🍒この駅がすき〜国鉄三木線 別所駅〜
国鉄三木線は、1985年に第三セクター化し、2008年に廃線となった単線の鉄道です。そして、終着駅である三木駅の一つ手前の駅、別所駅が私の好きな想い出の駅なのです。
駅は東西に走る線路の南側にあり、駅舎横には集合場所となることの多い、小さな祠(ほこら)がありました。駅のホームに立つと、線路の北側には播州平野が広がっています。西は龍野あたりから始まる播州平野の、東端にあたる場所です。
水田地となっていましたが、私が子どもの頃は、稲の裏作で麦を植えていることが多く、稲の緑色→稲穂の黄金色→土の茶色→麦の緑色→麦穂の黄金色と、三色がローテーションしていた印象があります。
駅のホームからは、水田地越しに加古川の支流である美嚢川(みのうがわ)の土手が、比較的近くに見えました。
昭和40年あたりから、別所駅にほど近い川土手で、花火大会が催され始めましたが、別所駅から見る打ち上げ花火は、前に人家がない分格別だと言われていました。駅ホームから見たことは、大学帰りの一度きりでしたが、評判通りの印象深いロケーションで、しばらく見とれていた記憶があります。
別所駅には、私にとっての「初」が詰まっています。初めて、両親と連れ立って旅行したこと。その回数が少ないだけに、記憶には鮮明に残っています。中学生になって、部活の対外試合に行く時の集合場所。高校受験や大学受験。出発の場所は、いつもこの駅なのです。懐かしい人に出会うのもこの場所。ロマンチックな話もありますが、ここでは触れないでおきましょう‥‥。
最も印象に残る話を一つだけします。大人になって何人かにしましたが、誰にも信じてもらえません。信用を失うもとにならぬよう、いつの頃からか封印してきた話です。今回、国鉄三木線の歴史本や写真集、A I検索等駆使して、裏付けを取りながら過去の記憶を再話したいと思います。信じてもらえるかどうかは、自信ありませんが。
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私が小学校に入学する直前の話です。4歳か5歳ですから、昭和37〜38年くらいの話です。蒸気機関車が客車を引き、国鉄三木線を、終着駅である三木駅方面へと走っていました。客車は、背もたれ以外ほぼ木製で、全体的に茶色でした。
思い切って、何があったかを言いましょう。
母親と私は、蒸気機関車が引く客車前方に乗っていました。別所駅の一つ手前の駅は、石野駅です。石野駅と別所駅の中間地点で、蒸気機関車が停車し、4〜5歳の私は降りて線路脇でトイレを済ませ、また乗車し、何事もなかったかのように蒸気機関車は客車を引いて動き出し、そして別所駅へと向かいます。これだけのことです。
久しぶりに言い切って、スッキリしましたが、同時にこれを読んで、今引いていく人の心を感じているところです。いくら昭和30年代だからと言って、一人の子どものトイレのために、蒸気機関車は一時停車するものか!
疑わしい点は、大きく三つ。
①昭和30年代に、国鉄三木線でSLが客車を引いて走っていたこと
②ダイヤ重視の公共交通機関が、一人の子のトイレのために停車したこと
③4〜5歳の子どもの記憶の不確かさ
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まず、①に関して。
当時の資料から、機関車と車両をAI検索すると、
機関車:C12形
客 車:オハ31系列
が、該当することがわかりました。



蒸気機関車も客車も、記憶の中のイメージ通りです。
大人になって話した時、信じてもらえなかった最も大きな理由は、国鉄三木線の蒸気機関車と客車の取り合わせでした。
鉄道ファンなら、資料を見て裏がとれます。公式記録には、こう表記されています。
《国鉄三木線でSL牽引の旅客列車が定期運行されていた記録はない》
子どもの尿意で停車する以前の問題。そもそも国鉄三木線に、C12型蒸気機関車とオハ31系列客車の取り合わせはない。ウソを言っている!大嘘つきだ!と、こういうことです。
今回、改めてAI検索(Google)を何度か繰り返して、次の記事見つけました。

私は「人ではない《AI》」に初めて理解してもらえた、そんな気がします。
次は、②について。
もう一つの信じ難い事実。石野駅と次の別所駅の中間あたりで、なぜ停車することができたか。想像込みの私の考えを述べます。
国鉄三木線は単線で、別所駅の次は終着駅の三木駅です。ダイヤへの影響は非常に少ない場所でもありました。三木駅には、ターンテーブルという車両の向きを変える洒落たものはありません。蒸気機関車は、客車の先頭には付け替えられますが、逆向きのまま、国鉄加古川線との合流駅である厄神駅(やくじんえき)まで走り戻ります。単純なピストン運行。つまり、2〜3分途中停車して遅れたところで、大したロスが発生しない場所だったと考えられるのです。
③について。
あと一つの疑問は、私自身の記憶でしょう。4〜5歳の子どもが、なぜ今も鮮明に記憶しているのか。
停車した場所は、細めの笹竹が生い茂る場所の裏手でした。線路から見て、笹薮の向こう側の小さな空き地は、私たち子どもがよく行く遊び場の一つだったのです。家から近い場所で、とても馴染みのある場所です。
明石市から稲美町、そして加古川市東端の厄神辺りまで、広大な稲美野大地が広がっています。国鉄三木線は、稲美野大地の北側を外縁に沿う形で走っていました。私たちの遊び場だった竹藪前は、まさに線路よりも一段高くなっている台地末端部分でした。
リュウノヒゲという植物があります。


コバルトブルーの実が、秋から冬にかけてリュウノヒゲの葉の間に、隠れるように表れます。
笹竹の竹藪周辺には、リュウノヒゲが群生していました。四つ上の兄が、友達と一緒に笹竹で細めの紙鉄砲を作って、紙のかわりにリュウノヒゲの実を飛ばして遊びました。冬遊びの定番です。ゴクダマテッポウと私たちは呼んでいました。
私は、竹藪前広場に行って遊ぶ度に、蒸気機関車を停めて、トイレタイムをとってもらったことを思い出しました。それ以後も近くを通る度に、思い出し続けました。今でも通るたびに思い出します。つまり、地元で生まれ育ち、学び、働き続けた私にとって、長く記憶を途切れさせる間など無かったのです。
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話を、メインの別所駅に戻していきましょう。
客車の最も前に座っていたので、おそらくは母が泣きべそをかき出した私の様子を見兼ね、車掌さんに伝えて、話が機関助士(火夫担当)や機関士(運転担当)に伝わり、「しょうがねーなー」と思いつつも、停車させたのだと思います。竹藪とは反対側から降りた記憶が、今も鮮明に残っています。
プラットホームがない分、客車フロアと地面の高さがかなりあって、車掌さんに、ヨッコラショと抱え下された記憶が微かにあります。
トイレを済ませ、客車にヨッコラショと戻り、また蒸気機関車が走り始めます。そして別所駅へ。
駅に到着した時、加古川駅から我慢していたトイレを済ませられたためか、妙に晴れやかな気持ちだったことが思い出されます。そして別所駅で、ある「初めて」の感情をかみしめました。4〜5歳では、その感情は言葉としては残りませんでしたが、成長過程で熟語として、インプットされていきました。
「温情」
どんなに忙しくっても、どんなに面倒くさくっても、目の前の人が本当に困っているんだとしたら、見て見ぬふりはしないこと。これが、SLを停めてトイレタイムを作ってもらった私が、その後私自身に課した「生涯のタスク」となりました。
私にとって別所駅は、信頼できる人ならば「温情」を持って接していこうと、固い誓いを立てた場所でもあるのです。

