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私でないものに 🔥2

こんなことでは、この先生きていけない。

私はそんな不安にかられていた。

仕事はできない。
どうしたらいいかも分からない。
普通になれない。

体の奥に、重くて冷たい感覚がずっとあった。

何とかしないと。
そんな焦りはあったが、
どうすればいいかは全くわからなかった。

────

毎日、生きるだけで精一杯だった。

どんなに励ましてもらっても、
楽しい時間を過ごしても、
必ず意地悪な何かがやってくる。

そして、体も心も少しずつ蝕まれていく。

この自動的に襲ってくる“落ち込み”を
封印しなければ未来はないように思えた。

────

朝起きて鏡の中の自分に言い聞かせる。

「仕事なんて、私にできるわけない、大丈夫」
「モチノさんは、あんな人だから仕方ない」

入社してから何百回、
自分に言い続けたんだろう。

こんなの、何の役にも立たない。

あとどれだけ頑張れば、私は報われるの。

ある日、職場からの帰り道を歩いていたとき、
ふと地下鉄の看板が目に入った。

性格改善
あなたの悩みをお聞かせください

性格って、変えられるの?

少しだけ心が震えた。
私は電話番号を目に留めた。

世の中は怖い。

騙されるかもしれない、
危険があるかもしれない。

そう思ったけれど、すぐに打ち消した。

このまま生き続けるほうが、無理。
もうほんとに無理。

私は、電話をかけた。

「はい」
少し年配の男性が出た。

私は言った。
「駅で、性格を変えるっていう看板を見たんです」

「ああ、出してますよ」
明るい声だった。

「私、性格を変えたいんです。予約できますか?」

「いいですよ」

時間と場所を確認して電話は終わった。

何をするのか、どんな場所なのか、
相手が誰なのか、何もわからない。

それでも、私は予約した。

現実から抜け出したかった。それだけだった。

────

予約の日、行ったことのない駅に降り立つ。

オフィス街の雑居ビル、その一室に目的の場所はあった。

扉には、シールで名前が貼ってある。
心理学会のような、少し胡散臭い名前だった。

薄暗い廊下。古い建物。

扉の前で、私はしばらく立ち尽くしていた。

どうしよう。
大丈夫かな。

しばらく迷ったあと、
恐る恐る扉を開けた。

────

扉を開けた先は、狭い部屋だった。

机がひとつ。
その向こうに年配の男性が座っていた。

向かいに椅子がひとつ。
周囲には文献の並ぶ本棚。
机の上には、今どき珍しい黒電話が置かれていた。

受付も待合もない。来たらいきなり部屋。

「予約してくれた方ですね。どうぞ」
淡々と言われた。

私はまだ迷って次の一歩を進めずにいた。

「どうしますか?
帰ってもいいですし、話すなら座ってください。
お金は終わってからで大丈夫です」

怖いな。
でも、ここまで来てしまった。

「私、一応女ですし、一対一は少し怖くて…」

正直に言った。

男性は静かに答えた。

「私はこの椅子から動きません。
扉は開いています。
あなたはいつでも帰れます。自由です」

「初回なので途中で帰られたらお金はいりません」

男性は、そのままの口調で続けた。

「あなたのペースで大丈夫です」

やばければ、帰ろう。

私は、浅く椅子に腰掛けた。

ふかふかのソファ。体が少し沈みこんだ。

距離は、学校の先生と最前列の生徒くらい。

「では、どうぞ話してください」

何から話せばいいの?

……思い出した。
そうだ、性格改善だ。

私は、性格を変えに来た。

私はゆっくりと話し始めた。

────

仕事ができないこと。
どんなに頑張ってもできないこと。
迷惑をかけてしまうこと。
つらく当たられること。

話しているうちに、言葉が止まらなくなった。
咳を切ったように、涙があふれた。

男性は引き出しからティッシュを取り出し、
机の端に置いた。
私は黙って受け取り、涙を拭きながら話した。

ひとしきり話したあと、男性が口を開いた。

「椅子の横にゴミ箱があります。
ティッシュはそこに捨てても大丈夫です。
涙が出ると思うので、使ってください」

入ってきたときから、
表情も態度も口調も変わらなかった。

まるで、穏やかな海のように。

「私、性格を変えたいんです。
もっと強くなりたい。
仕事ができない私はダメだから、
もっとできるようになりたい。
お願いします、性格を変えてください」

男性は少し上を向き、
手を組んで考えたあと、静かに言った。

「仕事ができなくてお悩みですね。
できるようになりたいということですね」

私はうなずき、涙がこぼれた。
なんて情けない悩みなんだろう。

「……はい。仕事ができるようになりたいです。
苦しみたくない。ちゃんとした人になりたいです」

男性は穏やかに言った。

「いいじゃないですか。仕事ができなくても」

言葉につまる。
仕事ができなくてもいい?
何を言ってるんだろう。

「あなたが仕事ができないと、
どんな嫌なことが起こると思いますか?」

「迷惑がかかります」

「ベテランの人に、つらく当たられています。
これからもっとひどくなる気がします」

「その人は、あなたが仕事ができるようになったら
嫌がらせを辞めると思いますか?」

ヤマダさんの姿がチラつく。
あの人も辛く当たられていた。

「いいえ」
私の答えに、男性は静かに言った。

「それなら、その人が嫌がらせをしてくるのは、
あなたの仕事とは関係ないかもしれません」

その瞬間、何かがぱっと光った。

「……私は、
仕事ができなくても生きてていいんですか?」

「はい、生きてていいです」


仕事ができなくてもいい。
そんな選択肢が、初めて目の前に現れた。

そんなことが、許されるのだろうか。

「あの」

私はずっと気になっていたことを吐き出した。
「私、おかしいですか?」

「おかしいとは?」

「元々私は気が狂ってるような気がします。
今じゃなくて、ずっと昔から。子どもの頃から」

言いながら悲しくなってきた。

「私は、私を頭のおかしい人間だと思っています」

これを知らない人に暴露すること自体が
頭がおかしい人間の証明じゃないか。
そう思った。

しかし、男性の目も、
表情も何も変わらなかった。

彼は同じ口調で続けた。

「いいえ、全くおかしくありません。
判断はしっかりできています」

「自分で、何かおかしいって気づいたでしょう?
駅の看板を見て、
自分の力でここまで来たんですよね。
あなたは、何もおかしくありません」

男性はきっぱり言い切った。

「今の私でも、大丈夫ですか?
すごいどんくさくて、仕事もできなくて、
メンタルも弱くて…。
そんな私でも、生きてていいんですか?」

「はい、大丈夫です。
あなたはそのままで十分です。
ここに来れた判断も、話した内容も、
すべて十分な証拠です」

また話したくなったら、いつでも来てください、と言われ、私はビルをあとにした。

────

「あなたはおかしくありません」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

周りの人に「おかしい」「変わってる」
そう言われることは何度もあった。

けれど、こんなにもはっきりと
「おかしくない」「生きてていい」
そう言われたのは、生まれて初めてだった。

雑居ビルを出ると、空は晴れていた。
久しぶりに、体に風が通った気がした。

暗い雑居ビルの一室。
胡散臭いと思っていたはずなのに、
私にとって居心地のいい場所になっていた。

──────────
🫧この形の私

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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