見出し画像

774-842A.D. 平安三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)、の巻


はじめに~Instagramで臨書実況はじめました

こちらのnoteでも臨書シリーズはまとめていたのですが・・・
なんというか、中途半端なところで止まってますねぇ。これは反省しなければ。

ただ、臨書って「こんなん書きました~」と「結果だけ」載せるのはあんまり意味ないなぁ、と常々思っておりまして。
なんとなれば、臨書というのは

「書いた人の思考や技術をトレースする」

ことに意味があるので、結果だけ見せても仕方がないんですよね。
実際にどういうことを考えながら、お手本になる名筆のトレースをしたかは、やっぱり見ていただくしかなくて。

そしたら最近、インスタのリール(=動画)を簡単に編集できるソフトがmeta社から発表されて。
まあそれが使いやすいのと、なんといっても音楽を一緒に載せられるのがいいんですわ。

私は書を書きながら、その書のイメージや作者のイメージに合った曲を流して、作者の思考や技をトレースしているので、これは益々ありがたい。

というわけで、先日から日課のようにして、Instagramのリール動画をあげています。

しかし、見ているだけではどうしても補いきれないものもありますので、そこはいつもの通り言葉で説明することにしまして。
こちらのnoteでは、インスタやXに書いた解説を補足転載して、備忘録としてまとめていきたいと思います。

引続きお付き合いいただければ幸いです。

平安三筆を臨書する

嵯峨天皇「李嶠詩」を臨書する

「映三秋月会入」と書いています。
基本に忠実でのびやかな書体。ノーブルで品格のある線を引きたいときには嵯峨天皇!と決めていますw

嵯峨天皇の書は連綿線が美しいので、筆も連綿線が美しく出るものを。
rimpamuraさんを通じて知った、奈良筆職人・鈴木一朗さんの「花心」シリーズの大です。元は水墨画用の画筆だったのですが、もっぱら書作品を書くのに使っています。
※動画は2.5倍速です

以前にも書きましたが、天皇の書のことを「宸翰」といいます。
「宸翰」の特徴は、まず第一に「紙」が美しくて質がいいこと。次に、墨の質がいいので発色が良く、また、量を気にして書くことがないのでかすれが少ないことです。
もちろん、テクニックとしてかすれを出すことはありますが、

「墨が足りなくて、かすかすになっちゃいました~」

ということがまずない。
従って、連綿線もはっきりと美しく、総じて福々しくて、豊かで太く、ゆったりした線であることが多いです。

嵯峨天皇の場合、割と線が細めで几帳面です。
線質はひねくれることなく素直。
王羲之の行書をよく学んで(多分、王羲之の書の良質な写しを大量に見ていたのだと思います・・・天皇だし、入手可能だったのでしょう)、迷いなくまっすぐに練習を重ねる勤勉さもあった。

この几帳面さ、練習量の豊富さ、基本に忠実であることに迷いがない育ちの良さ・・・ということで、私は嵯峨天皇を臨書するときには、

  • バッハ「ゴルトベルク変奏曲」(グレングールド演奏版)

  • メンデルスゾーン「無言歌集」

あたりをよく流しています。

お手本に素直で忠実であるというのは、美しいものや正しいものに疑いを持っていないということであり、やっぱり育ちがいい人は違うわ・・・と思います。
「王道」とは何かを知るには、天皇の書=宸翰、を見るといいかもしれませんね。

空海「風信帖」を臨書する

みんな大好き(?)空海さんの風信帖の臨書。
「共建法幢 報仏恩」までです。

風信帖は、最初の書き出し(「風の便りのような、雲のように優美なお手紙が、まるで天から舞い降りてきたかのように届きました」)が大変優美な、空海から最澄に宛てた手紙ですが、このvs最澄戦、段々空海が優位で居丈高になっていくのがわかるんですよねぇ…
(※詳しくは、おかざき真里先生の「阿・吽」をお読みください)

空海さんは自由闊達であると同時に戦闘能力高めなイメージもあり、なんとなく私の中では藤井風さんと重なります。
なので風信帖を臨書する時には藤井風さんの曲をよく流します。

ちなみに、以前「推しの名前をかっこよく書こうぜ」シリーズで、風磨くんの名前を創作書にした時、ベースにしたのは空海の書でした。自由闊達だけど、戦う気持ちも心の中にずっとある、みたいなイメージが、風磨くんは空海さんと重なったので…

空海の書風をベースにした「菊池風磨」
今はもうちょっと上手く書けるので、
そのうち書き直しましょう・・・

ところで、動画を見ていただくとお気づきになる方もいるかと思いますが、私は空海さんを臨書するときに、時々筆を回転させながら書いています。

4文字目の「報」が一番よくわかるかな。

これは、筆のバネを探したり、最後まで粘ってはらうために行っている技術で、筆の名前が見えたり見えなかったりするのは、筆の軸が回っているからです。
この腹が据わって粘り強い線質は、特に隷書の「波磔(はたく)」を書く時に用いられるテクニックなのです。

空海さんは確かに、ふわっとした線を書く人ですが、それだけでは「空海の書」はうまく再現できない。

空海さんは技巧派で戦略的な人だったんじゃないかと、臨書を通じて感じています。

橘逸勢「伊都内親王願文」を臨書する

嵯峨天皇、空海、ときたので、「平安三筆」最後の一人・橘逸勢の臨書を。「伊都内親王願文」より「深淵 風神粛」まで。

橘逸勢は、遣唐使に選ばれるほどのエリートでしたが、外国語の才がなく(悲しい)、代わりに「俺は書と琴の王になる!」とばかりに書と琴に邁進し、「橘秀才」と呼ばれるまでになった人です。

臨書をしているとわかるのですが、とにかくヘンテコな崩し方をする人で、でもそのどれもがめちゃくちゃアバンギャルドでかっこいい。「お前たちはこんな書き方できるか?」と挑まれているような気分になります。

豪放磊落でありながら、計算づくで美意識が高く、マイペースで神経質な芸術家。一本筋が通った怜悧さもあり、実は日本の書家の中で私は一番くらいに好きな人です。

ところで、これだけアバンギャルドな崩し方をする橘逸勢の方ですが、線質は素直なんですよね。
線の肥瘦(ひそう)を出す時も、筆の能力を信じて、そのまま書いている印象です。

だからあんまり、筆を回転させて書くことはしません。

橘逸勢は、ひねくれたように見せているだけで、内面は素直でまっすぐな人だったんだろうなぁ…なんで思います。
あと、筆と人を信じすぎw

そんな橘逸勢は、字に現れた人柄そのままに一つのことにまっすぐで、書以外では不器用だったようで、嵯峨天皇(上皇)崩御後、政変に巻き込まれて流罪となり、客死します(承和の変)。
「橘」姓を奪われ代わりに「非人」と改められたり、結構扱いがひどい。
結局これは、藤原氏の落とし込みだったわけですが、平安時代はこういう悲惨な目に遭わされた人あるあるで怨霊となって人々に恐れられたとか。

ただ、その後名誉は回復され、子供たちも「橘」姓を名乗れるようになり、今では神様の一柱として祀られています。


空海とは親友で、自由闊達な空海と豪放磊落で美意識の高い逸勢が、平安の世で何を話していたのか、妄想が止まりませんw
ただ少なくとも、空海の存命中だったら、逸勢はこんな悲しい最期を迎えずに済んだのではないかと・・・
そんなことを考えてしまいます。

平安三筆のまとめ ~ なぜ臨書動画をInstagramにあげるのか

さて、ここまで「平安三筆」の臨書をしてきました。

ノーブルで気品のある嵯峨天皇
風を含んだような自由闊達な空海
アバンギャルドで怜悧な橘逸勢

この人たちの書が美しくて、後世に残ってきた理由、わかりますよねぇ…(あ、私の臨書の腕がイマイチなのはともかく!!)

ところで、Instagramに臨書を動画と一緒にあげることにしたのは、

「書がよくわからない」

と友人に言われたことがきっかけでした。
確かに書の善し悪しを言語化するのは難しいけれど、少なくとも私は、品格があって美しい線で構成されている文字が好きなので、そういう基準で見ればいいと思います。

でもじゃあ、

「品格があって美しい線」

てどういうことか、判らないですよね・・・

漫画やアニメで考えれば簡単なのですが、やっぱりよれよれだったり、線が雑だったり力がなかったりする絵は、あまり魅力的ではありません。

こんなところで例に出すのは申し訳ないのですが、『進撃の巨人』の諫山先生は、1巻の段階では正直、絵がヨレヨレでしたよね。
でも、巻を追うごとに、線に力強さと「確信」が出てきて、見やすくなったしコマによっては美しさを感じるものもあった。

「綺麗な線で描いている」ことがプロと素人の差だろうなと思うのですが、それが書でも同じなのだと説明するには、

「品があって美しい線」

がどのようなものか、たくさんの人の脳裏にインプットしていただくしかないなと。

最近の「自称書家」は下品な線を引く人が多くてとても残念なのですが、それは「基準」になる師匠のお手本が、多分そんなに美しくないのだと思います。

そして、多分彼らも、「美しい線」を大量に見ていない。
だから、自分の線に品格がないことにも気がつけない。

だから私は、「書における美の基準」となると古筆名筆の臨書を量産・拡散して、沢山の人たちの目に触れるようにしよう!と決心しました。

私は、絵画や彫刻などにおいても、作為的で露悪的な作品は嫌いです。

それは、こうとしか表現できなくて行き着いた先が悪筆であったり、汚かったりするのとは、全く違います。

でも、そういう差を直感的に理解するには、「たくさん見るしかない」んですよねぇ…

かつて私に西洋絵画の見方を教えてくださった方がこんなことを仰っていました。

「いい絵が直感的にいい絵だとわかるようになるには、クズ絵を沢山見る必要がある」

クズ絵を沢山見てから傑作を見ると、宝石を見つけたような感動を覚えるのだと。

書の場合、
「これが素晴らしいんだよ」
と目に触れる機会が、多分少ないのだと思います。

そこには、紙が保存しにくく展示機会が少ないことであるとか、もっというと明治に入ってからの「書は美術ならず」論争などによって、美術としての書が一段貶められた等の歴史的背景があります。

だから、綺麗なものを見る機会を増やしていただきたいなぁ、と。
そんな野望をもっているわけですw

そのためには、私も臨書の腕を上げていかなければならないわけですが!!!(ばったり)

夢と野望は大きいほどいいものです!(自分を追い詰めるw)

というわけで、これから臨書をガツガツあげていくので、興味のある方はぜひお付き合いくださいませ (悪筆であっても美しい、藤原定家の書などもご紹介する予定です)

自宅(東京都23区内)で
算命学の鑑定・講座
書道指導を行っております
興味のある方はご連絡ください~

いいなと思ったら応援しよう!

Lilalicht お読みいただき、とても嬉しいです。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

この記事が参加している募集