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日々雑感(7) 人生の意味とは? 〜『夜と霧』を読んで〜

我々は、なんのために生きているんだろう?
「なんのために生きているのか?」「人生の意味とは?」「幸福な人生とは?」などの疑問は、人生の過程で誰しもが抱くものです。これに対する回答もさまざまな人生論で言及されています。

信仰や社会規範への追従を優先する考え方がありますし、他方、人生に意味などは無いという実存主義や虚無主義的な思考もあります。社会的・経済的な成功体験や快楽原則を行動規範としたり、人間を「遺伝子の乗り物」とみなして即物的に解釈しようという視点もありえます。

私自身は、思春期の頃、なにをしていても楽しめなくて、授業中もサボって、ひたすら小説を読んでいました。「自分はなんのために生きているのかなあ、こんな退屈な毎日が一生続くならイヤだなあ」と考えていたのです。まあ今思えば、よくある思春期の憂鬱という気もしますし、「中二病(厨二病)」の程度が若干強かったくらいの話だとは思うのですが、「人生の意味」を考えても、結局答えを見出すことはできないままに、やがて目の前にある受験というイベントに気を紛らわすことになりました。

我々は、社会の同調圧力の下で生きている
個人としてどのようなの意見をもっているにせよ、社会の同調圧力が強い時代には、国や所属する組織から(半)強制的な力が働きますので、追従すべき倫理や社会規範が個人の言動に対してきわめて大きな影響力を有します。

宗教的な支配や社会思想によって、国民の統制が強力に行われた国家・時代は、歴史上枚挙にいとまがありません。比較的貧しく、コミュニティに余裕がない社会に所属する場合、コミュニティ構成員が生きていくために、コミュニティからの同調圧力は強いものとなり、選択の余地は限られます。一方、現代の日本社会のように、ある程度の国富が蓄積されており、社会福祉が整備された近代国家においては、(法による制限はあるものの)国民の統制は比較的緩やかなものとなり、個人が選択できる範囲は拡張されます。

これらの視点で俯瞰してみると、(いろいろ国に対して不満や要望はあるとは思うのですが)FIREを選択することも許される現代の日本は、概して良い国だと思うのです。正直、諸外国の報道を観るたびに、あるいは歴史の本を読むたびに、現代の日本に生まれて幸運だったと思うことが多いです。

FIREというアプローチ
最近では、多様なFIREタイプが出現したことで、FIRE後の労働スタイルも「いっさいの仕事を辞める」というだけではなく、やりたい仕事だけをする、短時間だけ働く、副業で稼ぐ、などの選択もあります。つまりFIREは、自分のライフスタイルに合わせて人生をデザインできるような融通無碍なものになりました。

資本主義制度が整った近代社会では、若いうちに資産形成に成功した後、早期リタイアして、穏やかで裕福な余生を過ごすというのは、成功者の一つのスタイルとされてきました。現代の欧米諸国や日本において、(我々のような一般人でも選択できる)FIREというライフスタイルが定着したのは、(批判や反論はあると思いますが)平和で豊かな時代に生まれた ”幸運” のおかげだと思うのです。

労働のメリットは「退屈の予防」?
英国の哲学者バートランド・ラッセルは、著書『幸福論(The Conquest of Happiness)』で「仕事は、何よりもまず『退屈の予防策』として望ましいものである。なぜなら、必要ではあるが面白くもない仕事をしているときに人が感じる退屈など、何もすることがないときに感じる退屈に比べれば、無に等しいからである」と論考しています。

なんだか英国人特有の皮肉を言われているような気がして、若干ひっかかりはするのですが、確かにこの議論は、正鵠を射ているように思います。青春期の私が、受験勉強に追われて「人生とは?」という悠長な哲学的な疑問から気を逸らされたように、ほとんどの「常識的な社会人」は、生きていくために仕事をすることで、哲学的な悩みから逃れています。

FIRE後のテンプレ的な悩みは、「退屈」?
FIREして労働から解放された後に生じる問題の一つが、「取り戻した膨大な時間」でなにをするのか悩むということです。没頭できる趣味があれば良いのですが、ただやみくもに労働から逃避しているだけだと、バートランド・ラッセルが指摘するように「退屈」に押しつぶされてしまいます。その時、「なんのために生きているんだろう?」という素朴なだけに波及力の強い疑問に侵食されていきます。

大量生産されている「FIRE失敗」「FIRE卒業」の(AI生成による?)ネット記事では、テンプレが決まっていて、「無謀な投資・詐欺で資産を失う」「家族に見放される」に加えて、「ヒマすぎて虚しくなる」ことが理由で、労働に復帰していくというストーリーになります。AIによる絵空事かと思っていたら、実際にそういうFIREの実例は少なくないようで、FIRE後になんらかの形で仕事をしている人が多く、意外と完全FIREで遊んで暮らしている人って少ないのですよね。まさに1930年の時点で、バートランド・ラッセルが指摘した通りの現象が現実に展開されているのです。

しかし心の持ちようで視点を逆転させることも可能です。我々は「やみくもにFIREしたからヒマに押し潰される」と考えれば寂しい話なのですが、「人生の時間を取り戻したから、人間にとってもっとも根源的で哲学的な問題について思索にふけることが許される」と考えてはいかがでしょうか? 

古代ギリシャの貴族たちは、「哲学的な思索こそが自由人の行うべき高貴な営みで、生きるための労働は奴隷や下層市民がするものだ」と考えていたそうです。「スクール(学校)」の語源は、「スコレー(schole)」で、「余暇」「仕事のない状態」を意味します。要するに、我々はFIREすることによって、「哲学的な思索」にふける自由を許された ”貴族の余暇” を獲得したのです(まあ詭弁ですけど)! そして「もっとも根源的で哲学的な問題」とは、「人生の意味」を考えることです(あくまで個人的見解なので、異論は認めます)。

ヴィクトール・フランクルの人生論
私自身は、いろんな人生論・幸福論を読んでみて、ヴィクトール・フランクルの人生論がいちばん納得できました。我々は、人生の意味を問う必要はなく、我々の生き方そのものが人生からの問いに対する答えとなるのだという認識です。

オーストリアの精神科医であったヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所という悲惨な状況を体験し、地獄のような毎日を生き延びました。フランクルは、人間としての尊厳も、衣服も、家族もすべてを奪われ、明日命を奪われるかもしれない過酷な状況ですら、他者を慰め、わずかなパンを他人に与えるような利他的行為をすることのできる人々が存在することを知ります。人間とは、強い意志さえあれば、崇高な生き方を選ぶことができる存在なのです。

「人間に残された最後の自由、それは『いかなる状況にあっても、自分の態度を選ぶ自由』である」

(ヴィクトール・フランクル著『夜と霧』 池田香代子 訳)

『夜と霧』では印象的な一場面が描写されています。収容所の囚人たちが夕焼けに見とれるシーンです。人間は、死に直面した過酷な極限状態ですら、美しい自然に感動できるのです。

「ある日の夕暮れ、私たちが疲れ果てて収容棟の床に座りこみ、スープの器を手にして休んでいたときのことだ。一人の仲間が飛び込んできて、夕焼けがきれいだから前庭へ出てみろと、みんなを誘った。

外へ出ると、西の空一面に暗い雲がたちこめ、その輪郭がさまざまな形に、それこそ鉄錆色から血の赤にいたるまで、生々しく燃え上がるように輝いていた。その下には、対照的に水煙をあげる泥のなかに、収容所の殺風景な土小屋が点々と並び、水たまりは燃える空を映していた。

私たちは言葉を失って、何分間か見とれていた。するとだれかが言った。 『世界って、どうしてこんなに美しいんだろう!』

(同上)

極寒の朝、看守に怒鳴られ、過酷な強制労働に駆り立てられているとき、飢えと寒さ、足の痛みに耐えかねながらも、フランクルは最愛の妻の面影を心に思い浮かべます。そして彼は真実を悟ります。

「人間が、すべてを奪われたあとも、ただひとつ、愛する人の面影を胸に秘めることによって、これ以上ないほど幸福になれるということ、それどころか、ほんの一瞬であれ、その幸福を味わうことができるという真実を」

(同上)

ヴィクトール・フランクルは、過酷な状況をかろうじて生き延びますが、家族の大半は、ナチスの強制収容所で命を奪われています。彼が必死の思いで面影を偲んだ妻も、極度の衰弱により、終戦直後に亡くなってしまいます。そのような地獄の体験を経た上で、彼の人生論は確立されています。彼によれば、私たちが人生の意味を問うのではなく、人生のほうが私たちに「お前はどう生きるのか」と問いかけている。私たちはその問いに「責任ある行動」で答えていくのだ、という逆転の発想を展開したのです。

「もういいかげんに、生きることの意味を問うことをやめ、私たちは生きることから問われている存在なのだとわきまえるべきなのだ」

(同上)

最後に
『夜と霧』は、私が社会人になってから読んだのですが、人生にもっとも大きな影響を受けた書籍となりました。高校生の頃、憂鬱な気分で「自分はなんのために生きているのかなあ、こんな退屈な毎日が一生続くならイヤだなあ」と悩んでいたと冒頭で記述しましたが、フランクルが経た地獄のような体験を知ってしまえば、我ながら、なんといい加減で寝ぼけた言い草かと怒りすら感じます。

平和な我が国において、自由、教育、食事を十分に与えられて、自らの尊厳も守られている ”幸運” を当然のように考えている傲慢で怠惰な精神がそこにはあります。FIREして労働から解放された後、「取り戻した膨大な時間」を持て余して「退屈」に押しつぶされているとすれば、(正直な感想を言うと)同じ文脈に見えてしまいます。自分自身の人生を考えるためにも、ぜひ、世界的名著である『夜と霧』を読んでみてほしいと思います。

さて、これまでの考察を踏まえて、もう一度冒頭の疑問を投げかけてみます。「なんのために生きているのか?」「人生の意味とは?」「幸福な人生とは?」


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