エッセイ|丸眼鏡(まるめがね)のススメ|揺らぎに心を奪われる|1377字
丸眼鏡を買ってしまった。思い切りまんまるのやつ。読み方によっては後悔しているようにも読める。そんな意味合いも多少の含みながら、でも、ついに!という満足感が勝る。
長年憧れてきたが勇気がなかなか出なかった。そのイメージは、ジョンレノン、ガンジー、ハリーポッター…。いろいろな意味で敷居がとても高い。
また、日本では草野心平、山本周五郎、堀辰雄、松本清張、レオナール・フジタ(藤田嗣治)、富岡鉄斎、北大路魯山人…名だたる作家、画家、墨客の方々。恐れ多い。
で、私。昔から形から入るタイプと言われる。まずは形を整えていく。けれど、それで文章力が上がるわけでは、当たり前だがない。要は気分。気持ちよく、物事に向き合える。そこが大事。
それに、周りからの目が厳しくなるのは承知の上だ。
「格好つけちゃって!」「ろくな文章もかけないくせに!」
そう言われても仕方がない。反論できない。でも、そう思われないように頑張ろう!という気にはなる。
有言実行で自分を追い込むやり方も、不言実行でやり遂げるやり方もあると私は思っている。まずは見た目からでも、許されるだろうか。
それに、この時代にこの形。逆に尖っているとも私には思える。自分に必要なのは、人には理解できなくとも、私を高める何らかの刺激なのだ!と思うことにする。
しかし、いざ購入する段階になると迷った。一歩間違えれば、コントのキャラクター設定となり、やりすぎ感がすぎてしまう。それに、私の内面や下心を曝け出してしまう気もした(尤も、私に関心を持つ人など皆無だろうが)。優柔不断、ここに極まる。
でも、やはり買うことにした。ジブリ宮崎駿さんの「風立ちぬ」(堀辰雄文学へのオマージュ)に登場する堀越二郎さんの丸眼鏡。あの感じが良かった。
映画を見た時、丸眼鏡が形成する世界の「揺らぎ」を感じた。
矛盾や葛藤。良心の呵責めいたもの。自分の思いや願いとズレていく時代性。堀越二郎さんはさぞ苦しかっただろう。
そこで静かに主張をしていた丸眼鏡。理想と現実を中和する存在としてあるように私には思えた。
また、当時はファッションで眼鏡をかけることなんてまずなく、実用本意の道具としてあったはずだ。それが、今は流行や憧れ的要素で語られ、私もそんな見方をしてしまっている丸眼鏡。そんなズレや「揺らぎ」を画面から覚えた。
その揺らぎがいい。好意的に受け止めた。
丸眼鏡には、他の眼鏡の形にはない揺らぎがある。かなり飛躍して言うなら、それは宇多田ヒカルさんの歌声や、アンパンマンが自分の顔を空腹な人に食べさせる行為にも通じる。
そこからは勢いで購入した。ただ、大事なことを考えていなかった。
試着もしたはず。でも、お店の鏡は魔法の鏡。女優ライトの効果も抜群。はたまた、購入に際して、テンパっていたためかもしれない。丸眼鏡を家でかけ、鏡に映った顔面をみる。強烈に似合っていない。下がり眉とのバランスが絶妙にダサく見える。
いや、ある意味似合いすぎるのかもしれない。元々鼻が大きな私には、パーティグッズの鼻眼鏡が完成だ。
また、現在、私は坊主頭(年齢的不可抗力)であり、教科書に載っていた写真の方々の面影がある。若い頃、一度はジョンのように髪を長く伸ばしてかけてみたかったと思うも後の祭りであった。
それでも、丸眼鏡の世界に踏み出せた。
新しいことに踏み出せた自分に、満足度は高い。
