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落語『お見立て』演:三遊亭遊之介。


浅草演芸ホール、四月下席夜の部のレポート。
前回は、色物の檜山うめ吉姐さんの俗曲でした。その続き。

廓噺は、まず専門用語が難しいけれど。

ようよう大トリでございます。
この夜の部の主任、三遊亭遊之介氏、ずいぶん若々しい。『悋気の独楽』の遊雀さんが、お年を召した貫禄ある様子だったから、若手に見えるのかな。
声もカラッとしていて若いです。枕噺に続いて、昔の吉原についてのお話。妙に詳しいというか、絵がうかぶようなお話をするなあ、と思ったら
「歌丸師匠に教わったんですよ」等々。

故・桂歌丸氏は、幼少期を廓で過ごした筋金入り。廓噺には並ぶ者なし。下戸なのに御返杯は見るからに酔いそうだし、花魁が出れば緑の黒髪もつややかに、鬢付け油が香るよう。そんな前振り、また色物では檜山うめ吉氏の俗曲で、さんざ雰囲気を盛り上げて、たっぷり期待を持たせて……与太郎噺もあるめぇものよ、もちろん廓噺であります。

当時の吉原には「張見世」というのがありまして、店先、道に面した「格子」の向こうに「お職」がズラリと並ぶ。客はその前をぶらぶら歩きながら、今夜のお相手を品定めする。それを「お見立て」と申しまして……なんて、廓のアレコレの説明が語られて「ああ『お見立て』だな」と見当がつく。

このあたり、説明臭くなく流暢に、吉原のざわめきが目に浮かぶように語るあたりが流石です。さっきは若い若いと言いましたが、実際は真打を襲名してもう三十年になるベテランというわけで、ジワジワと貫禄を見せてきますね。
おかげでもう二、三回は吉原で遊んだ気分になって「花魁」だの「お見立て」だのの言葉も、すっかり耳になじんだ頃、見計らったように、スルリと本題に入る呼吸も流石。

こういうの、食い合わせが悪かったと言うのかな。

ええと、先に結論を言ってしまうと、十分に楽しめなかったというか、ちょっと引っかかるところがありました。

いや、三遊亭遊之介氏の芸は十分に良かったのです。ただ、演目がその日の私に合わなかった……こういう事もある。

『お見立て』は花魁「喜瀬川」が、田舎者の成金「杢兵衛」を嫌って、廓で働く若い衆の「喜助」を使って追い返す噺。

「会いたくないから死んだと伝えて」と喜瀬川に命じられた喜助、ウッカリ近くの寺に葬られたと言ってしまったため、杢兵衛は墓参りに行くと言い出す、もちろん墓なんかない。さてどうなる、というのがあらすじだ。

杢兵衛さんが嫌われているのは、田舎者で、醜男だからで……私の事かと。違う所と言えば、杢兵衛さんは金持ちだけど、自分は貧乏というその一点くらい。
杢兵衛さんは、そりゃあ田舎者かもしれない、野暮かもしれない、でも誠実な感じなんだよなあ。押しつけがましいのは確かだけど、それも不器用ゆえで、好意でこそあれ悪意ではない。それがどうしてこうも、散々からかわれた上に、嗤われなきゃならんのだ。
何か、思い出したらまた腹が立ってきた。
笑わせ処が、いかにこの杢兵衛さんが不細工か、野暮な田舎者か、見え見えのウソにコロッと騙される間抜けなところ、だまされるままに右往左往して大騒ぎするところとか、とにかく杢兵衛さんをイジるわけで。

この『お見立て』って演目で、杢兵衛さんに感情移入する聴衆というのは、想定外なんだろうなあ。しかし、しちまったものは仕方がない……まあ、それだけ三遊亭遊之介氏の語りが迫真というか、引き込むものだったという事で。
演目が違っていれば、そりゃあもう、どんなに面白くって、楽しめた事か!
上手すぎるのも、考え物だねえ。

エンターティメントの難しさ。

そも落語に限らず、エンターティメントというのは差別的な内容を含みがち。一言でそのキャラクターや状況を、多くの大衆に、ごく短い時間で把握してもらわなければならない。となると、描写は彼らが抱いている既存のイメージに沿ったものにならざるを得ない……人物に対する既存のイメージというのはつまり、思い込みであり、偏見だ。マジョリティの偏見を否定しない……時にそれを肯定し、過剰にデフォルメし、戯画化して笑いの対象に……怪談なら恐怖の対象として描く。

エンタメは差別や偏見から逃げられない。ただ、それに自覚的であるかどうかで、色々と変わってくる。
分かりやすい例としては、アガサ・クリスティ『名探偵ポワロ』シリーズなど。ポワロはベルギー人で、作品によってはあからさまに外国人差別を受ける。しかしそんなポワロが、英国上流階級の闇を暴いていくのが、このシリーズの革新的なところ。影響下にあるのはアメリカの『刑事コロンボ』シリーズで、こちらは貧乏なイタリア移民の息子のコロンボがアメリカの上級国民の闇を暴くと言うパターン。どちらも、差別問題と階級社会をベースに描かれているけれど、ではこれらの作品が、差別や格差を肯定しているかと言えば、とんでもない、皆様ご存じの通り。
フィクションは、現実への影響をコントロールしつつ、色々な問題と向き合う事ができる手段だ。

古典落語の難しさ。

古典落語の場合。やはり、時代が時代なので、今の基準から考えると色々とセンシティブな面があります。
『三人片輪』に『棒屋』、『卯の刻参り』に『唖の釣』、『いざりの川渡り』なんて障害者ネタも色々。盲人は座頭検校など、按摩以外にも貸金業に関わる事もあったらしく、『景清』『心眼』と登場回数はやや多い。与太郎噺も、昔は知的障害を連想させるような演じ方もあったそうで……
そこに差別的な意識は、なかっただろうとは思う……むしろ、今よりも身近な存在として、八ッつあん熊さんご隠居さんなんかと平等に扱われている印象。

そもそも廓噺という時点で、扱いが難しい一面も……しかし、ここで女性の権利が云々とか言い出すと、さらに話が他所に行ってしまうので、今回は田舎者に対する扱いの方を考えてみたい。

吉原なんてのは「いかに粋であるか」というのが、建前上は最も重要な価値観だ。花見の日だけ、満開に咲いた桜の樹を植えて、散る前に抜いてしまう。そんなレベルで、粋である事を守ろうとする。粋であることに全てがつぎ込まれる。
それは、粋である事が、吉原が単なる売買春の場に陥らないための防衛線だからだ。
だから野暮である事は、吉原という場のアイデンティティに対する攻撃として、忌み嫌われ、憎悪の対象にすらなる……

ちょっと大げさかなあ……しかし「粋でなければならない」という価値観が、当時の「江戸の遊び」の基盤として存在していた事は、間違いないと思う。
明治維新の折、薩長土肥から田舎侍が押しかけて来た時は、さぞ拒否感が大きかっただろう……紅毛人とどっちがマシかってレベルだったかも。まあ私も三河の田舎者なんですが。

とっちらかってしまったけど、江戸の古典落語には、そんな田舎者に対する厳しさは、どうしても含まれてしまう、という……少なくとも私はそう感じている、という事は、伝わったかなあ。

令和の田舎者が、江戸の落語を楽しむ方法。

三遊亭遊之介氏はつまり、上手すぎたんだろう。
並大抵の演者では、表に出てこないような、江戸落語が含む微妙な毒まで、ジワリと見せてしまった。自分はウッカリ、そいつをチロリと舐めてしまった。そんなところか。

ゲラゲラ笑うという形ではなかったけれど、江戸落語の深い所を味わえたのだ。今まで経験した事のない形だったけど、さらに一歩奥へと踏み込めたような満足感。
こう言うのもアリか? 大アリだ。ジャイアントアントだ。何と言っても、寄席に来なくちゃできない経験ができたのである。

しかし不思議なのは、今まで廓噺を聴いた事が無かったワケでもないのに、今回はなんで特別だったのか、という事。
この噺で言えば杢兵衛にあたる、田舎者のキャラクターを、もっと醜く酷い扱いで演じていたのもあったけど、不思議とその時は不快感がなくて、むしろ大笑いしてた記憶がある。

もっと杢兵衛がドギツク、脂っこく演じられていて……ああ、この杢兵衛のツラの皮の厚さなら、どんなに酷い扱いされても平気だろうと、妙な安心感があったっけ。相手の都合もお構いなしでこんなに押しまくるヤツには花魁も、思いっきりやり返してやりたくなるのも無理はない、と納得できていたのもある。
戯画化するほど、安心して笑えるというヤツかもしれない。そして、笑いの対象は杢兵衛ではなく、杢兵衛と花魁の間でオロオロする喜助の役だった。
特に噺の内容や、セリフが違うわけでもない。ただ、所作や表情、声の作り方で、まるっきり違っていたのだ。
同じセリフ同じ筋でも、演じ方次第で、いくらでも変わる……全く、古典落語は恐ろしいな!

機会があれば、別の噺家の同じ噺も聞いてみたいですね。

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