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版下|消滅した仕事〜ある写植屋での日々

印刷博物館での「写真植字の百年」の展示を見て、感想を書いていたら、写植屋で版下として働いていた頃のことをいろいろ思い出してきました。

今やわからない人が多い「写植屋」や「版下」。たった3年ほどの一社限りの経験ですし、数十年前のことなので記憶違いもあるかもですが、思い出せる範囲で写植屋での仕事について書いてみます。

写植というのは文字をレンズで拡大または変形して印画紙に焼き付けたもので、今のようにDTPになる前は印刷には欠かせませんでした。台紙に貼り込んだ写植や描き加えた罫線などで印刷する版の元を作る作業やできたものが版下と呼ばれます。そして職業としての「版下」も存在していました。(ウィキペディアの説明は写植と版下がちょっとゴッチャになってるみたい)

写植屋の仕事

食いっぱぐれない仕事

この仕事についたきっかけは、夜間のデザイン専門学校で、授業の終わりに先生が発したこの質問。

「今、昼間働いてないやつ、いるか!?」

ちょうど昼のアルバイトを辞めて、フラフラしていた私は手を挙げました。

「写植屋での版下の仕事なんだが、
 お前だったらデザイン事務所の口もあるけどどうする? 
 とりあえず版下できると食いっぱぐれがないけどな

入学資金が消えたおかげで進路が変わってしまった私が「食いっぱぐれない」という言葉に反応したのは当然のこと。

馬鹿だと思われるかもしれないけれど、デザイナー志望にも関わらず、まずはなによりも食いっぱぐれない技術の確保だ、というわけでデザイン事務所の口を蹴って(!)写植屋のアルバイトを選んだのでした。

結局、食いっぱぐれないどころか、10数年後くらいには消滅してしまった仕事だけれど、当時は誰もそんなこと想像すらしていなかったんですよね。

実際、何人かに聞いた限り、デザイン事務所よりも少しだけ給料が良かったみたいでした。つまりはちゃんと稼げる仕事だったわけです。(デザイン事務所での新人というと、弟子的な要素が強かったんじゃないかな)

写植屋

紹介されたのは水道橋にある写植屋でした。

学校は夜だったので、昼間フルタイムのアルバイトとして入り、卒業と同時に正社員に。

小さな雑居ビルのワンフロア。

社長と専務がいて、専務は営業を兼ねていました。写植のオペレーターは5人くらいだったかな。入った時、版下は私の他に1人。この先輩に仕事を教えてもらいました。

版下の仕事を簡単に言うと、写植(印画紙に焼き付けられた文字)などを台紙に切り貼りして印刷の版の元となるものを作ること。
写植屋の版下は(デザイナーなどの)明確な指示に則ってつくるわけではなく、お客さんの「こんな感じ」というざっくり指示から形にします(少なくとも私が担当したのはそうだった)。

取引先は印刷会社数社、大手スーパー系列の代理店、それから近くの遊園地、当時メキメキ成長中の某人材情報企業もお客さんでした。

大手スーパーの仕事では掲示物、チラシなどの他に、系列のファッションビルやレストランチェーンの制作物もあり、結構いろんなものを扱っていました。写植屋といっても写植を打って納品するだけではなく、意外に幅広い業務内容。

級数や行送り、寸法など指定されたバラ打ち(だけ)などもあったようですが、版下に回ってこないものはどのくらいあったのかわかりません。

写植屋での版下制作の流れ(デザイン事務所での版下作業とは違う)

「はい、これが午前中の分」

どさっと机の上に紙の束が置かれるのが1日の始まりでした。専務が一件ごとにクリップ留めされた仕事を説明していきます。

写植屋の版下の仕事とデザイン事務所の仕事の大きな違いはスピード感でしょう。

午後は午後でまた一山持って来られるので、とにかくどんどんこなす必要があります。一件を何日かかけてつくる…なんて、よほどボリュームがなければありません。

ここで比較として、(その頃の)デザイン事務所でのデザイナーによる版下作業までの過程を簡単に書いておきます。
クライアントとの打ち合わせや資料などから、まずはラフをつくります。ラフも手作業で紙に文字などを切り貼りして作りますが、文字も写真もダミー。出来上がったらコピーして(必要に応じて製本などもして)提出。たいていはモノクロ。気合の入った仕事ではカラーカンプをつくってボードに貼ってプレゼンしたりもします。
必要に応じて何回か修正・確認を繰り返し、デザインや内容がOKとなったら、初めて版下制作に移ります。写植を発注し、版下を作って、またクライアントに確認してもらい、修正があれば修正して(ここで文字直しなどあれば、修正用の写植を発注)OKとなったら、色指定などをして印刷会社に入稿します。
その他、撮影などがあれば途中に工程が加わります。
ここまで、最低でも数週間〜数ヶ月。まれに簡単なものなら数日でつくることもあったけど、版下に入る前に時間をかけて、デザインが詰まっているのが基本。これが写植屋と違うところ。

写植屋の版下仕事は、じっくり考える時間もなく、必要なのは、手早く正確にこなす技術と瞬発力。手書きの簡単なラフ、または口頭での指示から一気にフィニッシュに飛ぶのです。途中の確認はなし。

オペレーターさんたちとの打ち合わせもなく、あちらはあちらで顧客の指示に則って「こんな感じだろう」ということで写植を打ちます。上がった写植(印画紙)を受け取り、今度は私たちが即興で適宜加工し、デザイン、レイアウトしていきます。

紙面全体ざっくりレイアウトまで組み上げてくれることもあったり、自由度の高いレイアウトだとバラ打ちだったり、写植がどう上がってくるかはわかりません。ただ、あちらも慣れたもので、仕事に合わせて、やりやすいように打ってくれるので、あうんの呼吸でなんとかなると言ったところ。

上がった写植はそのままの大きさで使えるものは、台紙に貼り込みます。タイトル周りなど、サイズを変えたいものは紙焼き(後述)。

ペーパーセメント(のり)をソルベント(シンナー)で適当な濃度に薄めたものをハケで印画紙の裏に塗り、ドライヤーで乾かすと、貼ったり剥がしたりができる状態になります。これをカッティングマットに置いて、まず平行が取れるように文字面に合わせて薄くアタリを入れた後で切ります。

次に台紙に入っているマス目を目安にしたり、新たにアタリのケイを書いておいたりして、貼り込んでいきます。
ズレたときは剥がして貼り直し(ペーパーセメントが濃すぎるとこれがやりにくい)。

形が可愛いので皆大好き、シンナーディスペンサー。ペーパーセメントが程よい濃度だとピンセットですっと剥がせるので、その用途では実はあまり使わない。道具や台紙を綺麗にするのによく使ってました。

写真が入る部分は「アタリケイ」を引いて、写真のアタリ(トリミングしたもの)を貼り込みます。色が入る部分などもアタリケイですが、1C印刷だったりすると、そのまま塗りつぶすこともあったような(うろ覚え)。

デザイン要素などはロットリングで描いたり、コピーや紙焼きをして貼りこんだり。ロゴなども紙焼きです。

出来上がると、コピーしてクライアントチェックに出します。FAXで送るのですが、同じものを(なぜか)専務が持参します。

そんなのをいくつもこなし、午後になるとまた一山やってくるというわけです。

いろいろな作業

紙焼きと暗室

ロゴなどは清刷と呼ばれるシート(ロゴのバリエーションや注意などが整理されて印刷してあり、企業から支給される)から任意の大きさに紙焼きして貼り込みます。
また、打ち上がった写植の大きさを変えたい時も紙焼きです。

写植は打ち上がると、暗室で現像する必要がありますが(写真植字だからね)、紙焼きも同じような原理で、もととなる文字などを引き伸ばして(あるいは縮小して)印画紙に焼き付け、現像します。

写植屋にある紙焼き機は結構立派で大きく高機能。暗室には他に普通の写真の現像に使う引き伸ばし機や写植の印画紙を入れると現像してくれる機械、出てきた印画紙を洗う水道もあり、2〜3人入ってもなんとか動けるくらいの広さがありました。

今、紙焼き機で検索しても、あの頃使っていたような大きな紙焼き機の画像はなかなか出て来ない。(写真の引き伸ばし機の画像がいっぱい出てくるんだけど、これを紙焼き機として使ってたのかな)
デザイン事務所でも必須だったので、独立するにはまず紙焼き機を置ける場所=暗室を確保しないと…みたいな制約もあり、今みたいに簡単にはフリーランスになれなかったんですよね。

オペレーターさんが写植を打ち終わると、印画紙が収まった箱(持ち手がついてる)を持って暗室に入ります。暗室内では光が入るとダメな作業も当然あるので、中に誰かいるときは声をかける。中はなんとなく別世界で、版下の私たちと写植オペレーターさんたちが手を動かしながら呑気に世間話をしたりする、ちょっとした社交場でもありました。

ところが窓がないし機械が熱を発するので当然といえば当然、夏は暑く、紙焼きが大量に発生するような時は灼熱地獄。ある時たまりかねて、段ボールをつなげてダクトを作り、エアコンから冷気が流れ込むようにしたら大好評で喜ばれました。

暗室が暑いというのは共通の悩みの種だったのか、後年、暗室いらずの両手を突っ込んで作業するタイプの紙焼き機があったような気も。

もちろんコピー機もあって、使える時には使っていたんですが、当時の拡大縮小は数パターン。115%、141%、86%、70%など… A4をA3の大きさにとか、そういうよくある比率のみで、それ以外の拡大縮小は全部紙焼き、暗室行き。ズームで任意の比率にできるコピー機が出回るのはもう少し後のことでした。

作字

文字盤にない文字は「作字」をします。オペレーターさんが作字用に使える漢字をいくつか打ってくれるので、へんとつくりなど使える部分を別々の文字から切り取り、組み合わせて、ひとつの文字としてバランスよく収めるのです。全部手作業。

また作字かよ…とブツブツいいながら、最初からあった文字のようにうまくできるとなんだかこっそりうれしいのでした。

出来上がった作字は細かいピースでできているので、版下の台紙から剥がれないようにちょっと気を使います。危ないなあと思うときは、できたものを紙焼きして一体化したり、上からテープを貼るという荒技で凌ぐこともありました(こっちはあまり推奨されない)。

トレース

図などをトレースすることもあります。もちろん手作業。直線は三角定規(長い定規より三角定規の方が安定する)、曲線は雲形定規や円形定規、円周定規、楕円定規などを組み合わせる。つなぎ目が自然になるように注意して、フリーハンドも時に使います。

楕円定規。意外と使う。

間違った部分はカッターでうすく削る。修正液は後がやりにくくなるので、あまり使いませんでした。

コンパスのアタッチメントもいろいろある。

あとは清刷のないロゴ。ぼやけたコピーとか以前の印刷物などからトレースすることもありましたが、一旦巨大なサイズに(コピーなどで)拡大してから、今度は紙焼きでぎゅっと縮小すると意外と綺麗な感じになるので、それをロットリングやカッターを使って修正し、仕上げたりもしてました。

こういうのは今の作業に通じるものがあるかも。

ケイを引く3つの道具

オモテケイ(0.1mm程度)、ウラケイ(0.3mm程度)などケイを引く時はロットリングです。

ロットリング

描き初めがダマになりやすいのと、芯をきれいに保つために、ひとつ引くたびにペン先を拭きます。ペンはまっすぐ立てないと、斜めに削れてダメになってしまうので、人に貸すのはご法度。それ以外の道具も基本的に自分専用です。

烏口
端に収納された部分を外して、インクを口の先に入れるのです。

ロットリングの他に烏口もあったんだよね…という話題はよく見かけますが、その他に筆で直線を描くというのもあるんですよね。溝引き。

定規に溝のついたものがあるのを見たことあるでしょうか。インクのついた筆と先の丸くなったガラス棒を箸のように平行に持って、ガラス棒を溝に当てて動かすのです。

筆の位置を一定に保たないといけないので、精神統一がいるというか、息止めちゃうというか。これ専門学校で練習させられたんですが、実際仕事で使うのは結構特殊な場合に限ってでした。

でも、得意だったんですよね。

今では使えない技術をたくさん持ってるなあ。

ガラス棒、まだあるかなと探してみたんですが、見つかりませんでした。

写植屋の人たち

写植屋のおじさんたち

写植屋のおじさんたち(当時20前後だったので、こう呼んでもいいよね)は皆、一クセありました。

タバコをふかしながら、写植機を操っている姿は技術持ってるプロフェッショナルな感じでかっこよかったのですが、なぜかコワモテ。どうみても普通のサラリーマンとは違うおじさんたち。もちろん実はやさしいんですが、当時の刑事ドラマに出てきそうな面々(どっちの側とは言わないが)。

ある夜、みんなで車に乗っていたら(なんで乗ってたのか忘れたけど)、検問だったのか、警官に止められて職質。コワモテのおじさんがぎゅうぎゅう乗っているので怪しいと睨んだらしい。

おじさんたちも慣れたもので普通に対応していたんだけど、警官が車を覗き込み、一番奥に座っている私と目があった途端、あ!という顔をして「行っていいですよー」となったのには笑いました。顔認証並みの素早さで、私の見た目には怪しさを一瞬で打ち消す無害さがあったんでしょうか。

給料が現金支給だったので、残業代を別に分けてもらって(明細も!)、そっちの方は自分の小遣いにしている不届き者もいました。口座振り込みだとこれはできない。

そういえば先輩社員が酔って駅の階段から落ちて入院してしまい、しばらく私の仕事が倍になってしまったこともあったっけ。

なんというか、いろいろ自由な人たちだったなあ。

写植屋の女性たち

オペレーターの中に、紅一点で女性がいました。週末は海に出かけるサーファーで、平日は写植のオペレーターKさん。彼女は本当にカッコよかった。

女性同士のせいか仲良くしてもらっていて、昼休みは一緒にランチに。近くにあるカフェバー(時代!)に行くのが定番でした。

しかしながらこのカフェバー、地下にあって薄暗く、ちょっと日本じゃないみたいな空間。

天井が高く、空調のダクトなのか、管が剥き出しで何本も走っていて、時々ふと見ると、大きなネズミがその上を歩いていたり。今だったら行かないと思うけど、なんというか独特の映画の中みたいな雰囲気があってふたりとも気に入っていたんですね。うへと言いながら、翌日も行ってしまう。

ランチを食べ終えるとKさんがバッグからカードを取り出し、食後のコーヒーを飲みながら、ポーカーをする。これが日課。

Kさんもスモーカーで、煙を燻らせながらカードを配る姿もまた、そのバーに似合うのでした。

私が勤め始めてから1〜2年経った頃、もう一人女性社員が入ってきました。元アニメーターで、なんでここにいるの?と思ってしまうようなすごい美人、Aさん。彼女は版下担当で初心者だったので、年下の私が教えることになったんですが、さっぱりした人で会社にもすぐ馴染み、仲良くなってセル画の話などで盛り上がりました。

今考えると、当時にしてはなかなか多様な会社ではありました。というか、平均的な人がいなかった。

印刷会社の社長たち

代理店などにはこちらから出向いて行くのが基本だったけれど、印刷会社からの仕事では(写植や版下を)だいたい取りに来てくれていました。

しかし、この方たちもクセが強い。

よく覚えているのは、(20そこそこの私にも)腰が低くて気さくな感じのK社長と、声が大きくてちょっと偉そう(まあ、社長だから)なW社長。

W社長は圧が半端なく強くて、作業をしている私の後ろに陣取って、プレッシャーをかけることもしばしば。

初めて携帯電話なるものを見たのも、彼が肩から下げている大きな箱のような電話(まさに「携帯」している「電話」)でした。自慢げに見せてくれてたんだけど、使ってるふうでもなかったな。確か普通の電話みたいに上に受話器がついてたんですよね。皆、ここの電話使えばいいじゃんと言ってたような。

代理店や顧客との関係性

版下として採用されたんですが、入社してしばらく経つと、代理店や得意先に打ち合わせに行くようになりました。

直接出向いて、説明を聞いて、戻ってオペレーターさんに頼んで打ち上がったら版下まで。直しがあった時も、言われればまた行って聞いてきたりしてたと思います。

毎週決まった曜日(確か水曜日)には、家から得意先に直行し、原稿をもらって出社するというのもやってました。今から考えると営業のサポート的なポジションもあったのかな。遊園地に打ち合わせに行くのはちょっと楽しかったです(来日中のアーティストの話を小耳に挟んだりして←言えないけど)。

もちろんスピードが重視されるのは変わらないし、料金も(デザイン事務所に比べて)安かっただろうから、クオリティはそれほど要求されません。それよりも、相手の希望に沿って、できれば予想を少し上回るくらいのクオリティで、早く正確に仕上げてほしいというのが、この頃求められていたことでした。

修正の指示が入れば、とにかくその通りに直す。

だからデザイン事務所に入って「必ずしも指示通りに直さなくても良い(他により良い方法があるのならそれを提案しろ)」と言われたのは、ちょっとしたカルチャーショックでした。

それでも、退社を決めて挨拶した時に、「独立するの?」と聞かれたのはうれしかったですね。
女性が退社というと寿退社では?という当時、「若い女の子」ではなく「仕事相手」扱いされてたのは後の自信になりました。

今考えると、当時としては属性にとらわれない、結構実力主義の職場だったんじゃないかという気がしています。その後いろんな会社で働きましたが、機会を均等に与えられてたという意味では、実はここが一番だったのかも。

すごーい昭和な雰囲気の会社だったんですけどね。

その後のこと

消えた仕事

この写植屋は3年ほどで退社しました。ここで貯めたお金を持って(つまりそのお金が貯まるまでということで働いてた)しばらくドイツに行き、帰国後デザイン事務所に就職することになります。

実は写植屋の次に入った事務所で、コンピュータを入れようという話が持ち上がり、当時としてはかなり早くからMacを使い始めていたんですが、最初はAdobeのソフトもなく、発売後もしばらくは(コンピュータ自体の処理能力の問題もあって)使い勝手も悪い。出力手段もあまり整っていなかったこともあり、仕事への利用は限定的。やはり写植、版下制作も必須で工程は変わりません。

その次に入った事務所でも途中でMac導入。でもやはりタイトルの英文に使うくらいのお試し期間。

3つめのデザイン事務所でも最初は導入しておらず、Macが入ったのは途中から。

ですが、その頃にはだいぶ環境も整備されていて、仕事に使えるようになっていました。DTPへの過渡期です。

といっても、データをそのまま入稿するようになる前段階で、版下を画面の中で作っていくイメージ。最終的にはデータを印画紙として出力してもらい、写真などは従来通り、コピーのアタリを入れたりしていました。色指定を入れるのも昔ながらの方法です。

但し、デザイナーのつくったデータが印画紙になるので、版下作業は残っているけれど、この時点で写植の出番が激減。
書体が今のように豊富ではなかったので、最初は写植も併用していたものの、それも次第に減っていきました。

さらに、ちょうどその頃景気が悪く、デザイン事務所は苦しい時代。広告制作費も削られていくなかで、DTPへの移行は必至。出入りの写植屋さんから電話がかかってきても何も頼めなくなり、とても心苦しい思いもしました。

もちろん、あちらはもっと苦しかったはず。でもどうにもなりません。

やがて、印刷の入稿もデータのやり取りになり、版下作業も消えました。

美しい文字組

そんな時期も過ぎたある日、写植屋で版下を教えてくれた先輩から、なんの用だったか電話がかかってきました。
皆の消息を聞いてみたところ、これを機に引退したり、印刷会社に入れてもらったりしたとのこと。

当時の事務所でお願いしていた写植屋さんとはやはり少し気まずくなってしまい、その後を尋ねることもできず、どうしたんだろうか…と気になっていたんですが、そういう流れがきっと大半だったろうなと思いました。

職人であるオペレーターさんたち(版下の仲間も)とともに今でも思い出すのは、美しい文字組です。

写植屋を辞めてデザイン事務所に入ると、今度は級数、行送りなど指定して打ってもらう立場になるわけですが、こちらの期待以上に、ひとつひとつの文字の形に合わせて見事に組んでもらえたものです。一番満足度が高いのが、本文の完箱指定。最後の行の最後が文字組の端にきちっと収まって(完全な箱組)気持ちいい。途中の行もバランスが取れていて美しく、文字修正が入ると切り刻むのが悔しいくらいでした。

自分で組むのはコストやかかる時間で良い面もあるし、あの文字組に近づけたいと思うけれど、やっぱり職人技にはかなわない。

検索してみたら、まだやっている写植屋さんのリストがあったんですけど、追記で廃業の文字が多くなっていました……。
動画があったので、リンクを貼っておきます。

この写植機は「写真植字の百年」でも展示されてたタイプかな。割と新しい機種ですよね。

「食いっぱぐれない仕事」

これができれば食いっぱぐれない、という言葉に惹かれてついた版下という仕事。

ずっと続けるつもりはなかったけど、次善の策で確保したつもりの職業は消えてしまいました。

制作過程の「作業」にあたる部分は、その時はどんなに主流でも変わっていくもの。ロットリングや烏口での作業や、写植の扱いでのちょっとしたTips。写植屋での経験のおかげで、デザイン事務所では誰よりも早く正確だったけど、それ自体はもう使うことはない技術。

それでも、毎日ものすごい量の仕事をものすごいスピードでこなしていた日々、弊害もあったけど、あとの会社勤めでも大いに役立ちました。

正義のために戦ってくれそうなコンパス。

それに意外と今でも役立ってるなあと思うことも、ふとした瞬間に結構あるんですよね。

食いっぱぐれない仕事は存在しないのかもしれないけれど、食いっぱぐれないスキルというのはもしかしたらあるのかもしれない。

考え方次第でもあると思うけど、全く無駄っていう経験て、あまりないんじゃないだろうか。


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