有岡城(伊丹城)
所在地:兵庫県伊丹市伊丹1丁目
指定区分:国史跡指定
伊丹城の記述ではなく、天正2年(1574年)-天正7年(1579年)5年間の有岡城へ改名した期間の記述。
その後、天正8年(1580年)に池田之助が城主となり天正11年(1583年)に美濃へ転封され廃城。
――甚だ壮大にして見事なる城(ルイス・フロイス筆)
はじめに 天正2年から天正7年
天正2年(1574年)から天正7年(1579年)——わずか5年間。
この短い期間に、摂津国の一城塞「伊丹城」は「有岡城」へとその名を変え、日本城郭史における重要な城となった。惣構えの先駆、初期型天主の可能性、そして日本史に名高い黒田官兵衛幽閉事件。有岡城という場所が、この濃密な5年間に内包した歴史の密度は、城の規模をはるかに超えている。
今回は、伊丹城全体の通史ではなく、荒木村重が城主であったこの5年間に焦点を絞り、歴史と城郭の両面から多角的に考察したい。
歴史編
第一章 荒木村重はなぜ伊丹城を選んだか
天正2年(1574年)、信長の命によって北摂に勢力を伸ばしていた荒木村重は、伊丹氏を追放し伊丹城に入城した。

この入城は単なる武力制圧にとどまらなかった。村重は池田城から本養寺・大広寺などの寺院や御用商人的な人物をまるごと伊丹に連れてきており、最初から城下町も含めた都市計画を構想していた可能性が高い。池田城の建材、瓦なども運び出されたと推測されている。
村重が伊丹城を選んだ理由は、その立地にある。
有岡城は猪名川西岸の伊丹台地東端に築かれた平城で、本丸が台地の突端に位置し、東側は川沿いの崖(6〜8mの断崖)を天然の要害とし、西と南に人工の堀を巡らせていた。発掘調査により「東縁辺部に位置し、標高15〜20mの段丘面に築かれた伊丹城の地形的特徴」が指摘されており、村重はこの自然地形を最大限に活かした城づくりを構想したのである。
また、有岡城の構造は『信長公記』の記述や江戸時代の絵図などから、主郭(本丸)は現在のJR伊丹駅付近で、その西側に侍町、さらにその西側一帯に町屋(城下町)が広がる。この一体的な城郭・城下町構造こそが、村重が伊丹城を本拠に選んだ最大の理由であったと思われる。「摂津の国を治める」という意識が、単なる城の改修ではなく都市づくりへと向かわせたのだ。
第二章 有岡城の戦いの概略
なぜ村重は叛旗を翻したのか-この問いへの答えは、今も確定していない。
天正6年(1578年)10月、羽柴秀吉の三木城攻めに従軍していた村重が、突如本拠地の有岡城へ戻ってしまう。信長にしてみたら「いったい何が不満なの?」といったところで、糾問使として松井友閑・明智光秀・万見重元を派遣し、村重から「野心はない」という返事を得た。が、すでに村重は本願寺や毛利氏と通じていたのだ。
謀反の理由については複数の説がある。
兵糧売却疑惑説:家臣の中川清秀が本願寺に兵糧を流したという噂があり、信長に疑われることを恐れた村重が先手を打ったとする説。
秀吉への格下げ不満説:中国方面の総指揮が秀吉に与えられ、自らはその下に組み込まれたことへの反発。
国人・百姓からの突き上げ説:近年の研究では、摂津の国人や百姓の間で高まる反信長の動きに村重が押し切られたとする見方もある。
村重謀反に驚いた信長は糾明の使者として明智光秀・松井友閑・万見重元を有岡城に派遣した。光秀の娘は村重の嫡男・荒木村次の妻となっていたため、親戚の縁で選ばれたと考えられている。
信長がそれほど慎重に説得を試みたのは、本願寺攻め・三木城攻めと三正面作戦を展開していた最中であり、摂津という要衝を失うことは戦略的に致命的だったからだ。
しかし村重の決意は変わらなかった。村重は足利義昭・毛利輝元・顕如のもとに人質と誓書を差し出し、「本願寺と一味の上は善悪については相談、入魂にすること」と同盟を誓った。
籠城戦の経緯
天正6年12月8日、信長は有岡城への総攻撃を命じた。3万の大軍勢による力攻めだったが攻略はならず、万見重元や水野忠分らが討死したため、信長は力攻めを避け、10数城の付城を築いての兵糧攻めに方針を転換する。
包囲網は東西南北を徹底的に締め付け、村重軍は約1年にわたる信長軍の総攻撃に耐えた。しかし天正7年(1579)9月、村重はわずかな供廻りを連れ有岡城を脱出。嫡男・村次のいる尼崎城へ移った。
城主が脱出した後も有岡城は持ちこたえたが、10月15日、寄せ手の内応工作によって城内の足軽大将たちが謀叛を起こし、11月19日に開城した。
落城後の悲劇
戦国の常として、残された人々の運命は過酷を極めた。12月13日から16日にかけて、有岡城の女房衆122人を尼崎城近くの七松で磔(はりつけ)にして殺害し、下級武士やその家族512人を4軒の家に閉じ込めて焼殺させ、村重の室をはじめとする荒木一族と重臣の家族36人を京都へ護送して市中引き回しの末に六条河原で斬首させた。
一方の村重は、その後も尼崎城・花隈城で抵抗を続け、最終的に毛利氏のもとへ亡命。信長の死後、茶人として秀吉のもとに復帰し、千利休の高弟「利休七哲」の一人にも数えられる後半生を送った。城から脱出する際、名物の茶器を持ち出していたというエピソードは、村重という人物の複雑な内面を象徴している。
第三章 黒田官兵衛の幽閉
有岡城の歴史を語るとき、黒田官兵衛(孝高)の幽閉事件は避けて通れない。

荒木村重が謀反を起こし有岡城に籠城すると、黒田官兵衛は織田信長への反逆の意を撤回するよう村重を説得するため有岡城に向かった。しかし捕らえられ土牢に幽閉されてしまう。
官兵衛が捕らえられた理由
『黒田家譜』によれば、官兵衛の主君・小寺政職があらかじめ村重に密使を送り「官兵衛が訪ねてきたら殺してほしい」と依頼していた。つまり官兵衛は、主君に売られた形で有岡城に赴いたのだ。明敏な官兵衛はこの瞬間、自分が主君に裏切られたことを悟ったとされる。
土牢の惨状
官兵衛が幽閉された土牢は城内にあり、沼地と竹やぶのある、あまり日の差さない湿気の多い場所といわれている。約一年の幽閉生活で、髪は伸び、全身に皮膚病が広がり、膝を悪くして歩行もままならなかったという。
松寿丸と竹中半兵衛の義
この幽閉がもたらした余波はさらなる悲劇を生んだ。官兵衛が有岡城に幽閉されたとき、織田信長は官兵衛が裏切ったとして激怒し、人質に出していた松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう命じた。そのとき竹中半兵衛は「官兵衛は裏切るような人間ではない」と、ひそかに松寿丸を自分の領地でかくまった。
竹中半兵衛にとって、松寿丸を救うことは主君の織田信長の命に背くことだったが、信頼のおける家臣と協力し、黒田官兵衛の疑いが晴れるまで松寿丸を匿い続けた。
しかし竹中半兵衛は、官兵衛が救出される4ヶ月前の天正7年6月に病死してしまう。幽閉から解放されたとき竹中半兵衛はすでに亡くなっていたが、黒田官兵衛は感謝を忘れないために竹中家の家紋「餅紋」を使用するようになった。
この逸話が示すのは、有岡城が単なる戦場ではなく、主従の信義・裏切り・そして友情という人間ドラマの舞台でもあったという事実だ。信長・村重・官兵衛・竹中半兵衛——この4人の人間模様が、有岡城という空間に凝縮されている。
城郭編
第四章 初期型惣構えとしての有岡城——伊丹城時代に原型はあったか
「惣構え(そうがまえ)」とは、城郭本体だけでなく、武家屋敷(侍町)や城下の町屋までを堀と土塁で一体的に囲い込む防御形式である。この概念が戦国城郭において体系化されたのが、まさに有岡城の時代だった。

有岡城の惣構は現存する惣構のなかでも最古級といわれている。規模は南北1.7km、東西0.8kmに及び、要所には北に「岸の砦」、西に「上臈塚砦(じょうろうづかとりで)」、南に「鵯塚砦(ひよどりづかとりで)」の3砦が配置された。上臈塚・鵯塚の2砦はその名前が示す通り、古墳を利用して築かれていた。
では、この惣構えの原型は伊丹城時代にすでに存在していたのか——これは城郭史における重要な論点だ。
発掘報告書によると、堀の発見がその核心だ。この堀は有岡城期の町割に並行しておらず、しかも有岡城期の建物の直下で発見されたことから、「有岡城以前の伊丹城期の堀」と考えられている。さらに重要なのは、この堀が大溝筋より西側で初めて発見されたことだ。これにより、「本地点は伊丹城段階にはすでに防御を必要とする重要な地域であったことを想定させる」とまとめられている。
伊丹城時代(〜天正2年):惣構えの原型的な防御ラインは存在していた。段丘地形を活かした土塁や堀の痕跡が確認されており、惣構えの骨格は伊丹城段階に形成されていたと考えられている。
有岡城時代(天正2年〜):村重がこの骨格を大幅に拡充・完成させた。南北1.7kmに及ぶ現在の惣構えラインは、村重段階に完成したものと見てよい。
つまり、「惣構えは伊丹城時代に芽生え、有岡城時代に完成した」というのが現時点での最も妥当な見解だ。
第五章 有岡城の天主——安土城以前の「初期天主」という評価
伊丹城時代の「天守」記述と誤記問題については[日本初の天守]で詳述した。今回は有岡城時代の天主に絞って考察する。
有岡城に天主が存在したことは、複数の文献史料から確認できる。『兼見卿記』『谷井文書』『古文書纂』いずれにも「天主」の記載がある。問題は、その実態がどのようなものだったかだ。

千田嘉博教授らチームによる2022年の研究によれば、有岡城の天主は、安土城天主以前に畿内で成立していた「初期天主」の系譜に位置づけられ、御殿機能を中心とした象徴的な重層建築だった可能性がある。
発掘調査では、主郭部北西部の土塁内側に石垣が残っており、石垣の大隅部の高さは最大2.7m。この石垣が土塁の外側ではなく内側に築かれているという謎が、長年の議論を呼んでいた。
土塁の内面に石垣を取り込んで懸り造りにした象徴的な建物「天主」があったと確認できる
石垣は高さ4m未満を階段状に2〜3段積み上げる「セットバック工法」で、当時の最先端技術
石垣前からは多数の瓦が出土しており、入母屋造りの屋根を持つ建物の存在が示唆される
天主が建っていた可能性が最も高い場所は、主郭部北西部の土塁上



注目すべきは時系列だ。家久が訪れた天正3年(1575)6月には普請中だった有岡城が、フロイスが訪れた天正5年11月には完成していた。一方、信長の安土城は天正4年から7年にかけて築城されており、有岡城は安土城よりも前に完成していた。
つまり有岡城の天主は、安土城より先に完成していた可能性がある。 これは城郭史において極めて重要な事実だ。
第六章 その他の城郭的特徴
石垣の多用
天正3年に侍衆自らが「石蔵(石垣)」普請に携わったことが『中書家久公御上京日記』に記されており、石垣を多用した城郭だった。 これは当時としては先進的で、信長の安土城と並ぶ石垣活用の先駆事例として注目される。
大溝筋堀
侍町と町屋の境に設けられた「大溝筋(おおみぞすじ)」堀は、幅6m・深さ約3mという規模で、主郭部をめぐる堀に次ぐ大きさ。この大溝筋堀跡は、町屋を取り囲む形でみつかっていることから、町屋を防御するために造られた可能性が高い。これにより有岡城は「城内に城を複数持つ」多層的防御構造を実現していた。

惣構えと寺院の配置
有岡城は大連寺や行善寺を惣構えの西の外構付近に配置していた。これは単なる宗教施設の配置ではなく、武士の詰所や武器・兵糧確保の場としての機能も担わせていたと考えられる。信仰と軍事を一体化させる発想は、中世から近世への転換期を示す。
外国人を驚かせた城
イエズス会宣教師のルイス・フロイスは天正5年(1577)に訪れた際、「甚だ壮大にして見事なる城」と賞賛した。また島津家久も天正3年に有岡城を訪れ、石垣普請の現場で侍が自ら石を運ぶ様子に驚き、黒田六郎左衛門のところで晩御飯を馳走になったことなどを記している。国内外の要人が訪れるほどの城であったことが、当時の有岡城の格式を示している。
タイ製四耳壷の出土
有岡城跡からタイ製の四耳壷が出土しており、これは東南アジアから琉球を経由して堺に入り、商人を通じて村重が入手したと考えられている。同様の壷は「堺環濠都市遺跡」でも出土しているが、畿内周辺での出土例はほとんどない。これは村重が堺の商人との特別なネットワークを持っていたことを示唆する。当時の有岡城が、単なる軍事拠点ではなく、国際的な物流とも接点を持つ文化的・経済的拠点でもあったことが分かる。
第七章 国指定史跡
昭和54年(1979年)12月、有岡城跡は国の史跡に指定された(昭和63年に追加指定)。その指定理由は明快だ。
城だけでなく侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城としての価値を認められた。
しかし、指定の契機となったのはドラマティックな発見だった。昭和50年、国鉄(現JR)の複線電化事業に伴う伊丹駅周辺の整備事業で、有岡城跡にはじめて発掘調査の手が加えられた。有岡城主郭部北西隅での石垣の発見は人々の注目を集め、遺跡保存への関心が高まり、保存と工事計画の再検討が行われることになった。
鉄道建設による開発計画が、逆に城跡の保存・発見を促したという皮肉な経緯も、この史跡の個性だ。
国史跡指定の意義は大きく3点ある。
第一に、惣構え研究の基準点としての意義。 有岡城の惣構えは日本最古級の現存例であり、後に関東で発展した小田原城のような総構えの先駆といえる。つまり有岡城の研究なくして、日本城郭史における惣構えの発展を語ることはできない。
第二に、中世から近世城郭への移行を示す遺跡としての意義。 石垣・土塁・天主・石組排水溝など、近世城郭の諸要素が混在する有岡城は、城郭史における「過渡期の最先端」を体現している。
第三に、発掘が続く「生きた史跡」としての意義。 指定後も発掘調査は継続し、現在では400次を超えている。第352次調査(平成25年)での「伊丹城期の堀01」の発見など、新知見が積み重なっている。この城跡は、まだ語り終えていない。
第八章 特筆すべきその他
村重の「茶の湯」と有岡城の文化的側面
有岡城が軍事城郭であると同時に、高度な文化的空間でもあったという点だ。発掘調査では茶の湯に関わる陶磁器類が多く出土しており、主郭部の西側には州浜状の庭園遺構が確認されている。会所(文芸活動や宴会に使う空間)の存在も想定されており、村重が「すぐれた茶人」であったことと符合する。
興味深いのは、会所が主郭部と堀を挟んだ外側にも設けられていた可能性だ。石垣部分の建物と、堀を隔てた城外の会所が対になってプランニングされたとすれば、有岡城の空間設計は軍事と文化が意図的に組み合わされた、高度な都市計画の産物だったことになる。
黒牢城
2022年、直木賞を受賞した米澤穂信の小説『黒牢城』は、有岡城を舞台に幽閉された黒田官兵衛と荒木村重の対話を軸に展開する歴史ミステリーだ。この作品の大ヒットにより、有岡城と荒木村重への関心が改めて高まった。
史実においても、村重が官兵衛を「殺さずに幽閉し続けた」理由は謎だ。主君の小寺政職から「殺せ」と依頼されたにもかかわらず。この謎もまた、有岡城がいまなお人々を惹きつける理由の一つである。
おわりに 5年間の城が残したもの
天正2年から天正7年——荒木村重の5年間は、伊丹という地に何を刻んだか。
軍事的には敗北した。しかし城郭史的には、惣構えという防御体系を実践的に完成させ、初期型天主の可能性を示し、石垣という近世城郭の基本技術を採用するなど、後世への多大な遺産を残した。
その遺産は、昭和50年から始まった発掘調査で土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構が検出され、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。今もなお400次を超える調査が積み重ねられ、有岡城は「掘るたびに何かが出る城」であり続けている。
JR伊丹駅を降りてすぐの場所に立つ石垣と土塁。そこには戦国の息吹と、いまだ解けない謎が静かに眠っている。

この内容はClaudeを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
僅か5年間という短い期間で、有岡城は、歴史的、城郭的にも多彩な動きを見せた稀有な城と言えます。皆様は有岡城をどのように感じましたでしょうか。ぜひコメント欄に、ご意見を記載してください。
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