第四章 青の世界へ
靖国神社をあとにして、
帰りの電車に乗った。
座席に腰を落ち着けた瞬間——
警報音が鳴った。
スマートフォンを見る。
地震。
北海道から東北にかけて、
大きく揺れている。
数日前にも、長野県で
強めの地震が二度あった。

少し、不安がよぎる。
東北に住む知人へ、
安否確認のメッセージを送った。
すぐに返事が来た。
ほっとした。
——なぜ、このタイミングで。
そう思いながら、
複雑な気持ちのまま
息子の家へ向かった。
息子の家で、一日ゆっくりと過ごした。

好きな時間に起きて、
好きなことをして、
ただそこにいる。
それだけのことが、
こんなにも豊かだとは。
何もしなくていい。
急がなくていい。
自分の中にある感情を、
ゆっくりと見つめていた。
靖国神社で流れた涙。
小網神社で浮かんだ言葉。
一つひとつを、
深く観察するように。
急かされることなく、
ただ、内側を見ていた。

旅の疲れが、静かにほどけていく。
特別なことは何もない。
ただ、そこにいるだけで
少しずつ、何かが整っていくような
そんな感覚があった。
何もしない幸せが、
確かにそこにあった。
次の日の朝。
息子が言った。
「せっかく来たんだから、
ネモフィラ見に行ってきたら?」
特に深く考えていなかった。
ただ、その流れに乗ることにした。
ひたち海浜公園。
電車とバスを乗り継ぎ、約一時間。
見て、帰ってこよう。
それだけのつもりだった。
園内に入った瞬間、

その広さに息をのむ。
太陽が眩しく、
少し暑いくらいの光。
噴水の近くを歩く。
そのそばに咲く花々に、
思わず足が止まる。
白とピンクのデイジーが、
小さな顔を並べて咲いている。
足元には、たんぽぽ。
一輪だけ、
ひっそりと、
それでも力強く咲いている。
見惚れながら、それでも先へ進む。
記念の森散策路へ入ると、
鮮やかなピンクのツツジが
木々の幹に寄り添うように
咲き誇っていた。
その色の鮮やかさに、
思わず立ち止まる。
さらに進むと——

黄色い花の大群が現れた。
菜の花。
どこまでも続く黄色の海。
その向こうに、
大きな一本の木が
どっしりと立っている。
枝を大きく広げ、
すべてを包み込むような姿で。
菜の花の黄色と、
大樹の堂々たる姿が、
完璧に調和している。
この景色が、
誰かの手で作られたものではなく、
自然がそうなったのだと思うと——
この地球は、
なんと美しいのだろうと思った。
ネモフィラの丘へと向かう。
やがて——

見えてきた。
青。
一面に広がる、青の絨毯。
思わず、走り出していた。
丘の上に立つ。
強い風が吹いていた。
海から来る風が、
全身を包む。
けれど——
寒くない。
不思議なほど、寒くなかった。
むしろ、その風が
何かを運んでくるような。
浄化されていくような。
全身の力が、すっと抜けた。
胸がいっぱいになった。
時間が、止まったような気がした。

海が見える。
空も青。
大地も青。
どこを見ても、青。
青の世界。
まるで、天国にいるようだった。
——今の私はこう思う。
あの風は、
ただの海風ではなかったかもしれない。
龍神様の息吹が、
海の向こうから
届いていたのかもしれない。
寒くなかったのは——
守られていたから。
すべてが、完璧だった。
風も、光も、
そこにあるすべてが調和している。
しばらく、その中にいた。
魂が安らいでいた
緩やかな時間が流れていた
ずっとこの場所にいたような感覚
いや——
あっという間だったのかもしれない

青の世界に包まれたあの瞬間、
私の魂は
何かを思い出していたのかもしれない。
かつて、どこかで見たことのある景色。
かつて、どこかで感じたことのある光。
この地球は、
こんなにも美しかった。
それを——
ただ、思い出した。
丘を降りてから、
出口へ向かう道を歩いた。

歩きながら、見つけた
色とりどりのチューリップが、
一面に咲いている。
赤、ピンク、黄色、オレンジ。
八重咲きの花びらが
幾重にも重なり、
どれも誇らしげに、
空へ向かって咲いている。
その美しさに、
また足が止まった。
この公園は——
ネモフィラだけではなかった。
どこを歩いても、
花が迎えてくれる。
お腹が空いていることに気づいたのは、
その頃だった。
ベンチに腰を下ろし、
チーズハンバーガーを食べた。
とろけるチーズが、
温かくて、美味しかった。
そのとき——

一羽のカラスが、近くにいた。
じっと、こちらを見ている。
遠ざかりもせず、
近づきもせず。
ただ、見守るように。
カラスは古来より、
神の使いとされてきた。
そう思いながら、
目が合った気がした。
その後どうするかと
案内板を眺めていたとき——
「水源」
という文字が目に入った。
特に理由はなかった。
ただ、気になった。
気づけば何故か、林の中を進む。

木々が空を覆うように伸び、
枝と枝が絡み合っている。
足元には枯れ葉が積もり、
踏みしめるたびに
乾いた音がする。
風が木々を揺らし、
太陽が木々の間から差し込んでいる。
周囲がキラキラと輝いているように感じた。
人の気配はない。
少し不安になりながらも、
それでも前へ進んでいく。
やがて、水源の入り口に辿り着いた。
地図を確認する。
まだ、森の中へ入らなければならない。
どうしようか。
少し躊躇した。
けれど——
ここまで来たのだから。
気持ちを奮い立たせ、
よし、と歩き出した。
やがて辿り着く。

透明な水が、
絶え間なく湧き出している場所。
静かで、美しい。
音がした。
水の音だけが、
その空間を満たしている。
他には何もない。
風も、虫の声も、
遠くなっていた。
その空間に立ったとき——
全身が、しんと静まった。
騒がしさが消えたのではない。
もともと静かだったのに、
さらにその奥の静けさへ
引き込まれていくような。
呼吸が、自然と深くなる。
身体の中の何かが、
この場所の何かと、
静かに共鳴している。
感じた。
龍の気配。
水を司る存在。
ここにいても、不思議ではない。
見えているわけではなかった。
けれど——
確かに、いた。
水の流れの中に。
この場所そのものの中に。
太古から、ここにいる存在が。
この場所に来られたことに感謝して、
その場をあとにした。
帰り道。

木漏れ日の中を歩きながら、
まだあの静けさの余韻の中にいた。
ふと、違和感を覚える。
何かがいる。
足が止まった。
小さな龍。
はっきりとした輪郭で、
見えている。
目をこする。
もう一度見る。
やはり、いる。
輪郭が、ぶれない。
夢でも、幻でもない。
確かな形として、
そこにある。
けれど——
そんなはずはない。
観光のつもりで来ただけなのに。
ただ、ネモフィラを見に来ただけなのに。
頭が、追いつかない。
見えているという事実と、
あり得ないという理性が、
同時に存在していた。
そのまま帰路についた。
バスを待つ間、
空を見上げた。

厚い雲の間から、
太陽が静かに輝いている。
雲に包まれながらも、
消えることなく、
そこにある。
この旅全体が、
そういうものだったかもしれない。
見えないものに包まれながら、
それでも確かに、
光はそこにあった。
この時のことを、
あとになって何度も思い返した。
軽い気持ちで踏み込んだ場所で、
龍に出会った。
導かれていたのかもしれない。
いや——
きっとそうだった。
なぜなら——
この時に見えたもの、感じたもの、
すべてが美しく、
自然の中に完璧に調和した
芸術を感じたから。
私たちは、
自分が思うよりずっと深いところで、
見えない何かに
導かれている。
次回「異世界への扉」榛名神社へ👇
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