からメッセージが来ていた。
 あれから逸色は、ときどき昼休みにあの踊り場にやってくる。バイトがあってもなくても、大体今の時間くらいにメッセージを送ってきて、話せる状況なら電話をするようになった。
より【終わったよ】
 そう打ち込みながら、公園のブランコに向かっていると、そこに先客がいた。
「砂長くん?」
 声をかけると、彼ははっとしたようにこちらを見て、慌てた様子で走り去っていく。
 なにも逃げなくても……。私は急にバイトを辞めたって、なんとも思わないのに。
 ため息をつきながらブランコに近づくと、砂長くんが落としたのか、地面に鍵が落ちていた。
 さすがに鍵がないのはまずいだろう。急いで彼を追いかけると、自分の落し物に気づいたのか、困った様子で立ち尽くしている砂長くんを見つけた。鍵を探しに戻ったものの、公園にまだ私がいるのに気づいて、出るに出られなかったのだろう。
「この鍵、砂長くんのだよね」
 彼のもとへ歩いていくと、「はい」と鍵を差し出す。
「あ、ありがとう……」
 砂長くんは、気まずそうに受け取った。
「バイト代、取りに来てほしいって、オーナーが」
「そう、ですよね。すみません……ちょっと、体調がなかなかよくならなくて」
 それが嘘でもなんでも、どっちでもいい。それよりも、砂長くんは大丈夫なのだろうか。生気のない瞳と目の下のクマ、顔が明らかにやつれている。髪もぼさぼさで、服にはケチャップや醤油であろう汚れがついたままだ。
「……バイト代さ、絶対に貰いに行ったほうがいいよ」
 彼に余裕がないのは見ればわかる。もっと気の利いたことが言えればよかったのだが、避け続けてきたコミュニケーションの弊害がここで出た。砂長くんは唇を噛んで俯いてしまう。
「……本当に迷惑をかけたと思います。でも、いろいろあるんです、僕にも」
 砂長くんは拳を強く握り締めていた。表情は長い前髪のせいで見えないけれど、怒りとやるせなさが混在したような声音だった。
「わかってもらえないと思うけど、僕だって、もういっぱいいっぱいなんです! だからバイトにも集中できなくて、森谷さんにはいつも怒られて、だんだん自分がどうしようもないやつに思えて……!」
「わかってもらえないって、辛いね」
 砂長くんが、はっとしたように顔を上げた。
「私は砂長くんがバイトを休んでも、別になんとも思ってなかったよ」
「え……」
「あと単純に、お金、大事でしょ。百円でも千円でもさ。だから辞めるにしても、貰いに行かないともったいないなって」
 私の反応は予想外だったのか、砂長くん困惑しているようだった。
 彼の姿を見て、自分に近しいものを感じた私は一か八かで踏み込んでみる。
「……うち、あんまりいい家庭環境じゃなくて、親が食費をくれなかったときは、大金だと気づかれるから小銭を盗んでご飯買ってたんだよね」
「え……」
「百五十円盗んで、コンビニで安くて腹持ちがよさそうなおにぎりを買った」
 砂長くんは愕然とした面持ちで、言葉が出てこない様子だった。
「家で食べたらお金を盗んだことがばれるから、花の女子中学生がこんなふうに電柱の陰に隠れて、外でよ?」
 ありえなくない? と肩を竦め、私は近くの電柱に近づき、しゃがんだ。まるであの頃に戻ったかのように、いつかみた光景が目の前の景色に浮かび上がる。
「一口かじった瞬間さ、なんでか泣けてきて、顔を上げたら、通りの向こうにファミレスが見えた。親が子供にご飯を取り分けてて、また泣けた。普通の家の子供は、美味しいものを当たり前に食べさせてもらえるんだろうなとか、それなのに自分はどうして、こそこそ道端でコンビニのおにぎり食べてるんだろうって」
 私には無条件に与えられるものなんて、なにもなかった。
「羨ましいよね。僕はときどき……親を恨んだよ。直里さんは……」
 どうだった? と聞いてくれればいいのに、砂長くんは言い淀んだ。
「こんな世界、滅べばいいのにって、思ってたよ」
 砂長くんは目を見張り、強ばっていた顔をふっと緩めた。
「直里さん、クールなイメージだったけど、実は過激派だったんだ」
「だって、この世界って救いようがないと思わない? 子供をまともに育てられない親に、自分は真っ当だって思い込んで、相手の事情もおかまいなしに平気で追い詰めるやつら」
「そういう人たちが大多数だよね」
「そう、数で圧倒的に負けてる私たちの声は届かないし、自分たちと同じように生きられない私たちを弱者だと思って攻撃してくる。誰にでも、こちら側になる可能性はあるのに。こんな世界で生きられない、生きたいとも思えない」
「同感」
 砂長くんは隣に膝を抱えるように座った。
 ふたりで人気のない住宅街の通りを眺めながら、私は言う。
「でも、世紀末みたいな家庭がひっそりとぽつぽつ存在してるのは確かで、その数がどんどん増えて行ったら、本当に世界は滅びるんだろうね」
 私は片膝を立てて頬杖をつくと、砂長くんを横目に見て小さく笑った。
「それまではさ、私たちを助けてくれるものはなにもないわけだから、自分でなんとかするしかない。他力本願なんて無駄だしね」
「うん……」
「生きていくには、お金が必要だよ。たった百円でも、命を繋いでくれる。だからさ、責められるの覚悟で、怖くても貰いにいきな。痛いのも恥ずかしいのも、そのときだけだから。もう二度と会うことはない他人なんだし、ぐっと堪えて、生きるために図太くならないと」
「……っ、そう、だよね。実はそのつもりで、ここまで来たんだけど、入るに入れなくて。自業自得、なんだけど……」
「んじゃ、ひよらないうちに行こ」
 先に立ち上がって歩き出した私は、少し先で動かない砂長くんを振り返った。
 砂長くんは驚いたように目を見張り、やがて意を決した様子で重い腰を上げると、あとをついてきた。
 コンビニに戻ると、オーナーと森谷さんがいた。砂長くんはバイトを無断欠勤した理由を体調不良で押し通していたけれど、本当は違うのではないかと思う。
 その裏に深刻な理由があるなんて微塵も察してない森谷さんは案の定、ここぞとばかりに砂長くんを責め立てた。
 迷惑をかけているのは確かだけれど、自分でも、どうにもできないのだ。成長しきっていない未熟な心が押し潰されないように、必死に耐えるので精一杯なのだ。
 百パーセント正しい道を歩ける人なんて、きっと誰ひとりしていないと思う。誰もが間違えて、傷つけて生きている。それを自覚していない人間はこうして、自分の当たり前から逸脱している私たちの言葉に耳を傾けない。理解しようとする前に、一方的にそれは違うと否定する。
 私はマシンガンのように口を動かす森谷さんをぼんやりと見ていた。
 ……もしかしたら、だけれど。痛みがなくては生の実感が得られない私のように、正しいことを並べ立てて叱る彼女たちも、そうしないと自分の存在を証明できないような気がして、不安なのかもしれない。自分に欠けているなにかを埋めるために必死なのかもしれない。
 そう考えると、少しだけ森谷さんが哀れに思える。彼女もどこかが壊れているのに、自分はまともだと思い込んでいるのだから。
「お給料です」
 森谷さんの勢いに負けて黙っていたオーナーは、砂長くんを責めることはなく、封筒を渡した。私からすれば、なにも聞かずに責めないでいてくれたオーナーをありがたいと思う。子供は迷惑をかけるものだ、という懐の広いところも結構好きだった。
 コンビニを出たあと、ふたりで夜の道を歩いた。隣をちらりと見ると、砂長くんは疲れた表情でどこか放心している。森谷さんの勢いに、気力を全部そぎ落とされてしまったのだろう。
「お金を手に入れた。やったじゃん」
 砂長くんははっと我に返ったように顔を上げ、封筒を握り締めた。
「頑張った……うん、僕、頑張った……」
 声が震えていた。その目は少し潤んでいるようにも見えた。
 他の人と同じようにできなくて、やさぐれそうになっても、私たちは足搔いている。
「それじゃあ、ここで」
 砂長くんも弱っているところなんて、見られたくないだろう。早々に立ち去ろうとすると、
「直里さん!」
 砂長くんに呼び止められた。彼のほうに向き直ると、砂長くんが走ってくる。
「こ、これ!」
 給料の入った封筒を、半ば強引に握らされ、さすがに混乱した。
「っ、え、なに?」
「持ってて。これ、砂長さんに持っててほしいんだ」
 封筒を押し付けてくる砂長くんの力は思いのほか強くて、戸惑っていると、彼はすぐに離れていく。
「ありがとう、本当に。もっと早く、直里さんと話せばよかった」
 眉をハの字にして笑い、手を振った彼は勢いよく背を向けて走り出した。
「ちょっ……もう、気が向いたら連絡してよ!」
 私が声を張り上げると、彼は振り返らずに片手を大きく上げて応えてくれた。

 朝、部屋から出ると、両親は寝室で眠っていた。相当な量の酒を飲んだのだろう。座卓に積まれた大量の酒の缶と義父の豪快ないびきがそれを物語っている。
 私はテレビをつけると、音量をぎりぎりまで下げた。続いてのニュースです、そんなニュースキャスターの声を聞きながら台所に向かい、コップに水を汲む。
『同居する母親を殺害したとして、XX市に住む高校二年生の息子が逮捕、送検されました』
 近所だ。事件に意識が向いたのは、単純にそれだけが理由だった。
 私はコップを手にテレビを振り返る。
『警察の調べに対し、少年は「母親が精神障害を患い、長年介護をしてきた。繰り返し自殺未遂を起こし、暴言を吐かれ、殴られた。睡眠や食事がまともにとれず、我慢の限界に達した。気づいたら首を絞めて殺してしまっていた」などと容疑を認めているとのことです』
 コップを持ったまま、リビングへ戻る足が緩慢になる。
 事件を起こしたのは同い年の少年、事件があったのは近所。なんでか、胸騒ぎがした。
『殺人未遂の疑いで逮捕、送検されたのはXX市に住む高校二年生の息子です。警察によりますと、生徒は一昨日午後十一時頃、自宅で四十歳の母親の首を絞めて殺害した疑いがもたれています』
 テレビの前に立ち尽くし、食い入るようにニュースを見ていた。
 頭の隅で鳴り響く警報から意識を逸らしたいのに、できない。いつか自分も……そんな気持ちを持ち続けている私にとって、それはどこか遠い世界の話ではないから。
『男子生徒は昨日の午前八時頃、XX市内の交番に長さ一メートルほどの延長コードを持参して、「これで殺した。大変なことをしてしまった」と自首し、容疑を認めているとのことです。警察は――』
 ニュースを掻き消すように、耳鳴りがした。映像に映っている男子高校生が、警察に連れられて車に乗り込んでいる。フードのついたパーカーでよく顔は見えないけれど、ふと少年がこちらを見た。目が合った瞬間、私はコップを落とした。
 ――砂長くん。車に乗り込んだ犯人は、間違いなく彼だった。
 二日前、砂長くんに会った日の夜に起きた事件だった。

 授業中もずっと、あのニュースと彼のことが頭を占めていた。
 昼休みになり、珍しくトイレに立ち寄らず、あの踊り場までやってきた私は、コンビニの袋にも手をつけず、イヤフォンを耳につけて仰向けになる。スマートフォンで動画サイトを確認すると、砂長くんのニュースはすぐに見つかった。
『事件を起こしたとされる男子高校生は、精神障害を患って働けない母親の代わりにバイトをしながら学校に通うヤングケアラーでした』
 どうやら、警察に砂長くんがした話をもとにニュースで彼の特集を組んでいるようだった。 
 砂長くんの母親は高齢出産だったそうだ。父親はパンデミックで亡くなり、狭いアパートの一室で二人暮らしだった。これまで専業主婦だった母親は父親が死んでから、自分が働かなければならないことに不安を感じていたという。
 小学六年生の砂長くんが家でゲームをしていると、母親から突然、頬を叩かれた。理由がわからず、ただ唖然としたと、その時の気持ちを警察に語ったという。
 母親は砂長くんが扉を開け閉めしたり、咳をするだけで砂長くんを睨みつけ、不機嫌になったそうだ。きつかった言動遣いは罵倒へと変わり、シンクに一枚でも皿が残っていると、
『私は嫌でも仕事に行って、あんたを食わせるために働いてるのに、なんでてめえはなにもしねえんだよ!』
 何度も頬を叩かれたこともあった。
 砂長くんが高校にあがると、母親は自ら精神科のクリニックを受診し、
『もう働けないから、これからはあんたが働いて』
 帰って来るなりそう言われた砂長くんは、コンビニのバイトを始めたという。
 砂長くんは薬の副作用でふらふらになり、身の回りのことができなくなった母親に代わって家事をした。夜までバイトをこなして帰ってきたあとも、母親をトイレに連れて行ったり、介護した。そのせいで朝起きられず、学校に遅刻するのも日常茶飯事だったという。
 教師の話では、少しでも馬鹿にされると同級生と口論になり、中高共に問題児扱いされていたらしく、あの素直で頑張り屋な彼からは想像できない姿だった。
 先生に呼び出されて叱られるたびに、こうなりたくてなってるわけじゃないから悲しかった。でも、相談したところで……という諦めが勝り、なにも打ち明けられなかったと警察に話していたそうだ。
『事件の引き金のひとつとなったのが、ヤングケアラーだったとのことで――』
 砂長くんの過去が紹介されたあと、キャスターが数字やグラフが載ったボードの前に立った。
『調べによると、中学二年生の十七人に一人が、高校二年生ですと二十四人に一人がヤングケアラーであることがわかっていまして、一学級につき 、ひとりからふたりのヤングケアラーが存在している可能性があるんです』
『決して少なくはない数字ですよねえ』
 話を聞いていたコメンテーターが口を挟むと、キャスターは大きく頷いた。
『そうなんです。今回の結果を仮に全国規模で計算しますと、中学二年生と高校二年生だけでも、およそ十万人ものヤングケアラーがいるという推定になります』
 ――砂長くん、聞いた? こんなにたくさん、砂長くんみたいな子がいるんだって。砂長くんだけじゃなかったんだよ。
 ふつふつとやるせなさに似た感情が込み上げてきて、私は奥歯を噛み締めると眉間に皺を寄せた。
 画面の中のキャスターはというと、深刻そうな顔で専門家らしき人たちのほうを向く。
『今回はヤングケアラーについて研究されている教授の福満ふくみつ沙苗さなえさんに来ていただいています。福満先生、ヤングケアラーが増加している背景にはなにが考えられるんでしょうか』
 教授と呼ばれた六十代くらいの女性は話を振られると、長年の経験がそうさせるのか、落ち着きながらも鋭い洞察が宿った目をして頷いた。
『ヤングケアラーが増加する背景としましては、少子高齢化や核家族化によって世帯の人数が減少したことや経済状況の悪化により共働き世帯が増加したことで、介護や家事の担い手が不足し、子供に及んでいることが挙げられます』
『介護施設を利用したくても、民間のじゃ高いですしね。特養とか、ケアハウスでしたっけ? あれは人気で入れないって聞きますよね』
 コメンテーターとして呼ばれた芸人が井戸端会議に参加しているような雰囲気で言うと、『まさにその通りで』と教授は重ねて説明する。
『この高齢化社会で介護は家族で行うしかない。それも数少ない子供たちが、それを担わなければならない状況なんです』
 砂長くんは、私たちの手が届かないところで起きている問題の犠牲になった。それでも、彼は殺人犯として一生、罪を背負っていかなければならないのだろうか。
『小さい頃から日常的にケアをしている子ですと、負担自体を自覚できていなかったり、やりがいを感じているケースもあります。お手伝いは偉いことですが、学業に遅れが出ていたり、友人関係に影響が出ているのなら、大人はその状況を当たり前にしないことが大事になってくるかと思います』
 どんな親も心のどこかで、子供は自分が好きにしていいものだ、子供は大人に従うものだと思っているんじゃないだろうか。私たちは親の道具じゃないのに。
『難しいですね。ヤングケアラーの親も病気とか片親とか、やむを得ない理由があって、子どもに任せてる場合もあると思いますしね』
 タレントが同意を求めるように、列に並ぶコメンテーターたちを振り返る。
『ヤングケアラーの親に関しまして、今回の事件のあと、インターネット上で批判する声も多くなっていまして――』
 キャスターは入れ替わったボードを指さす。
『子どもたちは親が批判されるとわかると、家族を守るためだったり、家庭の貧しさを知られたくないだとか、可哀そうだと思われたくないと考えて、ヤングケアラーであることを隠すようになってしまうんですね。問題が潜在化することにも繋がってしまい――』
 私はスマートフォンを胸に伏せ、ニュースをBGMに空を見上げる。
 まともに話したのは、夜の公園で会ったあの一回だけだったけれど、確かに同じ痛みを共有して、ついた場所も時間も違う傷が重なったのを感じた。それだけで、私の中で砂長くんはこの先、一生忘れられない人になった。
『この事件は、防ぐことはできなかったんでしょうか』
 そんなキャスターの声が聞こえて、強くスマートフォンを握り締める。
「遅いんだよ……もう、手遅れなんだよ……全部、終わったことだ」
 今まで散々背負ってきたのに、砂長くんはこれから、もっと重いものを背負うのだ。
「やっぱ滅びちまえ、こんな世界」
 憎らしいほど青い空に向かって、唾を吐くように呟くと、
「いいね、世界最後の日は俺の死体になってくれる?」
 作り笑いの名人が上から顔を覗き込んできた。
「その前に死体になるのはお前だ」
「荒れてるね」
 笑いながら隣に座った逸色だが、真面目に聞こうとしているのが彼の纏う空気から伝わってくる。なにも言わずにそばにいてくれる彼に、張っていた気が緩んだ。
「……今日」
 ぽつりとこぼせば、優しい声音で「うん」と返ってくる。
 私の話をちゃんと聞いてくれている、それがわかると言葉が滑るように出る。
「友達が……母親殺して逮捕された」
 さすがにびびったかなと彼を見たが、夜の海みたいに静かだった。
「その子、砂長くんっていってさ。同じバイト先の高校生で――」
 バイト先での彼の印象、ニュースの特集で知った彼の事情、コメンテーターの話、いろいろ話した。逸色はすべてを聞き終えると、ゆっくりと口を開く。
「それで、直里さんは怒ってるんだ」
「怒って……そう、だ。怒ってる。この世界にも、砂長くんの心を変えられなかった自分にも」
「誰にも、どうにもできなかったことだよ」
「でも!」
 私は上半身を起こし、声を荒げる。
「私は砂長くんが事件を起こす直前に会ってた! 会って話をして、少しわかり合えたような気になって……っ」
 だから辛くても惨めでも踏ん張ろうって、お互いに奮起したと錯覚した。
「砂長くんは勇気を出して、怒られるのも覚悟で、ずっと休んでたバイト先に給料を取りに行ったんだ。それで、その日の夜に事件を起こした。取り返しのつかない罪を犯すなら、お金なんていらなかったはずなのに、なんで……っ」
「事実は砂長くんにしかわからないけど、直里さんに会ったときにはもう、心を決めていたんじゃないかな」
「私も結局、砂長くんを助けられなかった大人と同じってことか」
 自分に失望して、私は力尽きたようにコンクリートに転がる。
「ずっと前から決めてたことなんじゃないかな。そうするしか助かる方法がないから、いつかって。その覚悟を覆すのには、それと同じくらい、いや……それ以上の年月が必要だったんだ」
 ふと、砂長くんが別れ際に言った言葉が蘇る。
「そういえば、もっと早く、私と話せばよかったって……」
 一回の語らいだけじゃ足りなかった。なにもかもが、あの日にはもう手遅れだったのか。
「これは、希望的観測でしかないけど」
「……?」
 逸色をじっと見つめ、耳を澄ませて続きの言葉を待つ。
「俺は直里さんとの出来事は、砂長くんの心を揺さぶったんじゃないかと思う」
「踏み留まろうか、迷ってくれたってこと? どうして、そんなことが言え――」
「ずっと前から決めてたことでも、人を殺すんだよ? 悩まないはずがないよ。ぎりぎりまでどうするか決めかねてたから、お金を貰いにバイト先の近くにいたんじゃない?」
「それは……そうかもしれないけど……」
「でも、怒られるのが怖くて行けなくて、やっぱり母親を殺すしかないんだって、そんな考えに陥って……そこに、直里さんが現れた」
「私、が……」
「直里さんと話して、お金を取りに行けて、そのときはきっと前向きになれてたはずだよ。でも、自分がした決断も捨てきれなかったんだろうね。お金を直里さんに預けた」
 天啓を得たかのように、私は目を見張った。
 もしかしたら、自分には不必要になるかもしれないから……?
「そのあともきっと、踏み留まろう、やっぱりやるしかないって堂々巡りに悩んだんだ。でも、引き金は引かれてしまった」
 睡眠も食事もまともにとれていない状況だった。砂長くんは、言わばひび割れたコップだ。縁ぎりぎりまで溜まっていたものを、なんとかこぼさないようにと踏ん張っていたのに、たぶんたった一言の暴言が、たった一回の暴力が、もしくは食事をこぼしただけかもしれない。トイレに間に合わなかっただけかもしれない。それでも、溢れた。
「本当に些細なきっかけが、砂長くんに衝動的に一線を越えさせたのかもしれないね」
 私と別れたあと、ずっとしようと思っていたことをする、そのハードルが下がるような出来事があった……?
「逸脱の言う通りだ……私には、止められなかった」
 ずっとそばにいられるわけじゃない。家から連れ出してあげられるわけでもない。私は無力だから。
「俺たちみたいに、砂長くんにも苦しみを麻痺させる方法があればよかったのにね」
 逸色は死体プレイ、私は自分を傷つけることで苦しみを麻痺させて生きてきた。そういうものが、砂長くんにはなかったのだ。
「俺たちのやり方も、そう長くはもたないと思うけど、その時を遅らせることができたはずだ。でも、砂長くんはひとりで、我慢の限界がくるまでじっと耐えてたんだろうね」
「……見せてあげればよかった、この傷」
 私は眉間に力をこめながら、ワイシャツの袖をめくり、傷だらけの腕を空の下に翳す。
 そうすれば、少しでも引き留められただろうかと、タラればを延々と考えてしまう。その時だった、胸に伏せたスマートフォンが震えた。画面を見て、私は勢いよく起き上がる。
「砂長くん!? 今、警察に捕まってるはずなのに、どうやって……」
 どうやって、メッセージを送ってきたのだろう。
 スマートフォンを凝視していると、私の手元を逸色が覗き込む。
「予約送信じゃないかな? 外部のアプリを使えばできるよ」
 そんなものを使ってまで、私に連絡してきた理由はなんだろう。
 少し緊張しながら画面をタップして、トーク画面を開く。
 すなが【その二万四千円が、直里さんを生かしてくれますように】
 胸が小さく震えた。
 逸色は訝しげに首を傾げる。
「この二万四千円って?」
「あ……」
 私は動揺しながら、スクールバックを引き寄せた。中から砂長くんの名前が書かれた給料袋を取り出す。
「これ……あの日、別れ際に持っててって渡されたやつ……」
 二万四千円。まさかと封筒を開けると、中から出てきたのは二万四千円だった。
 ――その二万四千円が、直里さんを生かしてくれますように。
 給料袋を持つ手が震えた。
「私、砂長くんに昔の話をしたんだ。食べるものを貰えなくて、親の財布から百五十円盗んで買ったおにぎりの話。生きるためにはお金が必要だから、給料を貰いに行きなって……」
「じゃあ、直里さんに生きてほしかったんだね」
「……うん」
 封筒を胸元に引き寄せて、抱きしめる。目の奥が熱くなり、涙が頬を伝った。
 逸色は寄り添うように、肩をぴったりとくっつけてくる。
 不思議だ。嫌悪しかなかった相手が、今では一緒にいると安らぎを覚える相手になっている。
 ふと、カチャリと音がした。隣に目をやると、彼の首元にロザリオのチェーンが見える。
 私は思わず手を伸ばし、それを中から引きずり出した。
「これ……綺麗だ。なんの石?」
 逸色も私の手の中にあるロザリオに視線を落とした。
「ムーンストーン」
「月の石……」
 ロザリオを空に翳して、真昼の月を眺めるように見上げる。
「そうだよ。知ってる? ロザリオは『薔薇の冠』って意味なんだ」
「洒落てんね」
「一般的な説では、珠を繰りながら唱える祈り方が薔薇の花輪を編むような形になるからだって言われてる」
 逸色はロザリオのチェーンの珠ひとつひとつを撫でるように広げて、輪を作ってみせた。
「祈りでできてるから、綺麗に見えんのかね」
 でも、祈りなんて――。
 皮肉をこぼしそうになった口を閉じるが、逸色はこちらを向いて、にやりとする。
「今、祈りなんて、って思ったでしょ」
「だって」
「わかるよ、神様は助けてくれないからね。でも、『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ』」
 なんか、うさんくさいこと言い出したな。自分でも呆れ顔になるのがわかった。
「なに、急に」
「聖書の言葉。神様は俺たちが自分でも気づいてない、欠けてるものを知っていて、必要なものを与えてくれるんだって。だから俺たちも、お互いのなにかを満たすために、神様が今だって思って、出会わせたのかも。だって、学校も学年も同じなのに、このタイミングでお互いを認知するって、運命だと思わない?」
 運命なんて真っ向から言われると、さすがに狼狽えた。気恥ずかしくなった私は目を伏せる。
「……クリスチャンじゃないんじゃなかった?」
「いいんだよ。見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じるのが人間ならさ、できるだけ見たいもの、信じられるものを増していけばいい。そうすれば救いが増える」
「哲学者さん、どゆこと?」
「クリスチャンの人たちは神様に、俺たちは痛みや死体に身を委ねることで救われてるでしょ。これもある意味、信じるものなんだ。信じるものがたくさんあれば、俺たちはそのどれかに縋って、一分一秒でも長く生き長らえることができる」
「ああ……うん、ちょっとわかったかも」
 信じる対象はなんでもいいのだ。信じるという行為こそが救いに繋がると、逸色は言いたいらしい。
「教会、行く? 誰でも自由に出入りできるんだ。綺麗だよ、月明かりがステンドグラスの色を映して部屋の中が青く光るんだ。無音で、海深くに潜ってるみたいに落ち着くよ」
 月明かり……逸色は夜に教会に行っているらしい。逸色にとって教会は、私にとっての公園のように逃げ場所なのかもしれない。
「……じゃあ行く」
「今週の日曜日」
「バイトなし。夜の何時?」
 逸色はふっと吹き出すと、嬉しそうにはにかんだ。
「うん、夜」
「バイトあるから、二十二時以降で」
「じゃあ、公園待ち合わせで」
「了解」
 テンポよく約束を取り付けた私たちは顔を見合わせると、同時に笑った。

   ♰♰♰

 昼休み、直里さんと別れて教室に戻ってくると、いつも一緒にいるメンバーが席に集まってきた。
「なあ、最近なんで直里といんの?」
 席について授業の準備をしていると、横から男友達のひとりが身を乗り出してきた。
「前にトイレの前でぶつかってから、話すようになって」
 別に大したことじゃないと、さらっと説明するが、彼は浮かない顔のままだった。
「正直……あいつ、いい噂聞かないし……さ」
「そうだよ! 逸色に釣り合ってないって!」
 今度は女子のひとりが目の前に回り込んで、人の机に両手をつく。
 どいつもこいつも……どうしてきみたちが、俺が誰と付き合うかを決めるの? 人の交友関係にまで口出す権利はないだろ。そんな言葉が喉まで出かかった。
 直里さんの口の悪さが移ったかな。
 苛立ちを抱きつつ、俺は彼らに笑みを返す。
「そろそろ席に戻ったら? チャイム鳴るよ」
 突き放すように言うと、目の前の彼女は不服そうに去っていった。
「なんだよ、珍しくイライラしてんじゃん」
 空気を読めない男友達がその場に残って、首に腕を回してくる。暑苦しい体温が鬱陶しい。
「やっぱ最近変だって。直里と会うのやめたら?」
 ぴくりと、頬が引きつる。
 ああ、本当に煩わしいな。俺はお前らのものじゃない。
 時間があるなら、直里さんに会いたい。直里さんと話しているほうが、ずっと――。
 いっそ、俺は死体好きだってぶちまけてしまおうか……なんて。そんな勇気もないくせに想像して、多少気は晴れた。
「みんなが思ってるような子じゃないよ」
 みんな、直里さんの見てくれしか見ていない。真っ先にあの傷を見る。醜いと、世界を目の敵にした態度を不遜だと否定する。
 でも、直里さんは誰かの傷を自分の傷みたいに受け止めて、全力で悔しがって、怒って、泣いてしまうような女の子だ。言葉遣いは乱暴だけれど、嘘をつかない。
 今、誰かを蔑んでいる彼らは醜い。その醜さに気づいていない彼らとは違って、直里さんは自分の歪さをちゃんと見つめている……強い人だ。
「ノリ悪いな」
 友人たちがつまらなそうに席に戻っていく。
 俺の本当の姿を知ったら、離れていくくせに。こういう人の嫌なところを見るたび、思わずにいられない。
 頬杖をつき、窓の外の平和すぎる青空を眺めて、心の中で呟く。

   ♰♰♰

 逸色と別れたあと、教室に戻ろうと廊下を歩いていると、どこからか舌打ちが聞こえた。
「色目使ってんじゃねえよ」
 隣の教室の前、廊下の両脇に女子がたむろっている。
 ああ、とすぐに察した。最近、昼休みは逸色と過ごしている。それを知って、嫉妬しているのだろう。
 逸色をどんだけ美化しているんだか。美化されるたびに、逸色は周りの期待に応えようとして、どれだけ本当の自分を殺してきたのだろう。早々に周りと合わせることを放棄した私とは違って、逸色はいい子すぎるほどいい子だ。夜遊びまわっているのは、その反動でもあるはず。
「無視かよ! よっわ」
 ただの高校生のくせに、なぜそうも粋がるのか、悪態をつき、睨みつけ、必死に自分を強く見せようとしている。自分の価値を高めるためだろう。逸色とつるもうとしているのも、きっとそれが理由だ。
 どいつもこいつも、人を利用しやがって。
 うるさい女子の声は無視して、私は廊下の途中で立ち止まる。すぐそばにある窓の向こうの青空を見て、心の中で呟いた。

 ――こんな世界、滅びてしまえ。


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