「サルに恋する5秒前」4「鈴村朔、海で飛車になる&テニスもね」



鈴村朔はあおいにふられて、彼女の恋人である木山悟流のアパートに押しかけた。

あおいには興味が無くなったが、木山悟流に興味を持ったため、人生初の失恋の区切りに、サルに似た画家を知りたいと思った。

リュックに薄手の毛布を入れて、一泊すると決めていた。
鈴村はあおいと二人の絵を、木山悟流に公園で描いてもらい、正式に依頼していた。
失恋に際して絵をキャンセルし、謝罪を口実に押しかけた。
「キャンセルした絵を見せていただけますか?」
「あ、もしかして描いてないと思ってる?」
「俺がふられたらキャンセルするだろうから、木山さんがあおいさんとの仲に自信があれば描いてないかも」
「描いてたら自信が無かったってことになるのかな?」
立てかけてある絵の中から一枚の画を、木山悟流は見せてくれた。
鈴村朔は息をのんだ。
熱のある素晴らしい絵だ。
あおいが鈴村の腕に手をからませ、視線は画の向こう(画家)を見つめている。
高名な画家の絵の隣に飾られていても違和感が無いだろう。
「熱のこもった絵ですね」
「嫉妬が情熱を生み出した。俺は感情を乗せて描くと良い画が描けるので」
「改めてキャンセルして申し訳ありません」
「言っただろう。美男美女の絵は売れるから気にしなくていいって」
「描いたってことは俺にあおいさんを奪われる可能性も考えたってこと?」
「鈴村くんみたいな男が現れたら、考えない方が不思議だろ?」
悟流は鈴村に近寄り、顔をいろんな角度から見つめてきた。
「へえ、どの角度から見ても綺麗な顔だね」
どの角度から見てもサルに似ていると、鈴村は思った。
木山悟流は愛嬌のある笑顔で、鈴村の腕や胸を触ってきた。
「右腕の筋肉がすごいね。スポーツやってる?」
「勝手にベタベタ触るな!」

「勝手に押しかけたのは鈴村くんだろ? 画家の家に飛び込んできたら、顔や身体に興味を持たれる覚悟しないと。帰るなら今のうち」
「話してないのに帰るわけない」
「へえ、俺の内面に興味を持ってくれたってこと?」
「木山さんの外見に興味は持てないので」
「スポーツやってる?」
「ボウリング」
「だから右腕と左腕の筋肉が違うのか」
鈴村はベタベタ触る手を振り払い、アート部屋から逃げた。
木山悟流は鈴村をひょいと追い越しキッチンへ行き、
「コーヒーをハンドドリップでいれるけど飲む?」
鈴村朔は機嫌を直して頷いた。
「押し入れから座布団出して座って。泊まるんなら座布団が布団代わり」
鈴村は本棚を眺めた。
夏目漱石や芥川龍之介など文豪の小説が並び、自分と趣味が似ているなと思った。
棚に将棋盤があり、その脇に鈴村の好きな飛車が大きな木彫りの駒となり、飾られていた。
精巧につくられた飾り駒だ。
悟流がコーヒーをもってきた。
「亡くなった祖父が町の将棋大会で優勝した時の賞品。鈴村くん、将棋やるの?」
「卒業してから指してない」
「大学でやってたの?」
「東大将棋部主将でした」
「すごい経歴だね! あおいにそれ話した?」
「話したところで響かないよ。あおいさんは面白い男が好きだから。あなたの親友のカッキーみたいな」
木山悟流は不意打ちで動揺した。
「あおいさんにいろいろ聞いて導き出した答えがそれです。出会った時、木山さんはカッキーのキャラをイメージしてお笑い芸人を演じたんでしょ? 演技したあなたにあおいさんは恋をした」

木山悟流は「さすが鋭いね」と笑顔を見せた。
「だから自信が無かったわけか」
「今は素の自分としてあおいと付き合っているけどね」
「情がある。それが全てでしょ?」
「痛いところ突かれたな。まあ確かに不安はあるよ」
「公園で言ったよね? あおいちゃんは自由にしていいよって。あれ本気?」
「自分の気持ちを押しつけるのは違うから。あおいにはあおいの人生がある」
「なるほど。やっぱり木山悟流は面白い」
「鈴村くんさ。日を改めて遊びに来てよ。ゆっくり話したくなった」
「日を改めるなんて言葉は鈴村朔の心にはないから。社交辞令かもしれないし」
「社交辞令なんて言葉も木山悟流の心には無いけどな」
二人は波長が合って笑った。
「年が二つしか違わないし悟流って呼び捨てでいいよ。朔くんって呼びづらいから朔でいい?」
(ヤバ。このサル、距離つめてきた)
鈴村朔は思ったが、そんなに嫌ではなかった。
「なんで将棋やめちゃったの?」
「大学の日本一を決める王座戦という団体戦決勝で、俺の負けで優勝できなかったのを機に」
「……」
「圧倒的に俺が勝っていたのに、目の前の勝利欲しさに日和ってしまった。無鉄砲な俺が確実に勝とうとして、ダサい負けかたをした」
常識的な慰めを言ってくるだろう、と思った。
鈴村くんのせいじゃないとか、やめるなんてもったいないとか。
しかし木山悟流は違った。
「感情は論理と別のところにあるから何も言わないよ。俺も祖父が交通事故で亡くなってから将棋を指してない。今も祖父と過ごした公園の木の上で、空を見上げて絵を描いている」
鈴村朔は初めてそんなことを言う人に出会った。
「ところで、あおいに興味が無くなったって言ってたけど?」
「これ言うのは悪いけど熱が冷めた」
「理由聞いていい?」
「さとるん」
「はあ?」
「自分がふろうとしている男の前で、さとるん、なんて言う? こんな感じなら付き合っても長くは続かなかったって思った。例えばさ、悟流さんが、あおいん、って呼んでいるとするじゃん」
木山悟流は笑った。
「あおいんを笑うなら、さとるんはもっと笑えるよ。サルみたいな顔してさとるんって」
木山悟流はサルみたいに、マグカップを持つ手と手を叩いて笑った。
「コーヒーこぼれるって! 俺に対して悟流さん、あおいん、とか言わないでしょ。俺だって恋人ができたら二人の時はさっくんって呼んでほしいかな? でも状況もわきまえず、さっくん呼びは勘弁してほしい」
「わかるよ。さっくんの気持ち」
「さっくんって呼ぶな!」
「いいじゃん、二人の時なら」
木山悟流はサル可愛い目をして甘えた。
「…まあいいけど。二人の時なら」
鈴村朔は譲歩した。
「訂正は、初期段階でしないと時間が経てば経つほど難しくなる。この先、悟流さんが三十や四十になっても、さとるんだと思うよ」
「そういうところが可愛いんだけどね」
「さっき、わかるよって言ったよね? 俺の違和感がわかるんでしょ?」
「わかるよ、が一割で、そういうところが可愛いんだけどね、が九割」
「人の前ではさとるんって呼ばないでって言わないの?」
「言わない。あおいんはあおいんらしくしてほしいから。いけない。今あおいんって言っちゃった!」
「わざとでしょ」
「チベスナ顔しちゃって、さっくん可愛いな」
「チベットスナギツネ?」
「こんな顔」
木山悟流がチベスナ顔をした。
「それ可愛いか?」
「さっくんがやると何でも可愛いんだよ」
「可愛いって言うな!」
「いいじゃん、二人の時なら」
木山悟流が甘えた目をした。
「…まあいいけど、二人の時なら」
「そろそろ仕事するね。楽しかった。絵に集中するよ」
「了解。こっちは適当に過ごします」
木山悟流はアート部屋に入った。
鈴村朔はアート部屋の入り口に半分身を隠し、木山悟流の仕事ぶりを見ていた。
仕事の邪魔にならない配慮のためだ。
木山悟流に興味を持って乗り込んだので、彼のいない空間でくつろいだところで、目的は達成できない。
先ほど見た時、風景画はほぼ完成しているように見えた。
鈴村の目には自分を描いた人物画ほど圧倒される才能を感じなかったが、風景画なのでそれくらいが落ち着くのかもしれない。例えば会社の応接室に飾る場合。
しかし、木山悟流も何か足りないと思うのか、いろんな角度から画を見つめ考え込んでいた。
仕事中の木山悟流は得体の知れないオーラを感じさせた。
木山悟流は画から離れ、鈴村の脇を通ってキッチンへ行った。
鈴村は風景画の前に立った。
パレットに黒っぽい絵の具が出してあり、絵筆があった。
鈴村は遊び心で絵筆を握ってみた。
背後から木山悟流の声がした。
「いいよ。絵を汚しても」
鈴村はぽかんとした顔で木山悟流を見た。
「本当は悔しいんだろう?」
「……」
「鈴村くんは頭も顔もスタイルもいい。運動神経も良さそうだ。これまで負けた経験がないんじゃないか? サルに恋愛で負けて悔しかったんだろう? 絵を汚していいよ。君が来た時から覚悟してた。それとも無鉄砲というのは口だけか?」
鈴村朔は頭に血がのぼった。
このサルはいったい自分の何を知っているというのだ。
自分がここに来たのは悔しかったからじゃない。
純粋に木山悟流に興味を持ったからだ。
自分が他の人より秀でているものがあるなら、原動力は好奇心だ。
単純な計算式に当てはめて鈴村朔を語るな!
絵を汚すなんて、できないと思ってんだろう。
無鉄砲を甘く見るな。
やっていいと言うならやるんだよ俺は。
鈴村朔は絵筆にパレット上の黒の絵の具をつけて、絵の真ん中に勢いよくバツ印を描いた。
木山悟流は汚されたカンバスを部屋の隅に押しやり、真新しいカンバスを真ん中に据えた。
アート部屋を出ようとする鈴村朔に言った。
「逃げるなよ! 単なるサルじゃないって見せるから、いろ!」
それから長時間、木山悟流は情熱を絵に注いだ。
命を削るような凄い気迫だ。
鈴村朔は凄いスピードで描かれていく絵と、描く木山悟流を見ていた。
悟流は自分の内側から湧き上がる想像力をぶつけ、休みなく描いていた。
あれじゃ持たない、と鈴村朔は思った。

勝手な決めつけで自尊心を傷つけてきた木山悟流には、複雑な感情がある。
憤り、失望。
そして憤りに任せた自らの破壊衝動への後悔。
ただ一つ、はっきりしていることは、木山悟流に絵を仕上げて欲しかった。
そうなると彼が何も食べないのは非効率的で良くない。
A4のコピー用紙にマジックで大きく
「おにぎりの具。何がいい?」
と書き、見えるところに置いた。
木山悟流は気づき、
「シャケ」
鈴村を見ないで声を発した。
鈴村朔はキッチンへ行き、炊飯器でご飯を炊き、夜のスーパーマーケットに行った。
鈴村は鮭の切り身を選んだ。
塩はキッチンにあったが、海塩のほうが美味しいので買った。
おにぎり用の海苔と沢庵も選んだ。脳に糖分が必要かと思い、視界に入ったプッチンプリンをカゴに入れた。
鈴村朔はアパートに戻り、アート部屋を覗いた。
木山悟流は魂を注ぎ込むように絵を描いていた。
鈴村はキッチンへ行き、網に鮭を乗せて、火加減に注意を払って焦がさないよう、慎重にじっくりと焼いた。
鈴村朔はトレーに鮭のおにぎりとお新香、豆腐の味噌汁を片手で飲めるようマグカップに入れ、緑茶、お手拭きを乗せて、木山悟流の近くに置いた。
木山悟流は視界に入れると、一心不乱に食べた。
エネルギー切れだったのだろう。
鈴村は追加のおにぎりを握った。
小さめのおにぎりを3つ持って行くと、それも猛スピードで悟流はたいらげた。
食べ過ぎると眠くなるから、鈴村はこれで打ち止めにした。
プッチンプリンを持って行くと、木山悟流は一吞みにした。
やるべきことをやった鈴村は、ご飯に残りの鮭を乗せて自分の空腹も満たした。
木山悟流の仕事ぶりを朝方まで眺めていたが、トイレに立った後、ふいに睡魔に襲われ、座布団に倒れ込んで眠った。
鈴村朔が目を覚ますと、毛布が身体にかけてあった。
はっと飛び起きてアート部屋を覗くと、木山悟流がカンバスの前に立っていた。
「描きあがったよ」
鈴村は駆け寄ってカンバスの風景画を見た。
その瞬間、身体中の血液が踊り出した。
鈴村が汚した画のような凡庸さはひとかけらもなく、才気に満ち溢れている。
「凄い」
すると悟流が土下座をして床に頭をこすりつけた。
「鈴村朔くん。申し訳ありません!」
その瞬間、鈴村朔は全てを悟った。
凡庸な絵をわざと汚させたのだと。
その行為を自分の中の情熱に変え、求めている芸術性を昇華させたのだと。
「鈴村朔くん。君の尊厳を踏みにじる発言をして申し訳ない。あれは真意ではありません。君がここに来た理由は、俺に興味を持ってくれたのだと理解しています。君をあおって創作の情熱に変えた」
鈴村朔は怒りに震えた。
「一発、殴ってください」
鈴村朔は人を殴ったことは一度もない。
しかし、この男を殴ってやらないと気がすまなかった。
鈴村朔はボウリングで筋肉がついた右腕の拳を振り上げ、木山悟流の頬に重いパンチを素早く繰り出した。
木山悟流は俊敏にパンチをよけた。
再び殴りかかるが、木山悟流はサルのような俊敏さでパンチをよけて、狭いアパートの中を身を翻した。
鈴村朔は運動神経が良い男だが、木山悟流はプロボクサーみたいな軽快な身のこなしでパンチをよける。
二人はキッチンテーブルを挟んで向き合った。
「よけるな」
「身体が勝手によけちゃう」
木山悟流れは喋りながらパンチをよける。
「おにぎり」
鈴村、殴る。よける。
「シャケ」
殴る。よける。
「美味しかった」
殴る。よける。
「塩加減も」
殴る。よける。
「焼き加減も」
殴る。よける。
「最高に」
殴る。よける。
「美味かったよ」
殴る。よける。
鈴村朔は息を切らし、動作をおさめた。
「何か他の方法で謝罪できないかな?」
木山悟流が上目遣いで提案してきた。
考えてみれば木山悟流が土下座しなければ、彼の手のひらで転がされたことに鈴村朔は気づかなかった。
木山悟流はしれっと、絵を汚されたので代わりの絵を描いたという物語を貫けば良かったはずだ。
そういう意味では、愚直に謝罪した木山悟流に同情の余地はある。
「俺を描いたあの絵が欲しい」
木山悟流は心配そうな顔をした。
「あおいに嫌な感情はない?」

「無い。あおいさんは絵画の世界を、さとるん♪さとるん♪言いながら無邪気にスキップしている妖精さんのような存在だ。理由は純粋に、俺を描いたあの木山悟流の情熱に溢れた絵が欲しいんだ」


「あの絵は鈴村くんにあげる。お金はいらない」
交渉成立?
しかし殴ると決めたら殴るんだよ俺は!
木山悟流が油断した瞬間を狙って、鈴村朔は重いパンチを繰り出した。
木山悟流は瞬時によけた。
無理だ、と鈴村朔は悟った。
こいつの反射神経は化け物だ。
「絵をあげるから拳をおさめてくれる?」
鈴村は頷いた。
掛け値無しに本当に殴るのを諦めたのだ。
しかし、諦めた鈴村に安堵した木山悟流を見て気が変わり、鈴村は素早く右手のパンチを繰り出した。
木山悟流はこれもギリギリかわした。
しかし次の手は予測できなかったらしく、鈴村はおさめた右腕と入れ替わりに、左の拳に体重を乗せ、木山悟流の頬を思いっきり殴った。
木山悟流は不意打ちを食らって殴られ、よろけて尻餅ついた。
痛そうに顔をしかめた彼の頬が赤く腫れた。
「凄いパンチだな。右の拳じゃなくて良かった」
鈴村朔は初めて人を殴ったので加減がわからず、確かに右手で殴らなくて良かった。
そう思った瞬間、はっとした。
木山悟流は右手と左手の筋肉の付き方を触っていた。
まさか俺の気を沈めるために、左腕に殴られたのか?
「わざとか?」
木山悟流は目をむいて否定した。
「わざと殴られる奴がいると思う? 鈴村くんが見事に俺を仕留めたんだよ」
鈴村は一応、信じることにした。
「これから絵を届けるんでしょ? 頬が腫れてるけど大丈夫?」
「無鉄砲な男が殴りかかってきたって言うよ。ていうか画家に求められるのは品行方正ではなく芸術性だから」
「描き上げた絵は凄い。俺を描いた絵はもっと凄いけど、殴ったから貰えなくなった。残念だ」
「あの絵は朔にあげるよ」
「殴られ損になるのでは?」
「貰って欲しい。感情は論理を超えるんだ」
木山悟流は二枚の絵をそれぞれ梱包した。
「時間がない。電車じゃ間に合わない」
「車をコインパーキングに停めて来た。送って行こうか?」
木山悟流はぱあっと顔を輝かせ、
「さっくん、愛してる」
鈴村朔をぎゅうっと抱きしめた。
「気持ち悪い。やめろ」
「シャケのおにぎり美味しかった」
鈴村は悟流を突き飛ばした。
木山悟流は飛び退くと、「さあ急ごう」鈴村を手招きして玄関へ飛び出した。
アパートの階段を駆け下り、コインパーキングの方向を聞くと悟流は走って振り返った。
なんで走らないの?という顔だ。
なんで俺が走らなくちゃならないんだ、と鈴村が歩くと、
「さっくんって走るの遅いの?」
ふざけるな!
鈴村朔は俊敏に走った。
木山悟流は口笛吹いて、全速力で走って鈴村に追いつき、追い越した。
何の変哲もない住宅街の路上に、梱包されたカンバスを互いに持ちながら競って走る男二人の姿があった。


✨✨✨
日曜の午後、あおいは来客でマンションのドアを開けると、悟流はあおいのほっぺと唇にチュッチュッと素早くキスして立ち去ろうとした。
「今日はこれで」
「え、どこ行くの?」
「モデルと二人で海に行く。車を待たせてるから」
「はあ?」
あおいは悟流を追いかけた。
彼は停めた車に乗り込んだ。
あおいは運転席のモデルを睨んだ。
すると運転席の鈴村が照れたような顔して、よっ!とあおいに手をあげた。
モデルって鈴村くん?
あおいがぽかんとしていると、二人の車は走り去った。
✨✨✨
鈴村朔はオフシーズンの海岸で、岩場に腰掛けていた。
見渡す限り青い空、青い海で数人がサーフィンし、波しぶきが風に運ばれてくる。
「朔の水着を買ってくる」
木山悟流はサルのようにすばしっこく走った。
鈴村朔はなぜ海に来る羽目になったのか時系列で思い出した。
お客に風景画を持って行った木山悟流が戻ると、車で待っていた鈴村に「感動したと言われて次の仕事を貰えた。朔、ありがとう!」
と感謝を伝えてきて、
「朔と将棋を指したい」と言われ、木山悟流のアパートに戻り一局指した。
鈴村がハンデで飛車を落とし、二人とも久しぶりの対局で熱戦となり、一手違いで鈴村が勝ち、木山悟流は悔しがった。
祖父の形見の大きな飛車の飾り駒をあげると言われ、鈴村は断ったが、
「朔が貰ってくれた方が駒が喜ぶ。祖父の形見は俺の心の中にあるから」
と言われて飛車を貰うと、
「朔を描きたい」
熱く言われて流れで了承すると、
「海で描きたい」
熱意に押された。
海の場所を運転する鈴村に伝えると悟流は爆睡した。
徹夜だったのだ。
悟流がショップ袋を持って走ってきた。
「水着に着替えて」
男のビキニだった。
「はあ? なんでこんな水着!」
「これしか売ってなかった」
木山悟流は目をパチパチさせた。
絶対嘘だ。
「頼む」
「どこで着替えるんだよ」
悟流は袋からビーチタオルを出した。
「これを巻き付けて着替えて」
鈴村朔はビキニの水着を着て、海を背に岩場で様々なポーズを取らされた。
程よく筋肉のある引き締まった身体だ。
鈴村の手には貰った木彫りの飛車の大きな駒がある。
「海で飛車になる」
木山悟流は絵の題を言った。
木山悟流は夢中で、飛車を持った鈴村朔を何枚もスケッチした。


✨✨✨
くるみとあおいはありすのティーパーティー(給湯室のお茶入れ)で、楽しくお喋りしている。



十時と三時、給湯室で待ち合わせ。
「お茶にしましょうか」
あおいが言うと、
「ありすのティーパーティーにようこそ」
くるみがありすのドレスのつもりでスカートをふわっとさせる。
ハイタッチして、部内全員のお茶をいれる。
くるみにとって癒やしの時間だ。

次の土曜日に四人でテニスすることになった。
あおいは高校時代テニス部だったそうだ。
くるみは、カッキーの高校時代のテニス部の活躍をあおいに話して聞かせた。
(東京都の高校の団体戦でベスト16、ダブルスの予選決勝で第一シードの強豪校のエースペアに接戦)

普段はふわふわのおっとりなのに、あおいは大興奮だ。
「カッキーってそんなにテニスが上手いの? 私なんて公式戦はもちろん、他校との練習試合にすら出場したことないわ。部のエースの女の子でさえ、公式戦では二回戦に進むのがやっとなのに」
あおいがこんなにカッキーの活躍に食いつくとは驚いた。
悟流に恋するくるみにとって、あおいがカッキーに気持ちを向けてくれれば、木山悟流がフリーになり大チャンスとなる。
くるみはここぞとばかりに、カッキーを褒め称えた。
「カッキーは優しくて頭が良くて真面目で面白くて、見た目もまあまあカッコ良いし、めったにいない素敵な人だと思ってる。くるみが料理を失敗した時も美味しいって全部たいらげて、ブレイクダンスを踊ったの!」
へえ、とあおいはくるみをまじまじと見つめた。
「くるみんはカッキーに夢中なのね」
ん?なんか変な方向へいった気がしたが、褒めておいて否定するのもおかしな話なので、くるみは黙って微笑んだ。

✨✨✨
土曜日になり、四人はカッキーが予約したテニスコートに集まった。
開始までコートが見渡せる木の近くでお喋りした。
スタイルの良いあおいはスコートをはき、美しく色っぽい。
くるみはスポーツしやすい格好で、色味が可愛いピンクのパーカーを買った。
カッキーがテニスバッグにラケット数本を入れてきた。悟流に貸し出すつもりだ。
その中にピンクのグリップテープを貼った新品のラケットがあった。
カッキーはそのラケットをくるみに渡した。
「グリップサイズはくるみんの手に合わせたからな」
「カッキーったら買ってあげたの? くるみんにメロメロなのね」
あおいが冷やかした。
「確かにメロメロやけど、その古典的なフレーズ聞いたら、めっちゃ恥ずいな」
くるみはラケットを握ると、手のひらにちょうど良い。
グリップテープのピンクは、好きな色を聞かれて教えていた。
木山悟流がくるみに話しかけた。
「パーカーの色と合って可愛いね。くるみちゃんはピンクが似合う」
くるみは嬉しくて照れながら悟流を見つめた。
カッキーがひょいと乗り出して、くるみと悟流の視線を遮断した。
「くるみん。カッキーにモデルを頼まれてない?」
あおいが聞いてきた。
「ヌードモデルはやらないよって、頼んでもないのに断られたんや。くるみんみたいな純粋な女の子にヌードになって欲しいなんて思わん。裸体画のコンクールなんて、どうでもいいわ」
くるみが木山悟流にヌードを描かせたことを、カッキーもあおいも知らない。
木山悟流は異を唱えた。
「カッキーは実家が隣にあって、自分の家とアトリエもつくってもらって、コンクールの金賞なんて狙わなくても悠々生きていける。俺の立場とは違うよ」
「情熱を持った時の悟流の絵は唯一無二の魅力と芸術性がある。俺は金賞は悟流以外いないと思ってるんや。正直言うと負けたくない」
カッキーは迷いつつ、本音を吐露した。
「くるみんが悟流の絵を好きだと聞いて嫉妬したわ」
「大丈夫よカッキー。くるみんもカッキーにメロメロだもん」
「くるみんが俺にメロメロ?」
「くるみんがカッキーのことを惚気たの。カッキーは優しくて頭も良くて真面目で面白くて、めちゃくちゃカッコ良い! めったにいない素敵な人だって!」
くるみは恥ずかしくて真っ赤になった。
ありすのティーパーティーの策略が完全に裏目に出た。

あおいがこんなにお喋りだったなんて。木山悟流の前で言うなんて!
しかも、くるみは「まあまあカッコ良い」と言ったのに、あおいったら、ちゃっかり盛って「めちゃくちゃカッコ良い」なんて言っている。
カッキーは感動して舞い上がり、くるみの手を握った。
「くるみんは二人でいる時、めっちゃクールやから好かれていないのかと心配やったけど」
「ツンデレなんじゃないの? くるみんは」
「ツンデレか。そんなに俺にデレデレのメロメロンだったのか! 嬉しすぎる。信じられん!」
「カッキー。ダンスも上手いんだって?」
「ダンスなら、くるみんも上手い。アイドルのダンス可愛かったな。可愛過ぎてメロメロン」
カッキーはくるみの踊ったアイドルダンスを木陰で踊ってみせた。
あの時のくるみは不味い料理をつくって絶望した反動でテンションがおかしかったのだ。
それにしても、くるみは抑え気味に踊ったはずだ。
なのにカッキーは大げさに可愛くコミカルに踊る。
あややの物真似するはるな愛みたいな誇張したかわい子ちゃんぶったダンスだ。
こんなダンスはしていない。
あおいが爆笑した。
「くるみん、私にも踊って見せてよ」
木山悟流の前なのに、あまりにも恥ずかしすぎて、くるみは離れた芝生に逃走した。
カッキーが走ってきて、くるみの横にしゃがんだ。
「ごめん、嬉しすぎてテンションがおかしくなった」
くるみの髪の毛をそおっと撫でた。
くるみは涙目でカッキーの胸を両手で交互にバンバン叩いた。
「大嫌い。あっち行け!」
「ごめんて」
叩かれながら、カッキーはニヤニヤ嬉しそうだ。
くるみは我に返った。
この状況って端から見ると、甘えてイチャついているように見えないか?
くるみはあっちの二人を見た。
すると、あおいがこっちを指さして悟流に笑っている。
「さあテニスの時間や。くるみん、コートへ行くぞ!」
愛された自信を得たカッキーが男らしく、くるみを引っ張りあげた。
✨✨✨
四人のテニスの技術を整理すると、長身のカッキーが抜群の運動神経でテニスの上級者。

木山悟流はテニスの初心者だが、サル並のすばしっこさと、類い希な運動神経の持ち主。
彼に関してスポーツにおいて、その競技の初心者というのは意味を成さない。

あおいは高校時代にテニス部だが、ボウリングも1ピン倒しを連発し、あわや鈴村朔の髪を坊主にするところだったのはご承知の通り。
日頃からスタイルの良さを生かしてお洒落を好み、テニスはファッション的な感覚でやっていた。
今日も山ほどあるテニスウエアから選び抜いた一着を美しく着こなす。

くるみは中学から卓球部員でテニス初心者。
運動神経は上の中、スポーツとなると頑張るタイプ。
好きな男の前で可愛く見せようとはこれっぽっちも思わず、がむしゃらにボールを追う。

カッキーが基本を初心者二人に教え、さっそく打ってみることになった。
向こう側のコート中央にカッキーが一人で入り、こちらの左側半面に悟流が入り、右側をあおいとくるみが交代することになった。
二人対カッキーのラリーだ。
あおいが先に入って、くるみは後ろに下がった。
カッキーは打ちやすいボールを打っていき、返球がコートの中に入ったら走って返してくれる。
既にテニスのコツをつかんだ悟流はカッキーへ返球する。
その球をカッキーはあおいに山なりに返す。
しかし、あおいは運動音痴なので、打った球がネットを越えなかったり、コート外へ飛ばしたり、ひんぱんに空振りした。
カッキーはコート外の球をジャンプしてノーバンドで取って頑張って返球した。
そういう時は荒れた球だが、悟流はすばしっこく走って拾って打ち返した。
くるみはコートの後ろで悟流の人間を超越したサルっぽい動きに見とれた。

初心者なのにあんなに上手いなんて素晴らしすぎる。
見とれていたら突然、ボールがくるみのおでこに直撃した。
あおいが空振りした球だ。
カッキーが山なりに打った球だから無事だったが、無防備なので痛かった。
「くるみん大丈夫? 怪我するからよそ見しないで!」
カッキーが大きな声で言った。
「くるみちゃん。こっちおいで」
木山悟流が手ぶりで自分の後ろを指した。
くるみは悟流の後ろに走った。
なんだか彼に守られるみたいで、おでこの痛みを忘れてデレデレした。

あおいは三球に一球は空振りする。
空振りした後に必ずキャッと言って、ぴょんと飛んで悔しがる。
それがなんとも言えず可愛くて、あれは反則だとくるみは思った。
「くるみんと交代」
カッキーが声かけた。
くるみはやる気満々で、両手をぶんぶん振り回してコートに入った。
あおいはくるみの空振りの球に、自身の美しい顔が直撃するのを恐れてか、悟流の後ろに走った。
くるみは空振りする気はなかった。
ゆっくりした球なので集中すれば返せる。
くるみはほとんどの球を山なりに返球した。
(バックハンドは難しいので、カッキーはフォア側に打ってくれた)
くるみの打つ球すじは安定しないが、カッキーは全て拾って、悟流に返した。悟流も返す。
カッキーを挟んだ悟流とくるみの三人のラリーは、安定して続いた。
まるで恋の三角形を予感させるかのように。
あおいは後ろでふくれた。
自分だけ除け者になった気分だし、
初心者のくるみが安定してラリーするのが、テニス経験者のあおいとしては形無しの気分だ。
あおいはすねてベンチに下がった。
スポーツにおける自分の定位置はベンチだ。
運動音痴がスポーツの場に出ると、いつも哀しい風が吹く。

それにしても、なんでくるみんは初心者なのに、あんなに上手いんだろう。
カッキーが買ってあげたラケットのせいかも。
カッキーはくるみんが目を輝かせて褒め称えた通り、素晴らしすぎる彼氏なのかもしれないな。
あおいの心の隙間に、何かが焦げたような感じがつきまとう。
カッキーは私に夢中だったはずなのに。
しょんぼりベンチに座るあおいに気づいたカッキーが、ラリーをストップして走って来た。
「四人でダブルスやろっか」
カッキーが優しく微笑んだ。
あおいは彼の笑顔に救われた気がした。
✨✨✨
恋人同士、ペアを組むことになった。
悟流とあおい、くるみとカッキー。
上級者のカッキーは打ち込まず、返すにとどめる感じだ。
あおいの打った球がオーバーになっても、カッキーはノーバンで打って返した。
カッキーのサーブだ。
あおいに対してはゆるく打つが、それでもあおいが空振りした時は、
「ごめん。強く打ちすぎた」
とノーカウントにして、ゆるいサーブを打った。
カッキーが決めた暗黙の了解「あおいちゃんルール」だ。
悟流は初心者といっても別格に打てるので、悟流に対してカッキーはセカンドサーブを打ち込んだ。
カッキーのセカンドサーブは男のテニス上級者のファーストサーブ以上の威力がある。
しかし悟流は器用に当てて返し、ラリーになると、くるみにチャンスボールをくれた。
ネット際のくるみがボレーで決めると、悟流は拾って、くるみに返す。
くるみはバシッとボレーする。
悟流はまた打ち上げる。
「くるみん、決めろ!」
「さとるん、決めちゃって!」
外野の声が聞こえた。
くるみは本気で決めてるが、悟流がことごとく拾って、チャンスボールを何度もくれるのだ。
くるみは腕がしびれるくらい何球も打ち込み、ネットにボールをひっかけた。
「やった!」
あおいが悟流にハイタッチした。
くるみが目をぎゅうっとつぶって、ぴょんぴょん飛んで悔しがると、
「よう頑張ったな」
カッキーが声かけてくれた。
くるみはベンチに走って、お気に入りのピンクのパーカーを脱ぎ捨てた。暑いし動くのに邪魔だ。
大きすぎる胸が揺れて恥ずかしいから、パーカーを羽織って隠していた。
でももうそんなことは、いっさい気にしないことにした。
好きな人に可愛く見られたい乙女モードは切り捨てる。
本気モードだ。
くるみがコートに戻ると、カッキーが薄着の豊満な胸元に視線をやり、照れて赤くなった。
(見てくんな!)
くるみはシッシッと手で払った。
悟流のサーブの番だ。
彼は既にサーブのコツをつかんで、カッキーには強いサーブを打ち、くるみにはゆるいサーブをフォア側に入れてきた。
くるみがレシーブすると、カッキーはボレーで決めるため中央に躍り出た。
悟流はカッキーの頭を越すロブ(山なりの深い球)を後方のくるみに返してきた。
「くるみん、下がって」
カッキーが声かける。
くるみはボールから目を離さないように後ろへ下がり、ラケットを下から上へ大きく振り上げ、ロブで返した。
悟流もロブで返してくる。
ラリーが果てしなく続いた。
「まだなの?」
あおいの声が聞こえた。
「やらせてあげよう」
カッキーの声が聞こえた。
初心者同士のがむしゃらで熱いラリーを見届けるため、カッキーはボレーをする気がなくなったらしい。
それを知った悟流はロブをやめて、くるみが打ちやすい普通の球を、フォア側に打ってきた。
くるみは集中して返した。
汗びっしょりになり、お化粧は剥がれ落ち、髪の毛は汗ではりつき、おでこが丸出しになったが、たとえ世界一のブスに見られても、くるみはボールを返すと決めた。
悟流とラリーが続くことに、身体の芯から湧き上がる喜びに満ち溢れた。
数十球ラリーが続いた時、ボールがネットに引っかかった。
あおいが真ん中に出てエイッとボレーし、ネットにかけたのだ。
あおいによる、くるみと悟流のラリーの打ち止めだ。
カッキーが興奮して大きな音で拍手した。
「くるみん凄えな。感動した!」
「もお。決めちゃえば良かったのに」
あおいが責めて、悟流がごめんごめんと謝っていた。
この試合はカッキーくるみペアが大差で勝った。

空は薄紫色となり、コートに照明が灯った。
テニス交流会の締めは、ペアを入れ替えてダブルスをする。
くるみと悟流、カッキーとあおいペアだ。
あおいがカッキーに真剣に言った。
「カッキー、私を勝たせてね。お願い」
一ゲーム目は悟流のサービスゲームでキープした。

チャンスボールを悟流はあおいに返すが、あおいはことごとくミスる。
悟流の守備範囲は広い。サルみたいにコート中を走り回る。
いつの間にか悟流はボレーやスマッシュも上手くなり、コートのどこからでも飛びついて打ってくる。
くるみもしっかり返す。

柿本潤平は思考した。
悟流が打つと、返球はあおいに渡ってミスとなり得点できない。
一度、悟流の足下に本気のスマッシュを叩き込んだら、悟流は取れなかったが、場が凍った。
「こんなんできるってとこ見せつけてしまった」
と笑いに変えようとすると、悟流は「見せつけられた!」と笑ってくれたが、くるみは冷たい表情で笑わなかった。
(初心者相手にそこまでするか)という呆れた表情だ。
柿本潤平はくるみに嫌われたくはない。
悟流へのボールはスライス回転をかけて球がはずまないように工夫したが、彼はそれにも順応した。
そうなると、くるみから得点するしかない。
かと言って、初心者のくるみのバック側を狙うのはやりたくない。
柿本潤平はくるみをなるべく走らせ、悟流との連携を崩し、くるみが回り込まないとフォアで打てないような少し難しい球を時折はさんでミスを誘った。
あおいにこの試合は勝たせてあげたかったから。
ベンチに下がった時のあおいの沈んだ表情は、かつて柿本潤平が高校テニス部で何人も見てきた表情だった。
高校テニス部はエースの三浦が部長を務め、顧問から副部長の打診があったが「柄じゃないから」と断った。
柿本潤平は役のない気楽な立場で、部内のコミュニケーションをはかった。
男子進学校の部活で週に二三日とゆるかったので、部活のない日は柿本潤平は放課後の校庭をうろうろした。
沈んだ顔のテニス部の後輩を見つけると声かけて、
「ジュースおごるから俺と喋って帰ろ。超暇なんや」
と気楽な雰囲気でハンバーガー店に誘った。
後輩からすれば、柿本潤平はテニスは上手いが役のないおちゃらけた先輩なので、気軽に応じた。
ジュースを飲みながら、柿本潤平は後輩の悩みをさりげなく聞き出し、もし後輩が転部を望んでいたら、移りたい部活の同級生と話をつけた。
テニスは好きだけど上手くない悩みなら、コートを取って、普段試合に出られない部員たちと練習試合をやった。
そのうちの数人の後輩は柿本潤平の個人戦を遠くまで応援に来てくれるほど距離が縮まり、さらに数人とは今でも交流がある。
柿本潤平はあおいが経験者なのに一番下手なことにプライドが傷ついていると気づいた。
自分と組んだこの試合は笑顔で終わらせてあげたかった。
試合は4-5と悟流くるみペアのリード。6ゲーム先取なのでもうゲームを落とせない。
柿本潤平のサーブだ。キープしないと負け。
あおいは「カッキーお願い」と目をうるうるさせて真剣だ。

悟流には球がはねるスピンサーブでコートの端に追いやり、返ってきた球をネット際に落としてポイントを取った。
次はくるみのレシーブだ。
「くるみん、カッキーがセカンドサーブ打つわよ!」
あおいがくるみに勝手に宣言した。
くるみはびっくりして、かなり後方へ下がった。
カッキーのセカンドサーブは男のテニス上級者のファーストサーブ以上に威力とスピードがある。
柿本潤平はくるみのところへ走って行き、
「とにかくラケットに当てろ。当てれば跳ね返るから」
とアドバイスした。
柿本潤平が戻ると、あおいが「めっ!」と目を見て叱った。
「試合中に相手のコートに入っちゃダメでしょ? 悪い子ね」
あおいが前のめりなので、柿本潤平はたじろいだ。
「くるみんを甘く見ちゃダメよ。バシッとやっつけて!」
柿本潤平はくるみに向けてスピードの乗ったセカンドサーブを打った。
くるみは小柄な身体で飛びついて、ラケットをボールに当てた。
するとボールは勢いよく跳ね返り、ネット際のあおいの方へ飛んできたが、ぎりぎりネットに引っかかった。
「ナイスサーブ!」
あおいは大喜び。
「くるみん凄ぇ。よく当てたな!」
柿本潤平がネットごしにねぎらうと、
「ちゃんと言う通り当てたよ?」
くるみは納得できない様子。
「ラケットの向きかな?」
「先に言って欲しかった」
くるみがふくれた。
柿本潤平はごめんごめんとポーズした。
5-5となり、勝敗はラストゲームで決まる。
くるみのサーブとなり(初心者なのでアンダーサーブ)、悟流はコート中を走り回るべく中央に陣取った。
40-40のデュースとなり、時間も無いのでノーアドバンテージで、ラストポイントを取ったほうが勝ちと決めた。
あおいはコートの隅っこに走った。
「あおいちゃん、どうしたんや?」
「ミスしたら負けちゃうから私は何もしない。カッキーお願い。お任せします!」
あおいの勝利への執念はすごい。
くるみのアンダーサーブを柿本潤平はネットすれすれの打ちづらいところに短く返球した。
悟流が拾いあげたらボレーで叩くつもりだ。
すると木山悟流は鈍くさい動きでネット際へ行くのが遅れ、返球が間に合わなかった。
あおいが両手をあげて歓喜した。
カッキーあおいペアの勝利だ。
カッキーは(上手くやったな)的な視線を木山悟流に送り、あおいとハイタッチした。
木山悟流は振り返って、「ごめんね」と言った。
くるみは木山悟流を睨みつけた。
わざとだ。木山悟流が鈍くさいはずない。
八百長までして恋人を勝たせたいの?
くるみは木山悟流に失望した。
一方で(これで良かったんだ)と思った。
叶わない恋で苦しかった。
カッキーが優しくて素敵で苦しかった。
これで全部終わりだ。初恋の終わり。そう思ったら涙がこぼれた。
木山悟流はコート後方のくるみの前に走って来て、真面目に語った。
「あおいに勝たせてあげたかった。恋人だからじゃないよ。あおいはテニス経験者なのに、カッキーと組んだ試合まで初心者ペアに負けたくないだろうと思ったから。でも誓ってわざとミスしたんじゃない。俺は心と身体が連動しているから、身体が勝手に出遅れたんだ」
それは本当のことだった。
心と身体が連動しているから、鈴村朔の左腕に殴られた。
鈴村くんは殴らなきゃ気がすまないだろうと思ったら、左腕のパンチの時に勝手に身体が鈍くなった。
くるみはハッとした。なんて自分は浅はかだったんだろう。
恋人だから勝たせてあげたと思い込んだ。わざとミスした八百長だと決めつけた。
それに、あおいの気持ちに寄り添うゆとりがなかった。
木山悟流は情熱的にくるみを見つめた。
「くるみちゃんとのラリーも、心と身体が連動して何球もくるみちゃんに返していた」

くるみは木山悟流を諦めようと思ったが、そんなのは絶対無理だと知った。
「今日のくるみちゃんは素敵だった。くるみちゃんを描きたい。描いていい?」
「どうぞ描いて」
くるみは汗で顔がすっぴんぴんになり、おでこが丸出しになり、さっきの涙で視界がぼやけながら感動して答えた。
悟流はくるみに握手を求めた。
くるみは応じて手を出すと、悟流はぎゅうっと握ってきた。
悟流はなかなか手を離さなくて、くるみも彼を熱い気持ちで見つめた。

カッキーが向こうのコートからネットを飛び越えて走ってきて、
「おーい、いつまで握ってんだよ」
手をふりほどかせた。
✨✨✨
カッキーと並んで駅へ歩きながら、くるみは内省した。

あおいは優しくて大好きな先輩だ。
だからと言って、初めての恋を諦めることはできない。
くるみにはくるみの恋と人生がある。

けれどテニスであおいの気持ちを思いやれなかった自分は、木山悟流やカッキーに比べて人間として未熟なんじゃないか?
でも、がむしゃらにテニスしたから木山悟流の情熱を掻き立て、彼の新たな芸術が生まれる。
くるみにとって、それは感動だ。
この世には難しい問題がたくさんあり、何が正解かよくわからない。
「くるみん」
カッキーに何度も呼ばれたらしく、くるみはやっと彼を見た。
「次は二人でテニスしよっか」
「また四人でテニスしたいな」
柿本潤平はくるみの気持ちが遠くにある気がした。
くるみは陽気な柿本潤平の瞳に切なさや哀しみを感じて、動揺した。
柿本潤平は暗くなった道で、くるみを抱きしめてキスをした。
(5話に続く)
イラストを描いてくださった方々です。



