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【感情の箱】罪悪感と被害者意識を脱いで、人生のハンドルを握る

「私」が私を生きる。

そう決意したのは数年前のことだ。

私はそこから慣れない挑戦もしたし、そのことによって、ちっぽけな自分を発見することにもなった。

noteを書きだして、「私」が私を生きるという気持ちは、また強くなっている。

突き上がるように浮かんでくる想いでもある。

けれど、心の奥から湧いてくる悔しさや怒りが、誰に対してのものか見ないふりしてきたように、そのことがどんな意味を持つのか、深く考えてこなかったように思う。

ただ、自分の心地よいことや、自分のやりたいこと、食べたいもの、自由な時間。
それを選択して味わうこと、自分を大切にすること。

それが、「私」が私を生きるということになるのだろうか。


私には、罪悪感被害者意識が多くあった。

それらは微妙に重なり合いながら、「お前には俺たちが必要なのだ」とまとわりついてきた。

「私にはもう、あなたたちは必要ない!」

心ではそう叫んでいるのに、いつの間にか罪悪感の服を着て、被害者意識の仮面をかぶっているのだ。そんな自分に気がついて、また肩を落としていた。

脱いでは剥いで、捨てているはずなのに、いつかまた必要になると感じているから、端っこを握りしめて離せない。

被害者でいれば、優しくしてもらえる。
罪悪感をもっていれば、その場から動かずにすむ。

なぜそんなことを、大事に握りしめているのだろう。

「変わりたい」と思っているのに、足を引っ張っているがいる。

被害者意識を持ち「かわいそうな私」を手放すなら、もう誰かのせいにはできない。

罪悪感で「自分を攻撃する」ことをやめるなら、自分で立ち上がって動き出すしかない。

自分でハンドルを握り、好きな道を通って、行きたい場所へ行くこと。

「私」が私を生きる

決めた瞬間、自由になる。
360度が進める道になる。

その広さに驚いて立ちすくみ、自分を隠すための服や仮面を探したくなる。

自分の人生に責任をもつということが、私はこわいのだろうか。

責任感は、ある方だと思っていた。

自分のやるべきことをやる。
言われたことを確実にやる。

それは自分で考えるというより、他人に預けられた仕事に対してだった。
「評価」への責任感だったのかもしれない。

誰の評価もない世界で、自分のハンドルを握り、道に迷っても行き止まりでも、誰かのせいにはしない。
動けないとしくしく泣いても、誰も引っ張りあげてはくれない世界へ、私は行こうとしている。もう踏み出しているのだと思いたい。

これまで充分、人のせいにしてきたし、優しい誰かに引っ張りあげてもらった。

自由で広くて孤独に思える世界で、私はどう生きるだろう。

そこでしか見えないものがあることを知っている。

これまで追いつきたかった人たちに、「かわいそうな私」ではない姿で、会いにいきたい。

自分で運転して、大切な人に会いにいきたい。







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