会津で「長岡から来た」と言うと、人々が優しい顔になる理由
新潟の長岡で勤務していた頃、ドライブが好きでよく周辺の県へ車を走らせていた。
北陸道や関越道はもちろん、特に好んで通ったのが磐越自動車道だった。
目的地は決まって福島県の会津若松。
絶品の会津ラーメンを味わったり、鶴ヶ城を散策したりと、不思議なほど何度も足が向く大好きな街だった。
当時の私は、まだ長岡の歴史についてそれほど詳しく知らなかった。
けれど、会津の旅先で「どこから来たの?」と聞かれ、「長岡からです」と答えるたび、ちょっとした不思議さを感じていた。
お店の人も地元の暮らしの人も、どこか特別な、本当に温かい笑顔で迎え入れてくれるのだ。
ただの観光客に対するものとは違う、胸の奥がじんわり熱くなるような優しさだった。
その理由を知ったのは、ずっと後になって歴史を勉強した時のことだ。
幕末の北越戊辰戦争。
本来は非戦中立を望んでいた長岡藩だったが、過酷な状況の中で会津藩を救済するため、軍事同盟である「奥羽越列藩同盟」へと踏み切った。
執政・河井継之助率いる長岡藩の戦いは壮絶を極め、市街地は火の海と化すことになる(林修先生も激賞されていた司馬遼太郎の小説『峠』にも描かれている)。
あの時、会津の人々が見せてくれた温かい表情の意味が、一気に解けあかされた気がした。
150年以上前の苦難を共にたたかった絆と感謝が、今もなおこの街に、人々の記憶の中にしっかりと語り継がれていたのだ。
鶴ヶ城で白虎隊の悲話に触れた時、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
国と国との関係で「親日」という温かな繋がりを聞くことはあるが、日本国内の地域同士で、これほど深く時を超えた心の繋がりが生き続けていることに深く感動した。
歴史を知ることで初めて見えてくる景色の美しさがあるのだと、深く身につまされた体験だった。
かつて「兜城」とも呼ばれた長岡城は北越戦争で焼失し、現在はJR長岡駅となっている。
二の丸跡の石碑は、市役所アオーレ長岡の傍らにひっそりと佇んでいる。
そして、この長岡駅には「幻の10番線」が存在する。
レールのないその空間は、将来、柏崎や直江津方面へ新幹線が延伸されることを見越してあらかじめ作られたものだという。
過去の傷痕を抱えながらも、常に先を見据えて次の時代を準備する。
会津で触れた歴史の温もりに思いを馳せながら、私はこの「幻の10番線」に、いかにも長岡らしい気風を感じずにはいられなかった。
時に自分のご先祖さまたちが、どんな時代を生きてきたのだろうと思いを馳せることも、今ある自分を見つめ直すのによい機会なのかもしれない。
余談
うちは分家になるが、本家に行くと近隣のおじいさまに
「mugi家の女か?恐ろしや〜」
そう言われたことがある。
どうやら、ご先祖さまはかつて「猛婦」と言われていたようだが、そのDNAはしっかり受け継がれているようだ。
「退くも地獄、進むも地獄!いざ、雌雄を決せん!」
と、毎日、何かに立ち向かう気満々♪
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