日本初の天守
──伊丹城
──多聞山城・信貴山城・有岡城、そして安土城をめぐる多角的考察
はじめに 「天守」という問いの難しさ
「日本初の天守はどこか」という問いは、一見シンプルに見えて、じつは何層もの難問を抱えている。
まず「天守」とは何か、という定義の問題がある。単なる高楼か、石垣の上に立つ複数層の楼閣か、それとも権力の象徴としての意匠を備えたものか。定義を変えれば「初」の候補地も変わる。次に、史料と遺構という二つの証拠の非対称性がある。文字で「天守」と書かれていても、それが今日われわれが想像する天守と同じ建築であるとは限らない。逆に、実際に存在したとしても、現地に遺構が残っていなければ確認のしようがない。
この難問を念頭に置きながら、「伊丹城(有岡城)が日本初の天守に深く関わる城ではないか」という仮説を軸に、摂津・大和・近江にまたがる城郭史の謎に迫ってみたい。
第一章 伊丹城の「天守」の初出
『細川両家記』の記述と「主殿」誤記説の検討
日本における「天守」という言葉の最古の文献的初出として知られるのが、室町時代後期の戦乱を記した『細川両家記』である 。同書によれば、1521年(永正18年)の記述に、摂津国の伊丹城において「天守」という表現が見られる。もしこれが後の時代の天守と同じ概念を指すのであれば、安土城に先立つこと50年以上前に、既に天守は存在していたことになる。
しかし、歴史学界においては、この「天守」は「主殿(しゅでん)」の誤記ではないかという根強い疑念が存在する 。中世武士の居館において、主殿は最も重要な生活・儀礼空間であり、文書の書き写しの過程で「主殿」が「天守」と取り違えられた可能性は否定できない。当時の「てんしゅ」という呼称には「殿主」「殿守」「天主」といった様々な表記が混在しており、江戸時代以降に「天守」として固定された経緯がある。
一方で、この記述を単なる誤記として片付けることには慎重であるべきだ。たとえ用語が混同されていたとしても、当時の伊丹城に、周囲を威圧するような「なんらかの高い建物」が存在した可能性は十分に考えられる。当時の摂津は細川政権の内紛(両細川の乱)の主戦場であり、伊丹氏はその中で戦略的要衝を維持していた。敵軍の動向を監視し、自軍の威信を示すための重層建築が、主殿に付随する、あるいは独立した形で存在したことが、後の「天守」という概念の萌芽となったという仮説は、建築の進化プロセスとして極めて自然である。
有岡城への改変と荒木村重

伊丹城は、天正2年(1574年)11月に荒木村重が主君・伊丹親興を逐い、自らの本拠として大改築を施した際に「有岡城」へと改名された。この段階で、城郭の構造は劇的な進化を遂げる。有岡城は、城郭の中に町を取り込む「総構え(そうがまえ)」の先駆けとして知られ、防御機能と都市機能が高度に統合されていた。

2022年、千田嘉博教授らチームによる調査では、有岡城が単なる軍事拠点ではなく、武家儀礼に基づいた格式の高い城であったことが指摘されている。特筆すべきは、現在の有岡城跡公園の北西部、城内で最も標高が高い場所に「天主(天守)」が存在した可能性である 。石垣前からはこの建物のために生産された可能性のある瓦が出土しており、入母屋造りの屋根を持つ象徴的な建築物が想定されている 。

この有岡城の天主は、千田教授らが提唱する、織田信長の安土城以前に畿内で成立していた「初期天主」の系譜に位置づけられる 。これは、後世の軍事特化型の天守とは異なり、御殿のような居住・儀礼機能を備えた重層建築であったと考えられる 。例えば、同時期の細川藤孝による勝龍寺城の天主では、和歌の秘伝を伝える「古今伝授」が行われるなど、文化的な社交の場としての性格を強く持っていた 。
村重は、信長が安土城を築くよりも早く、野面積みの石垣の上に、権威の象徴と高度な文化的機能を併せ持つ「天主」を構築していたことになる 。江戸時代の絵図には「天守土台」の位置に齟齬が見られるなど未解明な点も多いが、有岡城は近世城郭へと脱皮する過渡期の、最も先進的な姿を体現していたといえるだろう 。
第二章 松永久秀の革命 多聞山城と信貴山城
伊丹城・有岡城と並んで天守の先駆けとして語られるのが、大和国の松永久秀が築いた多聞山城と信貴山城である 。久秀は、それまでの山城の概念を覆す「白漆喰・瓦葺き」の城郭を創出した。

多聞山城:近世城郭のプロトタイプ

1560年(永禄3年)に築城が開始され、1564年に完成した多聞山城は、当時の人々に多大な衝撃を与えた 。奈良の東大寺や興福寺を見下ろす位置に築かれたこの城は、それまでの板葺き・土壁の山城とは一線を画していた。宣教師ルイス・デ・アルメイダの1565年の書簡によれば、壁は非常に白く光沢があり、屋根は良質な瓦で覆われていたと記されている 。
アルメイダの記述には「四層のヤクラ(櫓)」という言葉が登場し、これが実質的な四層天守であったと考えられている 。久秀は奈良の寺院建築に携わっていた高度な技能を持つ職人集団を活用し、寺院様式の白漆喰や瓦葺きの技術を城郭に応用した。また、城壁の上に長屋状の櫓を巡らせる「多聞櫓」の形式もこの城が発祥とされ、その後の日本城郭の標準仕様となった。
信貴山城における四層天守の存在
久秀のもう一つの拠点である信貴山城(1559年改修)においても、四層の天守櫓が存在したことが指摘されている 。標高433メートルの信貴山頂に、これほどの高層建築を据えたことは、軍事的な優位性のみならず、大和盆地全体を支配するという久秀の政治的意志の表れであった。信貴山城の天守は、後の安土城天主と同様に、権力の中心地としての「見せる」機能を重視していたのである。
伊丹城-文献上の「天守」初出(誤記説あり)-伊丹親興-1521年以前
信貴山城-四層の天守櫓、山頂に構築-松永久秀-1559年頃
多聞山城-四層の櫓、白漆喰・瓦葺き、アルメイダ絶賛-松永久秀-1560年代
有岡城-野面積み石垣上の天守、総構え-荒木村重-1574年頃
安土城-五重七階の天主、金箔瓦、考古学的な初見-織田信長-1576年以降
第三章 摂津・大和における武将間の交流ネットワーク
伊丹城(有岡城)と松永久秀の城郭の間には、単なる同時性以上の技術的連関があったと推測される。その接点となるのが、三好政権下の政治状況である。
三好長慶と芥川山城を介した接点

1560年代前半、三好長慶が畿内を支配していた時期、その本拠は摂津の芥川山城であった。松永久秀は長慶の懐刀として、芥川山城で外交や政務を取り仕切っていた。一方で、荒木村重は当時はまだ若き将であったが、彼が仕えていた池田氏や伊丹氏は三好政権の軍事体系に組み込まれていた。
摂津の国人領主たちが主君への挨拶や軍役のために芥川山城を訪れる際、取次役であった久秀と接触する機会は多かったと推察できる。二人の間に明確な関係を示す史料はないが、久秀が多聞山城で見せた「白漆喰・瓦葺き」の衝撃は、摂津の武将たちの間でも瞬く間に共有されたはずである。荒木村重が後に有岡城で見せた先進性は、久秀からの技術移転、あるいは伊丹城に元々あった高層建築の伝統を久秀の理論で再構成した結果であるという仮説が成り立つ。
織田信長への継承:多聞山城から安土城へ
信長が松永久秀から多聞山城を接収した1573年、彼はその城の美しさと合理性に目を見張った。信長は多聞山城の建物を解体して京都の二条御所へ移築するよう命じており、その際に見学した四層の櫓が、安土城の天主を構想する上での直接的なモデルになったという説は極めて有力である。久秀が創り出し、村重が洗練させた「天守」という概念を、信長は天下人の象徴として「天主」へと昇華させたのである。
第四章 発掘の現在地 各城跡の「見えない遺構」
この問いを困難にしているのは、重要な城跡のほとんどが十分に発掘されていないという現実だ。
多聞山城は、現在の城跡は奈良市立若草中学校になっており、周辺には多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。学校の敷地と天皇陵が覆い被さり、本格的な発掘調査は望むべくもない。城跡に建っている若草中学校に多聞山城の土塁跡がわずかに残っており、近くにある聖武天皇陵などでは堀切跡を確認することができる。この他の遺構はほとんど残っていないが、それは織田信長が多聞山城を徹底的に破壊したためとみられている。
信貴山城は、現在は信貴山真言宗の総本山である朝護孫子寺の境内地として破壊を免れ、堀・土塁・門跡・多数の削平地がほぼ完存している。しかし天守部分については寺の境内にあたるため、発掘調査は現実的に難しい。
伊丹城(有岡城)については、明治期の鉄道敷設が主郭を根こそぎにした。

これに対して、安土城は別格だ。令和5年度からはじまった「令和の大調査」によって、令和7年度は伝本丸跡から天主台に至る「伝本丸取付台」で発掘調査が行われており、大規模な建物礎石とそれを仕切る石列が見つかっている。今回の発掘では伝本丸取付台に東西30メートル程度、南北10メートル程度の大規模な建物があったことが明確になり、天主東部の足下を囲んでいたことがはっきりした。
考古学的な証拠という意味では、安土城の天守(天主)は他の候補地を圧倒している。「考古学上の天守の初見は安土城」という事実は、動かしがたい。
第五章 信長と多聞山城 安土城の源流
天正2年(1574年)には信長自らが多聞山城に入城しており、天下の名香である蘭奢待を正倉院からこの多聞山城に運び込ませ、切り取って家臣らに鑑賞させたと『信長公記』には記されている。蘭奢待を披露するほどの華麗さが多聞山城にはあったということだろう。

信長によって多聞山城はことごとく破却されてしまうが、信長はその後安土桃山城をこの多聞山城にならって建てたということもわかった。
信長が多聞山城を接収し、その後徹底的に破壊したという歴史の流れは示唆的だ。天正4年(1576年)に安土城が完成しており、壮大華麗なお城は安土城だけで充分であり、自分が久秀の真似をしたことを後世に残したくはなかったからだとも考えられる。
安土城の天主は多聞山城(および信貴山城の四層天守)を直接の手本としており、伊丹城→多聞山城・信貴山城→有岡城→安土城という技術的系譜が見えてくる。天守という建築形式は、ある一人の発明ではなく、摂津・大和の戦国武将たちが積み上げた建築実験の連鎖として生まれたのではないか。
第六章 反論と別の視点 「安土城こそ初の天守」説の堅固さ
反論も記載しておく。
まず、定義の問題。 多聞山城の四層の高層建築が「天守」と呼べるかどうかは、専門家のあいだでも議論がある。「四階櫓」と記された建築が、政治的・象徴的な意味を持つ「天守」と同一であるかは、簡単には言えない。天守とは単なる高楼ではなく、城の権威を示す特定の文化的文脈を持つ建築だという立場をとれば、安土城こそが真の意味での天守の嚆矢(こうし:物事のはじめ)となる。
次に、「天守」という言葉の登場の問題。 安土城の表記は「天主」であり、信長は意図的に「主」という字を用いた。これは天主キリスト(デウス)への言及だという説もあるほど、固有の意味を持つ。「天守」という形式が後代に制度化される際の基準点は、やはり安土城に置かれるべきかもしれない。
また、地域的同時発生説である。城郭の高層化は近畿地方に限った現象ではなく、同時期の関東(北条氏の城郭)や九州(大友氏の城郭)においても、異なる呼称や形式での重層建築が発展していた。近畿の事例が特筆されるのは、後に天下を取った織田政権がそれらを吸収・発展させたからに過ぎず、系統樹の根は他にもあったという視点である。
岡山城・小谷城・小牧山城・岐阜城など他の候補地を挙げる研究者もいる。 天守の「初」をめぐる議論は、現在も収束していない。
結論 「初の天守」
「日本初の天守はどこか」という問いに、現時点で確定的な答えを出すことは難しい。
考古学的証拠という点では、安土城が圧倒的に豊富であり、2023年以降の「令和の大調査」でさらに知見が積み重なっている。考古学上の天守の初見は安土城であるという点は揺るがない。
しかし歴史的な文脈でいえば、「天守」という建築形式の萌芽は、それより早く摂津・大和に存在した。伊丹城には1521年という早い時期に「天守」ないし「主殿」への言及があり、有岡城時代には格式の高い天守が存在した可能性が千田嘉博教授の研究で示されている。多聞山城の四層の高層建築は、宣教師の賞賛を得るほどの壮麗さを誇り、「後の天守に相当する」と現代の研究者に評価されている。
であれば、「日本初の天守」という栄冠を単一の城に与えるのではなく、こう表現するのが最も誠実ではないだろうか。
「天守という建築文化は、伊丹城に芽生え、多聞山城・信貴山城で花開き、有岡城で摂津に根を張り、そして安土城で天下に宣言された」
摂津の荒木村重と大和の松永久秀、そして尾張の織田信長。この三者を結ぶ線上に、日本の天守の系譜は流れている。伊丹の地に立ち、野面積みの石垣を眺めるとき、そこには単なる地方都市の城跡ではなく、日本城郭史の重要な1ページが刻まれていることを、歴史好きならば感じ取れるはずだ。
発掘調査によって確認された石垣や空堀、礎石建物などが往時をしのばせている。その静かな遺構の下に、日本初の天守をめぐる壮大なロマンが眠っている。
この内容はClaudeとGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
この記事をご覧いただけましたら、見ましたよ!という訪問記念として「スキ」ボタンを押していただくと、励みになります。
また記事の内容が気に入っていただきましたら、このような歴史関連の記事を執筆していきたいと思いますので、執筆者フォローして頂くと大変嬉しいです。
