立法者の使命:ルソー・ヘーゲル・マルクス①
「単独性[Singularity]はどうしていつも「私たち[We]」の形成に失敗してしまうのか」という似た問いは、2024年に公開された映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の鑑賞後に書いた下記の文章を参考にしてください。
個人の集団はどうやって共通の意志を形成するのか
ルソーの「一般意志」の概念は死語[a dead horse] なのか。それとも、この概念に関する論争を避けるために、誰もが自重しているのだろうか[just keeping their heads down]。この概念の是非を判断する[make heads or tails]ために、本稿では、ルソーが政治的共同体の中で個人の自由と集団の団結の間の緊張を解決しようとした試みとして、一般意志のニュアンスに富んだ表現と、その出現に必要と考えた条件、そしてヘーゲルやマルクスといった後の思想家が彼の定式化に対して行った影響力のある批評を検証することとする。三人寄れば文殊の知恵[Three heads are better than one]である。 最後に、本稿は、一般意志にはそれでもまだ、ベッドの中の死んだ馬の生首[a dead horse’s head]で目を覚まさせ、皆を驚かせるには十分な概念的な豊饒さがあるという結論を提示する。
まず、ルソーの2つの著作『社会契約論』と『政治経済論』による「一般意志」の定義を見てみよう。一般意志とは何か。「一般」と「意志」という2つの言葉の組み合わせは、意味論的に矛盾しているように聞こえる人もいるかもしれない。第4巻第2章の中盤で、ルソーは次のように、あいまいではあるが、いくらか役に立つ定義を与えている:
国家の全市民の不変の意志は一般意志であり、彼らが市民であり自由を有するのは一般意志によるのである[1]。
ルソーにとって一般意志とは、すべての市民が共有する一貫した意志であり、それによって個人が市民として自らを示し、自由を確保することができるのである。もうひとつの本の別の文脈で、彼はより明確な説明をしている:
この一般意志は、常に全体とその各部分の保全と幸福を志向し、法の源であり、国家のすべての構成員にとって、また国家とその構成員との関係において、何が正義であり、何が不正義であるかの規則である[2]。
この定義によれば、一般意志とは、常に集団の維持と繁栄に向けられた共通の意志であり、立法の源泉であり、正義と不正義の尺度である。「全体と各部分」が共同体全体とその構成員一人ひとりを指していることから明らかなように[3]、一般意志とは、共同体の維持と繁栄のために共同体全体とその構成員一人ひとりが共有する一貫した共通の意志であり、何が正義か不正義かという原則に基づき、個人に市民としての地位を与えて自由を保障するための立法権の主要な源泉となるものである。
一般意志の一般化についての一般的問題
しかし、個人の意志をどうして1つの意志に一般化できるのだろうか。ルソーは、「一般意志」という言葉の意味におけるこの問題の矛盾をどのように克服できるのだろうか。より正確には、一般意志はどのようにして個人を市民とし、その自由を保証することができるのだろうか。ルソーの答えは、自由を達成するために一般意志に従うことである。なぜなら、それは常に共通善のためであり、したがってそれは個人の意志でもあるはずだからである。ここでいう自由とは、個人の力によって課される自然的自由とはまったく異なる意味を持っていることに注意すべきである[4]。「一般意志によって制限される」この市民的自由は、自国以外の誰にも何にも依存しないことを保証するためのものである:
それ[社会契約]はそれだけが他のものに力を与えることができるという暗黙の義務を含んでおり、一般意志に従わない者がいれば、全体から強制されるということである;このことは、自由であることを強制されるということにほかならない。なぜなら、このような条件は、各市民を自国に帰属させ、いかなる人にも依存しないことを保証するものだからである[5]。
この暗黙の義務のおかげで、個人は全体の一部分として、共同体全体の意志に従わなければならず、共同体全体によって市民的自由を与えられなければならない[6]。 国家のすべての国民は、等しく自由であること、そして一般意志の表現としての法律に等しく従うことを義務づけられている。一般意志が市民的自由を達成することができる理由は、それが共通善を代表し、共通善を促進するという基本的目的に従って国家の権力を方向づけることができるからである。その結果、これらの共通の利益は、部分としての市民が全体と自らを同一視することを可能にする社会的絆を形成することができる。万人の意志と一般意志を比較することによって、ルソーは一般意志と共通の利益との関係を詳細に説明している:
万人の意志と一般意志の間にはしばしば違いがある。後者[一般意志]は共通の利益だけに関心があり、前者[万人の意志]は私的な利益に関心があり、個人の欲望の総体である: しかし、これらの欲望からその過不足を取り除くと、異なる欲望から残る共通の要素が一般意志である[7]。
一般意志の唯一の焦点は共通利益であるのに対して、すべての人の意志は私的利益に焦点を当てている。さらに重要なことは、一般意志、万人の意志すなわち「個人の欲望の総体」の間に平等なものがあることは明らかである。一般意志とは「異なる欲望から残る共通の要素」であり、個々の欲望の総和から、その過剰と不足の両方を是正するものである。「一般意志は常に正しい[8]」という有名な一節はこの意味で理解されるべきである。というのは、「一般意志の傾向は平等に向かっている[9]」からである、 そしてこれはルソーにとって非常に重要である(そして、相互承認という点では後に検討するヘーゲルにとっても)。
一般意志の可能性の条件:平等への傾向
一般意志、すなわち個人の集団が共通の意志を形成することを促すメカニズムが出現する可能性のある条件の1つは、この平等への傾向である。個人を共同体全体に束縛する義務は、その相互の本性によってのみ意味をもつと述べた上で、ルソーは、権利としての平等の真の原理と正義の概念との関係において、一般意志が常に正しい理由を、後の文章において、一般意志によって指示される社会契約が平等を確保するものであることを付け加えて説明する:
権利としての平等と、それが生み出す正義の概念は、各自が自分自身に与える選好から、ひいては人間の本性から導き出される; 一般意志が真に一般的であるためには、その本質においてだけでなく、その対象に関してもそうでなければならない; それがすべての人に適用されるためには、すべての人から発せられなければならない[10];
どのような方法で原理原則に立ち戻っても、私たちは常に同じ結論に達する、すなわち、社会契約は、市民の間に非常に大きな平等の程度を確立するものであり、市民は皆、同じ条件に自らを委ね、同じ権利を享受すべきであるということである[11]。
一般意志は、すべての人に等しく適用されるべきであると同時に、すべての人から等しく発せられなければならない。そうすることで、同じ条件を守ることに同意し、同じ権利を享受すべき[ought be]すべての市民の間にかなりの程度の平等を保証するために、一般意志は真に一般的なものとなる。このようにして、社会契約に基づく全体と各部分の間の合意は正当性を持つことになる。他方、一般意志がその平等性を失ったり、特定の特殊意志に向けられたりすると、一般意志はその性質を変え、その決定はその一般性の欠如のために誤りに陥る可能性がある。
常に正しいが誤りを犯す一般意志:立法者の必要性
一般意志は常に正しいが、誤りを犯すことがある。なぜなら、「人は常に自分の善を欲するが、それが何であるかは常にわからない」ので、自分の善ではなく「悪を欲しているように見える」からである[12]。善を求める気持ちは不変だが、それが何であるかの理解は曖昧であり、まるで無意識の欲求であるかのようである。もし真の平等原則が働いていれば、例えば、メンバーが正しく平等に情報を得ていたとしても、公平さのためにメンバー同士の意思疎通を許さなければならないのであれば、「多数の小さな差異から常に一般意志が生まれ、その決定は常に善となるであろう。[13]」しかし、「特殊意志の誘惑性[14]」によって、特殊意志の単なる集まりが一般意志に勝るほど大きくなれば、その性質は沈黙するように変わってしまう。このように、一般意志の出現のための可能な条件のひとつは、各市民が自分の観点にしたがって自分自身で決定することを可能にする平等原則である。しかし、繰り返しになるが、たとえ一般意志が正しいとしても、啓蒙されていない判断が誤りを犯したり、間違った方向に進んだりするのを避け、大衆が何を望んでいるかを見抜くことができるのはなぜだろうか。ルソーは、平等原則を維持するための指針としての立法者の必要性について、一般意志が平等以外に何を必要としているかを説明した上で、こう答えている:
一般意志は、物事をありのままに、時にはあるべき姿を見せてもらい、どの道を進むのが正しいのかを教えてもらう必要があり、(…)すべての人が等しく指針を必要としている。一方は意志を理性に従わせなければならず、他方は何を欲しているかの知識を教わらなければならない。そうすれば、公的な啓蒙から、社会的身体における理解と意志の結合が生まれる;そうすることで、各部分が正確に一致し、結果として全体がより強くなる。だからこそ立法者が必要なのである[15]。
ルソーは『社会契約論』第2巻第7章で、立法者の詳細な性格を説明し、あらゆる点でその天才性と卓越性を強調している[16]。つまり、立法者の主な役割は、各人の特殊意志を理性と一致させるのを助け、理性が指針として何を欲しているかを教育することによって、法律を一般意志に適合させることであり、その結果、社会体における理解と意志の統一を生み出し、あるいは「国家が悪政に陥ること[17]」さえ防ぐのである。この目的のために、立法者の知恵と技量は、政府の権力と意志の理想的なバランスを決定し、国家にとって最も有益な配給のためにそれらが調和的に均衡するようにすることにある[18]。 言い換えれば、ルソーの表現を借りれば、「立法者は機械の発明者」であり、法律や制度のシステムを「考案」するのである[19]。立法者が一般意志と特殊意志を区別することにどうやって成功するかといえば、それは「美徳に支配させる」ことである。というのも、「最も崇高な徳のみが、必要な啓蒙を与えることができる」のであり、「徳とは、特殊意志を一般意志に適合させることにほかならない」のだからである[20]。一般意志が望むものを教育し、共通善を促進するために(一般意志によって指示される)法律や制度の体系を作るのは、まさに指針としての立法者である。そうすることで、法の制度は、等しい義務や利益を享受するために、すべての市民が公的な献身にに忠実であることを保証するものである。この法の支配のおかげで、平等の原則が維持され、自由が達成されるのである。『エミール』の次の驚くべき一節は、このことを最も明確に示している。
社会におけるこの病気を改善する手段があるとすれば、それは人間の代わりに法を用い、あらゆる特殊意志の作用にまさる真の力で一般意志を武装することである。もし国家の法律が、自然の法律と同じように、人間の力では決して克服できないような柔軟性を持つようになれば、人間への依存は、再び物への依存となるであろう[21]。
ルソーは『政治経済論』の中で、公教育が提供されるべき条件について述べているが、次の1節はまさに彼の政治哲学を体現したものである。
公教育は、政府によって定められた規則に従い、主権者によって設立された役人によって管理されるものであり、したがって、大衆的または合法的な政治形態の基本原則のひとつである。もし子供たちが完全に平等な条件で共通に育てられ、国家の法律と一般意志の極意を身につけ、何よりもそれらを尊重するように指導されるなら、(…)彼らは兄弟のように互いを大切にし、社会が求めるもの以外は何も望まず、(…)いつの日か、長い間その子供であった祖国の擁護者、父親となることを学ぶに違いない[22]。
公教育が合法的な統治システムの基本規則であるためには、主権者によって任命された当局によって、政府によって確立された原則に従って運営されなければならない。とりわけ、公教育は、集団的環境の中で絶対的平等を経験する機会を子どもたちに与え、一般意志(ひいては国家の法律)の極意を確実に身につけさせるために不可欠である。
【後半に続く】
註
[1] Rousseau, The Social Contract, Book IV, Chapter ii, pp. 137-8.
[2] Rousseau, Discourse on Political Economy, p. 7.
[3] Rousseau, The Social Contract, Book I, Chapter vi, p. 55. ルソーはまた、「部分を欠いた全体は全体ではない」として、全体だけでなく、各部分も重要だと強調している。 Rousseau, The Social Contract, Book II, Chapter vi, p. 74を参照。
[4] Ibid., Book I, Chapter viii, p. 59. See also Rousseau, Discourse on Political Economy, p. 8.
[5] Rousseau, The Social Contract, Book I, Chapter vii, p. 58.
[6] ルソーは自由と奴隷制を対比させ、「食欲だけに振り回されるのは奴隷であり、自分自身に課した法に従うのは自由である」とまで強調している。Ibid., Book I, Chapter viii, p. 59.
[7] Ibid., Book II, Chapter iii, p. 66.
[8] Ibid. なぜなら、ルソーの考えでは、「最も一般的な意志は最も公正な意志でもあり、民衆の声は真に神の声である」からであり、最も一般的な意志としての民衆の声は、最も公正な意志としての神の声になりうるからである。Rousseau, Discourse on Political Economy, p. 8を参照。
[9] Rousseau, The Social Contract, Book II, Chapter i, p. 63.
[10] Ibid., Book II, Chapter iv, p. 68.
[11] Ibid., p. 69. ルソーは、この引用箇所の後の文章で、「盟約の性質上、あらゆる主権行為、すなわち一般意志のあらゆる真正な行為は、すべての国民に等しく義務や利益を生み出す」と言い換えている。
[12] Ibid., Book II, Chapter iii, p. 66.
[13] Ibid.
[14] Ibid., Book II, Chapter vi, p. 75.
[15] Ibid. 太字による強調は引用者。
[16] Ibid., Book II, Chapter vii, p. 77.
[17] Rousseau, Discourse on Political Economy, p. 12.
[18] Rousseau, The Social Contract, Book III, Chapter ii, p. 99.
[19] Ibid., Book II, Chapter vii, p. 76.
[20] Rousseau, Discourse on Political Economy, p. 10, p. 14. 特に17頁でルソーは、「自分の特殊意志がすべてのことにおいて一般意志に合致するとき、すべての人間は高潔であり、愛する人々が欲しがるものを喜んで欲しがる」と正確に述べている。
[21] Rousseau, Emile or On Education, Book II, p. 85. 太字による強調は引用者。
[22] Rousseau, Discourse on Political Economy, p.23. 太字による強調は引用者。
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