藤堂高虎(5) 関ケ原合戦から高虎死まで
──覇王の参謀から近世の設計者へ
──徳川の「外様」が「中枢」となった理由
外様でありながら徳川の中枢に座すという「異常性」:家康・秀忠の参謀として
近世初期の徳川幕権確立期において、藤堂高虎が果たした政治的・軍事的な役割は、当時の幕藩体制の常識から見れば「極めて異例」という他ない。徳川家康は本来、政権の中枢たる老中や側近に譜代大名を据え、外様大名を要衝から排除する統治方針を貫いた。しかし高虎に対しては、家康のみならず、二代将軍秀忠、三代将軍家光に至る将軍家三代にわたり、政治的・軍事的信任が寄せられ続けた。この「外様でありながら最高中枢に参画する」という特異な立場は、高虎を単なる一地方の領主ではなく、徳川政権の実質的な「国家最高顧問」たらしめていた。
家康が高虎に対して抱いていた信頼の深さは、外様大名に対する一般的な「御成(おなり:将軍や時の最高権力者が、臣下(大名や公家など)の邸宅や寺社などを公式に訪問すること)」の性質を比較することでより鮮明になる。豊臣恩顧の大名や他の有力外様に対する御成が、軍事的威嚇や経済的負担、あるいは政治的牽制の手段であったのに対し、高虎の江戸・駿府邸への将軍家の御成は、頻度において群を抜いていただけでなく、極めて親密かつ私的な「身内」の交歓としての性格が強かった。慶長11年(1606)の御成以降、駿府や江戸の藤堂邸には秀忠や家康、さらには頼宣や義直などの御三家が度々訪れ、終日にわたる能楽の興行や猿楽、宴席が繰り返された。これは高虎が徳川将軍家にとって「別格譜代」、すなわち最も心を許せる一族の代弁者として扱われていたことの証左に他ならない。
高虎のこの異常とも言える地位は、実務官僚としての卓越した統治能力、他を圧倒する築城技術、そして徳川の天下のために自らの主家すら冷徹に滅ぼし去る忠誠の表象によって築かれていた。家康の信任は単なる平時の寵愛にとどまらず、有事の際、あるいは徳川の存亡に関わる重大な局面(大久保長安事件の事後処理や、大久保忠隣の改易処分など)における相談役としての役割にまで及んでいた。
2. 伊勢・伊賀への転封と過酷な初期統治
慶長13年(1608)、高虎は長年心血を注いで開発してきた伊予今治の領地から、伊勢・伊賀へと国替えを命じられた。この移封により石高は22万950石(伊賀一円、伊勢国安濃郡・一志郡、および養子の高吉が支配する伊予国越智郡の一部)へと加増されたが、その本質は単なる恩賞ではない。大坂・奈良・京都・近江を一望に監視し、西国大名が東国へ侵攻する際の最大の防波堤とするための、幕府の最高防衛ドクトリンに基づく地政学的要請であった。
高虎は同年9月下旬に伊賀上野城に入り、10月初めには津城(安濃津城)へと移って即座に新領国の統治に乗り出した。この時、高虎が直面したのは、前領主である筒井定次の急な改易によって混乱し、天正伊賀の乱の怨恨を内包する地元の土豪衆の反発であった。これに対し、高虎は極めて過酷かつ冷徹な法治主義をもって臨み、「恐れられた領主」としての実像を新領民に植え付けた。

入国早々、高虎は名張郡の支配を任せた梅原武政(勝右衛門)や和田真斉に対し、年貢物成帳の点検と「21か条の法度」を提示した。その内容は、口米を3升6合とすること、百姓の十人組の組織化、年貢未納時の庄屋・百姓の人質化など、民衆の行動を厳密に緊縛するものであった。さらに、「高山公言行録」に伝わる逸話によれば、領内巡察時に筒井氏時代の旧帳簿の提出を拒む庄屋や年寄に対し、高虎は拷問用の柱と道具を目の前に引き据えて執拗に自白を迫ったという。また、商業の統制についても上野・阿保・名張の3カ所以外での取引を厳しく禁じるなど、強圧的な中央集権化を図った。この容赦のない初期統治こそ、地元の強硬な独立精神を根こそぎ粉砕し、徳川の「東海道・近畿圏防衛の楔」としての領国を短期間で完成させるための、高虎流のリアリズムであった。
3. 津城・伊賀上野城の大改修
新領国の統治基盤を固めた高虎は、慶長16年(1611)正月より、本城たる津城と支城たる伊賀上野城の同時大改修に着手した。高虎の防衛思想は「平時の津城、有事の伊賀上野城」という明確な二元体制のもとに設計されていた。
平時における津城は、川の河口にある地盤の緩い湿地帯(三角州)に位置していたため、水はけの悪さを克服する大規模な治水普請を行うと同時に、防衛機能を兼ね備えた広大な水堀を配置した。さらに城下町を碁盤の目状に整備し、伊勢街道を町の中に意図的に引き込むことで、流通と経済の活性化を主導した。

これに対し、豊臣方の大坂城と対峙する実戦要塞として設計された伊賀上野城には、高虎の「不敗の設計哲学」が投入された。高虎は城の西側に、根石から天端まで29.7メートルに達する、日本屈指の「高石垣」を直線的に積み上げた。この切込接ぎの石垣は物理的な侵入を不可能にするだけでなく、攻め手に対して「この城を落とすことは不可能である」という絶望感を与える心理的障壁(威嚇装置)であった。

さらに、高虎は今治城や宇和島城でも用いた「いびつな五角形」の外郭構造(縄張り)を上野城にも応用した。通常、寄せ手は城郭を四角形と仮定して攻撃ルートを構築するが、実際には五角形であるため、一辺が空地となり射線の死角が生じない。事実、江戸幕府の隠密(スパイ)すら「上野城は四角形である」と誤った報告をしており、攻める前から敵の常識を狂わせ、戦意を喪失させる高虎の知略が、その建築構造そのものに実装されていた。
4. 大坂の陣における「軍師」としての高虎:豊臣家滅亡への冷徹な加担
慶長19年(1614)7月、方広寺鐘銘事件の勃発により、豊臣家と徳川家の対立は決定的な破局へと向かった。家康は10月1日、大坂城攻めの意思を固めると、10月6日には江戸にいた高虎を真っ先に駿府へ呼び出して最高軍議を開いた。福島正則や黒田長政ら、かつて秀吉に恩顧のあった大名たちが豊臣方への内応を警戒されて江戸に留め置かれるなか、高虎が徳川全軍の事実上の先鋒として起用されたという事実は、高虎が徳川政権にとって「軍師(最高参謀)」そのものであったことを示している。
冬の陣において、高虎は家康の懐刀として進軍を主導し、11月23日には家康、片桐且元とともに京都二条城で大坂城の作戦会議を開いた。藤堂軍は前田利常、松平忠直らとともに大坂城の南方を包囲し、12月5日の道修口の戦いなどで凄惨な白兵戦を展開した。12月10日には茶臼山の本陣において家康、秀忠、高虎、本多正信らによる軍議が開かれ、高虎は城内に対する激しい威嚇攻撃を敢行し、その後の和議交渉の調停にも深く関与した。

翌元和元年(1615)の夏の陣において、高虎の「軍師」としての冷徹な戦術眼はさらに研ぎ澄まされる。4月22日、伏見城において家康、秀忠、高虎による最終軍議が持たれ、藤堂軍は再び徳川主力軍の先鋒として淀を発した。5月6日、両軍は道明寺、八尾・若江方面において宿命の決戦(八尾・若江の戦い)を迎えることとなる。
5. 従弟・藤堂良勝との別れ
夏の陣における八尾方面の戦闘は、高虎の生涯において最も過酷で、最も精神的な打撃を伴うものであった。高虎率いる藤堂軍は、八尾の湿地帯において長宗我部盛親率いる豊臣方の精鋭軍と激突した。
この激戦において、藤堂軍は先鋒を務めたものの長宗我部軍の伏兵による強烈な奇襲を受け、戦線は一時壊滅的な危機に瀕した。高虎の腹心であり、文禄・慶長の役から今治築城、国境警戒(灘の城・甘崎城の整備)に至るまで、高虎と「兄弟以上の絆」をもって行動をともにしてきた従弟・藤堂新七郎良勝が、錦部村において壮絶な戦死を遂げた。さらに実弟の藤堂義重、藤堂仁右衛門高刑、沢隼人、藤堂氏勝、山岡兵部重成といった、藤堂家臣団の中核をなす将兵が次々と討ち死にしていった。
この未曾有の被害は高虎に深い悲嘆をもたらしたが、高虎は冷静さを失わず、井伊直孝隊との連携によって長宗我部軍を押し戻し、結果として徳川軍全体の崩壊を防ぐ決定的な勝利を掴んだ。5月8日、大坂城は落城し、豊臣家は滅亡した。
戦後、高虎は自らの勝利の裏に転がるあまりにも多くの犠牲を弔うため、京都南禅寺の金地院において、戦死した71名のための法事を金地院崇伝の手によって6日間にわたり丁重に執り行った。この時、己の半身とも言える良勝らの魂を弔うために誓った執念こそが、のちの寛永5年(1628)における京都「南禅寺三門」の落成・寄付へとつながる動機であった。
6. 神君の最期と天台宗への改宗
豊臣家を滅ぼし、徳川の治世が完全に始まったまさにその時、家康の寿命は尽きようとしていた。元和2年(1616)正月、家康は駿府において体調を崩した。高虎は日々登城し、かつて秀吉とも対等に渡り合ってきた神君の枕元に寄り添い続けた。
この病床において逸話が生まれる。家康はもともと浄土宗、のちに天台宗(天海大僧正)に帰依していたが、高虎は熱心な日蓮宗の信徒であった。家康が「冥土においては宗派が異なるため、そなたと同行できないのが心残りである」と漏らした際、高虎は即座にその場で天台宗への改宗を決意し、得度して天海大僧正より「寒松院」の法名を授かった。この改宗は、単なる宗教的選択ではなく、「死後の世界においても神君の先鋒として仕え続ける」という、戦国を生きた男としての究極の主従誓約であった。家康は深く感激し、高虎に大名物「四聖坊肩衝」を形見分けとして下賜した。

同年4月1日、家康は死去する数日前に本多正純や堀直寄らを呼び寄せ、「私の死後、天下に万が一のことがあれば、高虎を先鋒とし、井伊を次鋒とせよ。その間を堀(直寄)が差配しろ」との遺言を託したとされる。この「天下の先手は高虎」という最高軍令は、家康の最期の遺言として徳川将軍家の不磨の大典となり、高虎の地位を不動のものとした。
7. 徳川和子入内問題をめぐる朝幕交渉
家康の死後、徳川秀忠は朝廷に対する支配(禁中並公家諸法度の遵守)を厳格化させたが、その最大の懸案が「徳川和子(秀忠の娘)の後水尾天皇への入内問題」であった。慶長17年(1612)から進められていたこの件は、大坂の陣や家康の死去により遅延していたが、元和5年(1619)に至り、天皇が寵愛する四辻公遠の娘との間にすでに皇子をもうけていたことが発覚し、激怒した秀忠が入内を急遽延期する事態へと発展した。

朝幕関係がかつてない緊迫を見せるなか、後水尾天皇は退位(落飾)を示唆して幕府の強硬姿勢に抗議し、近衛信尋を通じて高虎へ宸翰(しんかん:天皇自筆の文書や書のこと)を送り事態の調停を依頼した。この時、天皇は高虎に対して、御製(「名にしおふはな橘ハそれながら むかしばかりのにおいやハある」)の歌箋、橘の枝、藤原定家の歌軸を下賜し、幕府との「最高仲介役」としての役割を懇請した。
秀忠は怒りの矛先を公家衆に向け、万里小路充房、四辻季継、藪嗣良らを一斉に配流としたが、高虎は京都所司代の板倉勝重と密に連携し、禁中と武家の間に立って妥協点を探った。高虎は公家衆に対して「将軍の権威を軽んじる行為は禁中の自滅を招く」と強い姿勢で警告しつつ、天皇のメンツを崩さないよう近衛信尋を通じて丁寧な事前工作を行い、天皇に退位を思いとどまらせた。この高虎の粘り強い政治交渉の結実として、元和6年(1620)6月18日、和子の入内はついに実現し、徳川家と朝廷の決定的破局は回避されたのである。
8. 近衛信尋、小堀遠州、三宅亡羊との精神的交流
高虎がこのような高度な朝幕交渉を成功させ得た背景には、彼自身が当時の一流の「文化人・数寄者」であり、教養を通じて公家衆と対等に渡り合える精神的共通言語を持っていたからに他ならない。
高虎は千利休の高弟である古田織部に若き日から茶の湯を師事し、元和元年(1615)には、処刑された織部の京都堀川の屋敷地を幕府から直々に譲り受けるほどの数寄者であった。また、能楽に対しても深い造詣を持ち、金春太夫(金春八郎安照・安喜父子)らの一座を終生庇護した。
特に近衛信尋(関白)との親交は極めて深く、信尋が若い頃に京都で大宴会を開き幕府の取り締まり(眼)を恐れて青ざめた際、信尋を執り成し弁護したのが高虎であった。寛永2年(1625)9月22日に小堀遠州(政一)が主催した高名な茶会においては、関白・近衛信尋、藤堂高虎、そして儒学者の三宅亡羊の3名が揃って相伴に預かっている。三宅亡羊はかつて、高虎が信尋を伊賀上野から京都まで直接随行しようとした際、「幕府に無届けでの領国脱出は法度違反である」と進言して高虎を押しとどめた、高虎の重要な知恵袋であった。

武力による威嚇のみならず、茶の湯や学問、芸術を介した「非公式な公武の知的サロン」を小堀遠州らと構築していた高虎は、まさに徳川の刃(やいば)を包む「文化の鞘」としての役割を担っていたのである。
9. 近世城郭普請の巨星
藤堂高虎が「築城の名手」と呼ばれる所以は、自身が縄張りを手がけた公式な城郭(津城、伊賀上野城、今治城、江戸城、大坂城など20余り)の実績のみにとどまらない。
高虎の城づくりの神髄は、合理的な「規格化」にあった。従来の望楼型天守に代わり、工期を極めて短縮でき地震にも強い「層塔型天守」を今治城で考案し、算木積みを補強した直線的な高石垣を確立させたことは、徳川幕府の「天下普請」に巨大な技術革新をもたらした。
しかし、歴史の表舞台に記録されている公式な普請奉行・縄張り奉行としての活動以外に、高虎は日本各地の諸大名から「普請の神様」として絶大な要請を受けていた。参勤交代の途上や他国への移動の際、ただ1日だけ現地に立ち寄り、石垣の積み方や水堀の配置にアドバイスを与えた、という事例や、公式の藩史には残されていないが、高虎の直接的な指導・助言によって劇的に近世化された城郭は、文字通り「数、数えきれない」ほど存在したと推測されている。
和歌山城-天正13年(1585)-普請奉行秀吉の縄張りのもと、高虎が実質的な普請を担当。初の本格的近世城郭-秀長から建設責任者に任命され、約1年で完成させる
膳所城-慶長6年(1601)-縄張り・天下普請東海道防備のため、大津城を廃して膳所崎に新城を建設-家康の指示による、関ヶ原合戦後の初の天下普請
篠山城-慶長14年(1609)-縄張り奉行-四角形を重ね合わせた明快な曲輪構成、外堀三方の「角馬出」-わずか6ヶ月という驚異的な工期で完成、諸大名8万人が従事
丹波亀山城-慶長15年(1610)-普請奉行今治城から海路で運ばれた天守部材を移築・再利用-天下普請として諸大名を動員、工期を極限まで短縮
淀城-慶長末〜元和期(普請協力)-廃城となった伏見城の資材を転用し、川中島に築城-宇治・木津・桂川の合流点に近い要衝。技術面で高虎が協力
尼崎城-元和期(普請協力)-大坂城の北西を固める譜代戸田氏の城。尼崎の防衛網整備-大坂再築の第1期工事と並行して、領地替えにともない築城を指導
10. 藤堂高吉問題と松寿夫人「まつ」の存在
藤堂高虎の冷徹な家名存続リアル政治は、身内である藤堂高吉(養子)との関係に残酷な形で現れた。高吉は織田信長の重臣・丹羽長秀の三男であり、羽柴秀長の養子(当時は仙丸)を経て高虎の養子となり、長く後継者候補として育てられていた。しかし慶長6年(1601)、高虎に実子・高次(生母は側室・松寿夫人「まつ」)が誕生すると、高吉の後継者としての人生は暗転した。
高次の誕生により、高吉は即座に後継者から除外され、今治城代として2万石を領する「一家臣」の地位へと引きずり下ろされた。さらに慶長9年(1604)、隣接する加藤嘉明領(拝志城下)との間で殺人犯の逃げ込みに端を発する「拝志騒動」が起きると、高次の立場を守りたい高虎は極めて厳しい対処をした。幕府の裁定は「加藤側に非あり」として嘉明の弟・忠明が配流となる高吉側の完全勝利であったが、高虎は嘉明との決定的破局を避けるため、そして高吉の家中での武威が高まるのを防ぐため、あえて高吉を宇和郡野村(旧庄屋の緒方氏邸)に3年近くも「蟄居」させるという喧嘩両成敗の措置をとったのである。
この高吉に対する抑圧の背景には、高次の生母である松寿夫人の存在があった。まつはかつて高虎と親交のあった別の武将の側室であったが、夫の隠居後に跡継ぎから追い出されて極貧に喘いでいたところを、高虎が憐れんで側室に迎えた女性であった。彼女は自らの血を引く高次を次期藩主として絶対に守るため、家中での人望も厚く丹羽家の血を引く高吉を極度に警戒し、「高次の代になれば必ず高吉を排除するように」と度々夫や実子に説き続けていた。
高虎が死去して高次が二代藩主となると、松寿夫人の懸念は現実の冷遇政策となって高吉を襲った。高次は高吉から伊予今治の領地(2万石)を取り上げ、代わりに伊勢名張へと国替えを命じた(名張藤堂家)。これは実質的な左遷であり、高吉は一時はお家騒動を画策しかねないほどの怒りを覚えたが、彼は黙ってその冷遇に耐え抜いた。当時、幕府による外様大名の改易(取り潰し)が相次いでおり、その大半の口実が「家中を統率できないお家騒動」であったからである。高吉は、「皆で、小さいながらもこの家を守ってくれ。良いな」と言い残し、実家の丹羽家や藤堂家全体の存続のために自らのプライドを完全に殺した。高虎が築いた冷徹な「後継者一元管理システム」は、養子高吉の血を吐くような忍耐によって、辛うじて完成したのである。
11. 名将、藤堂高虎死す:失明と将軍家の愛顧、そして東叡山への埋葬
寛永7年(1630)3月、満身創痍の体を抱えた高虎は、ついに両目を患って完全に失明した。失明を機に、高虎は自らの所持していた財産や武具を高次に譲り渡し、いよいよ人生の終着駅を見据えた。
この時期の高虎の様子について、「高山公言行録」は将軍家との絆の物語を伝えている。高虎が目が見えなくなり登城できなくなったことを深く心配した大御所・秀忠は、使者として土井利勝を直々に藤堂邸へと送り、見舞いの言葉を伝えた。高虎がなんとか登城した際、歩行が困難であったため、秀忠は異例中の異例として「居間まで乗り物のまま移動すること」を許可した。さらに、登城の際に通る廊下の曲がり角が高虎の歩行の妨げになっていることに気づいた秀忠は、その日のうちに大工を呼んで「廊下の曲がりをすべて直線に直させた」。これを聞いた将軍・家光もまた、自らの廊下の曲がりを直させ、失明した老臣が手を引かれながら快適に御前に進めるよう配慮した。高虎は秀忠・家光の御前にて涙を流して感激し、最期の日まで徳川に尽くすことを改めて誓ったという。
同年10月5日、藤堂高虎は神田和泉町の江戸上屋敷(約1万5千坪)において、75年の激動の生涯を閉じた。
遺言により、高虎の遺骸は天海大僧正が創興した東叡山(上野寛永寺)の寒松院墓所に丁重に埋葬された。高虎の遺品は秀忠や家光に分配され、かつて家康から授かった「四聖坊肩衝」は家光の手に戻った。その体は、死去の際に遺骸を清めた若い近習(森石見)が「弾傷や槍傷、指の欠損で全身に傷のない隙間がなかった」と驚嘆するほど、戦国を生き抜いた壮絶な戦歴の証で満ちていたという。

12. 歴史的考察と総括:鳥羽・伏見の「寝返り」と日光東照宮「守護」の逆説
藤堂高虎が後世に遺した最大の遺産は、幕末まで一度の改易も受けることなく32万石余の領国を維持し続けた、津藩藤堂家の強固な「生存戦略」そのものである。高虎が死の直前に遺した『太祖遺訓』19か条は、まさに彼自身が歩んできた泥臭くも合理的な生き残り戦術の集大成であった。
寝所を出るより、其日の死番と心得べく、箇様に覚悟して寝る故に物に動ずることなし
小事は大事、大事は小事と心得べし。大事の時は、一門知音打寄り、談合する故に、大事にはならざるなり
常に死と隣り合わせの覚悟を持つことで精神の動揺を防ぎ、日常の微細な綻び(小事)をお家騒動(大事)に発展させないよう、家臣団を徹底的に統治すること。このリアリズムは、230年後の幕末に劇的な形で歴史の表面へと噴出する。
慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いにおいて、津藩藤堂家は当初、徳川幕府(旧幕府軍)側として参戦していた。しかし、戦況が新政府軍(官軍)の圧倒的有利に傾くと、当時の津藩部隊は状況を冷徹に判断し、真っ先に新政府軍へと寝返り、旧幕府軍に対して砲撃を開始した。この変わり身の早さに対し、敗走する旧幕府軍は「さすが藩祖(高虎)の薫陶著しいことじゃ。何度も主君を替えた処世訓が実に見事に受け継がれている」と皮肉と嘲笑を浴びせた。
しかし、歴史の真実はここから驚くべき逆説(パラドックス)を描く。新政府軍がその後、東日本へ進軍し、徳川家康が祀られている日光東照宮の破壊・攻撃命令を津藩部隊に対して下した際、彼らはこの命令を「断固として拒絶」した。将兵たちは「藩祖高虎公が家康公より賜った山より高い大恩がある。家康公の墓所を攻撃することは、藤堂家の魂を売ることに等しい」と主張し、新政府軍の命令に抗ったのである。
この二つの行動の対比こそ、高虎が自らの血脈に刻み込んだ思想の真髄であった。家名を残し、藩民を守るための「寝返り」は、過酷な政治的現実に対応するための冷徹なリアリズム(生存戦略)であり、一方で日光東照宮を守る行為は、神君・家康との間にあの世まで宗派を変えて結んだ「精神の義理(大恩)」の厳守であった。
形式的な美徳としての「忠義」に殉じて家を滅ぼす愚を避け、しかし自らの根幹たる「恩義」の境界線は死を賭して守る。この絶妙な現実主義と精神主義のハイブリッドこそ、藤堂高虎という男が戦国から近世という大激動の100年を不敗で生き抜き、徳川三代の将軍に愛され続けた最大の理由であった。その魂は、現代を生きる我々の「不確実な時代を生き抜く設計図」としても、いまだに色褪せない鮮烈な輝きを放っている。
この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
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